VII 戦車

 会話が噛み合わないことがストレスとなったのか、それともそんな折に食べたピザが原因なのか、私は気分が悪くなった。頭が重くなり、視界がぐるぐると回転し始めたので、ニオに断りを入れて、寝に入る。彼女は心配して、水を持ってきてくれた。本当は礼を言いたかったが、今はそれほど余裕がない。

 目の痙攣が治るように祈って、目を瞑る。

 気持ちが悪くなり、嫌な汗が噴き出した。

 僅かに目を開けて、現在時刻を確かめる。

 夕刻になっていた。

 世界が揺れている。

 自律神経だとか、三半規管にも影響があるのかもしれない。そう思っていると、私自身に原因があるわけではないとすぐに分かった。というのも、端末が緊急アラームを鳴らし、平坦な女声で、『地震です』と告げたから。程なくして大きな揺れが発生し、家具がメトロノームのように傾いていく。

 私は立ち上がろうとして、よろめき、キセに支えられた。一瞥して、すぐに目を離す。不安から鼓動が強く脈打った。自分の足でどうにか立つ。廊下から騒がしい足音が近づいてきた。扉から、ニオが勢いよく現れては、

「テーブルの下!」と叫ぶ。

 手を引かれ、私はまだ優れない気分に鞭打って、テーブルの下に収まる彼女に倣った。黒子たちはそのまま、部屋に立ち尽くして入ろうとしない。どこで見聞きしたのか、忘れてしまったけれど、神様は倒れた者に殴り掛かると言う。天災は忘れた頃にやって来て、泣いている者にも容赦しない。

 真剣な眼差しで外を見ていたニオが、私の背中に手を置いて、ゆっくりと撫でるようにさすった。冷たくなっていた体に温もりが感じられて、微かだが、体調が快方に向かった気がする。頷くと、彼女はにっこりと笑い、「大丈夫だから」と言った。

 やかて揺れも収まると、私達は恐る恐るテーブルから這い出る。端末によれば、震度は五強となかなかのもの。

「タイミングが悪かったね」ニオの発言に、私は溜め息混じりに首肯した。「でも、早朝に起こされるよりはマシかな」

「そうね」

 相槌を打った瞬間、停電。部屋は一瞬にして真っ暗になった。黒子はその黒衣によって姿を眩ます。私達は顔を見合わせ、

「タイミングが悪い」直後、ニオの端末が鳴らされた。心臓が跳ね上がり、身構えたけれど、「セトからだった」と聞いて安心する。

「どうしたって?」

「停電だけど大丈夫かって」優しいな、とそう思ったが、二の句には、「冷蔵庫の中身」と続いたらしい。「こう言う時、普通は私達の安否を確認するよねえ」

 ニオが呆れたように言う。

 私は笑おうとして、


 えっと、

 あれ?

 私は……

 言葉が出てこない。


 急速に頭がクリアになって、笑えなくなる。今までにあった靄が突如晴れて、何か物足りない。寂しさが募った。何かが私から消えたのだ、と考えてみて、指先が震え出す。

 その答えが分かり、私は振り返った。失ったのは安心感。つまり──完全幸福マニュアルのこと。空間に浮かんでいるはずの文字列が非表示になり、私の未来を指示するものがなくなったのだった。自我も、台詞も、だんまりを決め込んでいる。

 もしかすると、何もするな、何も喋るな、ということかもしれない。そう解釈し、その通りにしたけれど、ニオは異なる理解をしたみたいだ。彼女はまず、

「台本が無くなった?」と現状を確認し、私の肩を揺らす。お陰で眩暈が吹き返し、やめてくれるよう、手で制した。それから彼女は、「ねぇ、イオ。何が起こってるの」と、自分の黒子に対し、訊ねてみせる。

 どうして名前を知っているのだろう、と驚いた。驚いてから、キセが自ら名前を明かしたように、彼女も聞かされたのかもしれない。と、独り合点する。

 それにしても。

 こんな状況で良くも冒険出来るものだ。本来ならこの独白さえも危険だろうに、異常事態とは言え、黒子に話しかけてみせる。そんな行動力のあるニオのことが、今は少しだけ羨ましい。

