ゴールデンウィーク逃避行

 自慢ではないが私は人より理性的であるという自負がある。中学卒業までの人生でも、人と接するときは感情的にならぬよう心掛けてきたつもりだ。

 そんな私が本能の下に初対面の人を恐れ、あまつさえ友人との相性を推し量るなど、どうかしている。

 約一年経った今でも、そんな疑問は脳裏に残っており答えは出ていない。

「あの……どうして私の名前を?」

 私の声はきっと震えていただろう。そんな私の様子を見て、彼女は微笑みながらヒントを差し出してきた。

「そんなに怖がらないで。自分で言うのもなんだけど、もしかしたらワタシ、あなたの命の恩人かもしれないのよ?」

「──え?」

 私の生死に関わることができる出来事など、一か月前のあの事故しかなかった。被害者は私、加害者はドライバーである。

 つまり、あの事故へ関与する残された方法は……。

「もしかして……救急車を呼んでくれた人?」

「あら。アナタ見た目通り賢いのね。理解が早くてとてもうれしいわ。ワタシ、あの事故が起きた交差点で路上占いしてたのよ……ちなみにアナタでたしか三回目だったかしら。本当にあそこは事故が多くて困るわ……」

 そう言った彼女の顔は、セリフとは裏腹にとても恍惚こうこつとしていた。まるで事故が起きたことが嬉しいと言わんばかりのその表情は、被害者の私に怒られても文句は言えないだろう。

「その節はどうもありがとうございました……」

「いいのよ。それに──お礼はもう貰っているようなものだし」

 私が恐れながらも感謝を述べると、彼女はおかしなことを言ったのである。当然、なにかを渡した記憶など無い。なにせ救急車を呼んでくれた人の存在を認知したのも今しがたなのだ。

 そんな風に混乱している私を満足げな表情で見ながら、彼女はベッドの脇に備え付けられていた一人掛けのソファから立ち上がった。

「それじゃあワタシはもう行くわね。今日はアナタと少し話してみたかっただけなの。目的は既に果たしたわ」

「え……ちょっと!」

 当時、まだ車椅子に乗りたてだった私は、長い金髪を揺らしながら軽快に病室を出ていく彼女を追えるはずもなく、そのまま座り尽くすのみだった。

「瀬野さん?大丈夫ですか?車椅子にはなかなか慣れないと思いますけど、頑張りましょう!」

「あ……はい。なんか事故の時に救急車を呼んでくれた人が部屋にいて……占い師の方らしいんですけどなにか知ってますか?」

 そう。私は車椅子の練習のために、ロの字型の構造をしている入院棟を一周していた。その後、病室に戻るとくだんの彼女がいたのである。看護師にその説明をするも、どうやら何も知らない様子であった。

「面会なら受付から連絡が来てるはずですけどねぇ……。お名前とか聞いてませんか?」

「……たしか『小野さん』だった気がします」

「小野さん?偶然ですね!今日から瀬野さんと相部屋になる方も小野さんですよ!さんです」

 看護師から告げられたフルネームは、先ほどまで話をしていた人物が名乗ったものと同様であった。彼女の怪しさからは、誰しもこれが偶然だとは思えないだろう。どういうわけか私と同室になる人の名前を調べ、それを偽名として使ったと考えるのが妥当だ。

「あ、噂をすれば──」

 そう言う看護師の目線の先には、黒髪の美人が松葉杖を突いて立っていた。本当の『小野モカ』その人である。


    §


 そういえば、モカは元気だろうか。結局あの後、本物の『小野モカ』は同級生だったということもあり、私やリセとすぐに打ち解け彼女が退院する7月末までの期間を病室で共に過ごしたのだ。

 ──などという回想もここで終了である。

 この部屋に突如として乱入してきたガラの悪い男たちが、私たちに銃口を向け取り囲むまでの僅かな時間。それはきっと一分にも満たなかったが、過去に思いを巡らすのには十分な時間だった。

瀬野一せのはじめッちゅうのはどいつや?」

「え?」

 脳みそが一時停止する。

 なぜ私の名前が呼ばれたのだろうか?

