VI 恋人
黒子の夢を見て、目が覚めた。
あれからもう一度眠ったらしい。我ながら良く眠れたものだ。布団から起き上がり、しばらくぼうっとする。少しばかり寝過ぎたかもしれない。全身が少々怠い。気怠さも昨日から引き続き残ってはいたけれど、ホットミルクの時間が、僅かに和らげてくれていた。
ニオには感謝しなければならない。
黒子は既に起きている。気になって見つめると、「おはよう」と親しげに挨拶された。彼女はいつも早起きで、私よりも先に目覚めている。悲しいかな、私は確かに優等生で、挨拶も許可されなければ出来ない。だから、聞こえなかった振りをして、思案に浸った。
今朝のことは夢だったような気がする。黒子が顔を見せるなんて、あり得ないことなのだから。夢としか思えない。けれど、目覚めてしまうと、現実感というものが押し寄せて、あれが夢ではないことを自覚させられる。耳は、目は、確かに事実を知ってしまったのだ。
彼女は自らキセと名乗っている。容貌は私に同じ。双子なのだろうか? ならば、黒子は双子の片割れを取り上げて、そのように育てているのかもしれない。主役は一つだけ。だから舞台に立てるのはどちらか一人のみ。選ばれなかった方は、黒子として、影に生きることになるわけだ。
そう考えてみて、首を捻る。
本当に?
全員に一人の黒子が付いている。と、そう仮定すると、全員が双子として生まれていなければならない。それに、その選抜がいつ行われたのか、記憶に無かった。
または、と別の仮説を立てる。
偶然、私の場合が双子であっただけで、やはり普通は他人が担当するのではないか。だとしたら、しかし、何だろう。問題はそこでは無い。
気になるのは、キセ自身のこと。
どうして彼女は瓜二つなのか。
どうして顔を明かしたのか。
そして、これも付け加える必要があるだろう。彼女だけは、何故かしら、私語が多かった。これは一体、どうしてなのだろう? まさか黒子の振りをした偽物──と考えてから、この考えを一蹴した。
顔を洗うために立ち上がると、キセを一瞥してから、部屋を後にする。廊下に出ると物音が聞こえたので、そちらへ目を配ったところ、セトの姿が見えた。彼は一時限目の授業に出席するため、準備をしているところだった。服装は昨日と同じ。同種のものを何枚も持っているのだろうか。そう言えば季節毎に変わらない格好だったのを思い出す。ニオはと思い、探したけれど、まだ起きていないようだ。
彼と簡単な朝の挨拶をするなり、
「じゃあ」とセトは、玄関先へ向かう。
「彼女さんに声は掛けないの」と訊けば、
肩を竦め、「あいつの寝覚めの悪さは一級品だ」と含み笑い。
たまに彼女が教室で眠っているのを見たことがある。曰く、『起きたら眠くなるんだよね』とのこと。
「多分、ナルコレプシーだな。それとも夜更かしのし過ぎか」
「どう考えても後者ね」
「起きたら、通学したと言っといてくれ」彼は扉を開け、半身をこちらに向けた。
「わかった。行ってらっしゃい」
「うん」背を向けてから、何を思ったか、「ああそうだ」と振り返る。「今日は一日ここに居ると良い。ニオも休むとさ」
「え、どうして」
「一人じゃ寂しいだろ、ってさ。急なバカンスだ、一樹も楽しめよ」
軽く手を挙げてから、彼は颯爽と出て行った。見届けてから、ニオが起き出し、
「あれ、行っちゃった?」子どものように目を擦りながら言う。
「行っちゃったよ」
「残念だや」寝惚けているのか、わざと崩しているのか、分からない。
「ザイオン人みたいね」と、突っ込みを入れた。
ザイオン人って何?
「お土産を頼みたかったのに。立つ鳥跡を濁さずって感じ」ニオが言い、
「どこが?」私は首を傾げた。
「あのね、最近出来た美味しいパン屋があるの」ニオは欠伸すると、私の質問に答えず、目を閉じたまま続ける。「そこのクロワッサンが気になっててね。是非に食べたいよなぁー」
「後で連絡しなさい」
苦笑して、私は洗面所を勧めた。彼女は顔を洗っても眠たそうにしている。パジャマ姿のままソファに寄り掛かり、二度寝に洒落込もうとして見えた。私は反対に、顔を冷水で塗りたくった瞬間、スイッチが切り替わるように目が覚める。このまま髪を
なので、ソファの隣に座り、ゆったりとした朝を過ごす。一度休んでしまうと、体がそのように変化してしまうらしい。腰が重くなり、何をするにも億劫になった。これが適応か、と思う。黒子が執事だったら良いのに。そう思い、キセを見る。
黒頭巾越しに目が合ったような気がして、少し気まずくなり、目を逸らした。そんな私の気も知らず、
「優雅な朝ですね」と話しかけてくる。「こんな日には、紅茶が良いのではないでしょうか」
「こんな優雅な朝にはお紅茶飲みたいな」
ニオが繰り返すように言った。薄く開けられた瞳には、期待が込められている。つまり、作ってくれ、ということ。仕方なく重い腰を上げると、
「茶葉はあるの?」と訊いた。
「多分ある」
「多分? まあ、良いや。場所はどこなの?」
彼女は欠伸混じりに、「キッチンには立ち入ったことないから、分からなーい」
「一回も?」
キッチンからリビングを覗くと、ニオが小さく頷いたのが見える。と、キセが颯爽と現れて、一番下の引き出しを開けてみせた。中には紅茶と思しき茶葉の入った缶がある。封は開けられていたが、使われた形跡がない。それに、ぞんざいな扱いだったが、恐らく高級品。貰い物だろうか?