 イオと呼ばれた黒子は、僅かに首を捻った。

「分かりません。現在、状況を確認中です」と、事務的に対応する。

 しかし気を惹かれたのは、その声がニオと非常に似通っていたこと。まるで双子みたいに。瓜二つだった。

 まさか、と考えてみて、すぐに打ち消す。意味の無いことだと判断した。

 出し抜けにニオの端末が鳴らされて、また私の心臓が縮み上がる。我ながら情け無い。小動物では無いのだから、何故こんなにも弱々しいのか。その理由は、恐らく、知っている。拠り所を失くしたからだ。

「電車が止まったってさ」ニオが苦笑するような、呆れたような顔で言う。「歩いて帰ってくるって」

「うん」私はかろうじて返事が出来た。

 しかし嫌な汗が止まらない。

「ここからだと、距離はどれくらいかな。こういう時、車の運転が出来たら良いのにって思うよ」

「ですねえ」と暗がりでキセが笑う。「それにしても、リセ。顔が真っ青ですよ」彼女は私をその場に座らせると、続けて、「緊急事態とは言え、今は台本もありません。返事してらっしゃって平気ですよ」

 何が平気なのだろう、と意識のどこかで考える。リセと呼ばれた時、それが私だと何故か思えなかった。台本が切り離されて、それまでの私らしさと乖離したらしい。私は一樹リセを演じる誰かさんであって、誰でも無いのだ。だからリセと呼ばれて、戸惑っている。

 何故?

 私は確かにリセと名付けられ、一樹リセとして育ち、生きてきた。それなのに、今や自分が一樹リセであることに違和感を抱いている。

 私は誰?

 私は一樹リセだ。

 けれどこの心の声はそうじゃない。

 この声は、この自我は、私によって生み出されている。私が作り出している。一樹リセという人物は、台本によって演出されていた。私は演者。役者であって、キャラクターではない。

 一樹リセは、つまり、キャラクターなのだ。でも、それでいて確かに私なのだろう。

 気持ちが悪い。

 乖離している。

 この声は誰だ?

 非常にぼんやりとした、自我に似た何か。

 私の自我?

 本当に?

 私に自我なんてあるのだろうか?

「リセ! リセ!」と叫ぶ声がする。どこか遠くからだ。朧気に聞こえてくる声に耳を傾けて、ようやく声の主がニオだと分かる。しかし、どうして叫んでいるのか、分からない。

「ゆっくりと息をしてください」今度はキセの声がする。次第に体の感覚が戻ってきて、背中をさする手の感触が分かった。「深呼吸するんです。ゆっくりですよ、ゆっくりと息を吸って、ゆっくり吐いて」

 指示の通りに、私は深呼吸する。戸惑いが落ち着くと同時に、指示されなければ何も出来ない自分に嫌悪感を抱いた。私は演者として、どうしようもないほど、優等生だったのだろう。優等生とは、誰かの決めた評価に、どれだけ従えるか。その程度が高い者のことを言う。つまり、操り人形なのだ。ただ、黒子に操られているだけの。

 私は完全幸福マニュアルに適応していた。でもだからこそ、拠り所を失った時、自由に振る舞えない。自分というものが無いから。自分というものの意思が無いから。だから、私は、けれど、私は。

 ああ、これがそうなのか、と思う。

 運命に抵抗した、その罰なのだ。

 ニオからおもむろに「大丈夫?」と訊かれて、

「大丈夫」と答える。

「突然だったもんね。怖かったよね」

 と、そう優しく言ってくれたのだけど、私は曖昧に答えるしか無かった。ニオは私の抱える恐怖が何かは知らない。きっと、台本から引き剥がされたことが恐ろしいと思っているのだろう。そしてそれは、大体合っていた。

 けれどもっと根底にあるのは、秩序から追い出されたという認識にある。運命という名の選択肢から除外された今、ここにあるのは、途方もない自由だけ。あらゆる思想や行動に満ち溢れている混沌、理不尽を許容する世界だ。

