IV 皇帝

 セトが帰った後、私たちはカフェでそのままランチを食べた。私はサンドイッチを、ニオはオムライスを頂く。この間は事件のことをさっぱり忘れ、主にニオの聞き役になった。

 どこのお店のパンが美味しい、誰々が大学を辞めた、彼と彼女とが付き合ったらしい。という類の話だ。しかし見ていて分かるけれど、私もニオも、あまり人の噂には興味がないらしい。だから空虚な顔で話題を提供されるのだが、とても反応に困る。

 確かに、現在話題になっている映画といった、中には面白いと思える話もあったけれど、それだけ。殆どは実のある話ではない。あまり話は入らなかった。というのは、また別の理由もあってのこと。ここまで私たちの性質と台本の内容とが乖離したことはなかったので、内心、驚いていたのだ。

 しかし、こうも驚いていることを台本自身が自覚的であるからには、何かしらの理由があってのことだろう。台本は、いわば宗教や占いと同じ。すべての物事に意味を与えてくれる。従っていれば、何も悪いことはない。とは言え、つまらない時間ではあった。

 店を出る頃には、雨は止んでいたので、傘を持って歩く。ニオは雨合羽を着ながら、水溜りをわざわざ踏んで歩いた。幼児のすることだと眉を顰めたが、彼女のキャラクターに合っていたので、諦める。

「そう言えばさ」前で踊るように歩いていたニオが、おもむろに振り返り、「映画のチケットあるんだけど、観る?」

 彼女は濡れた手で、ポケットの中を弄った。チケットを取り、こちらに見せる。タイトルを拝見するまでもなく、それが会話に出ていたものと一致していることは知っていた。時間にして、上映されるまでには数十分の余裕があるため、充分間に合うだろう。

「いくらなんでも唐突過ぎるよ」とは言ったものの、予知していたのだから、これは全くの嘘。「良いよ。気になってたし、観に行こう」

「布教した甲斐があったね」

 そうだったのか。何気ない談笑のつもりが、実は私の気を引こうとしていたのである。してやられたな、と首に手を当て、控えめに笑ってみせた。

 映画館へ赴くと、私は烏龍茶を。ニオはココアとポップコーンを頼んだ。チケットを係員に渡し、部屋へ通されると、座席に座り、しばらく待つ。これから観るのは、いわゆる短編映画と呼ばれるもの。およそ四十分ほどで物語が収まるという。

 私とニオは横並びに、その両端に黒子たちが着席した。他の客たちも同様で、館内は演者と黒子の半々となる。

 照明が暗くなり、室内が少し冷え始めた。

 スクリーンが光り出す。

 内容は、無実の罪で警察に追われる男が、ただひたすらに逃げるだけ。道中では、様々な障害によって、男の周囲で多くの被害が生まれていく。執念深く追い詰めてくる警察官に、心が折れかけてしまう中、男は遂に真相へ到達。協力者の手引きで国外へ亡命する……という話だった。

 はっきり言って中身はない。

「アトラクションムービーだったね」ニオの発言が答えだ。「凄く楽しかったなあ」

「そうだね」

 外は黄昏時。

 黄色い空の下には、道を歩く人々の顔が真っ黒に染められていて、影と同化したがって見える。ゆったりと歩いていたから、後ろから観客たちが通り過ぎていった。

「面白かったね」という意見には共感する。けれど、「どんでん返しが凄かった」と聞いて、私達は首を捻った。

「そうだった?」そんな箇所は無かったはず。ニオに訊ねれば、

「さあ……」と両手を広げて、オーバーにリアクション。「そんなところあったっけ?」

「多分、別の映画を観たんだね」

 お互いにそう恍けていたので、二人で吹き出し、くすくすと笑い合った。雨上がりの駅から改札を抜け、プラットホームまで向かう。中途半端な時間だからだろうか、とても空いていた。冷たい、湿気混じりの空気が肌にまとわりつき、少し気持ち悪い。傘を片手に、空いた手をポケットに入れる。

