XII 吊るされた男

「着いたぞ」

 というセトの声で私は目を覚ました。今はもう夜中過ぎ。車は国立図書館の前に停められていた。眠そうなニオを起こすと、私たちは降車する。暗い街は閑散としていて、足音さえも大きく聞こえた。見渡してみても、人ひとり見当たらない。何だか不気味に感じられた。

 国立図書館は、時間のために既に閉館している。門は閉まっていて、入れそうにない。まさか乗り越えるわけにもいかないだろう。なんて思っていると、キセは当たり前のように門を開き、中へと入っていく。こちらへ振り返るなり、

「どうぞ。扉も開いてますから、お入り下さい」

 貴方の家ではないでしょう、と思ったけれど、口にしなかった。心が疲弊しているのもあって、どうも軽口を叩く気分ではない。警備員の姿はなく、彼らも目覚めてしまったのだろうか、なんて考える。果たしてそれが良いことなのか、悪いことなのか、結論するつもりは無いけれど。

 セトが扉を開けて、「レディーファーストだ」と真面目な顔をして言う。彼は精神的にタフなのか、それとも少しでも場を和ませようとしてくれているのか、分からない。それはきっとどちらでも良いこと。

 一歩踏み入れると、かなり広いことが分かった。手に取ったパンフレットから、案内図を見てみるに、建物は地下にも及んでいるらしい。目指す先は書庫であるが、そこも広大で、探し物をするにはネット環境が無ければ大変に思われた。しかし今は停電中。検索はおろか、施設内は酷く暗い。非常灯こそ点いていたが、足元ばかりを照らすので、それほど明るくはならなかった。

 通路を進んでいくうちに、段々と目が慣れてきて、周囲を観察するだけの余裕が生まれる。

「凄いところだね」とニオは首を回しながら眺めて、「どこまでも本だらけで眩暈しそう」

 彼女の言う通り、書庫と言うだけあって、棚が幾重にも並んでいた。中は書物で埋め尽くされていて、圧巻だ。本好きには堪らない場所なのだろう。独特の匂いがして、嫌いではなかった。

「管理するのも大変そうだな」セトが欠伸混じりにそう独りごちる。「本が一冊も落ちてないってことは、地震の影響も無かったらしい」

「それだけ本でぎちぎちになってるんだろうね。取り出すのも一苦労だったりして」ニオが相槌を打った。

「そもそも取り出せない、なんてことはないだろうな」

「何も読めない図書館なんて需要がありませんね」キセの言葉に、

「いやいや。ロケーションとしては良いと思うな」ニオが返す。

「ああ……景色として、ですか。なら、これが全部絵でも大差ありませんね」

「なあ、楽しい会話を邪魔して悪いんだが、俺たちが探しているのは観測点ってやつだったか? それって、どこにあるんだ」

 セトは立ち止まり、キセを見た。

「映像資料室でしょうね。ただ接続点についての情報が、どこにあるのかは分かりませんけど」

 その一言に、私は溜め息を吐きそうになる。この蔵書量から目当ての一冊を探さなければならないなんて。途方もない道のりになりそうだ。そんな私の気も知らず、こちらです、と楽しそうに案内するキセに従って、階段を上っていく。

 ふと、ニオの姿が見えなくなった。探してみると、彼女は一人、別のフロアに入ろうとしている。

「どこへ行くの、こっちだよ」と声を掛けた。

「え?」ニオは私を見て、「でも、黒子がこっちに……あれ、居ない」

 薄暗い場所だから、見間違えたのかもしれない。彼女は不思議そうに小首を傾げ、ぼんやりとしている。

「まだ寝ぼけているんじゃないの、大丈夫?」私は心配になって訊ねると、

「うーん……そうかも。しっかりしないと」とニオは、はにかんで俯いた。「でも、確かに見たんだけどなあ」

「ほら、おいで」

「うん」

 先に来て待っていたセト達に追いつくと、私は変わり映えのしない風景に苦笑いしそうになる。映像資料室には、これまた沢山のDVDやCDが並べ置かれていた。この中のどれかが、外側を覗く道標なのだろうか。

 しかしキセは首を振り、

「それならパソコン内にあるはずですよ」と、パソコンの電源を入れる。すると何と、起動した。驚いていると、彼女は自慢気に鼻を鳴らし、「無停電電源装置UPSです。停電程度で記録が無くなってはいけませんからね。取り付けられていると思っていたんですよ」

「キセちゃんったら流石ね」ニオがノリ良く応じる。

 キセはマウスを触りながら、フォルダから一つのデータファイルを探し当てた。ファイル名は【観測点】とそのまま。クリックすると、別のウインドウ画面が開かれる。

 画面に映し出されたのは、人工衛星からと思しき映像だった。遠く離れた地点から、日本大陸が見える。雲が勢いよく流れていき、それに合わせて凄まじい速度で時間がカウントされていった。数時間、数日、数ヶ月、と瞬く間に過ぎていく。恐らく外側における時間の流れ方を示しているのだろう。こんなにも違うのかと思うと、少し寒気がした。

 右下には、【カメラ1】という表記がしてある。キセはキーボードのボタンを押すと、画面は即座に切り替わった。今度はどこかの建物に設置されたカメラらしい。そこは瓦礫で埋め尽くされていて、空気中を塵が舞っている。カメラを左右に動かしてみるが、それらしいものは何も見当たらない。

