第二話 ワタルのマンション

 今日の風はいつになく強く、湿気を含んでいる。空は鉛色の雲で厚くおおわれ、今にも雨粒が落ちてきそうだ。

 高層マンションの前で西にし沙樹さきは空を見上げながら、がっかりした顔で前髪をひっぱった。

 念入りにカールした前髪は、強風のせいでバサバサになってしまった。

 長い髪をポニーテールにまとめ、スカートを避けてジーンズにしたのは正解のようだ。


 降る前に着けたのはラッキーだったとホッとひと息つき、沙樹は慣れた手つきでマンションの暗証番号を入力した。ジーッと音をたててロックが解除される。

 ごく平凡な防犯システムは、何度体験しても沙樹を緊張させた。

 エレベータで最上階まで上がり、左右を見て人がいないことを確認して、沙樹は合鍵を使って中に入った。部屋の主は不在だ。


「こんばんはぁ。勝手にお邪魔しますねぇ」

 誰も聞かれないように、口の中でモゴモゴと挨拶あいさつする。


 三LDKで、リビングだけでも二十畳をこえるマンションの一室は、ひとり暮らしをするには広すぎるほどの間取りだ。

 だが今夜はベランダの荷物をリビングに入れてあるので、少し狭く感じられる。台風の影響を考えてのことらしい。


「最大瞬間風速五十メートルだっけ?」

 荷物どころか、人間まで飛ばされかねない強風だ。

 ワタルさんって意外とマメなのね、とひとりごとをいいながら、沙樹は冷蔵庫に食料を入れた。


 部屋のあるじ北島きたじまワタルは、沙樹の恋人だ。

 今夜はオーバー・ザ・レインボウというバンド仲間の得能とくのうてつ宅で、次のツアーの打ち合わせをしている。明日の全体会議までにふたりでたたき台を作らなくてはならないそうだ。


『うちのオーディオはもうわかるよね。おれがいなくても録画はできるだろ?』


 昨夜の電話でワタルが不安げに問いかけた。高額のオーディオシステムを破壊されるのを恐れているのだろうか。

 超がつくほどのメカ音痴で名をせる沙樹だが、最近は仕事の関係でそうも言っていられない。

 FM局の機材を前にしていれば、いやでもメカに強くなる。


「失礼しちゃうじゃないの。録画ぐらい、あたしにだってできるよ」

 沙樹は画面に表示されたプログラム表を見ながら、カーソルを移動させて番組を選び、「録画」と表示された部分を選択した。

 目的は、CSで今夜放送されるジャズの古いライブだ。


 仕事で忙しく不在がちの沙樹は、CSを契約していない。その代わり必要なときはワタルの部屋で録画することにしている。

 自分の住むワンルームマンションから電車で一駅の距離なので、帰宅途中に気軽に訪れることもできる。不便さは感じない。


「明日は休みだし、今夜は夜更かししようっと」

 TVをつけると、L字型になった部分に台風情報が表示された。今夜半には関東地方直撃だ。沙樹が今いるマンションも予想進路にすっぽりと入っていた。


「やだな……雨も風も強そう。えー、雷警報だって!」


 画面に台風が上陸した地域のようすが映し出された。

 中継のリポーターは立っているのがやっとという暴風雨の中で、必死になってその場の状況を伝えている。カメラにも雨のしずくがたくさんついており、雨合羽はほとんど役に立ってないようだ。

 マスメディアの隅っこにいる沙樹は、彼らのプロ根性を尊敬する思いで見ていた。


「荷物を部屋の中に入れたのは、正しい選択ね」

 沙樹はそうつぶやきながら、自分がいる部屋をぐるりと見回す。


 普段はベランダで太陽を浴びている植物たちが、リビングの隅に敷かれたブルーシートの上に並べられている。

 ワタルがツアーで長期不在のときは、沙樹が水やりをしているプランターだ。こうして見ると、意外に数は多い。


 ほかには、大きなストックボックスに、洗濯物を干すハンガー類。屋外用のテーブルや椅子も折り畳まれて、それなりに並べられている。ここで一夜をすごす沙樹に向けられたワタルの細やかな心遣いだ。

 こんな些細ささいなところにまで、恋人に対する優しさがにじみ出ている。


 ワタルの気持ちに感謝しつつ、沙樹は使い慣れたキッチンに入り、レジ袋から食材を出してカウンターに並べた。

 今夜の料理は、でたスパゲティに市販のボロネーゼソースを絡めるだけの簡単料理だ。


 あとは薄く切ったトマトに、みじん切りして軽く水にさらした玉ねぎを乗せる。オリーブオイルを使った手製のドレッシングをかけ、ポテトサラダを並べたらそれだけで見栄えのある料理になる。


「たしかこの前来たときにストックしてたハーフボトルのワインがあったはず」

 キッチンにある棚を開けると、飲み切りサイズのワインが赤、白、ロゼと都合よくそろっていた。


 トマトベースのスパゲティに合わせ、沙樹は赤ワインを冷蔵庫に入れる。

 エアコンが効いているとはいえ、日本だと産地より気温が高い。料理している間に軽く冷やしておけば、食べるころには適度な温度になっているだろう。


 今夜はイタリアン風の料理を楽しみながら、CSでジャズのライブを見る。手をかけずとも優雅な一夜が過せそうだ。


 これでワタルが一緒なら完璧な夜になっただろう。

 でも仕事の準備ならば文句をいっても仕方がない。互いの職業を尊重しあうのは大切なことだ。


 互いに忙しくてなかなか会えないふたりだが、それが悪いとは限らない。おかげでいつまでも新鮮な気持ちでいられる。


 朝から晩までベタベタしているのがいいとは限らない。

 もし一緒に住んでいたら、かえってすれ違いの日々を悲しく思っていたかもしれない。

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