 黄色い線の後ろ側、防止扉の前で待っていると、不意に隣から音がした。何だろうと気になって確認すると、目の前で扉が開け放たれる。

 喉が詰まり、息が出来なくなった。

 これはあの日と同じ。

 きっとエラーでも起きたのだろう。

 何も起きない。

 大丈夫、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。

 胸に手を当て、息を整える。

「ねえ」ニオが少し焦ったように、小さく叫んだ。「あれ見て」

 彼女が向けた視線の先には、電光掲示板がある。オレンジ色の文字で、『まもなく電車が来ます』と、まるで読ませる気がないほど目紛しく早く表示された。かと思えば、表記が変わり、無意味な文字列へと変化する。

 何かがおかしい。そう思っていると、今度は意味のある文章に変わった。

『一樹リセは彼を助けることが出来ませんでした』

 そう、何度も繰り返されていく。

「何これ……」私は呟き、呆気に取られていると、ふと、すぐ傍に気配を感じた。

 開いた防止扉の前に、老人が立っている。顔は向こうを向いていて、表情が掴めない。彼は一歩踏み出し、黄色い線を跨ぐと、線路へと移動していく。遠くから、警笛が鳴らされた。電車が近づいている。老人は、更に一歩。道から踏み外そうとしていた。

 途端に、何を思ったか、彼は私を見る。

 あの日のことを忘れたことがなかった。

 忘れようがない。


『一樹リセは彼を助けることが出来ませんでした。一樹リセは彼を助けることが出来ませんでした』


 西陽が差して、彼の顔を黒く染める。

 しかし彼には影が無かった。

 角度を変え、顔立ちがはっきりして、

 私は、

 ああ──

 息が出来ない。

 目が離せなくなった。

 胸が痛い。

 脈拍が早まっている。

 手汗が滲み、

 頭から血が下がっていく。

 寒い。

 体が震え出した。

 どうして。

 どうして、ここに?

 耳鳴りがして、音が聞こえない。

 すべてがゆっくりと動いて見える。

 それはまるで、

 時が止まりかけているみたいに、

 壊れかけているみたいだった。

 一樹サナヲ。それが彼、私の祖父の名前だった。祖父はこちらを向くと、無表情のまま線路へ身を投げる。手を伸ばしかけて、引っ込めた。電車が緩やかに止まり、呼吸が楽になると、私の世界は再び時が動き出す。

「ねえ、やばいよ!」ニオが叫んでいるらしい。

 水中に居るみたいに、音がどこか遠くから聞こえる。すべてが非現実に思えた。頭脳が理解を拒んでいる。騒ぎを聞きつけたらしい、複数人の駅員が飛び出してきては、線路内を覗き込もうとした。そのうち、一人が私達に向かって、何やら話しかける。

 けれど、それもどこか遠い。

 私には関係ないことのように思われた。

「違います!」ニオは必死になって、何かを訴えている。「リセはそんなことしていません!」

 何を話しているのだろうと思い、私は彼女に目を向けた。駅員もまた、怒ったように、

「皆見ているんです」と言う。

 私を置いて、話が進んでいる。気になって、

「何のこと……」

「リセがお婆さんを突き飛ばしたのを見たって」

 ニオが泣きそうに言った。

「え?」私は間抜けな返事をすると、急速に頭が回転を始める。「えっと……」理解しようとして、やっぱり、分からない。

「だから」と駅員が青ざめた顔で、「貴方、お婆さんを押したでしょ!」

「そんな、まさか……。やってませんよ、何も」

「見ていたんですから」

 話が通じない。怖くなって、ニオを見つめる。

「そうですよ、何もやってませんでしたって! ずっと隣に居たんですから」彼女が私の袖を掴みながら訴えた。「見間違えたんでしょう!」

 駅員は困ったように仲間を見やる。相手は、線路から顔を離すと、膝立ちの格好で首を振った。

「見えませんね。ここからじゃ、よく分からない」

「そうか……」駅員は私達に顔を戻すなり、「ちょっと、来てくれますか」

 ニオの怯えた目が合い、私は唾を飲み込んだ。混乱している所為か、事情が飲み込めていない。震える眼差しを台本へと注ぐ。私は駅員に頷いてみせ、分かりましたと答える。それが、次の工程だった。

