V 教皇

 車に避難してから、ひとまず二人の家へと向かうことになった。そこは郊外のマンション。駅から少し離れた場所にある。リビングに通された私は、ホットココアを勧められ、ソファに座りながら一口貰った。まろやかな優しさに包まれたような味に、安堵感を覚える。

 セトへの説明は、ニオがしてくれた。一部、お爺さんのことを、お婆さんと表現していたのだけは、違うと指摘する。彼は聴き終えると、

「そうか」と、一言。麦茶を飲み、目を伏せながら、「何もしてないんだろ。なら逃げる必要は無かったんじゃないか?」と言った。

「じゃあどうするって言うの」ニオが訊ねる。

「どうするも何も、面倒かもしれんが、駅員と確認作業するのがベストなんじゃないか」セトは言い退けた後、「だって無実なんだろ」

 彼の言う通りではあったかもしれない。私が触れたかどうかは、背中に付いた指紋から割り出せる。もしも我慢して現場検証に応じていれば、こうも苦しい気分には陥ってなかっただろうか?

 いや、それはきっと。

 変わらなかったに違いない。

「そうだけどさ」ニオは頬を膨らませて、「もう少し配慮してくれても良いんじゃないの」

「え?」彼は驚いたように目を剥いた。

「だってそうじゃない。言い方に優しさが無いもの」彼女は唇を尖らせた後、私に顔を向けて、「ねー」と同意を求める。

「そうね……」私は曖昧に頷き、「でも、やっぱりあそこには居られなかった」ことは間違いない。どうしてもそれは無理だった。「ねえ三月、ニオ。彼は、私の祖父だった。もう何年も前に死んでいたはずなのに、生きていて、怖かった」

 まるで無感情な眼差しを思い出して、私はあの日のことを思い出しそうになる。冷たいあの目に射竦められて、指先が震えてしまいそうになった。

 セト達はびっくりしたまま固まって、互いにゆっくりと顔を見合わせる。それから彼の方は、乾いた笑みを浮かべ、頭を掻いた。

「ふざけてるわけじゃ──」セトは諦めたように、「無さそうだな」そう呟くなり立ち上がって、ベランダへ歩き出す。「少し煙草ハーモニカ吸ってくる」

 ハーモニカとは、電子煙草の一種だといつか教えてくれたことがあった。彼はベランダの手摺に身を預け、暗い空を見上げている。ニオから息を吸う音がして、私は目を戻した。

「そう言えば、さ。亡霊の蘇りが起きている、って私言ったよね。もしかして、リセのお祖父さんも?」

 死者の蘇り。

 言葉だけでは現実味の無いそれも、目の前で起きてしまえば話は別だ。彼は間違いなくその人で、本当ならばイエスと言うべきだろう。けれど、

「分からない」何者なのか、断言出来るわけではない。だから私は頭を振って、「でも、見間違いなんかじゃなかった」

「そうね。そこは、疑ってないかな。すぐ隣だったし、見間違えようがないと思う。でも普通、こんなこと起きないよね」

「そりゃ普通じゃないことが起きていますからね」どんよりとした空気とは相反する調子で、私の黒子が軽口を言う。「蘇りなんて、ぞっとしませんね」

「ぞっとすると思うけど」ニオは呟いた。

「あら」と黒子が言う。「何だか伝わっていない雰囲気……」彼女は私へ振り返ると、「後でお話があります。真夜中辺りが良いですねぇ」と、そう耳打ちした。

 私はびっくりして、仰反ると、黒子はまた自らの職務に徹する。つまり押し黙った。ベランダからセトが戻ってくると、

「まあ、何かあるなら、連絡が来るだろう。祖父を見たショックで、あの場に居られなかった、とか何とか言えば、多少疑われはしても、許されるだろうな」と彼は言い、「それはともかく。腹は減ってないか?」

「空いたなり」ニオが元気なく手を挙げる。

「良し。飯にしよう」言うや否やキッチンに立ち、「何が食べたい? というか、今は何があったっけな……」

 有り合わせの食料から、鍋が振る舞われた。お通夜のように静寂が支配する食事中、私の黒子が口喧しく喋り続ける。我慢ならなくなって、テレビを付けたけれど、やはり気は紛れない。チャンネルを切り替えて、ニュース番組を選んではみたものの、人身事故の報道はされていなかった。気になって、ネットで検索をかけてみたが、結果は同じ。ニュースにはなっていなかった。

 拍子抜けしたような、安心したような、妙な心持ちで夜の終わりを待つ。連絡も無く、そうか、連絡先を教えていないので探しているのか、と思い当たった。私が誰なのか、特定中なのかもしれない。

 お腹が満たされたお陰なのか、不思議に気分も落ち着くと、シャワーを借りることにした。この時だけは、黒子からも解放される。ようやく一人きりになれる時間だった。水を浴びながら、深く静かに考える。

 私は一体、何をしているのだろうか。

 どうすれば良かったのか。

 これから先どうなるのか。

 それから……何が起きていたのだろう?