 また、カメラを切り替える。

 今度は別の衛星映像。飛翔体と思われる影が空を移動しているのが見える。やがてその影がどこかの大陸に落着すると、円状に大きな跡を描いた。

 タイムカウントが流れていく。

 飛翔体はどこからかともなく現れ、一直線に伸び、やがて円となって消失。影となる。最初こそ、これは管制塔などが良く見る、航空路の映像だと考えていた。けれど、どこかに落ち着くと共に現れる大きな広がりを見るにつれ、どこか暗い想像が頭をもたげていく。不安から、

「これは──」と声にしかけて、押し黙った。

 言葉にしてしまえば、後戻り出来なくなりそうだった。皆も同じことを考えていたらしい。動揺が広がって、落ち着かなくなる。セトが唾を飲んで、

「もし仮に、外側でそんなことが起きていたとしたら、目覚めちまったやつはどうなるんだ」

「どうにも、ならないでしょうね」キセは言葉を選びながら、「その時代の運命に巻き込まれるだけでしょう。眠ったまま、何も出来ずに居るよりは、マシかもしれません」

「本当にそうか……? 或いはこのまま、ずっと眠り続けた方がマシなんじゃないか?」セトは唇を舐めてから、下唇を噛んだ。「ここでこのまま消失しちまった方が、痛みも恐怖も感じないで済むんじゃないか」

 彼の言葉によって、決定的に、私達の心に深い絶望感が根付いたように感じる。眠っていても汚染されない可能性などない。人々は理不尽に死ぬ可能性が高く、また運良く目覚めたとして、この過酷な状況からは逃れられないだろう。現実の内側でも、外側でも、どこであろうと何も変わらないのだから。

 画面の中では勢いよく月日が経っていく。それでも現実は変化しない。むしろ激化して、悪化して、止まらなくなっている。どこまで堕ちていくのだろうか。一体、いつになれば終わるのだろうか。ここからでは、何も。きっと外側に居たとしても、何も分からないだろう。

 人はいつだって世界の前では無力だった。どれだけの特別が人々を変えようとも、変えられるのは社会だけ。環境を変えるのは生物の本分ではない。生物は環境に、状況に適応し、生き残る。

 それだけなのだ……。

 どこにも逃げ場は無い。

 そう理解してしまって、泣きそうになる。

 呼吸を整えなくては。

 冷静な自分がそう訴える。

 感情に流されてはいけない。

 もうこの世界に安心なんて存在しないのだから。……いや、それは元からそうだった。何も変わっていない。社会という幻想が、安心を見せてくれていただけのこと。変わったのは社会の方だ。この世に安心なんてものは、元から存在していない。

 良い夢だった。

 良い夢から、覚めてしまった。

 後は自分たちでどうにかしなければならない。

 でも、私に何が出来ると言うのだろう?

 私の人生はいつだって悲しみに包まれていた。いつになれば、私はこの苦しみから解放されるだろう。

 分からない。

 運命なんて、未来のことなんて、誰にも。人生は誰にも平等に与えられていながら、それでいて、死という結末は不公平に襲い掛かる。

 納得のいく人生はどこに行けば見つかるのだろう。どのように生きていれば、果たして良かったのだろう。果たして正解なんてあったのだろうか?

 私は疲れて。壊れて。もう何もしたく無かった。

 溜め息を吐くと、「もう、駄目みたいね」自分でもびっくりするほど、冷たい声だった。「どうしようもないみたい」

「まだ諦めちゃ駄目だよ」

 ニオが必死に食い下がり、キセにも同意を求める。でも、何度カメラを切り替えて、安全な場所を探しても、見つからない様子だった。黒子は諦めたように首を横に動かして、目を瞑る。ニオは泣きそうになり、我慢した。

「だったら、少し休もう」ニオは肩を落として、「それが終わるまでさ。ここで待とうよ」

 時間が解決してくれる。

 本当にそうなのだろうか。しばらく誰も何も言わなかったけれど、セトが相槌を打って、首肯する。

「これは勇気ある撤退だな。それに、もう夜も深い。俺は眠らせてもらうぞ。運転のし過ぎで疲れた。そう暗い顔するなよ、一樹。寝て起きれば、何もかも済んでるはずさ」

「怖く無いの」と、かすれた声が出て、私は驚いた。

「怖い?」セトは繰り返し、「そりゃ怖いさ。勘違いしてるみたいだが、俺だってこう見えて心臓がはち切れそうなくらい、ビビってる。だがこればかりはどうにもならん。待つしか無いのさ。眠っている間なら、何が起きようと、知りようがない。だから怯えようもない。果報は寝て待つに限るってことだ。……一睡もしてないしな」

「じゃ」と彼は気楽なふうを装って、少し離れた位置で横たわる。誰がどこから持ってきたのか、人数分のブランケットのうち、一枚を掛けながら。

 私たちはどうしたものか、ニオと互いに目配せし合い、結局眠ることにした。固く冷たい地面が背中に当たり、眠れそうに無かったが、それ以上に体は疲れているらしい。小さく息を吐くと、目蓋を閉ざした。

 台本が流れてくれたなら、と頭の片隅で思う。恐怖も雑念も、少しは薄まってくれるだろうに。そんな依存体質の自分に気がついて、自己嫌悪する。

「最悪だ」と、声に出さず、呟いた。

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