XI 力
一通り話を聞き終えると、私は酷い疲労感に襲われた。キセの説明にはそれだけの真実味があり、同時に今までの人生を無化するような、辛いものがある。嘘をついているのではないか、とセトは考えたみたいだ。黒子たちが、自分には自発的に行動出来る意思や意識は無いと、そう信じてもらうために。
黒子が嘘をついていたとして。
私たちにそれを知る術はない。
疑い過ぎてはパラノイアになってしまう。が、すべて無条件に受け入れてしまう私としては、そんな対応の仕方も見習うべきかもしれない。運命に依存するということは、現実を疑わないということでもある。
彼に比べて、ニオは流石にそこまで疑っては居ないけれど、半信半疑といったふうだった。つまりここが仮想世界であると、どうも納得出来ないらしい。少なくとも今の彼女にとっては、ここが現実。故郷なのだ。仮想などではなく。だから現実の外側と言われて、面白いとは思っても、ピンと来てはないらしい。
「現実の外側には何があるの」とキセに質問して、
「現実があります」そう答えられたニオは、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしていた。
「現実って言うと、ここと同じような感じ?」
ニオが私を一瞬見たので、さあ分からないという意を込めて、首を振る。ニオはまたキセに目を戻した。
「台本社会はこの世界独特の文化、価値観ですが、他は大体同じですね。夢から目覚めた時にあまりに違うと、そのギャップに驚くあまり適応出来ず、絶滅してしまいかねませんから。と、今のは極端過ぎましたか。……なので、目覚めても夢の続きみたいなもので、そう変わらないはずですよ。そうは言っても、かなりの未来ですからね。そこに何があるかまでは我々にも分かりません」
私たちは長い時間をかけて、一瞬の夢を見ているのだ。この仮想世界では精神が圧縮されていて、こちらでの数秒は、時間の遅れにより、外側では数時間なのだという。ウラシマ効果みたいなものとキセは話した。
「ふうん……成る程ね」分かったような分かっていないような、曖昧な相槌をニオはする。「私たちは化石みたいなものなのね」
そう笑って見せたけれど、化石という言葉に胸がざわめいて、彼女のようには笑えなかった。
さて。
レウはと言えば、黒子の話を飲み込めたらしい。どんなふうに納得したのかは分からない。セトに国立図書館へ向かうべきだと提案し、彼を困らせていた。今この場には黒子含め八人居るものの、車には六人までしか乗れないからだろう。
ここにレウを置いていくわけにもいかない。代わりの交通手段はあっただろうか。大地震の直後、停電中ということもあり、公共交通機関は望めない。では自転車で追従する、とレウは言ってみせたが、車で二時間の距離だ。
「流石にそんなことはさせられない」セトは苦笑する。「しかしどうしたもんかな。姉貴の膝の上に乗せて貰うのはどうだ?」
「あ、私の上に座ると良いよ」ニオがにっこりして、レウに顔を向けた。
「えっと……」困ったように俯いた後、他の手段が見当たらなかったらしい。「それしか無さそうですね」レウは申し訳無さそうに頷くと、「お願いします」と頭を下げる。
八人全員が何とか乗車すると、東京へと向けて、走り出した。レウと彼の黒子が膝の上に座っているために、車内は窮屈だったけれど、こればかりは仕方がない。
また、運転免許を持っているのはセトだけであったから、彼にばかり任せきりなのは大変だろうと思われたが、
「黒子と交代しながらだから大丈夫だ」とのこと。意思はないが、頼めば、案外やってくれるらしい。そのため、助手席には二人のセトが陣取っている。
途中、空から黒い雨が降った。見間違いだと思ったが、そうではない。灰だ。空から灰が降り注いでいる。窓に付着すると、汚れとなって残った。お陰でフロントガラスは真っ黒に染まり、ワイパーで擦るたびに悪化する。セトは舌打ちして、
「何だってんだ」
「これも現実の外側からの影響……なのかな」ニオの言葉に、私とレウは首を捻った。
「少なくとも異変ではあると思う」私は黒ずんでいく景観に目を向けながら、そう答える。
「うん」
それきり、誰も何も言わない。
皆、疲れていたのだ。やがて車は渋滞にはまり、窓からの景色は流れなくなる。諦めて、目を瞑った。頭の中ではぐるぐると不安が渦巻いて、眠れそうにない。
レウは私の膝の上で、端末を開いていた。まだ生きている動画配信サイトを見つけて、アナウンサーである四辻アナエの配信を視聴している。彼女はテレビ局のスタジオで、緊急生放送と題してニュース速報を読み上げていた。調べてみると、他のテレビ局も報道チャンネルを通して、現状を伝えている。
曰く、各地で地震が相次いでいるが、津波の心配は無いとのこと。再度揺れる可能性もあるため、下手に動かず、待機していて欲しいと話した。
「あらら」とレウの黒子越しに画面を見つめていたニオが、視線を私に移す。「私ら動いちゃってるね」
「仕方ないだろう」セトが電子煙草を吸いながら、穏やかに言った。
アナウンサーは続けて、また先日から報告されている人体消失事件は未だ原因が分からず、調査中であると話す。この件においては、キセの説明通りならば、私たちが先に、真相へと辿り着いているわけだ。
だからと言って、優越感があるわけでもないけれど。
窓の外へ目を据えた時、レウがあっと声を漏らした。何事だろう。画面を見れば、四辻の居た場所から姿が消えていた。輪郭が溶けるようにして崩れ、塵となってその場に舞う。
傍に控えていた彼女の黒子が、頭巾を外し、代わりに着席した。
