あるオタクの日常
朝、スマートフォンから響く無機質なアラームを聞いて私の一日は始まる。
今年から高校生になった私は夏用の制服に着替えると足早に駅へ向かう。
別段通学時間が長い訳ではないのだが、どうしても時間を遅らせる気にはなれなかった。
高校の最寄りとされている駅が複数ある路線は満員電車になることが多く、人混みが苦手な私はそれを避けたかったのが最大の理由だ。
学校に着いて初めに行くのは職員室だ。
満員電車を避けた私が学校に着く時間は早く、八時を過ぎることは無い。
こんな時間に登校する者は朝練中の運動部を除けば数人、それこそ片手で数えられるほどしか居ないだろう。
自分のクラスの鍵を取って教室へ向かう。
ガチャリと鍵の開く音が誰もいない廊下に響く。
なんでもないはずのその音を私は心地好く思っていた。
よくあるスライド式の扉を開き自分の席に荷物を置いて窓を開ける。
扉を開く音も教室を歩く足音も窓を開ける音も他の音が無い空間にはよく響く。
この静かな空間がたまらなく好きだった。
鞄から一冊の本を取り出し、栞を挟んでおいたページを開いて読み進める。
夏が近い季節でもこの時間の風は涼しげだ。
学校に居る間で最も好ましい時間は間違いなく今だろう。
これが私が通学の時間を遅らせる気になれない最大ではない理由だ。
だが、そんな時間は長く続かない。
10分ほど経つとクラスメイトが次々と教室に入ってくる。
満足とは言えないもののある程度楽しみを終えた私は本を読んだまま二人の男女を待つ。
アニメやラノベを趣味としている、所謂オタクと呼ばれる人間である私に友人と呼べる相手は少ない。
交友関係を築く段階でオタクだと知られれば、私個人の性格より偏見が先に出てしまうためその先に進むのが困難になってしまう。
そうなると関わりが深くなるのは当然同じ趣味を持つ者に限られる。
結果このクラスで私が関わる相手はその二人だけになった。
なんの自慢にもならないが私は特別ブサイクでは無かったし、偏見などの差別意識の低い小学生の頃はそれなりに友達も居た。
身だしなみにも気をつけている。口調にしてもそうだ。
ネット用語は使わないようにしているし、オタク同士の会話でもオタク趣味を持っていない人が聞けば多少引かれるような内容は避けている。
それでもオタクというだけで「気持ち悪い」などと暴言を吐かれたり影でコソコソと言われてしまう。
オタクのコミュニケーション能力が低い理由がよく分かるだろう。
予鈴が鳴る少し前、一人の男子生徒が教室に入ると私の心臓の鼓動が速くなり、呼吸も荒くなった。
その男子生徒は髪を金色に染めた不良だ。
彼は何が楽しいのか私によく絡んでくる。
共有出来る趣味があるのなら納得できるが、彼にオタク趣味はないし嫌いな方だと公言している。
関わる理由などどこにも無い。
私はそれが怖くて仕方がなかった。
深呼吸をして落ち着くと、予鈴と同時に入ってきた担任の話に耳を傾ける。
午前の授業を終えると鞄から弁当を取り出す。
母が作ってくれているこの二段弁当を完食したのは数えるほどしか無かった。
半分近く食べたところで弁当をカバンに戻す。
そこから午後の授業が始まるまでの数十分、私は本を読んで過ごす。
「おい」
どうやら読書の時間は早くも終わってしまったようだ。
「何?」
ここから先の展開は容易に想像出来る。
昼休みに彼に声をかけられた場合は必ず……。
「カフェオレ買ってこい」
パシリに使われると決まっている。
「釣りは要らねぇよ!有難く思え」
そう言って百円玉を渡される。
購買のカフェオレの値段は130円だから30円足りない。
「釣りは要らない」この言葉にはマイナスも含まれている。
足りないと言っても無駄だ。
入学してからまだ2ヶ月に満たないのに私が同じ方法で失った金額は馬鹿にならない。
昼休みの購買はずっと混雑している。
満員電車と比べれば動けるだけマシなのだろうが、私が行きたくないと思うには充分だ。
自販機に渡された百円玉と自分の財布から出した30円を入れてカフェオレを購入する。
自分用にバナナオレも買って教室に戻った。
彼は半ば奪うようにカフェオレを取るとそのまま飲み始めた。
訳の分からない因縁をつけられる可能性を危惧していた私は杞憂だったと安心して席に戻ろうとした。
その瞬間、背中に激しい衝撃が走った。
体制が崩れて前方に倒れ込む。
背後では彼とその取り巻きが楽しそうに笑っていた。
幸い痛みは無かったが思わず泣きだしそうになった。
なんとか堪えて席に座り、何事も無かったように授業の準備をする。
午後の授業は全く身が入らなかった。
学校を終えた私が帰宅する時間は17時になる。
「ただいま」
帰りを告げるその声に返事はない。
この時間家に居るのは私一人だ。
リビングに用意された作り置きの夕飯を食べ、少し早めの入浴を済ませる。
その後は部屋に篭もって趣味に没頭する。
どれだけ集中していたのだろうか、気づけば時計の針が24時を回っていた。
僅かな満足感と虚無感に浸りながら布団に潜り深い眠りにつく。
朝になればまた繰り返す。
大丈夫……今日も乗り越えたのだから……明日もきっと乗り越えられる。
あぁ……いつまでこの生活に……耐えなければならないのか……。
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