第16話 分からないけれず


 田舎の最終バスに乗り、マンションへ戻った。綿あめは半分の体積になっている。キッチンテーブルにはリンゴ飴が二つ並んでいる。金魚の木に、出目金はいなかった。


「本当に小さくなったわね。朝まで置いたら消えてなくなるかしら」


「元のザラメ以下にはならないよ」


「そうね。質量保存。ところで竜崎君、もう眠かったりする」


「まさか。三時に起きたヤツだよ。田村さんこそ寝てないんじゃないの」


「それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず」


「噛んだよ。眠いんじゃない」


 答えはなかった。



「僕さ、シャワー浴びて来るから。見るならテレビ見てて」


 それでも答えはない。本当に寝ているのかと思ったがそうではない。目は開いている。が、そうやって寝る人もいるらしい。


 シャワーから上がると、テレビもつけず彼女がソファーで倒れていた。やはり眠かったのだ。


「田村さん、不本意だけど寝るなら――」


 そこへ、



「真二……ちょっと腰揉んで……ハードモードで……」



 彼女が呟いた。冗談でも言えないはずの台詞を。


 呆然と見下ろしていると、彼女が飛び跳ねるようにして身体を起こす。


 その目は半分寝ぼけている。


「――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?」


「田村さん、今なんて言ったか覚えてる?」


「『――はっ。私眠っていたのね。何分? 何十分?』」


「いや、その前」


「その前――。『それが、私やっぱり自宅では眠れないのよ。今はちょっと分からねいけれず』だったかしら」


「……分かった。いい。それよりきちんと寝た方がいいよ。着替えたらベッドに行ってて。僕は宿題でもやってるから」


「そう。そうさせてもらうわ。なんて眠いんでしょ。素敵」


 母の作業場で、開いたままだった宿題を前にやっぱりペンは進まなかった。母の口癖そのままの台詞が、彼女の口からもれたのだから。なぜ、という問いかけよりも、どこか欠けていたものが戻ってきた感覚。あの日常が瞬間だけでも帰ってきた錯覚。それは一度苛立ちに変わったものではあるけれど、冷えた僕の心を温める偶然だった。それを分け合える相手はいなくとも、今はそれだけでいいことにしよう。


 翌朝は彼女のいびきが聞けなかった。睡眠時刻から考えて彼女の方が先に起きていて当然だったからだ。いや、いびきが聞きたかった訳じゃない。




 彼女がキッチンで立ち尽くしている。


「コーヒーというものを淹れてみようと思うのだけれど、何をどうやればよいのかさっぱりで、ご指導を頂けたらと思っているのが今の私」


「お湯を沸かして。ケトルに半分くらい」


「半分。意外にたっぷりあるわ。そんなに蒸発するものなのね」


「カップとか温めるんだよ。ドリッパーにフィルターをセットして――」


「これは小学校の理科と既視感があるわ。漏斗と濾紙を使って」


「そう。それをコーヒー豆でやるんだよ」


 お湯が沸く。二つのカップへ注いで置く。デキャンタにも一度お湯を注いでヤカンに戻す。ヤカンの残り湯と合わせてちょうどいいくらいの温度だ。


「ドリッパーに豆を二杯分」


「何かで豆をガリガリやるんじゃなかったの」


「それもあるけど、これはガリガリのあとの豆。それをこのスプーンで二杯入れたら。まずは少量のお湯で豆を蒸らす」


「蒸らす?」


「そうすることで成分が十分に抽出されやすくなるんだ」


「蒸らす――竜崎君はムラムラしたりはしないの」


「今はコーヒーのことだけ考えてほしいんだけど。で、豆がふんわりしてきたら、三回くらいに分けてお湯を注ぐ」


「やらせて」


「ゆっくり、あとは一回しすればいいから――」


 二人でソファーに座る。距離感は少し近くなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る