XVII 星
駅から自宅へは、およそ徒歩で十五分ほど。歩き慣れているから、ぼうっとしていても、難なくアパートへ戻ってこれる。途中、大量の灰が雨のように降り注いだけれど、気にするだけの余裕はもうなかった。
何もかもが私の元から過ぎ去っていく。
変に体がふぅわりと軽く、地面を踏んでいる感覚もない。今にも月まで浮かび上がってしまいそうなくらいだ。頭の先が無くなったように感じる。この世界から重力が無くなったのかもしれない。だってここは仮想世界。何だってあり得るのだから。
私とキセ以外の人は、どうも見当たらない。
また取り残された。
あの日、祖父が身を投げた時のように。
虚しい笑いが込み上げてきて、それにも飽きて、立ち竦む。
「リセ?」
キセが心配したように顔を覗いてきたけれど、今は構いたくなかった。何と自分勝手だろう。感情に呑まれていると自覚していながら、やるせない思いを持て余している。
前みたいに微笑を作るのも、今となっては難しい。主観的に生きることに適応してしまったのだろう。演じ方を忘れてしまった。確か、口角を持ち上げるだけで良かったはず。と、私は表情筋をどうにか操って、
「ごめん、少し休憩していって良いかな」
キセに向けて笑顔を浮かべた。刹那、彼女は地面を一瞥したかと思えば、
「仕方ないですね」なんて憎まれ口を叩く。「少しだけですよ」
通り道に小さな広場がある。公園とまでは言えないけれど、撤去されずに残った、幾つかの遊具が佇んでいた。集まっていながら、どれも孤独にも見える。集団というと、一纏まりのように感じられて忘れがちだけど、実際には一人ひとり個人が集まって形成されている。だから皆、本当は独りぼっち。都会とは、孤独を寄せ集めて創られているのだ──と、どこかで誰かが言っていた。
いつか見た、セトの書いた記事を思い出す。
それから、三人でのことを。
すべては過去になってしまった。
本当に泣きたい時に限って、涙が出ない。
諦めてベンチに座った。キセが隣に腰掛ける。空からは塵が降っていて、あまり美しい景色とは言えない。
これは誰の目線だ、と気になって、キセを見る。
「もしかして、私の考えてることって、全部貴方に漏れてる?」
「ええ、まあ」
否定はされなかった。
彼女は私の記憶なのだから、それも当たり前か。私だって、台本と称してキセから記憶を読み取っていた。
「そうです。お互いに情報をフィードバックしながら、私たちは日常を構築していったんですよ」
「なら……」
貴方に意識があるように見えたのは──突然、お喋りになったのは──私が原因というの?
キセは含み笑いして、「そうかもしれませんね。そこは、何も確証が持てないのですけれど。でも、多分、そうなのだと思います。貴方が完全幸福マニュアルに徹すると決めたあの日から、貴方からは意思が失われたのだと思います。というより、一時的に、私に預けられた。だから……私たちは、日に日に変わっていきましたね。貴方は人形として、私は人形使いとして。振る舞うようになった」
「今の貴方はどう……」
「どう、というと?」
「まだ意思はある?」
「さあ……」彼女は苦笑する。
「さあ、って」
「そんなこと、私には分かりませんよ。本当は、貴方にも分からないのではありませんか。私に意思があるのか。貴方に意思はあるのか」
「え?」私は虚を突かれて、「私にも意思はあるよ」
「そうですか? もしかしたら、台本が作った人格を模倣しているだけかも」
「怒るよ」
「ええ」キセはしとやかに笑った。「それが貴方の意思ですね。そして、面白いと思った私のこの感情もまた……。ねえ、リセ。疑問に思うことがあるんです」
「それって?」
「私があるから意思を持つのか、意思があるから私は保たれるのか」
それじゃあまるで、卵が先か鶏が先かという話になってしまう。
「違いますよ。鶏が先です」
「そうなの?」私はびっくりしていると、
「えっと、そうじゃなくてですね、順番の話です。細かいようですが、〝鶏が先か、卵が先か〟なんですよ」
「そんなのどっちだって良いじゃない」
「うーん。そう言われたら、そうですね」
くすくすと二人で笑い合う。まるで中身の無い話だと言うのに。これ以上無く他愛もない話で。私は健やかに笑うことが出来た。
