第8話 雨降って
「執務室で仕事をしていると、珍しく外からレイチェルの声が聞こえてきたのでね。何をしているのか気になったんだよ」
「尻尾とりゲームしてるの」
「尻尾とり?」
「あれ」
レイチェルが紬を指差す。だが、紬も正面を向いているのでクレイルには何が何だかわからないだろう。
(ハンカチは腰に差しているんだけど――)
大人の男性に見せると妙に恥ずかしかったが、無視するわけにもいかないので、紬は後ろを向いてハンカチを見せた。
「あのハンカチが尻尾だから、とるの」
「へえ、面白いな」
「クレ兄もやる?」
(えええ、クレイル様とはまずいような……)
一応、それなりに距離が近くなる遊びなのだ。ほぼ初対面の大人の男女がやる遊びでははないだろう。
相手の男性がカッコよすぎるので、恐れ多い感じだ。
どう対応しようかと紬が悶々としていると、クレイルが答える代わりにハンカチを取り出した。
「どうせなら、レイチェルとやろう。私が尻尾役だ」
そして、紬と同じようにハンカチを腰のすそに差し込む。
詰め寄るレイチェルをクレイルは素早い身のこなしでかわしていく。
「ははは、レイチェル。私は強いぞ!」
「もー!」
紬とは違って、クレイルは簡単に負けないモードで動いているが、レイチェルは楽しそうだった。
(だって、お兄さんと遊べるんだもの)
なんだかんだで、血の関係は強い。特に、世界が狭い子供のうちは。
そんなこんなで3人で遊び、ついに紬はレイチェルの体力を削り切った。
「疲れたー。だっこー」
紬が動けなくなったレイチェルを抱っこすると、すぐに、スースーと静かな寝息を立てた。
「私が預かろうか?」
手を差し出すクレイルに紬は首を振った。
「お気持ちはありがたいのですが、家の主人に仕事を押し付けるわけには参りませんので」
そして、クレイルと並んで紬は屋敷へと戻っていく。
「レイチェル様の相手をしていただいてありがとうございます。お喜びになられていたようです」
「それならよかった。あまり構ってやれないからね」
クレイルは、レイチェルに向けていた視線を紬に向けた。
「礼を言うのはこちらだよ、ありがとう」
「え?」
「レイチェルが楽しそうだったからね。うまく扱ってくれているようで嬉しいよ」
「もったいないお言葉です。もう少し外で遊んだほうがいいのかな、と思っただけですから……」
「それがありがたいんだよ。貴族の子供だからと過保護な扱いをする必要はないんだけど、雇われる側からすると難しいようでね。こけて足を擦りむいても、そんなことで私は怒ったりはしないんだけどね」
クレイルが続ける。
「子供の頃、私は登っていた木から落ちたことがあるんだ。私を静止できなかった専属メイドは辞職も覚悟したらしいけど、父は私の頭に拳骨を落としただけで不問にした。未熟なお前が悪いって言ってね」
ふふふっとうっかり紬は笑ってしまった。
なんだか外見だけを見ると、完璧人間のようなクレイルにも、そんな子供時代があるのが意外だったから。
「そんなわけで、あまり形式ばらずにレイチェルと接してやってくれ。どうやらこれも君のことが好きなようだから」
そう言って、クレイルは執務室へと戻っていった。
――その日、たっぷり昼寝したレイチェルはご飯をもりもりと食べた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
尻尾取りゲームによるふれあいの後、レイチェルの態度がころっと好転することはなかった。
相変わらずレイチェルは紬を試してくる。
とはいえ、紬にはレイチェルの考えていることがわかってしまうので、簡単に回避しているのだが。
「なかなかやるじゃない」
すると、ちょっと悔しそうな様子でレイチェルがつぶやく。
少しずつレイチェルとの距離が縮まっている雰囲気はあるのだが、なかなか『決定的な転換点』にたどり着けない。
(お嬢様は何を望んでいるのだろう?)
残念ながら、その問いの答えをレイチェルの内心から押し測れない。紬の能力といえども万能ではないようだ。
じりじりと信頼を積み重ねていく日々を過ごしていると――
ついに『決定的な転換点』にたどり着けた日が訪れた。
その日、部屋遊びに飽きたレイチェルが昼寝してしまったので、紬は散らかった部屋の片付けを始めた。
手早く片付けていると、床に落ちている1冊の絵本が目に入った。
(あ、これは――)
レイチェルがとても大切にしている絵本だった。普通、おもちゃや絵本はそこら辺に放りっぱなしなのだが、この絵本だけはいつも丁寧に自分で本棚に片付けている。
レイチェルが言うところの『フクロウとネズミの絵本』だ。今日は睡魔に負けてしまって片付けそびれたのだろう。
紬は絵本を手に取った。
パラパラと絵本をめくると、最後のページにメッセージが書かれていた。
『かわいい娘レイチェルへ。ママからのプレゼントです。大事にしてね』
(そっか、お母さんからのプレゼントなんだ)
この絵本だけ扱いが丁寧な理由を紬は知った。
だが、それはそれで気になることもある。
子供に絵本を与えるのは基本的に親だろう。だからわざわざこんなメッセージを残すことはないと思うのだが。
(貴族だと子供の世話はメイド任せだから違うのかな?)
そんなことを思う。
ただ――
(レイチェルのお母さんはどうしたんだろう?)
父親が領地に戻っているという話は聞いたが、母親に関して何かを聞いたことはなかった。
(男性中心の封建社会なので、母親については聞かない限りは話題になりにくいのかな?)
いつか誰かに聞いてみようかなと思いつつ、紬は手早く部屋を片付けた。
部屋が綺麗になった頃、レイチェルが目を覚ましてベッドから抜け出てきた。
レイチェルは部屋をぐるりと見渡した後、困惑したかのように首をひねり、本棚へと向かっていく。
本棚の前で不安げな視線を周囲に飛ばした後、口を開いた。
「ねえ、フクロウとネズミの絵本は……?」
いつもと様子が違う感じに危機感を覚えたが、紬は冷静に対応することにした。
「そこですよ」
レイチェルの立ち位置から離れた一角を指差す。
するとレイチェルが興奮した声を発した、
「そこじゃない! 私が片付けてない! 勝手にやったの!?」
どうやら地雷を踏んでしまったらしい――急に黒い雲に覆われていく空模様を眺めているかのような心境で、紬は答えた。
「はい、私が片付けました。ダメでしたか?」
「ダメ!」
一切の妥協も許さないような口調でレイチェルが断言した。
「あれは私のなの! 触っちゃダメ!」
「申し訳ございません。気が利きませんでした。次から気をつけます」
「触っちゃだめ!」
(だよね……)
己の謝罪の無意味さを紬は実感していた。
小さな子供たちにとって『次』の話など意味がないのだ。なぜならいつも『今』しか視点がないからだ。
なんとかレイチェルの気が収まることを紬は祈ったが、うまくいかなかった。
「出て行って! もういや! 知らない! 嫌い!」
レイチェルは顔をぷいっと横にむけてしまう。
こうなってしまった子供に説得など意味がない。時間が解決してくれるのを待つばかりだ。
「……承知しました、またご用がありましたらお呼びください」
部屋を出た紬は執事長に状況を説明した後、別のメイドを用意してもらい、自室に戻っていった。
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