 と、不思議になった。教授は消え、居ないはずの祖父が現れる。この他にも、世界では種々様々な異変が起こっているらしい。ニオの話も、あながち冗談では無いのかもしれない。酸素アレルギーだとか、自然災害だとか。身の回りから遠ざかっていた、あらゆる災禍が、急に降り注ぎ始めている。

 そう言えば。

 台本は尚も流れ続けている。運命に見放されたわけではないのだろうか。答えは見つからない。

 大きく息を吐き、シャワーを止めた。

 浴室を出ると、傍に置かれたタオルと着替えを貰う。黒子が出迎えるなり、小さく首を傾けては、

「どうです? 落ち着きましたか……」

 私は一瞬だけ目を合わせると、どう反応したものか迷い、目蓋を閉ざす。ストレッチのために、頭を前へ、僅かに倒した。決して返事をしたわけでは無い。項垂れたのに近いだろう。

 あらあら、と黒子は肩を竦め、スライド式の戸を開けてくれた。リビングでは、ニオがソファに座って、テレビを視聴している。目が合うと、にっこりと笑った。セトは自室に篭って、記事を書いていると言う。

「今日は泊まっていってよ」

「でも、お世話になってばかりじゃ居られないし……」

 とは言うものの、自分が既に、彼女の服を着ていることを思い出した。台本上の台詞と格好とが、ちぐはぐになっている。

「まあまあそう言わずにさ。滅多にこんな日は来ないんだし。女子会だ、ガールズトークしよ」ニオはそれから一拍置くと、「何歳までガールなんだろ」腕を組んで傾げた。

「それは考えちゃ駄目」

 私は本音混じりに釘を刺す。ニオは吹き出した。彼女はソファの隣を手で叩き、座るよう勧めてくれたので、その通りにする。深夜まで話題は尽きなかった。

「そろそろ寝ろよ」

 と、ホットミルクをお供にしたガールズトークに、終止符を打ったのはセトだった。時計を確認すると夜も更けていて。そろそろお開きにしようという段になり、

「私の部屋を使って」と、ニオは欠伸を噛み殺して提案した。「私は彼氏さんの部屋で寝るから」

 彼氏さんという言い方が妙に面白かったのは、恐らく時間帯の所為だろう。私は時間だとか、空間だとかが作る雰囲気の影響を受けやすいのかもしれない。素直にありがとうと伝えると、部屋へ赴いた。

 内装は、銀河のように秩序と混沌とが綯い交ぜになった、どう頑張っても言葉に言い表せないもの。例えば彼女のファッションが、融合色といったコンセプトがあるのに対し、こちらには意味やテーマなど何も無い。良く言えばありのままの自然体。悪く言うなら、

汚部屋おべやですね」黒子の言葉が虚空を漂った。「……泥棒でも入ったみたいですねえ。これなら物の一つや二つ、盗まれても仕方ないのでは」

 黒子を睨み、私は明かりを消す。見えなければ、荒らされた形跡も無いに等しい。布団に入り、毛布を被る。一連の奇妙な事案に巻き込まれていたからか、或いは混沌の渦中で横になったからか、妙に興奮していた。眠れるかどうか不安だったけれど、意識が落ちたのは気絶するように一瞬のことで。

 ふと目が覚めた時、はっと瞳を開ける。

 時刻は午前三時。

 中途半端な時間に、私は起きてしまった。

 傍に気配を感じ、暗闇に目を向ける。

 影が揺れて、驚きに体が凍った。

 恐怖を感じたけれど、

「起きましたか」そう言ったのは黒子で、胸を撫で下ろす。「こんな時間に申し訳ありませんね。でも、どうしても、誰にも知られたくなかったので」

 どうしたのだろう、と寝惚けた頭で考えた。話があると持ち掛けられたことを思い出し、私は上体を起こす。肩にかかる自身の髪を撫で払って、眼前に立つ黒子を見上げた。

 黒子の輪郭は闇に溶けていて、ふとした瞬間に見えなくなる。まるで空気を震わすかのように彼女は喉を鳴らし、

「私が見えますか」

 学校で習った教義曰く。

 黒子の言葉に反応してはならない。私たち演者とは違い、あくまでも運命の中には関わらないからだ。繰り返すまでもなく、そんなことは知っている。私は台本に従い、何もしなかった。黒子は短く嘆息する。

「まあ良いです。無視されるのはちょっと悲しいですが、まあ、いつもと同じではありますものね。何と言っても、貴方は優等生。または、運命の下の奴隷」

 挑発のつもりだったのかもしれない。けれど、そんなことは言われずとも知っている。怒るでも自嘲するでもない私に、反応を求めることを、彼女は諦めたみたいだった。

「これではどちらが黒子ですか、分かりませんね」

 白い手がぼうっと浮かび、黒頭巾にかけられる。それはゆっくりと捲られ、素顔が露わになった。

 太陽に晒されず、真っ白な顔。

 それを見て、私は途方もなく困惑した。

 その姿は紛れもなく私。

 まるで鏡のように、同じ顔貌をしている。

 黒子ほくろの位置も、歯並びも。

 すべてが一致していた。

「私が何者か、気になりますか?」彼女は楽しそうに微笑む。「名前はキセと言います。しかしそれ以上は、私から教えることは致しません。もし知りたいのでしたら、『貴方は何者か』とご質問下さい。もっとも、優等生の貴方に、それが出来ますかどうか……」

 ふふふ、とキセは笑った。

「それでは、おやすみなさい」

 彼女はそう締め括り、頭巾を被り直す。また影と同化して、見えなくなった。

 台本は私に眠るよう迫ったけれど、眠れる気がしない。とは言え運命は、こうなることも織り込み済みみたいだった。

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