第19話 肉じゃが


 田村敦子といると、母の面影がふと舞い降りてくる。理由は分からない。あれから会話もなくなったこの部屋で、唯一言葉を交わしている相手だからかも知れない。彼女との会話は時折、サ行とラ行の響きに温もりを感じる。耳触りが優しかった。話の内容は別として。


『肉じゃがは食べる方かしら? 正統派よ』


 午後一時の電話は夕食メニューの話だった。あの麻婆豆腐を作った人にそんな繊細そうなものが――と思ったがカップラーメンのストックはあるので了承した。


 チャイムが鳴ったのは午後三時。それほど多くない食材を抱えて現れた。


「早速だけれど準備を始めるわ」


 彼女はエプロンを着け、キッチンへ立つ。最近は外から着けてやって来ることなく、ここでエプロンをつけることを覚えたようだ。


「ジャガイモはメークイン。玉ねぎ。牛肉。いたってシンプルよ。仕上げに色味としてインゲン豆を乗せるのだけれど、大量に余るからそれは胡麻和えにすればいいと母が言っていたわ。抜かりはないの。ということで待っていてね。テレビを見て」


 テレビを音量下げてつけた。土曜というのもあり、芸能人のお散歩番組やグルメ紀行ばかりだった。


「そういえば夢を見たわ。けれどそれは竜崎君に伝えにくいもの」


 じゃがいもの皮をむいていた彼女がこぼした。


「別にいいよ。気にしないから」


 彼女は躊躇いの間を作り、


「そう――それは私がついにフェンスの向こうへ足を踏み出した夢。光景は初めてあそこへ立った時のまま。衆人環視の中で私は膨らんだマットへ頭から突っ込んだ。ドラマのようにスローモーションだったわ。なのにそこへ落ちた感触はなく、私は恐らくそこをすり抜けた。突き抜けたのではなく。やがて現れる地面、それもすり抜けた。人間が高速で壁にぶつかってすり抜けられる確率というものがあるわ。電磁波が私たちの身体を平気ですり抜けるように、お互いの分子構造の隙間を縫ってすれ違えばぶつからないと。砂粒が目の粗いザルをこぼれ落ちるように、いえもっとスマートに。摩擦の一つもなく。その確率は天文学的数字へ更に天文学的数字を累乗したようなものらしいけれどゼロとは言えないの。私はきっと夢の中でその体験をした。痛っ」


「田村さん、話しながら包丁使うの危ないよ」


「大丈夫。意味のない言葉を呟いていた方が集中出来るの。そう、この話に意味はない。誰かの夢はいつもそう。だから先を続けるわ。先があるの。私はそこから地表を抜け、水道管やガス管を抜けて大きな水脈に辿り着いた。そこではさすがに溺れかけたけれど、それを過ぎると温かなものに包まれ始めた。しかしそれも束の間。固い岩盤を窮屈に抜けると赤い光が見えた。マントルよ。そう思うのは私が得てきた知識の限りで感じられる幻想だから。けれど私はその先を詳しく知らない。地球の中心に核が合って、その温度は太陽の表面と同じくらいということ。そりゃ焼け死ぬわね。でも死なない。夢だから? いえきっと落下していたと私が錯覚していたのは身体ではなく思念だったのね。そこで私は思念というものを信じられるようになった――と思ったのだけれど目が覚めたらアホ臭くなったわ。だってしょせん夢ですもの。そういう意味のない話を長々と申し訳ございませんでした。お蔭さまで肉じゃがは第二段階。またしばしお待ちください」


 温もりのある、ダシの匂いが部屋に流れる。


「流しの下に見つけておいためんつゆを使ったわ。きっと竜崎家の味に近いはずよ」


 ご飯が炊け、胡麻和えもやはりめんつゆで上手くいったらしい。


「いい感じね。いただきましょう。お味噌汁はタナカニ園よ。三つのことは同時に出来なかったわ」


「でも彩りも本格的な感じだよ。いただきます――」


 しばらく黙って味わった。うん美味しいと頷きかけて違和感。


「これは何かが違うわね」


「なんていうか、美味しくない訳じゃないんだけど、肩透かしを食らったような――」


「私、あまりにもジャガイモの煮え方に竹串構えて必死だったから忘れていたわ」


「だよね――」


「修正するわ。お皿を戻して。肉を入れるから。まだ間に合うはずよ」


 その後肉を追加して五分煮込んだ肉じゃがはなかなかの出来だった。


「肉に火が入り過ぎていない分、柔らかくてこれはいいわ。母にも教えてあげないと」


 洗い物を終えるとコーヒーを淹れた。ソファーでテレビを見る彼女の背中に、そっと近づいて髪の匂いを嗅いでみたかった。


「ねえ竜崎君。今夜はパジャマでなくキャミソールよ。期待をしてて」

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