第18話 「へ」の字
母の――彼女の香りがベッドから消えない。それどころか先日より強くなっている気さえする。
コーヒーを淹れようとして思わず豆を二杯入れてしまった。そこへチャイム。
「早かったかしら」
青いノースリーブのワンピースで白い帽子を被っていた。
「アイスコーヒーがよかったかな」
「いいの。部屋は涼しいから。いただくわ」
彼女はカーテン越しのベランダを見て、
「布団を干したのね――」
「シーツは洗ってる」
「ずっと洗わないのかと思ってたわ」
「どうして」
「最後の形見だから」
だからこそ洗ったのだと、そのことは言わなかった。僕は少しずつ彼女の下を離れてゆかなければならない。無理やりにでも。
「考えてみたの。初子さんのこと」
彼女の言葉は時にタイミング悪く心を抉る。
「いいよ、母さんのことは。もう考えないようにするから」
「そんなこと……出来るはずはないし、出来たとしてもしてはいけないわ。竜崎君が考えなければ誰が考えるの」
「忘れる訳じゃないさ。考えない――今は打ち込むべきことに打ち込もうって思って」
「そう。じゃあ、私も今話そうとしたことは口にしないでおくわね」
分かり切った沈黙を、飲み干したコーヒーカップで埋めなければならない。
「いつか――神様の話をしたよね。神様はいないって」
彼女は前髪を指先でつまんだ。
「そこまで強烈には言ってないわ。信じられないといったの。神の存在は死を恐れる人間が生み出した偶像だから。悲しいかな、人はこの世の――あれ、そういう言い方をしたらあの世があるみたいね。言い直すわ。人はいずれこの世界の
また面倒臭かったが、慰めようとしてくれているのは分かった。
「田村さん。そういうの含めて、僕は大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「私はただ思いつきを話しただけよ? 竜崎君が神様だなんて言い出すから?? 何か心配した素振りがあったかしら???」
彼女は顔中を「へ」の字にした。
「建設的な話をしましょう。この夏、やってみたいことはある? 高校生最後の夏休みに」
「そうだな――屋上でコーラ飲めたらいいかな。田村さんと」
「ダメよ! いきなり告白なんて!」
「いや……なんか屋上の鍵、田村さんがいないと開いてない気がして」
「そう……。不思議なのよ。私が触れると鍵が開くの」
「それ、本当なの? 勘違いじゃなくて?」
彼女は自分の右手のひらを見つめる。
「何か、すごく大きな力を感じる時がある――。腐りかけた魚を気にならない程度の鮮度へ戻すくらいの」
すごいといえばすごいけれど。
「不思議なことって言えば僕もあって。あのシーツ、なんだか母さんの匂いが消えないんだ。それで――」
「その謎は解けるわ。悪いけれど初子さんのシャンプーとトリートメント、使ってたの。それに私の女子力エキスが作用した、なんらかの化学反応ね」
「そうなのかな」
「ええ。そうだわ――」
彼女は夕方になると素直に玄関へ向かう。それがすでに寂しく胸を揺らす。
「明日は久しぶりに、いっちょう晩メシでも作ってみることにするわ。いいわよね」
「いいけど、またパジャマ?」
「――考えといてみるわ」
不敵に笑い、出て行ってしまった。
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