XV 悪魔
しばらく館内を歩き回っていたが、次第に増幅していく焦りを抑えるためにも、ここで一度休憩し、現状を振り返ってみることにする。
手に持ったパンフレットには、案内図が載っている。こちらに一切の変化はなく、影響を受けていないらしい。
端末から連絡を取ることも考えたけれど、圏外のため諦める。結果として、私とセトはそれぞれ二手に分かれ、捜索することにした。ニオは恐らく、このフロア内には居るのだろう。時折り聞こえてくる声によっても、それは明らかだった。ただ、何処にいるのか定かではない。
これも異変だろうか。
つまり、現実の外側で起きていることが、この世界にも影響を及ぼしている。そんな仮説が思い浮かぶけれど、具体的な判断がつかない。一番恐ろしいのは、私自身に変化が及んでいること。あり得ないと言い切れないことに恐れを感じる。
もし仮にそうだとしたら、目覚めた場合にはどうなるのだろうか。崩壊した桃源郷の外に待つのは、終わりのない地獄──要は現実。それも、受け入れざる本物の世界。
果たしてニオやセトも、同じ考えに至っているだろうか。彼らは私ほど臆病ではないから、きっと、暗闇のその先にも光を見出すだろう。でも、私はどうか。なんて鑑みている自分に気がつき、また自己嫌悪に陥りそうになる。
私、わたし。
私のことばかり。
今はニオが先決だ。切り替えて、頬を叩く。
「ニオ」と名前を呼びかけて、返事を待った。微かに音がして、動きを止め、耳を澄ませる。私を呼ぶ声がした。パンフレットから案内図を確認し、位置を探る。
ふと、閃きがあった。
どうして案内図に変化はないのだろう。
もしかして、と。
現状をまとめよう。空間が捩れていて、部屋の位置が変化した。だがもしこれが認識の問題ならば、観測の方に問題がある、ということ。実のところ、部屋の構造は入れ替わっていない。入れ替わったように見えているだけなのではないか。
例えば声のした方向を案内図にメモして、隣接する部屋まで移動する。ニオが動いていない限り、この方法で、いつかは辿り着けるはずだ。希望が生まれてきて、口元が緩みそうになる。気を引き締めて、私はもう一度声を掛けて、返事を待った。
「リセ」
と声がする。慌てず冷静に、位置をマッピングした。それから隣接する部屋を確認し、移動する。さっきからキセは、ずっと無言だった。不安になって、彼女を見たけれど、どんな感情も浮かんではいない。ただ見守り続けている、という雰囲気だ。
「いつものお喋りは?」私は沈黙に耐えられず、そう軽口を叩く。
キセは意外そうに、「おや、まさかリセからそんなふうに言われるとは」そう言って薄く笑った後、そこから急速に笑みが消えた。「こんなことを言うのは大変心苦しいのですが、恐らくニオさんとは、もう会えないと思います」
びっくりして、「どうして」と訊く。どうしてそんなこと、彼女に分かるのだろう、と。
キセは何か言いかけて、いや、まあ、と奥歯に物が挟まった言い方で取り繕った。縁起でもないことは言わないで欲しい。でも彼女のことは、良くも悪くも信頼している。何か根拠があっての発言なのだ。
暖房が効きすぎているためか、じっとりと汗が滲む。
目的の部屋に辿り着くと、そこには彼女が居たという痕跡だけがあった。書棚の間に、不自然にも絵本が落ちている。
「童話ですね」一目見て、キセが言った。
題名は『ヘンゼルとグレーテル』。どう言うことだろう、と首を捻り、この時は答えを先送りにした。理解したのは、次の部屋へ移動した後のこと。また声をかけて、声のした方へと向かう。すると、また地面には絵本が落ちていた。今度は『不思議の国のアリス』だった。
「不思議の国のアリス症候群のことを言いたいのでしょうか」とキセが言う。「知ってますか」
そう訊かれても、私は知らない。彼女は頷いて、
「いわば幻視ですよ。認識に異常が発生するんです。物が大きく見えたり、逆に小さく見えたりと歪んで見えるんですね。他にも、必要以上に通路が長く感じられたり、部屋が広くなったり。バリエーションは様々です」
「じゃあニオも部屋が入れ替わって見えるの……」
「だと思いますよ。そうでなければ、未だに出会えないのはおかしいですからね」
