XIII 死神

 車内で眠っていたからか、それとも二度と目覚めないのではないかという恐怖があるからか。目を閉じてから数十分経っても、眠れそうに無い。何度も寝返りを打って、意識が落ちるのを待った。

 私は今、生きている。

 まだ生き残っているというのは、凄く低い確率なのではないだろうか。殆ど奇跡と言っても良い。現実の外側で沢山飛んでは爆発していることを思うと、指先が震えて止まらなかった。そして、これからも生き存える保証なんてどこにもない。

 叫びたくなる衝動に駆られる。

 セトが寝息を立てていて、変に可笑しく感じられた。きっと疲れていたのだろう。そう分かってはいても、妙に笑えてくる。テンションがおかしくなっているのだ。涙が出てくる。

「ねえ、リセ、大丈夫?」

 途端に話しかけられて、私は体を震わせた。誰だろう。声は思ったよりも近かった。確認すると、相手はニオで。暗がりで見えなかったその顔が、予想よりも近いことに気が付かなかった。どうやら、泣いているところを見られたらしい。少し恥ずかしくなって、目を背ける。

「大丈夫」と取り繕っても、もう遅かったみたいだ。

「そんなわけない。強がらなくても良いよ。……怖いよね」とニオは泣きそうに言った。「でもさ、リセにはもっと何か、他のことで怖れているものがあるんじゃないの」

「どうして」それを知っているの。

 私は体を起こした。

 彼女は一度頷くと、「普通に会話をしているつもりでも、何か言葉が引っ掛かって、怯えた顔をするんだもん。ずっと気になってて、でも、聞けなかった」

 フラッシュバックするのは、駅のプラットホーム。

 私は祖父の隣に居て、

 警笛の音。

 悲鳴。

 歯噛みして、痛みを堪える。

「どうしてそんなに苦しんでいるの? 皆、貴方の幸せを願っているのに」

 ニオが私の肩を掴む。

 胸にぽっかりと穴が空いたような錯覚を思い出した。鈍い痛みが走って、息を止める。苦しくなって、大きく息を吸い込むと、微笑んでみせた。

「大丈夫」

「大丈夫って、大丈夫じゃない時に使うものだと思うよ」

 何を言っても詰め寄ってくるじゃないか、と私は苦笑しかけて、彼女の真剣な面持ちに気付いてやめる。

「ニオには関係ないことだから」と、そう突っぱねた。

 誰かに話すようなことでも無ければ、面白い話でもない。しかし尚も、

「でも、貴方は苦しんでる。話すだけでも全然違うよ。私は貴方のお陰で私のことが好きになれた。ねえ知ってる──私はずっと、誰にも理解されなかった。家の中に居ても、放ってかれてさ。あんたは変な子だね、って育てられた。学校でも同じ。皆から変だって言われて、先生からも直すように指導された。もっと協調性を、皆と同じことを、言いわけはするな、普通にしてろ、ってさ」

 彼女は懐かしそうに言った。しかし内容とは裏腹に、私を見るニオの目には輝きが生まれている。一息吐いてから、

「折り合いをつけて生きるのもありだとは思った。でもそれじゃあ、何か負けたような気がする。嫌だった。きっとこれも、台本通りの運命で、指定されたままの感情なんだろうけどね」

 更に言えば、台本とは前回の夢での出来事を記録したもの──前世の〝私〟とやらの独白でもある。だから彼女は、ずっと誰とも馴れ合わずに生きてきたのだろう。ある意味においては愚かで、ある意味においては孤高な生き方だ。

「幾ら台本があって、私らしさが何なのか分かったとしても、誰からも理解されないというのは、これはこれで辛いものがあるんだよ。贅沢かもしれないけどね」

 でもね、とニオには珍しい、慎み深い笑みを浮かべて続ける。

「貴方だけは違かった。私のことを理解しようとしてくれた。どんなことを考えて、どんなことをしていても、尊重してくれた。それだけで嬉しかった。やっと、人に受け入れられたような気がした」

 でもそれもすべて、完全幸福マニュアルが指示したことなのだ。そう考えてみてから、本当にそうなのだろうか、と省みる。台本の元となった先祖オリジナルの私は、自発的にそうしたのだ。

 それは誰かの指示ではなく。

 自分で決めて、自分で考えてのこと。

 数ある選択肢の中から、ニオと行動を共にすることを選び、理解を深めることを選び取った。それは偶然だったかもしれない。運命ではなかっただろう。しかしだからこそ、過去の私は自力でこの未来を掴み取ったのだ。

