XVI 塔

 冷めやらぬ喪失感を砕いたのは、一つの音だった。


 何か割れる音がして、次いで端末からアラームが鳴らされる。女性アナウンスが何事か喚いた。恐怖から腕を摩る。地震を予告しているのだと思ったけれど、実際に何と言っているのかはっきりしない。

 悲しみの余韻から唐突に現実に引き戻された私たちは、呆然として端末を持った。それが何と言っているのか、明瞭になるにつれ、自分たちの身に危険が迫っているのだと分かってくる。というのも、身も蓋もないことに、

「危険が迫っています」と繰り返しているのだから。

 シュールな警告とは裏腹に、これ以上どんなことが起きても驚かない自信があった。立て続けに異変と遭遇し、既に私たちは疲れきっている。驚くだけの元気もないというのに、一体、これ以上何が待っているというのか。

 キセがおもむろに立ち上がり、扉を開ける。部屋の外へ出るなり、ついてくるようにと言った。その声色は嫌に真剣味を帯びていて、断る余地も与えてくれそうにない。言われるがままに後に付き従い、彼女の指差す方へ目を凝らした。

 ガラス張りの手摺りより階下が覗ける。窓が破られていて、人がひとり入ろうとしていた。どこか様子がおかしく、ふらふらと体を左右に揺らしている。と、彼は顔を上げた。空虚な目と目が合って、私は息を止める。

 彼は紛れもなく一樹サナヲ──祖父その人だった。

 頭の中が「何故?」で占められる。

 あの時、彼は、電車に轢かれたはずではないか。

 ガラス片が手足を切ったのか、体がところどころ赤黒く染められている。彼の步む道には紅の轍が出来上がり、後から続々と人が現れた。すぐ側に扉があるというのに、皆一様に開け方を忘れてしまったのだろうか。それとも関節があらぬ方向に曲げられていたから、開けようにも開けられなかったのかもしれない。

 だから、破られた窓から足を踏み入れる。

 アラームが止まない。

 神経を逆撫でする音を止めるべく、私は端末の電源を落とした。

「ニオ……」

 隣に立つセトが呟く。慌てて下を向くと、ニオに良く似た顔立ちの女の子が立っていた。でも本人と認められなくて、

「違うよ」と否定する。

 でも、多分。きっと。

 反応が無くて、私はセトを見やった。彼は歯を食い縛ると、

「逃げるぞ」

 彼の一言に、全員の目が私に集中する。

 亡者たちが走り出した。セトが私の手を引っ張る。どこへ行くの、と訊ねたけれど、返事が来ない。背後から地鳴りのような足音が連なって聞こえる。階段から、エスカレーターから、エレベーターから。彼らはここへやって来ようとしている。

 どうして私たちを狙うのか。何が狙いなのか、分からない。ここまで分からないことばかりじゃないか。あまりの理不尽さに恐怖心が芽生え、笑いたくなって、泣きたくなる。心の底から死にたくないと意識が叫んでいた。

 死に顔の亡霊たちが、無心に追いかけてくる。表情はなく、どこを見ているのか、目も合わない。それなのに障害物を軽々と避けていき、最短距離で追い詰めようとする。通路を駆け抜けて、部屋を変えた。

 ランダムに変化する迷宮に囚われている。だから不意に出現する亡霊の対処が難しい。背後から追いかけてきたはずが、いつの間に前方から、それも全力で走り寄ってくる。近くに置いてあった書物やらリモコンやらを投げつけたけれど、彼らに痛覚がないのか、顔面からまともに受けても怯まない。少し顔を捻る程度で、足を止めようとはしなかった。

 ぎょろり、と目を剥いて、私を睨め付ける。その目に意思を感じて全身の毛が逆立った。

「気を取られるな」セトが叫び、私を現実へ引き戻す。「奴らに殺されるぞ」

 殺される。

 確かに彼らにはそれほどの気迫があった。でもここは仮想世界。死んでも大丈夫では無いのだろうか。キセを見ると、私の心が読めるのか、首を横に、

「殺されたらどうなるのか、私だって分かりません。少なくとも次の夢まで覚めないか、それとも意識が喪失して二度と目覚めないか」

 どちらにしろ、あまり嬉しく無いことは確か。代わりに、「どうして追いかけてくるの」と誰かに訊いた。でも誰も答えを知らない。理不尽に意味や理由など存在しないのだろう。ただ起こるべくして起こるだけであって、後はそれに対応するしか無いのだ。

 亡霊たちが一直線に私たちを追跡してくれたお陰で、入り口に邪魔は無かった。運良く外に停めてある車まで辿り着いた時、彼らとの距離が遠かったのも幸いして、何とか脱出には成功した。けれど気掛かりなことに、セトの黒子が居ない。

「大丈夫なの」

 と後部座席からバックミラー越しに訊ねたが、セトは何も言わない。彼はちらちらと背後を確認するばかり。釣られて視線を追いかけると、まだ亡霊たちの姿があった。およそ人間とは思えない速度で、彼らが追いかけてくる。

