第32話 ランチボックス
「ただいま。マリィはいい子にしてたかしら」
ドアが開くと田村さんが帰ってきた。
「お疲れ様。一回エサを食べて、あとはじっと眠ってたけど」
僕は座ったまま、チラリとマリィを横目に見ながら答えた。
「そう。私ったら慌てて水を入れ忘れてたのを思い出して」
「だったら僕があげたよ」
「まあ気が利く。何かご褒美を――」
「そういうのはいいから。じゃあ僕これで」
田村さんはリュックを抱えて立ったまま、
「コーヒーくらい淹れるわ。飲み放題なのに飲んだ形跡がないもの。瑞希と一緒じゃないと盛り上がらないのね」
理由は分からないが、明らかに不服な顔だ。飲んでいこう。
「じゃあ一杯だけ――」
彼女はバイト帰りの服が油臭いと、部屋着に着替えてキッチンに立つ。その着替え姿を見せつけながら。
「キリマンジャロを淹れるわ。慣れた味というのは安心する。人も同じこと」
コーヒーのいい香りを漂わせて、二人分のカップが並ぶ。午後十一時過ぎ。
話は学校のことになる。
「情報デザインというのは、ある意味私に合っているの。今までの私は情報を整理したりカテゴリー? に分類するという作業を人生において怠ってきたの。今さら気づかされるわ。自分の迂闊さに」
そう言うとカップに口をつける。
「竜崎君はどう? 二郷木さんと楽しくやってらっしゃる?」
訊き方が嫌だ。
「明日香は関係ないとして、なんとかやってるよ。授業も本格的な映像論に入ったし。次は冬前に作品発表があるんだ。もしよかったら――」
「私? もう二十歳だもの。セーラー服は胸がきついわ」
気まずいことを聞いた。
「そういうんじゃなくていいから、少し協力してほしいかなって」」
「いいわよ。秋の装いに身を包んで、あなたを魅了する女になってみせる」
そこへマリィがひと声鳴く。伸びをして歩いてくると、田村さんのひざへ乗った。
「マリィのこと――撮ってくれるかしら」
唐突だ。
「いいんだけど、動物と子供を撮るのは卑怯だって言われるんだ。可愛い可愛いで終わっちゃうから」
「じゃあ、可愛くない画を撮ればいいと思うわ。部屋着でゴロゴロしてる私に、片目のないマリィ。たった一部屋のオアシス。陸の孤島」
いつものようにふざけてはいたが、「陸の孤島」という言葉には惹かれるものがあった。僕らの住む世界の幸せは、いつも陸の孤島に存在するのかもしれない。
「いい案があるわ。瑞奈に頼むの。彼女だったら、この部屋をより一層、陸の孤島っぽく設えてくれそう」
「無理だと思うよ。彼女も自分の制作があるんだし」
と思っていると――。
「いいですよ。手伝わせてください」
翌日、昼の食堂でカツ丼を食べながら東横さんが安請け合いした。
「私もう、制作に出す作品、決まってるんです。だから、竜崎君と田村さんの力になれるなら」
「そう。助かるわ。私の部屋に思い切りミステリーゾーンを作ってちょうだい」
「ご期待に沿えるかどうか分かりませんが、頑張ってみます――」
ところで、父との話が反故になっている。僕が避け続けているせいだ。しかし、そう何度も断ってはいられない。今のマンションのことだから。いつか僕はここを離れないといけない。それは僕の暮らしを大きく変える転機になる。ただ、彼女のことを思う。
「じゃあ、私はバイトに行くわ。今夜も瑞奈としっぽりやってちょうだい」
必ず余計なひと言が付随する――。
「あの、竜崎君。私またお弁当を作ろうと思って」
東横さんが帰り支度を終えてやってきた。
「大変じゃないの?」
「いえ。今は授業も飲み込めてますし、よかったら二人分作ろうかと」
「二人分?」
「はい。ランチボックスも持ってきたんです。竜崎君も田村さんも毎日カレーばっかりで偏ってるでしょ?」
あなたはカツ丼ばかりで大丈夫なのかと、のど元まで出かかった。
「作り置きで冷蔵庫に入れておきます。朝は――ご自分で詰めてもらうことになりますが」
「ホントに……いいの?」
「いいんです、二人分は作りやすくて。こういうの楽しくて。小さなファミリーみたいで」
僕は東横さんの家族構成を知らない。そういう意味で、何も言えることはなかった――。
夜七時――。田村邸へ向かう。チャイムを押すと、すでにエプロンをかけた東横さんが出てきた。
「竜崎君、こんばんは」
最近の彼女は、この部屋にいる時がいちばん存在感がある。学校では相変わらず影が薄い。うっかりすると見逃すほどだ。
恐々マリィを見ると、ソファーの上で顔をそむけた。お互い、他言無用を決め込む。
「田村さんちの食材って、居酒屋的なものが多くて。業務用のソーセージとか――」
東横さんがキッチンで背を向けて言う。また盗んできたのかと思う。
「ありがとね。マリィの方は僕が見てるから。それからドリッパー持ってきたから今夜は美味しいコーヒー淹れてあげるよ」
「そうなんですか。楽しみです」
彼女はボウルで卵を割っている。僕はマリィにわざとらしくひと声かける。
「今日もいい子にしとくんだぞ」
マリィはニャアとも鳴かず、尻尾をひと振りした。
テーブルに着いてテキストをめくると、フライパンから音がする。男の憧れにも似た光景だ。それが田村さんの激辛麻婆豆腐だったとしても、それはそれで感慨深い。ただし彼女の場合はあれこれ指示がうるさい。洗い物も僕と決まっている。
「ひと通りできましたんで、冷めたら冷蔵庫に入れておきますね」
三十分後、東横さんがエプロンを外して、前髪をひとすくいした。
「じゃ、次は僕がコーヒーを淹れる番だ。座って待ってて。
お湯を沸かして、持ってきたコロンビア豆をドリッパーにセットする。デキャンタは五百ミリのサイズ。お湯が沸いたらデキャンタに注ぎ、温める。カップの方も。デキャンタが温まったらヤカンへ戻し、95度を保ってドリップ開始。豆の香りが立ち昇る。
「東横さんは、ミルクと砂糖だよね」
「あ、はい。お子様なもので――」
「大丈夫だよ。この豆の風味はミルクにも合うから。さ、出来たよ」
カップをテーブルに置くと、近い距離で彼女と向き合った。そこへ、ソファーから立ち上がったマリィがトコトコ歩いてきて、東横さんのひざの上に座る。それからコーヒーカップを覗き込んで鼻を鳴らした。
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