心はまだ死んでいない。
それが分かって安心する。
「ごめんね。そろそろ、行こっか」
「はい。行きましょうか」
二人揃っての散歩を、これまで意識したことはなかった。そもそも彼女の名前さえ、私は知らなかったというのに。
「それが普通ですよ」キセが楽しげに指摘する。
「そうかな。ニオは知っていたけれど……」
「彼女は例外です。しかし面白い人でしたね」
「そうだね」
本当に。
枯れた木々が寒々と林立する中、私たちは牛並みの速度で足を運ぶ。これから目覚めようとしているのに、何故か名残惜しい。大切な記憶が沢山あるからだろうか。
現実の外側には何があるのだろう。想像しても暗澹たる未来予想図しか頭に刻まれない。きっと大地は荒れ果てていて、外気は汚染されている。地平線はどこまでも続いていくようで、果てには虚無が待っているのだ。
そんな酷くネガティブな予測が、頭をもたげている。未来に希望など持ちようがない。出来るなら、ずっとここに──
「ここに居たい、ですか」
キセは優しい声色で後を紡いだ。
そう、それが私の想いでもある。でも客観的に聞かされると、それではいけないような気もして。
「まあ、考えるのは後にしましょう。まずは外の様子を知る必要がありますから」
と言って、彼女は一枚のカードを取り出して見せる。
曰く、これを自室のテレビに差し込むと、衛星映像が見られるのだとか。いつそんなものを用意していたのか、と首を傾げると、
「魔法です」と無意味にお茶を濁される。
もうそれ以上問わない。
歩き続けて数分。ようやくアパートが見えてくると、束の間の安心感が心に芽生えた。
玄関の前。
ノブを捻って開けようとしたけれど、鍵が掛かっている。それはそうだ。こんなことになるとは思わず、セキュリティ意識から鍵を掛けるのは当たり前。ポケットから鍵を探していると、キセが何をしたのか、扉を開けてみせる。もうこれくらいでは驚かない。
恐らくは魔法だ。
キセに軽く頭を下げてから、中へ。
靴を脱ぐと、すべてを投げ出して、地面に倒れた。
「だらしないですよ」と言われたけれど、糸が切れたように動けなくなったのだから、仕方ない。あらゆるストレスが一気に飛び散って、後には気力も体力も何もかも。何も残らなかったのに違いない。
キセは、呆れたように私を見下ろすと、鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を振る。切り替えて、私を越えると、モニターにカードを差し込んだ。電源を入れると、砂嵐が映し出される。チャンネルを切り替えると、今度は、確かに衛星からと思われる映像が流れた。
私は寝転んだまま、顔だけをそちらに向ける。
カメラはただ一点のみを映していた。音もなく、ひたすらに。誰のためでもなく。長年そうしていたのだと思うと、言い知れぬ感動を覚えた。相手は無機物だというのに、孤独を跳ね除ける在り方に、きっと自分とを重ねてしまったのかもしれない。
画面に映る地球から、青い海と白い雲、そして黒い何かが見えた。これは何だろう。キセは映像を拡大し、近寄ってみると、一面真っ黒に染まっているそれが、大陸であることが分かった。絵の具一杯の黒を、こうして地面に掛け流しても、普通こうはならない。
どこもかしこも灰が舞い、植物や動物の姿は見当たらない。大陸の所々には、月みたいなクレーターが穿たれている。
もしかして:それは月ではないの?
──と思ったけれど、
「正真正銘、地球ですよ」キセは一蹴した。チャンネルを更に切り替える。「どうやら、地球上に生きたカメラは無いみたいですね」
「そう」
私は残念でも何でもなく、それは当たり前だろうな、と思った。物の経年劣化を思えば、むしろ生き残っているこの衛星の方が奇跡である。
「そんなこと言ったら、貴方の眠る方舟だって奇跡ですね」
確かにそうだ。私は内側にこもってびくびくと怯え続けていたけれど、良く今日まで壊れず保ってくれた。丈夫だったにしても、外側の惨状を見るに、既に壊れていてもおかしくない。もっと他の外的要因があったのだろう。それによって、私は助かった。今も、助かり続けている。
奇跡だ。
他にどう表現すれば良いのだろう?
