第20話 先客

 白い膝までのキャミソールだった。しかも少し透けている。


「貧相な身体で高校生男子を誘惑するつもりはないわ。私の心の準備が出来ていないもの。出来ないし。ただ楽なの。片意地の張らない恰好がこれなのよ」


 と、ソファーに座ってテレビを見る。


「ゴメン。ホントに悪いんだけどブラジャーくらいつけてね。透けるんだよ。心臓に悪いから」


「そう――そこは寝るまでの妥協ね。初子さんはそうだったの」


 寝室へ向かう彼女へ、わざわざ答えはしない。母はいつも素肌にローブだった。足を絡ませると柔らかな毛が太ももにくすぐったかった。



「これでいいかしら」


 ショーツと同じ黒いブラで戻って来た。それもそれだ。


「ねえ、明日なんだけれど。学校へ行ってみない。部活の生徒くらいしかいなくてスカスカしているわ。スカッとしているわ。野球を特に好きな訳じゃないけれど、グラウンドから聞こえるあのカキーンという音は私の高校生活を二割くらいウキウキさせるの」


「学校って、田村さんは高校、好きなの」


「好き、というよりは興味深い場所だとは思っているわ。やがて社会を形成してゆく私たちが学びと共に幼い人間関係を形成してゆく、それもまた保育園から続くフラクタルなのかしら。だとすると社会に出た私たちが次に形成するのは、どれほどの体系なのか。とても世界規模に繋がっているとは思えないのだけれど。せせこましい会社で事務でもやりながら同僚と週末に飲みに行くくらいだとしたらそれはミクロへ戻ってゆく行為。世界が広くなるほど見えなくなる個人。人間が影響し得るフラクタル形態など、そんなものなのかも知れないのだわ。私たちは未来を大きく膨らませるために屋上でコーラを飲みましょう。そこには青空とコーラと私たちしかいない。それ以下のものは存在しないのだから。ドカンと一発、青春のホームランでも打ちかましましょう――」


 青春。それとおおよそかけ離れた生活だったろう。後悔はしていない、まったく。ただそれがここまで脆く崩れ去るものだったとも思っていなかった。たった一人に委ねた暮らしはその支えを失えば倒れてしまうと、子供でも理解出来ることを。




 彼女の宣言通り翌日はよく晴れた。夏休みの日曜日でも本当に野球部が練習していることに驚いた。地区大会敗退あとの練習というのはどんなものなのだろう。


 明かりもなく薄暗い一階購買部のひんやりとした空気の中、彼女がコーラを買っている。


「おごるわ。竜崎君にはファンタ含めて二本の借りがあるもの」


「ああ。ありがとう」


 静まった校舎。四階までの階段を会話もなく上る。



「おかしいわ――」


 彼女がドアを握って言った。


「開いてなかった?」


「逆よ。もう開いてるの。とにかく行きましょう」


 ドア越しにも暑さを覚える空気を切り裂いて眩しい屋上へと出た。一瞬白と青が混じり合い、渦となって目に飛び込んでくる。先に立った田村さんが言う。


「あら残念。先客だわ」


 彼女の向いた方を見ると、幻を見た。緑のフェンスを越えた制服姿の女子生徒がいるのだ。


「田村さん、友達とか――じゃないよね」


「悲しいかな、私の友達はあとにも先にも竜崎君だけよ。けれどこれはどうしていいものか。あなた、そこで何をしているの」


 そこで初めてこちらの存在に気づいたのか、髪を二つに結んだ少女が振り返る。フェンスもつかまずに。


「いや! 止めないでください!」


 フェンスの向こう五十センチ幅のコンクリで時折身体を揺らしながら風に吹かれている。上履きの色から見て二年生だ。


「止めるというか……私たち、ここへコーラを飲みに来ただけなの」


 言うと彼女は小声で、


(戻って警察へ電話を。それから職員室へ。くれぐれもそれが田村敦子でないことを添えて。でないと動かないわ)


 告げたあとコーラを左手に握った。


 僕は後ずさりながら階段へ戻る。運悪く、田村敦子慣れしているこの学校ではこの光景が見過ごされてしまっているのだ。

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