 あまりのことに胸が痛んだが、頭脳は奇妙に落ち着いていた。それは、彼らの正体が朧気ではあったが、分かりかけてきたからで──

「もしかして」額の汗を拭うと、「あれは皆、黒子なの……」

「そうでしょうね」キセは首肯する。「どういうわけか、詳細は分かりませんけれど、貴方を追っているようです」

「どうして」

「それが役目なのでしょう」

 役目、と私は繰り返す。

 そう言えば、レウの黒子も言っていた。〝僕の役目はこれで終えました〟と。

 だん、と重い音がして、窓の端から指先が見えた。誰かが天板に乗っている。思わず息を吸い込んで、喉奥から悲鳴をあげた。キセが私を庇うように前に出る。

 ゆっくりと彼の顔が降りてきて、祖父のぽっかりと穴の空いた、闇に満ち満ちた瞳に貫かれた。全身が凍りついて、硬直する。

 線路へ飛び降りた、あの日と変わらぬ姿。

 プラットホームの下、過ぎゆく風と共に去った人。

 私を呪い、苦しめ続ける存在。

 目を瞑り、ニオの言葉を思い出す。

 皆、私の幸せを願っていると言ってくれた。

 決心して、涙で歪む世界を必死に捉える。

 もう逃げることはしない。

 恐怖に屈したりはしない。

 震える指でノブを掴む。キセは驚いたように私を見つめ、それから支えてくれた。それから、どうか……と心の中で祈る。

 ──どうか私の未来を奪わないでください。

 電柱が近付いてくるのを見計らい、扉を開ける。力を込めたつもりが、弱かったらしい。思ったよりも緩やかに、間抜けな遅さで開かれた。しかし結果として、それが功を奏した。

 開け放たれたタイミングで電柱とぶつかり、その弾みで扉が外れる。祖父は扉とぶつかり、しがみついたまま地面に倒れ、距離を伸ばした。冷たい空気が入る。口元から白い息が出て、遅れて呻き声が漏れた。

 彼に何の恨みも無かった。

 とても優しい人だった。

 誰よりも祖父と仲が良かったし、

 誰よりもその死を嘆き苦しんだ。

 そんな祖父を、私は、

「ああ、あああぁ……」

 息が苦しい。保っていた何かが脆く崩れ、私は泣き叫んでいた。そんな自分の声を、またどこか遠くから聞いている私がいる。どこに私があるのか分からない。でも、他人事と構えて居るもう一つの私にも痛みを覚えて、ようやく、整理がつけるような──そんな気がした。

 それから。

 どのくらいの時間が経っただろう?

 もう亡霊の姿は見えなくなっていて、もう急ぐ必要は無さそうな頃、「なあ」と言ってセトがはにかんだ。

「もう大丈夫そうだな」

 彼の気遣う様子に、私は素直に応じて、

「うん」と一言頷いた。

「なら、そろそろここら辺で良いよな」

「ええ」今度はキセが頷く。「もう自宅も近いですしね」

 いつの間に、最寄り駅に迫っていた。普段は人集りの出来ていた場所なのに、こうも人の姿が見えないと、異世界に来てしまったような、落ち着かない感覚に襲われる。適当な所で停めてもらい、車から降りると、

「ありがとう」

 ニオに出来なかった分、私は出来る限り精一杯の感謝を伝えた。セトは口だけで笑い、

「良いさ。これで俺もお役目御免だからな」

「え……」

 彼は面白そうに私を見据え、「分かってたんじゃないのか? 俺が既に、黒子と成り代わっていたことを」

 まさか。そんなこと、考えもしなかった。

「俺の役目は、お前を安全な場所まで連れて行くことだった」

 やめて。

 それ以上は言わないで。

「本当は、一樹と一緒に生き残る運命だったんだがね。どうもあいつは──いや……良いか。俺もあいつも同じようなもんだしな──運が悪かったらしい」

 お願いだから、もう話さないで。

 もう誰も私から離れないで。

「少し前のお前ならともかく、今の一樹なら、きっと大丈夫だ。でも、一人にしてしまって申し訳ない。俺はそろそろ、列に並ぶよ」

「列の先には、何があるの」

 決して答えを知りたかったわけじゃない。ただ少しでも引き留めようとして、気にもならない質問をしただけ。少しで時間が引き延ばされるように。一人きりにならないように。

「さあな」と彼は簡単に言った。「もしかしたら天国かもしれないな。それとも、辺獄ってやつか? どちらにしろ、そう悪い場所じゃないはずさ」

「ここはどうだった」と訊ねる。

「楽しかったぜ」

「そう……」

「じゃあ、達者でな」

「ありがとう」

「さっき聞いたぜ」黒子は喜びを噛み締めるように笑った。

「そうね」

 私はキセに目を向けた後、滴を溢さないように空を仰ぐ。雲一つない晴天は、あまりにも鮮やかで。目元を覆うプリズムが、空を煌めかせた。

 冷たい風が吹き荒ぶ。

「分かった。貴方も達者で」

「ああ」

「お疲れ様でした」キセが深々と頭を下げた。

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