8月20日

 数年前のこと。

 そのとき俺はまだ高校生で、透花さんは大学を卒業して家業の花屋を継いだばかりで。何の気まぐれか、いつも登下校では通らない商店街を通った日。俺は彼女に初めて出会った。

 正直に言って、一目惚れだった。店先で花に囲まれている彼女の、無邪気な笑顔に魅了されてしまったのだ。透花さんと少しでも話すきっかけになればとその頃から毎日花屋に通い始めた。花を買うだなんて誰か好きな人でもできたのかしらって、母さんによくからかわれてたっけ。


 8月20日、晴れ。

 花屋で透花さんと話し込んでいると、電気屋の小さなテレビからニュースが流れてきた。


「速報です―――」


 そのニュースは確かこう伝えていた。

 南極を調査していた日本人の調査員達が軒並み死亡。原因は大陸の氷が溶けたことで発見された未知のウイルスだとか。そのウイルスが世界各地で確認され始めたらしい、と。

 透花さんが、怖いね、日本に来なきゃいいけどなんて話していたことは鮮明に覚えている。


 ニュースからわずか2、3年ほどでそのウイルスによる感染症が大流行した。世界各地でパンデミックが発生し、数えきれないほど多くの人の命が失われた。世界中の人々が一斉に亡くなったので国は瞬く間に機能しなくなり、多くの文化や文明が衰退した。生き残った人々は自力で何とか生活している、のだろう。通信技術も途絶えたから詳しくは分からない。

 そして俺も、透花さんも、家族みんなを失った。


 6月10日、雨。

 彼女の両親と弟が亡くなったと聞き、花屋へ駆けつけた。彼女は声を押し殺して泣いていた。俺が話しかけても何も答えないで。弟と一緒に作ったというワスレナグサの栞を手で潰してしまいそうなほど握りしめて。ひたすらに泣き続けていた。


「なんで私を置いていっちゃうの…!!」


 彼女の悲痛な叫びは雨音に掻き消されてしまった。


 そうして彼女は泣いて、泣いて、泣いて。

 全てを忘れてしまった。


 6月22日、雨。

 久しぶりに透花さんの元へ行くと、彼女は花の手入れをしていた。笑顔で。


「…こんにちは、透花さん」


 恐る恐る声を掛けてみた。彼女は俺の方を見て心底嬉しそうに話し始めた。


「樹くん!久しぶりだね、最近来てなかったけど何かあったの?」


 数日前の号哭はどこへやら、あまりにもあっけらかんとした語り口だった。


「…なあ、もう大丈夫…なのか?」

「大丈夫って、何が?」

「その、あんたの家族のこととか」

「…家族?何それ、私には元からいないよ?」

「えっ…」


 最初は、無理をしているんじゃないかと思った。だって、家族を失ってあんなに悲しんでいた彼女とは思えない反応だったから。

 しかし、話しているうちに段々と分かった。分かってしまった。透花さんは…心が壊れてしまったと。家族を失った辛い記憶、家族を失うきっかけになったウイルスやこの世界の現状についての記憶だけ、都合よく忘れてしまったのだ。心の奥で、痛くて辛すぎた現実を拒絶したかったのかもしれない。

 真実を伝えて目を覚まさせるべきかと一瞬考えた。が、止めた。というより、できなかった。もう彼女に傷ついて欲しくなかった。彼女が縋り、信仰した都合のいい記憶を壊してしまいたくなかった。

 そのとき俺は、彼女の記憶に話を合わせよう、彼女が望む世界に生きる人間になりきろうと決意した。手始めに透花さんが見ていない隙に、彼女の弟の形見である栞を本に挟んでカウンターの奥に仕舞った。それから俺は透花さんの話に都合を合わせ、彼女が真実に気づかないように嘘を吐き続けてきたのだ。

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