第13話 深夜の電話

 前期の補習が終わり、夏休みが本番となった。何をしたい訳でもない。どこへ出ることもない。コンビニと家の往復。ATMで見たら生活費の残り額はおよそ一か月分。足りなくなったら電話しなさい、と祖父には言われている。それから暗にマンションを引き払う話を伺ってきた。高校生一人では大変だろうと。大変ではない。ここを動く気力を出すことの方が大変だ。それは勇気や覚悟にも似ている。


 補習は終ったが宿題はあるという不条理に、母の作業机で一日だけ手をつけた。気づいたら涙が流れていたのですぐにやめた。今までの自分が、悲しくて淋しくてつらかったのだと気づいて、初めて彼女を恨んだ。残された者のその心情を汲んでくれなかった自分勝手な彼女に。


 しばらくはただ、その理由だけを探した。どこかに、僕だけにでも分かるようなメッセージが、描きかけの作品のラフスケッチや、並べたファイルの一枚一枚や、スマホの中の僕とのやり取りの履歴や、警察も捜査したことを何度も繰り返した。


 やがてそれに疲れると、今度は面影を探し始めた。滅多に使わなかった化粧道具や、いつも着ていたジャージや、見慣れた下着や、コンドームの箱まで、彼女が触れていたすべてに触れていたかった。彼女の細いワンピースを身に着けたこともある。あらゆる服の匂いを嗅ぎ、自分を慰め続けた。そのうち射精と共に痛みが襲うまで。


 それにすら疲れたのが一週間目。ならば学校にでも行った方がマシだと思った。

今もまた疲れていると、母の机に顔を伏した。これからのことを考えるのに疲れているのだ。彼女のあとを追うことも考えている。いつも考えている。ただそれが何の解決にもならないことも分かっていて、彼女の記憶をいちばんに有しているのが自分ならばと、それだけは躊躇っていた。まだ彼女を僕の中で生かしておきたかった。それが大切な人を失くした人間の心中ではないのだろうか。僕がまだ十七歳だったにしろ。彼女が初恋の人だったからにしろ。



 その気持ちに気づいたのは中学二年。冬だった。父が母の肩を抱いてソファーに座っていることが堪らなく不愉快だった。


 ある冬の日、電話をしていた彼女の口調から父が帰らないことを見越して、風呂へ入っていた彼女に脱衣所から訊ねた。勇気を振り絞って。一緒に入っていいかと。彼女は考える間もなく「いいわよ」と返事を返した。


 彼女の裸を見たのは何年ぶりだったろう。ただ、記憶の中の姿そのままの裸体に幼い頃にはなかった興奮を覚えた。湯船に向かい合って座り、固くした下半身を隠し、ただ小さくなっていた。それからどれほどが経っただろう。覚えていない。いないが、今も鮮明に思い出せるのはその振り向いた彼女の顔。先にバスタブから上がった彼女はドアを閉める前にゆっくりと振り向き、



「お父さんには内緒よ」



 照れたように笑った。その笑顔に心臓が止まり、間もなく高鳴り始めた。僕は彼女に恋をした。確信だった。


 それからの僕はどれだけ彼女が父と仲よくしていても嫉妬する心を抑えられた。方法を覚えたのだ。僕は彼女と秘密を分け合っているのだと、その秘密を知らない父に優越感を感じ、そして父がいない時を見計らってまた風呂へ入った。その肌に触れるようになってからはもう歯止めが利かなくなっていた。冬が過ぎ、春が来て、中学三年の夏を迎える頃、父の出張があった――。




 触れたい。もう一度――。違う、何度でもまたあの肌に触れたい。彼女の身体ならすべて指先が覚えている。それがまた心を苦しめる。そんな狂おしい気持ちを抱いたまま、いっそこの部屋で閉じこもっていたい。


 それから三日が経った――。宿題は進まない。それより大きな出来事があった。

眠れない夜だった。午前二時過ぎ。ふと音沙汰のない田村敦子のことが気になり、母のスマホに電源を入れ、番号を調べようかとあぐねていた時だ。呼び出し音と共にスマホが震えた。投げ出しそうになったそれを恐る恐る覗くと、


『田村敦子ちゃん――』


 その名前が出ていた。着信音は鳴りやまない。まるで心のやましさを見透かされたような電話。それになぜ誰も出ないはずの電話に――。不審に思ったが、あとは操られるようだった。


「もしもし――」


『あら残念ね。その声は竜崎君。けれどどうしてその電話に電源を入れたのかしら。こちらはいつも定時連絡として午前二時に電話をかけていたのに』


「そっちこそなんで――」


『言ったでしょ。定時連絡。もしも幽霊が出てくれるならこの時間かしらと思っていて。けれど残念ついでに言うわ。明日はそちらにお邪魔するから。パジャマを持って。ご飯はそうね。いらないと思うわ。では深夜にありがとう。おやすみなさい、かしら』


 心臓に悪い電話はそれで切れた。

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