確かにその通りではある。お互いに正反対の方向へ移動していないとも限らないのだ。そもそも私が追いかけている声ですら、向きが合っているのかどうか分からない。
それからようやく、本が落とされている理由に行き着いた。つまりニオは、本を目印にして置いていっている。それと示唆するために、パンの欠片を残していく『ヘンゼルとグレーテル』を置いて見せたのだ。
もしかすると、私は動かない方が良いかもしれない。ニオに探してもらうよう伝えると、すぐ近くから、
「分かった」
そう声がした。驚いてそちらを見ると、壁に鏡が掛けてある。ガラス面は曇っていて、鈍い光を放っていた。
「おい」肩を叩かれ、私は驚きのあまり絶句。怯えながら顔を向けた。そこにはセトが居て、「見つかったか? ……おお、そこに居たのか」
と、私から視線を外す。彼は虚空を見つめながら破顔して、安心した様子で話しかけていた。まるでそこに誰かが居るかのように。そう振る舞っている。
「ねえ、誰と話してるの……」
私は震える唇をどうにか動かして、セトに訊ねた。
「は?」彼は呆気に取られたらしく、ややあってから、「誰って、ニオだけど」
「でも、誰も居ないじゃない」
「おいおい、ふざけてるのか」ジョークと受け取ったのか、彼は笑う。けれど私の顔色が引っ掛かったのか、真顔になり、「どうしたんだよ」
どうしたのと訊きたいのは私の方だった。彼には私に見えない誰かが見えている。もしかしてそこにニオは居るの。喉から出かかって、声にならない。言葉にしてしまえば、何か大事な物が失われてしまう予感があった。
ふと鏡が目に入る。
そこには影が二つ。
一人はセトで、もう一人は、出で立ちからして私じゃない。近付いて、良く見ようとした。
「何だよ」少しばかり怯えたようにセトが問う。
返事もせずに、私は汚れた鏡を手に取った。ガラス面を手で払い、部屋の内部を映してみる。まず先に見えて然るべき姿がどこにもない。まるで吸血鬼か、幽霊のように。私の姿がそこには無かった。代わりにニオの姿が見える。
鏡から目を離して振り返った。彼女はどこにも居ない。あるのは塵だけ。セトの足元に、それはあった。鳥肌が立って、もう一度鏡を見つめ直す。同じようにして、塵は確かにあった。そこに居るニオに向かって話しかける。けれども彼女は気付かない。
聞こえない?
恐る恐る、私は鏡の中から私自身の姿を探してみる。でも、やっぱり、どこにも居ない。ふと、足元を映してみた。あったのは塵だった。
鏡を落とす。
手から力が抜けた。
一歩後退りしたのは、距離を取るためだろう、なんて自己分析する。演者だった頃の、自分との距離感が忘れられない。この恐怖心を自分から切り離そうとしている。そうじゃない。これはどうしようもなく、私自身から生まれた感情だ。
鏡の中にも世界がある。
こちらではニオが消失していて、あちらでは私の方が消失していた。黒子も居ない。血液の流動か、体中から地鳴りのような音がする。心臓が絶えず跳ね続け、足元が覚束ない。
それでも、確認しなくては。
見たくないけれど、それでも。現実と向き合わなければ。
割れた鏡面に、ニオの姿が映る。拾う姿がシンクロし、互いに互いを見つめ合う。背面を確認し、セトの姿を認めると、今度は足元を映した。ニオの驚いた顔。多分、私と同じ表情だっただろう。手元では別の世界が展開され、そちらでは彼女が生き残った。
鏡の中で、ニオは泣いている。
否、私は一樹リセだ。二葉ニオではない。
彼女は確かに目覚めた。私はしかし、彼女が生き残った夢を見ているに過ぎない。これはきっと、甘美な夢なのだ。キセの言った通り、彼女とはもう出会えない。
ゆっくりと鏡を床に置いた。
背後から、セトの啜り泣く声がする。
「この塵は……まさか、そう言うことなのか……」
彼は膝立ちに、塵を掬い取っていた。指の隙間から溢れ落ち、床に撒かれる。厳密に、それが彼女であるかもしれない可能性は考えなかった。人体ほどの量も無かったから、多分、違うだろう。そうに違いない。そうであって欲しい、と思った。
でなければ、この喪失感を埋めることは、出来そうに無かったから。止め処なく溢れてしまう感情を、どこに向ければ良いのか、分からない。
何も、
何も。
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