第31話 会話


 耳を疑ったが、それは紛れもなくマリィが口にしている言葉だった。


 ――いろいろと訊ねたいことはあると思うけど、まずはお水をちょうだい。


 マリィは片目をつぶったまま僕に向き直って口を開く。


 僕は騙された気分でそろそろと窓際に近づき、水入れを取ってキッチンへ立った。猫が喋っている。これは本当に現実だろうか。キッチンで振り返ってみると、マリィは後ろ足で耳の裏を掻いていた。



 僕はキッチンをあとにして、また窓際に戻る。エサ入れの横にそっと置くと、


 ――ありがと。


 マリィは寄ってきて、ピチャピチャと赤い舌で水を舐め始めた。そして、


 ――敦子さんね、たまにうっかり忘れちゃうの。夜も三時間くらいしか寝てないみたいだし、忙しいから仕方ないんだけど。


 思わず僕も、


「三時間って、それだけしか寝てないの? ホントに?」


 猫を相手に会話を始めた。


 ――だって、学校から帰ってすぐにバイト。バイトから帰ったらお風呂に入って三時まで勉強でしょ。それから六時には起きてベランダに出るの。私も一緒にベランダに出て眺めてるんだけれど。あなた、向こうのマンションに住んでるのね。


 いったいこの猫は何者だという思いで、図らずも訊ねてしまった。


「その――君は田村さんともこうやって話をしてるの?」


 するとマリィはエサに向かう前に振り返り、


 ――ううん。竜崎君が初めて。


 そしてカリカリと音を立て始めた。僕はしばらく、その様子を眺めるだけだ。



 やがてカリカリタイムが終わるとマリィは水を舐め始め、満足したようにその顔をなでた。


 ――訊きたいこと、あるかしら?


 ソファーに戻るとうずくまり、マリィはそう口にした。


「訊きたいっていうか……いろいろ混乱してるんだけど。まず、どうして君はそうやって話せるの?」


 ――この名前気に入ってるからマリィ、でいいわ。話せば長くなるんだけど。こう見えて、私って一千歳超えてるの。正確には一千と二百――ううん、自分でも思い出せない。今までの飼い主は百人いたかしら。言葉を話せるようになったのは、四十回目の飼い主だった。可愛らしい、ベルギーの女の子よ。名前はニーナ。ただ、彼女は生まれつき言葉を話せなかった。母親が買ってくる絵本も皆、言葉にしては読めなかったの。だから私は一生懸命に言葉を話せるように頑張ったわ。ニーナの代わりに絵本を読んであげるために。


 そこまで言うと、マリィは右目と共に見えない左目を固くつむった。


「じゃあ、それからは人と話せるようになったんだ」


 ――違う違う。言ったでしょ。ニーナのことを除けば竜崎君が初めて。


「どうして――どうして僕にだけ話してくれるの? このこと、他の誰かに話すかもしれないよ」


 ――だって。猫が喋るなんて言いふらしたら、誰もに頭のおかしい人だって思われるでしょ。竜崎君はきっと、私のことを誰にも話さない。


 マリィはウィンクするように眼を瞬かせた。


「それにしても。どうして僕だけに? 田村さんにも話しかけてあげれば喜ぶと思うんだけど」


 するとマリィは少し考えるような顔をして尻尾を振った。


「私の目の傷ね。これって最近つけられたの。前の飼い主よ。酷い人だった。思い出したくないから詳しく言えないけどね。ただ、それからよ。それから私は片目を失う代わりに人の心が見えるようになった。


 つい身構えた。


 ――心配しないで。見えるって言ってもぼんやりと色が浮かぶ程度のものだから。


あなたは透き通ったブルー。そこに思念が浮かぶの。敦子さんと同じ感じがする。そういう人は大丈夫。


「じゃあ、余計に田村さんと話せばいいのに」


 ――そう。でもね、敦子さんのブルーは少し違うの。あなたが空なら彼女は海の色。深く沈んでゆけば真っ暗になってしまうような。実際、私も十回くらいはそういう目に遭ってきたけど。



 ブルー。彼女の好きな色。僕も大好きな母さんの色。けれどそこには何らかの隔たりがあるのだと現実を突きつけられた気がした。薄々は感じていた、僕と彼女の間にある溝。それが何なのかをマリィは知っているのだろうか。知っていたとして猫には訊けない。どこか、人として。



「ところで君――マリィの話し方って誰かに似てるよね」


 ――ああ、これね。久しくしゃべってなかったから、敦子さんの口ぶりがうつったのよ。ベルギー語で話してもチンプンカンプンだろうし。


 なるほど。それでどこか僕を怯ませる訳だ。


 ――それで、竜崎君と敦子さんは、どのくらい進んでいるの。


 語尾も上げない感じが、トーンを除けば田村さんと同じだ。そして質問の切れ味も。


「進んでるとか――ただの友達だよ」


 するとマリィはニャアと鳴いた。猫のように。


 ――どうしてそういうムダなウソをつくのかしら。私、敦子さんには話しかけないけど、敦子さんは毎日私に話しかけてくれるわ。泣き顔だって見せてくれることもある。その時にはね、必ずあなたの、竜崎君の名前を呼ぶの。友達の名前を呼びながら泣くかしら。普通。


 田村さんが泣き顔……。僕も 何度か見ただけの泣き顔を。


 ――それにそう、瑞奈も気になるわ。あなたのこと、好きみたい。気をつけなさいよ。


「と、東横さんこそただの友達だよ!」


 ――じゃあ、敦子さんのことは友達以上だってことね。


 嵌(は)められた――。


「とにかく僕は君のお守で来てるだけなんだから。明日からは東横さんも来るみたいだし、余計なこと言わないでよ」


 ――分かってる。今後、竜崎君以外とは話さない。誓うわ。


「そんな――堅苦しくしなくていいけど。いつか田村さんに話すとしても、今日僕と話したことは内緒にしといてよね」


 ――特に意味があるとも思えないけれど、そうしとくわ。じゃあ寝るから、あとは私のお守をよろしく。


 言うと、また一つ大きなあくびをしてソファーに沈んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る