 当然、私はヤクザとの繋がりなどこれまでにない。実は両親が借金をしていて、その肩代わりに娘が差し出された、なんてこともないはずである。というよりないと信じたい。

 なので、てっきり彼らはこの事務所に用があって、私は不運にも偶然そこに居合わせてしまったのだと考えていた。

「オマエさんら三人の中におるんと違うんか?」

 確かにいる。

 私は正真正銘「瀬野一」で違いない。

 しかしこの状況で自らを「瀬野一」だと名乗り出ることができる「瀬野一」などいるのだろうか!間違いなく殺されるか、ソレに近い目に遭うではないか!私はリセのことを解決するまでは、死ぬわけにはいかないのだ。

 それに同姓同名なだけで、別の「瀬野一」を探している可能性だってまだある。むしろ私の人生を振り返ると、そちらの可能性の方が遥かに高い。

「なんじゃおらんのか?」

「いや、彼女の名前『瀬野一』ですよ」

「ッ!」

 俯いていた私が勢いよく顔を上げると、おそらくこの事務所の所長であろう男がこちらを指差していた。そのままの流れで隣に座っているモアと呼ばれていた女を見るが、そちらも素知らぬ顔である。

 なんで!と声に出かけたが、すんでのところで堪えることができた。

 このヤクザ達の目的が私である以上、この事務所の人間は関係ないのだから、危険を避けるのは当然である。

「ただ……彼女はアンタらが欲しがってるモノは持ってないと思いますけどね」

「……どーゆー意味じゃ」

 そこで事務所の男はニヤリと笑った。

「どうもこうも、そのままの意味ですよ。蒼生そうせい会の一ノ矢さん」

「ッ!なんでワシの名前を──!」

 え──。

 このあと私はどうなってしまうのだろう、と半ば諦めた状態で考えていた私の視界は不意に真っ白に覆われた。

「クソがッ!煙幕か!ガキに当たるかもしれねえから撃つんじゃねえぞ!」

「こっちです」

 ヤクザ達の混乱している声の中、何も見えていない私は右手を誰かに掴まれた。

「ちょ、ちょっと……!」

 躓きながらもなんとか手引きされ、視界が晴れるとそこは非常階段であった。目の前には事務所の女が立っている。きっと彼女がここまで連れてきてくれたのだろう。

「あの……ありがとうござい──キャッ!」

「ちょいと失礼するよ」

 先程から突然の連続である。今度はいきなり横向きに抱き上げられてしまった。いわゆるお姫様抱っこというものだ。

 さらに驚くことに、私を抱えた男と事務所の女は、そのまま非常階段の柵を飛び越えた。

 記憶が正しければこの事務所は三階に位置していたはずである。

「──!」

 声にならない悲鳴をあげながら、私は咄嗟とっさに男へしがみついた。

 しかし、いつまで経っても衝撃らしい衝撃は襲ってこない。恐る恐る目を開けると、そこには悪戯な笑みを浮かべた男の顔があった。

「驚いた?実はこういう緊急時のために、最初からクッションがあるのでしたァ!いやそれにしても君、見かけによらず力強いんだね。首の骨、大丈夫かな?」

「えっとぉ……」

 私達は数十秒前までヤクザに銃口を向けられていたはずである。それなのになぜこの男は平然としているのだろうか。私が呆気に取られていると、一台のクラシックカーがこちらへやって来た。

 「しょォちょォう?こんな時でもおしゃべりですか……あなただけ置いていってもいいんですよ?」

 運転席から顔を出し、これまた平然とした様子で軽口を言ってのけたのは、事務所の女である。

「あ、瀬野さんは後ろにどうぞ」

「……はい」

 私は言われるがまま、車の後部座席へ乗った。

「とりあえず彼らに見つからないような場所まで行きましょうか」

「楽しくなってきたなぁ!」

 こうして私の、奇妙な男女とのゴールデンウィーク逃避行は始まったのである。

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