安堵感に包まれて、一度、目を瞑った。
瞬くと、室内の色が移り変わる。
白から橙色へ。
「少しは眠れましたか」彼女の言葉に私は頷く。いつの間にか、日が暮れていた。
硬い地面に眠っていたから、少し背中が痛い。
「キセは眠らないの。それとも、眠れないの?」
「眠れないわけではないですが、眠ったら、少し弊害がありますからね」一拍置いてから、「でも、汚染されているのを鑑みると、ちょっとだけ、そう……本当にちょっと、眠ってみても良いかもしれません」
「なら、眠ったら?」
キセは考え込むように俯く。
「眠るにはまだ。少し早すぎるかもしれません」と、指し示す時計の針は、まだ夕刻。「それに、どうせなら一緒に眠りませんか。貴方は起きたばかりだから、夜の訪れまでお話しして待つのも良いですね。とは言え、貴方、灰まみれですよ」
言われて、服を見下ろした。確かに汚れている。シャワーを浴びたらどうかと提案されて、私はそれを呑んだ。心地良い温かさに包まれて、これもすべてシミュレートなのだな、などとぼんやり考える。
着替えてリビングに戻ると、私はキセの隣に座った。
「夜まで何を話す?」と、そう訊く。
「こう、自由に何でも話して良いとなると、途端に話題が無くなるのはどうしてなんでしょう」
「それが話題?」彼女が認めたので、私は吹き出した。「いつもお喋りなのに。話題が尽きないものと思ってたけど」
「そんなことはありませんよ。でも貴方との場合は、思考が見えますから、何となく、話しかけやすいんですよね。でもそれだけです。取っ掛かりがあったから、話しかけられるだけで──」
「じゃあ、貴方はテレビに話しかけてたみたいなもの?」
想像して、可笑しくなる。
「ええ、まあ」キセは照れたようにはにかんだ。
「あそう……。成る程ね」事態を受け入れつつも、私たちが同一人物であることを思い出すと、「もしかしたら、私にもそんな片鱗があったってことなのかな」
「お喋りのですか」
「テレビとのね」
「そんな言い方はあんまりですよ。でも、そうですねえ。そうかもしれません。私たち、根が暗いのかも」
「あまり悲しいこと言わないでよ」
くすっとして、私はキセを見つめた。穏やかな表情が一転して曇っていく。不思議に思っていると、
「悲しいついでに、一つ。どうしてお祖父ちゃんが私──いえ、貴方を襲ったのかなんですけれど……」
空気が一変したように感じて、腕をさすった。恐れを敏感に感じ取ったらしく、この話はやめますか、と彼女は配慮する。その必要はないよ。
心で思うと、
「分かりました。では、話しますね」キセが厳かに頷いた。「祖父が死んだのは、幼少期のことです。それはまだ私たちが乖離する前。冷凍睡眠装置に掛けられる前のことでした」……
お遊戯会の翌々日。
連れられて向かった京都にて、寺を巡り、枯山水を見た。この記憶はどれも、ここではない、現実の外側でのことだったのだ、とキセは言う。これは決して運命などではない。私に取り憑く呪縛として、過去を繰り返しただけ。皆で取り決めた三世代間の永劫回帰。その弊害。
運命でないのなら、祖父はどうして死んでしまったのだろう。
「事故でした。偶然、防止扉が開いてしまって、偶然、誰かが祖父に当たって、偶然、彼はよろめいて、倒れた。その先が、偶然にも、線路だったんです。私はそれを目の前で見ていました。びっくりした顔が、今でも忘れられない。まさか、私が突き飛ばしたと勘違いしたのかもしれない、そう思って怖くなりました。もしかしたら私のことを、恨んでいるのでは、って」
「それで私たちを襲いに?」
「今だから言えますが、実は前世でも、彼は襲いかかってきたんですよ」
「え」それは初耳だ。
「それはそうです。だってそれまでは台本が機能していましたからね。貴方は知ろうとしなかったし、知ることも出来なかったでしょう」
「結局、どうなったの……」
「祖父は居なくなり、いつしか前世の貴方もトラウマを忘れようと努めていました。かつての貴方がしていたように、台本主義者となることで、ですね」
歴史は繰り返されようとしていたのだ。祖父は可哀想に、私の中で悪霊となって育っていった。だから私自身を苦しめる。誰よりも私がそう望んでいたから。
「貴方も頑張ったんだね」
そう訊くと、
「そうですね」弱々しい笑みを、キセは浮かべてみせた。
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