 今の私を否定することは、むかしむかしの私自身を否定することにも繋がる。きっと長年演じ続けていた所為だろう。このキャラクターにも愛着が湧いていた。

 私は、私を否定しないためにも、彼女を否定したくない。

「だから私は」と、ニオは起き上がり、隣に座った。「私を好きにさせてくれた貴方が好きよ」

 だんまりを決め込んでいたけれど、不意に涙が溢れ出そうになる。思わず彼女と目が合って、唇を噛んだ。自分を守ることを諦めて、笑みを作る。ニオは自ら弱みを見せてくれた。今度は、私の番だろう。

 ややあってから、

「私はね」

 と、そう始めた。


 私はね、幼い頃に、祖父と京都へ行ったのよ、と。


 それは確か、幼稚園のお遊戯会で参加した、演劇の数日後。だから四、五歳くらいの時になる。

 京都へ向かう電車を待つ間、私は祖父の一樹サナヲに向かって、何かしら文句を言っていた。確かそれは、演劇についてだったはず。

 オズの魔法使いを演じるにあたって、主役であるドロシーに抜擢されたのだけど、他にも六人ほどドロシー役が居た。私はこれに酷く怒っていたのを覚えている。今となっては、他の子にも役を与えてあげたいと思う気持ちも分かるし、それに幼稚園児がたった一人で最後まで演じ切れるほど体力があるわけでもない。

 だから仕方ないことだった。今になれば分かる。それに祖父も同じことを言っていたように思う。それでいて、

「リセちゃんだけでも良かったのにねえ」とおだてられた記憶もあったから、調子の良い人だ。

 京都駅を降りてから、バスに乗って、どこだったか寺へ赴く。幼稚園生が寺だなんて渋すぎ、どうして祖父に付いて行ったのか、良く覚えていない。ただ、そこで枯山水を見せられたのが印象的だった。

 寺の中に設けられた日本庭園。

 庭に敷き詰められているのは、どれもこれも石と砂ばかり。当時の私は小さかったから、その良さはわかっていなかった。もっとも、今の私が本当に理解出来ているのかというと、確証はないけれど。だから当時の私は、それを見てもつまらないとしか思えなかった。

 そんな時、

「リセちゃん」と、祖父が私を呼ぶ。「よく見てご覧。あそこには筋があるね」

 言われて見れば確かにその通り。

 奇妙な配置によって、凸凹としている。

「あれなあに」私は首を捻って、祖父を見つめた。

 祖父は演技ではなしに、慈愛に満ちた眼差しを返す。

「時が止まっているんだよ。想像してご覧。この石たちは、池なんだ。真っ平らな水溜りでも良いよ」

「池、あたしわかるよ。おじいちゃん家にあったもの」

「そうさね」彼は破顔して、「池に水滴が落ちたらどうなるかな」

「ぽちゃん、って。音がするよ」

「うん。音がするねえ。それと一緒に、水面には波紋──輪っかが広がるだろう。この凸凹はね、それを表しているんだよ」

 水を使わずに、筋を掘ることで波紋を表現する技術。そこには動きがあり、流れがあり、時間があった。まるで人生の一場面を切り取ったみたいに。

「まるで写真みたいなものを、昔の人たちはこうやって表現したんだよ。凄いだろう? まるで音が聞こえてくるみたいだ」

「ぽちゃん、って?」

「そうさね」

 私は目を瞑り、耳を澄ませた。滴の落ちた音が聞こえたような気がして、

「聞こえたよ!」と言ったのを覚えている。

 枯山水には動きがあった。何故ならそこには、物語が込められていたからだ。止まっていても、流れがあり、動きがある。それを彼は、自然な美と表現していた。

 曰く、思うに、美は二種類ある──と。

 それは計算され尽くした数学的な美と、混沌とした自然の美だ。前者には保たれた均衡による綺麗さがあるが、後者にはそれがない。アシンメトリーと表される自然の美は、かと言ってアンバランスだというわけでもなく。綺麗さの代わりに、時間という感覚が備わっているのだ。