 人が消え、

 亡霊が蘇り、

 異なるものが見えていようと、

 この先の指示があるならこれも運命だと割り切れる。けれどどうだろう? 未来は不確定で、何が起こるか分からない。誰が何を考えているのか分からず、私は何をするべきか分からず、何も、何も。何もかもが〝わからない〟で満ち満ちている。

 まるで宇宙に投げ出されたみたいだ。

 どうしようもなく心許ない。

「大丈夫」私はもう一度呟く。「ありがとう。もう大丈夫だから」そう微笑んで見せた。

「本当に?」ニオの大きな瞳に、薄く涙が溢れている。

「心配かけてごめんなさい」この台詞は誰が発しているのだろう、と内心では首を傾げながら、「こう言うの、泣きっ面に蜂って言うんだろうね」

 精一杯のジョークには誰も笑わなかった。

「貴方が大丈夫と言うなら、大丈夫ということにしましょう」キセが鼻息混じりに言う。「ええとですねえ……今、台本が止まってしまっていますが、恐らく停電が原因だと思います。復旧されるまでお待ちください」

 イオが後を引き継ぎ、「台本が流れ始めましたら、引き続き指示の通り──」そこで区切り、ニオを見つめた。「出来るだけ、ほどほどに、可能な限り、演じてくださいね」

 その過保護な配慮振りに、ニオは苦笑して頷いた。次いで、また端末が震え出す。彼女はポケットから取り出すと、ライトを浴びた。真っ白な顔を部屋に浮かばせながら、

「セトだ」一瞬だけこちらを見て言う。声に明るさが戻っていた。「もうすぐ家に着くって。早かったね。あ、レンタサイクル。それにしても、まだ授業がある時間なのに、地震で休講したの?」私は口を曲げて見せると、ニオも真似をする。「本当に大学に行ったのかなあ。怪しい……」

「こんな事態ですからね」とキセは明るい口調で、「彼が居てくれるなら心強いはずです」

「はずって?」イオが訊いた。

「不適当なことを言いました」とキセ。

「あら」

 二人の黒子による、ボケた会話に、ニオがくすくすと笑う。私はと言えば、笑おうにも笑えず、ただ時間の過ぎ去るのを待つばかり。ややあって、セトが手荷物を持って帰ってきた。それは、ニオが頼んでいたパンである。彼はくたびれた様子で靴を脱ぎ、開口一番に、

「大変だった」

「お疲れ様ぁ」ニオが応じる。

「厄日だな。断っておくが、一応大学には行ったぞ。ただ道に迷ったんだな、多分」セトは言いわけがましく喋ると、頭を掻いた。それにしても、と話題を切り替え、「ニュースによると、各地でも大荒れらしい。大震災ってわけだ、全く」私達は何も言えなかった。反応が無いことに不満を覚えたのか、「聞いて驚くなよ。街中で亡霊を見つけた」

 セトは私達を交互に見て、むっとして言った。全身が恐怖に疼くのを我慢して、話の続きを待つ。曰く、亡霊は一人だけでは無かったらしい。

「百鬼夜行だ」とそれを彼は表現した。黒子を携えずに、彼らによる「天国だか地獄だかへ続く行列が出来ているんだ」とのこと。

「どうしてそれが亡霊だとわかったの」と訊ねれば、

「一目でわかる。体が妙な具合に曲がってたり、色々あって」

 想像してしまって気分が悪くなり、私は俯いた。

「百鬼夜行って、どこに続いてるの」ニオは興味を惹かれたらしい。

「さあな。でも、碌な場所じゃ無いだろう」

「碌でも無い場所って?」ニオは更に突っ込んで訊いた。

 セトはえっ、と驚きの声を漏らして、慌てて腕を組む。目を瞑り、

「例えば──天国でも地獄でもない彼岸だ。辺獄か、それとも、虚無かな」

「虚無……」私は繰り返した。

「ああ」セトは何気ない様子で腕組みを解くと、「いわば永遠の無だな」

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