第17話 アルタイル

「砂糖も入れずに甘みがある。これはバイオテクノロジー技術によりサトウキビの遺伝情報でも組み込まれたコーヒー豆なの?」


 彼女はふう、とコーヒーを冷ましながら啜る。


「甘い風味のあるコロンビアを主に色々とブレンドした豆なんだ。コーヒーは豆やロースト具合、苦味と酸味、香り、他にも舌に甘く感じる温度や複雑なものが組み合わさって味を決めるんだ。今日入れたコーヒーが明日は違う味になってしまったりする。それが同じ味を出せるようになると楽しいんだ」


「複雑系なのね――。初子さんは竜崎君が淹れるコーヒーが好きだって聞いてたわ」


「缶コーヒーでも文句言わずに平気で飲む人だったけど――。好きだったよ」


 彼女はそれから黙ってコーヒーを楽しんだ。僕も僕で、一人で飲むコーヒーより数倍美味しかった。誰と飲むかでも、コーヒーは味を変える。


「そう言えば昨夜はシャワーも浴びてないわ」


「だから帰ってからお風呂入れば」


「家のお風呂、狭いのよ。バスタブというより湯船。四角い細かいタイルのヤツ。ほぼ正方形」


 そうだわ――と彼女は手を合わせる。


「一緒にお風呂に入らない? 楽しそうよ。ここ、二人でも入れそうだし」


 コーヒーを飲み終わっていてよかった。


「ゲホッ、楽しくないよ。そういうのは彼氏が出来てからにして」


「冗談よ。今日という訳じゃないわ。いつかその日が来たらってことよ」


 どこまでも虚実を織り交ぜた言葉で翻弄されっぱなしだ。



 彼女はすでにチャンネルの決定権を手にしてテレビをつけた。ニュースバラエティー。僕がいちばん嫌いな番組。芸能も世相も天気もどうでもいい。


「田村さん、宿題進んでる?」


「いえ。どうせ提出しないもの。詰問されたら『自由研究に忙しかった』と答えるつもりよ。【ある夏の日・水深二センチメートル下での攻防――】『小型観賞魚のひれのバタつきによる負荷とその体荷重により繊維断裂を引き起こすにいたったプラスチック枠へ張られた0・08ミリ極薄の低強度な直径八センチメートル大の根性なしの和紙の限界値から推測される特異点もしくはアステロイド曲線との近似。そして未来へ託す技術の向上』」


「通るかなあ」


「でなければ卒論準備と言うわ。向こうが求めていようがいまいが、単位に関係なかろうが、私は高校三年間に得たすべてをかけて、実はすでに入念に綿密に速やかに卒業論文に手をかけているの」


「どんな?」


「嬉しかったことや楽しかったことをいつになっても忘れはしないと、思いの丈を原稿用紙五枚に連ねて書くつもりよ。五枚も」


 タイトルは『わたしの思い出』だろう。が、これで宿題の当てが外れた。後半戦で羽白に頼ってみよう。



 午後四時になり、洗濯物を運んで部屋へ向かった。


「竜崎君の部屋、まだ見てなかったわ。見せて」


「面白くもなんともないけどね」


 僕は西向きの部屋で床に胡坐をかいて洗濯物を畳む。そこで言い出しにくいことを思い出した。


「やっぱり男の子の部屋ね。ガンプラとか飾ってはいないけど、あら、ペスカトーレ大紫のサポーターなのね。キング・カジがいたところ」


「あのさ、この間なんだけど――」


「この間。それは私がここにいたこの間のこと? それともいなかった時のこと?」


「いたあとのことなんだけど――」


「となると、思い出してくれていたの、私のこと。どんな気分だったのかしら、教えてちょうだい」


「どんなって、恥ずかしかったよ。人んちの洗濯機に下着入れて帰らないでよ」


 ああ、と彼女が手を叩いた。


「それで水色ストライプがどこかに消え去ってたのね。ナンバーツーの勝負下着。それで、どこにかくまってくれたの。その鍵つきの引き出しとか――」


「開けないでよ。なんか気まずかったから母さんのタンスに一緒に入れてるよ。場所言うから自分で取って来て。寝室の奥」




 微妙に傾いたリンゴ飴を手に、彼女は玄関に立った。


「午後八時半に食べて。そして同じ星を見上げるの。わし座のデネブ。見えなかったら外に出てもいいわ。夏の大三角形を見上げながら、パリッ、シャクッ、パリッと昨夜の花火の余韻に浸るのよ。くれぐれも声が聞きたいとか言って電話はかけないでね。興が冷めるから。なんにしてもお祭りにつき合ってくれてありがとう。また明日」


 いつになく恭しく頭を下げてマンションを離れて行った。なんとなく、寂しげな顔をしていた。それと、わし座はアルタイルだ。


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