 時間。

 万物を変化させ、否応なく終わりへと導いていくもの。

 始まりと終わりを告げるもの。

 思えば枯山水には、滴が垂れたのだろうと想起させる始まりがあった。そして、いつかはこの波紋も消えるのだろう。それと思わせる終わりを備えていた。

 物事はどれも流転し、

 諸行無常の名の下に変わり続ける。


 私はそのことをずっと、忘れていた。だから彼は、納得して演じたのだろうか。

 プラットホームで電車を待っている頃。突然、祖父は私に向かって、こう言ったのだ。

「リセちゃん。いつか、今日の意味も分かる日が来ると思う。だから、大切にして欲しい」

 誰にも聞かれないようにするかの如く、彼は小声でそっと耳打ちする。私は分かった気になって、うんうんと小刻みに頷いて。だからおもむろに開き出した防止扉にまず驚き、線路へ歩み寄ろうとする祖父に呆気に取られた。

 追いかけようと手を伸ばす。そのまま掴めていたら……と、何度そう思ったことか。私は突き放され、遠くから鳴り響く警笛に怯えて祖父を見やる。彼は穏やかな微笑を湛えたまま、向こう岸にあるプラットホームを見据えていた。その先にまるで、彼岸でもあるかのように。


 それから後は一瞬。

 軽やかに音もなく飛び降りて、

 大きな塊が勢いよく通り過ぎる。

 しばらくのうちは無音で、ゆっくりと動いて見えた。

 さながら枯山水のように。

 時間が風化してしまったようだった。


 いや、実際にそうなのだろう。そのままこの日のことは脳内に刻み込まれ、忘れられなくなったのだから。楽しかった思い出も悪夢の一つに数えられ、忘れられない。忘れられるはずがなかった。

 悲しみが先にあって、当惑が後から生まれる。

 どうしてそんなことをしたのだろう、と。その理由を突き詰めた結果が、完全幸福マニュアルだった。彼は運命に決定されていたから、その通りに動いたのだろう。そう解釈した。それから、私は台本のことを憎悪した。しかしそれ以上に、畏怖の念が増長していくのも確かだった。

 もしも運命に反発したらどうなるのだろう?

 運命に従っていたから、彼には最期に良い思い出が許されたのではないか。未来に待ち受ける悲運を避けようとしていたら、もっと酷い目に遭っていたのではないか。例えば、と想像する。

「想像してご覧」そう、言われたみたいに。

 もしも彼を助けることが出来たなら。祖父は助かっていただろうか。それでも尚、修正された物語のために殺されていただろうか。

 でも実際には、そんな優しいの世界なんてあり得ない。現実として祖父は目の前で死に、伸ばした手も届かなかった。あろうことか、打ちひしがれた私を慰めたのも、完全幸福マニュアルだった。

 何故と言って、私は運命の通りに動いたのだから。私の行動は予定されていた通り。運命だった。仕方なかった。予定調和としての免罪符だった。完全幸福マニュアルは、こんな私を否定しない。むしろ、肯定してくれた。

 肯定されてしまった。

 誰も私の罪を責めない。

 客観的に見て、幼い私を責める者など居ないだろう。それは分かっている。けれど、私は私のことを許すことなど出来なかった。

 許されてはいけないはずなのに。そう自分を責め続けたけれど、そんな毎日に、ある日唐突に虚しくなった。許されたい。と、そう思い、私は許されたくて、許されたことにしたくて。でも黒子の視線は離れない。だから台本を受け入れ、自ら運命の奴隷として振る舞うことで償おうとした。

 演じることで、あの日のことも演技だったのだと思い込もうとする、そうすれば、私はこの業から解放されると思ったから。

「そうだったんだね」大きな目を瞬かせ、ニオは飲み込んだ。「辛かったでしょう」

「辛かった」自分で認めてみて、涙が溢れる。

 ああ、なんて情けない。

 泣くと、惨めな気持ちになってしまう。涙はどこまでも自分のためにしか流れない。自己嫌悪に苛まれて、苦しくなった。

「まったく、呆れてしまいますね」キセが短く嘆息する。「貴方は自分に期待をし過ぎたんです。小さいのに助けられるわけがないでしょう。あの日のことは、私も良く覚えています。そうでしたね、貴方はあの日から、おかしくなった。まさか私が貴方を責めているんじゃないか、と考えたのには驚きましたけど。もう少し、私を信じてくれても良いのですがね」

 突き放すような言い方ではあったけど、厳かな優しさがそこにはあった。唾を飲み込んでから、

「そうね」

 と答えるにも、些かの勇気が必要だった。

 でも、私は勇気を振り絞ることが出来るだけの、力がある。それを今日、思い出せた。きっとそれが、あの日が意味することなのだろう。そう解釈した。

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