「失礼しました。では、次のニュースです」
映像はすぐに切り替わり、『しばらくお待ちください』のテロップが。
「これって……」と囁くニオの言いたいことは良く分かる。
五戸教授と同じで、たった一瞬の出来事。
瞬く間にアナウンサーが居なくなり、
黒子が代わりを務めようとする。
呆然として、誰も何も言えない。
見届けた全員が、最後部座席に座るキセを振り返って見た。
「これも、外側で何かが起きたの?」やっとのことで、私は彼女に訊く。「教えて」
「恐らくは」と肯定して、「目覚めたのでしょうね。起こされたのか、死亡したのかは判別が付きませんが。もし死因がはっきりしている場合には、それも反映されているはずです」
「反映されるの」レウが訊いた。
「例えば死因が土砂崩れなどに巻き込まれての圧死なら、同じように潰されて消えるでしょうね。他に水没による溺死なら、呼吸困難に陥ってしまうかと」
言われてみて、あることに気がつく。それはまるで、ニオから聞いた噂話のうちの一つである、酸素アレルギーと良く似ているではないか。キセも同意して、
「その異変も外的要因によってもたらされたことでしょうね」
「だったら、亡霊が蘇ったのは? あれは何が原因なの?」ニオは黒子の頭巾を弄りながら、そう問いかける。
「さあ、そこまでは。そもそも外的要因なのでしょうかね」キセははぐらかすように言い、「それよりも皆さん、お腹は空きませんか。もうこんな時間ですが」
と、示された時刻は午後九時少し前。確かに夜は何も食べていない。途中でどこかレストランに寄ろう、という話になった。だが、どこも閉店していて、仕方なくスーパーを探す。
真っ暗な店内からは、誰か買い占めたのだろう、カップ麺や缶詰の類が無くなっていた。他にもトイレ用品やら消耗品の姿が無い。陳列棚が空になっている様は、壮観だった。
私たちはパンやおにぎりなどを買い、店の入り口付近にて、簡単に食事を済ませる。
「参ったな」とセトが言ったので、気になっていると、「いや、腹が膨れて眠くなってな」
「こんな状況で、良く眠くなるね」
彼が図太いのか、それとも私が臆病に過ぎるのか。どちらだろう。
「事故らないでよ」ニオがからかい、
「逝く時は皆一緒だ」
「縁起でもない」私の口の中が酸っぱくなるようだった。「ねえ、レウ?」
首を回して彼を見据えると、その違和感に目が留まる。レウは瞳から黒い涙を流していた。頬を伝い、顎先にかけて涙の轍が出来上がる。彼はびっくりしたように涙を掌の上に受け止め、それを眺めていた。やがて頬が黒ずんでいき、蝋のように溶け始める。顔が液状化して、手元に落下。黒目がちの瞳は、インクを無くしたみたいに真っ白に。
「リ、セ」
彼は口から煙を上げて、それだけを言うと、その場にくずおれた。次第に体は炭のように真っ黒になって、それきり動かない。
すべてが終わると、時間が流れ出したように、音が聞こえるようになった。それまでの間、何もかもが遠ざかっている。事態を理解するなり、胃の中身を吐き出しそうになって、口元を手で押さえた。代わりに涙が滲む。
レウの傍らでは、彼の黒子が立ち竦み、見下ろしていた。にわかに頭巾を外したと思うと、彼はその顔を外に晒し、キセに向き直る。
「僕の役目はこれで終わりました。失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
黒子たちは頭を深々と下げて、挨拶した。レウの黒子は、黒衣を脱いで、どこかへと歩き去っていく。待って、とどうにか声を掛けると、弟の影は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「どこへ行くの」
「どこへ……列に並ぶんですよ」
そう言う彼は、私が知っている人では無くて。赤ん坊の頃から見ていたはずの弟は、他人に見えた。面影はもうどこにもない。急速に頭が冷めていく。
「列って」と訊ねる私の声は小さくなっていた。
「貴方も見たでしょう。亡霊の行列を。あそこに並ぶんです。それではさようなら、リセさん」
私は震え出す体を何とか押し込めながら、拳を握り、立ち去る彼をただ見守った。見守ることしか出来なかった。
「さようなら」
別れはいつも唐突だけど、挨拶出来ただけでも良かったのかもしれない。そう思わなければ、心が折れてしまいそうだった。現実の外側で、一体何が起きたのだろう。疑問が湧くと共に、想像しそうになったので、考えるのをやめた。
広くなった車に戻り、私たちは無言のドライブに興じる。最悪の気分だった。立て続けに人の死を目にして、普通で居られるはずがない。楽観的なニオさえも苦しそうに目を伏せている。セトは、ひたすらに自分の義務を果たそうとするかのように、無心でハンドルを操っていた。
頭が重い。
自然と目蓋が閉じられて、暗闇の世界に身を預ける。
私はもう、疲れた。
それなのに、人生が続く限り、世界が存続する限り、容赦無く、冷酷に、現実は進行していく。生まれた以上、舞台から降りることは出来ないのだ。逃げようと、耐え忍んでいようと、何も変わらない。ならば、立ち向かった方が良いのだろう。理不尽な境遇を排するために、完全幸福マニュアルが作られたように。
私は、この理不尽をどうにかしなければならない。
けれど今は、ゆっくりと休みたかった。
微睡みに誘われて、私は一時の安穏に身を投げる。
そこでなら、痛みは感じないだろうから。
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