私は説明通りに茶を淹れると、リビングへ持って行った。
ソファでは、ニオがうたた寝している。ニオの黒子は、眠くないのか、起きたまま。傍に付き添っている。怒るのも起こすのも気分ではない。テーブルに着き、鳥の囀りを聴きながら、一人朝を楽しんだ。
カップから漂う、爽やかな香りを感じながら、ふと疑問に思う。私は黒子達が眠っている姿を見たことがない。確かに黒子が眠っている間に、演者たる私たちが勝手を起こしてしまいかねないわけで、目を離すことは出来ないのだろう。かと言って、彼らも人間なのだ。眠らないわけにもいかない。
陰で交代でもしているのなら話は別だが、限りなく可能性は低いだろう。もしかすると、眠っていないのかもしれない。短絡的な結論だ。けれど、この考えこそが、最も真実に近い気がする。根拠はない。全くの直感だった。
端末に、セトから連絡があったので、確認する。朝食の分は冷蔵庫に入っているという。また、昼は何か頼むと良い、とのこと。冷蔵庫を開けてみると、彼の手作りと思われるサンドイッチが入っていた。至れり尽くせりという言葉を連想して、頭を振る。ニオが甘やかされているのは、しかし、確実だろうと思った。
リビングに戻り、自分の分を頬張りながら、静かな時間を過ごす。食べ終えたおよそ三分後に、ニオは本格的に起き出してきて、
「あっ、サンドイッチだ」と、見れば分かることを元気良く言った。「リセはもう食べちゃった?」
「ううん。これから」意味もなくそう嘯く。
「嘘ですよ、さっきまでぱくぱく食べてましたから」
キセが横から割って入り、顔の前に片手を持ってきて、『全然違う』のジェスチャーをした。ニオは吹き出して、些か冷めた紅茶に手を付ける。
「せっかくだし、何か映画観ようよ。あ、ドラマでも良いね」とニオは言い、端末をモニターに向けた。「どう言うのが良い?」
映画か、或いはドラマを観ることは確定しているらしい。今は清々しい心持ちなので、それに見合ったものを彼女に頼む。ニオは難しい顔で作品を選び、これはどうだろう、と十シーズンもある海外ドラマを付けた。
所々に古臭さはある。しかし長く続くだけはあって、質の高い、面白い話だった。途中、ニオが「次の台詞は何でしょうゲームしよう」と提案。
「何をするの」と訊いてみれば、
「登場人物の次の台詞を、口調も込みで、予想するんだよ」とのこと。
しかし私たちには台本がある。出来レースだった。
昼頃にはドラマも休憩して、テレビを見る。楽しそうな番組は見当たらない。チャンネルをランダムに切り替えて、ワイドショー番組にする。
昼食はニオと相談して、ピザになった。配達して貰い、届いた頃に、『駅での人身事故が──』という声を聞き、テレビに視線を向ける。
場所は昨日、私たちが居た駅。映像では、数人の警察官が、防止扉の手前から線路を覗き込んでいる。そこへアナウンサーが、被害者が一樹サナヲという老人であったこと。現場から逃走した、二人組の女性を捜索しているとのことを語った。
私は呆然としていて、背後にニオが立っていたことにも気が付けなかった。彼女は突然に私の肩を持ち、
「どうしたの」と話しかけてきたので、驚いてしまう。「そんなにびっくりした?」
「いや……うん。びっくりした」恐る恐る首を回し、ニオを見ると、「ねえ、今の見てた?」と、モニターを指差した。
「気象予報でしょう? 明日、雪降るんだねえ。雪ってさ、見る分には好きだけど、道が凍ったりして、足が滑るから怖いんだなあ」
緊張感の無い、間延びした声がこだまする。ニュースが切り替わり、彼女は見逃してしまったのか、と私はモニターへ顔を戻したけれど、内容は何も変わっていない。未だ人身事故の話題で、コメンテーターたちが盛り上がっている。
何故私達の話が噛み合わないのか、分からなかった。
ニオは画面を見つめたまま、
「明後日まで降るかもしれないんだね。でも、予報って結構外れるからなぁ」朗らかに笑い、怪訝な表情を浮かべているだろう私を見て、顔を曇らせる。「どうしたの?」
「いや」私は彼女から目線を外し、何か言おうとしてみたけれど、言葉が思いつかなかった。だからまた、「いや」と繰り返すだけ。
ニオの様子を鑑みるに、ふざけているわけでは無いらしい。本当に分かっていないのだ。だからこそ、怖くなる。
思えば、飛び降りた人物を女性と見紛っていた。認識がすれ違っている。
これも異変の一つなのだろうか。地震は多くなり、人は消失し、死者が蘇ったと思えば、話がすれ違う。異変には違いない。でも、果たして何が原因なのだろう? そもそも、原因なんてあるのだろうか。
最近になって、世界はおかしくなっている。
またあの頃のように怯えそうになったけれど、どうにか押し込んで、笑顔を作った。
「雪には良い思い出が無くてね。ほら、ピザを食べよう。冷めちゃうよ。それに早くドラマの続きが観たいな」
訝しみながらもニオは首肯して、テーブルにピザを並べていく。私は額に滲む汗を拭いながら、ちらりとキセを横目に見た。黒子はしかし、何も言わない。いつものように雄弁に、何かしら話してくれたなら良かったのに。どうしてこのタイミングに限って、黙っているのだろう。
沈黙に耐えきれず、私は、食卓へと逃げ込んだ。日常に紛れ込めば、恐怖から逃れられるような気がして。
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