第30話 留守番
七月に入っても、高校時代に戻ったかのような英語の授業が続いていた。ただし、目にしたこともない専門用語がバンバン出てくる。語呂合わせでも覚えられない複雑な単語。
隣でカリカリとシャーペンを動かしているのは二郷木明日香。
「ああっ、もう。また折れた。バカシンジ。芯、貸しなさいよ」
「そう言って、明日香って返したことないだろ」
「男のくせに細かい。いいから貸しなさい」
今日は四単元のうち三つも明日香と一緒だ。しかも決まって僕の隣に座る。そして不機嫌。不可解だ。
二時限が終わって大食堂。いつもの四人と一人。
「だいたい真二って細かい気配りがないのよ。レディが困ってたら自分から助けるのが男でしょう」
「シャーペンの芯くらい購買で売ってるよ」
「嫌よ! あんなものにお金使うなんて!」
それを対面から微笑ましく見ているのが渡君。いつの間にか席割は僕と明日香が隣同士。渡君と田村さんが隣同士。その横で消え入るようにして東横さんだ。メニューはレディースランチ、カレー、カレー、かけうどん、カツ丼。明日香以外は、ほぼ変わらぬラインナップだ。東横さんのお弁当計画はただいま中断中だ。結構、大変らしい。
「まあ許してやってください、真二君。明日香は昔からお嬢様気質なんで」
「違うわよ清治! 私はお嬢様じゃなくてお姫様なの。小学生の時からお芝居ではずっとお姫様しかやってないんだから」
「三年生の時だけじゃないか。しかもドレスの裾を踏んで転んだシンデレラだ」
「そんな昔のこと今さら言わないの!」
そんな他愛もない会話も耳に入ってこないのは、週末の予定のせいだ。一方的に作られた予定。父が家に来る。
皿の上のカレーをスプーンで混ぜていると、ふと田村さんがこぼす。
「竜崎君。何かあったの」
さすがは鋭いなと思ったが、取り繕った。
「食欲がね。あんまりなくて」
「そう――何か悩みがあるなら教えてね」
らしくない言葉だった。
明日香がフォークをクルクル回し、
「真二に悩みなんてないわ。せいぜい、単位の取りこぼしが気になってるくらいよ」
「こぼさないよ。これでも真面目に授業だけは受けてるんだから」
残りのカレーを無理に腹へ詰めて、トレーを返却に立った――。
東横さんが来れないという。今夜のマリィのお守だ。
「ゴメンなさい。夜に家族と外食の用事ができてしまって――」
「えと――それで田村さんはなんて?」
「それが『竜崎君に鍵を預けてちょうだい』とだけ」
田村さんの部屋の鍵。嫌だ。一時だけとはいえ、心が嫌がっている。しかし連絡を取ろうにも、すでに彼女のバイト時間だ。
「で、いつもの七時くらいに行けばいいの?」
「はい。それでいいと思います。トイレとかご飯とかは田村さんがやってると思いますので」
弱り顔の彼女を見ると、頷くしかない。
一直線で家へ帰ると落ち着かない。ベランダへ出て田村さんの部屋の窓を見るとカーテンは閉まっている。けれど彼女はもうバイト中だ。部屋にはマリィだけが残されているのだろう。鍵はすでに東横さんから預かっている。小さなカエルのマスコットがついた、一本きりの鍵だった。
夕食をすませてシャワーを浴びて午後六時。少し早いかと思ったが、取り残されたマリィのことが不憫で早めに家を出た。
道を挟んで彼女のマンションへ向かう。夕刻過ぎの空はまだまだ明るく、蒸し暑かった。
エレベーターで若い女性と相乗りになって気まずく黙っていると、女性は先に四階で降りた。603号室を目指す。
見慣れた玄関へ入り、田村さんの白いローファーの横へスニーカーを並べた。十センチ空けて。
カーテンを閉めた部屋は薄暗い。壁のスイッチを探して明かりをつけると、まずは部屋の隅に小さくなっているマリィを見つけた。どうにも警戒されている。
「今日は僕が留守番だから。機嫌悪くするなよ」
エサの置き場を見ると、量の感じからして食べた様子はない。小さな器にカリカリが小さく盛られている。
ふとテーブルを見ると、
――コーヒー飲み放題
田村さんの字で書き置きがあった。他には何もない。ぶっきらぼうだ。
とにかく彼女が帰るまでここにいればいいのだと、気持ちが落ち着かないままクッションへ座った。一冊だけ持ってきた映像研究のテキストを開き、動かないマリィを横目で眺める。ニャンと鳴きもせず、右目だけをこちらへ向けて、小さな黒い身体を丸めて微動だにしない。いつもと違う雰囲気に慣れないのはお互い様だ。
殺風景、とまでは言わないまでも、今さらながらミニマルな部屋だ。壁にかけたワードローブ二着。部屋の角には組み立て式のラック。通学バッグ。そして猫一匹。クローゼットの中でも覗けば発見はあるかも知れないが、もちろんそんなことはできない。
落ち着かなさの中でテキストをめくればマリィと共にあくびが出た。
「眠いのか? って、勝手に寝ててもいいんだけど」
猫相手に話しかけていると、
――猫っていうのは一日中、眠いものなの。
幻聴と共にマリィが起き上がって伸びをした。
――それより新しいお水が欲しいわ。竜崎君。あれがないとカリカリがのどに詰まっちゃって。
今度こそ幻聴ではなかった。その声は甲高く、マリィの口が動くと共に聞こえていた。
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