 私は指示通り、ゆっくりと、首を振る。筋肉が緊張のために固まって、小さく骨が鳴った。それから一言。台詞を吐き出すために、乾いた唇を舐めて、息を吸う。

「逃げましょう」

 そう言ったのは、私の黒子だった。

 驚く間も無く、ニオが弾けるように私の袖を引っ張り、駆けていく。止めるべきだというのに、黒子は台本に従おうとはせず、むしろ私の背中を押すのだった。

「ちょっと!」駅員は困ったように叫び、追いかけてくる。

 困っているのは私の方だと叫んでやりたかったけれど、それ以上に、現状を把握するので手一杯だった。

 階段を駆け上り、改札口へ。定期券をかざすも、認証されず、通してもらえない。周囲からはじろじろと視線が集まった。ニオは意を決したように、私へと一瞥をくれた後、改札を乗り越える。

「早くこっちに!」とニオは言うが、台本に違反してはいけないはずだ。一人でも運命に逆らってしまえば、周囲を取り巻く大多数の人に迷惑をかけてしまう。たった一人の行動が異なれば、運命は捻じ曲がり、歪められ、幸福から遠ざかるのだ。ならば私は大人しく、駅員に捕まらなければならない。

 踵を返して、駅員の元へ行こうとすると、黒子がそれを邪魔する。戸惑っていると、黒子が「さあ」と改札を出るようけしかけてくるので、仕方なく乗り越えた。

 かなりまずいことをしている。

 そんな自覚が恐怖を呼び起こさせた。

 私はただ、不幸から遠ざかっていたい。マイナスではなく、限りなくゼロに近い位置で安心していたいのだ。プラスになる必要はない。ゼロで良い。ゼロの人生で満足出来るのだから。

 駅を出て、ニオに連れられながら、当て所なく外を駆け回る。背後からは、駅員達の姿が見えた。大の大人が、必死の形相で追いかけてくるのは非常に恐ろしい。

「どうしよう!」とニオが叫んだ。「どうしようどうしようどうしよう!」

「分からないよ」

 その声が彼女に届くか分からない。白い息が溢れた。

 既に私のすべき行いからは外れている。台本を捨てて、舞台から降りた演者はどうなるのだろうか。私はもう、運命から外れてしまっている。この道の先にはもう、安心なんてない。それを思うと、とても怖かった。

 ニオの元へ、私の黒子が並び、

「カフェへ戻ってください」と告げる。「何事もなかったように振る舞い、セトに連絡するのです」

 ニオは目を見開くと、強く頷いた。

「行くよ、リセ──」

 台詞なんて与えられていなかった私には、どう答えれば良いのか分からない。何より、声が出なかった。ただ親と逸れた幼子のように、小さく震えているばかりで、今にも涙が溢れ出そうになるのを必死に堪えていた。

 手筈通りにカフェへ戻り、テーブル席へと案内される。水を貰い、一息吐くと、また体が震え出した。ニオは端末を弄っている。恐らくセトに連絡しているのだ。窓から駅員の姿が見えた時には生きた心地がしなかったけれど、咄嗟に黒子が遮ってくれて、見えなくなる。

 とにかく精神が不安定になっていた。

 だって、そうでしょう?

 死んだはずの人が目の前に立っていたら、誰だって混乱する。祖父は十六年前に死去していた。それなのに、それなのに。あの時の、記憶と同じ姿で現れた。それも、あろうことか、駅のホームに。

 叫びたくなって、泣きたくなって、心細くなって、あまりの怖さから、面白くも無いのに、笑いそうになる。情緒が乱れているな、と自覚した。それでいて、コントロールが利かない。

 水を口に含み、喉を通らなかった。無理をして飲み込むと、喉との摩擦が生じて痛くなる。

 ややあって、一台の車が窓の外に見えた。ニオは顔を上げて、私を見つめる。

「もう大丈夫。彼が来てくれた」

 私達は店を出ると、車に乗り込んだ。セトは戸惑っていたけれど、何も聞かずに走らせる。

「行き先はうちで良いよな」と彼は助手席に座るニオに訊ねた。彼女の同意を得ると、「何があったか、後で教えて貰うからな」

 バックミラー越しに見つめられて、私は目を瞑り、そっと頷く。眩暈が、した。

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