III 女帝
朝から重たい気分だった。
教授の消失が、思った以上にダメージだったのかもしれない。心の奥底に閉じ込めていた苦しみが触発されて、吐息も部屋に沈殿していく。未だベッドから離れられなかった。
カーテンを開け、窓の外を見れば、雨が降っている。心模様と天気が通じている。どちらが先にあるのか、それはわからない。恐らく、世界より先に人間が存在することはないだろうから、私の方が後だ。要するに天候の影響を受けて、こんな風にナーバスになっている、ということ。
頭が上がらないので、仕方なく枕に乗せていると、約束した予定時刻が近づいた。
「怠惰ですねぇ」黒子は介護するように私の上体を起こすと、「ささ、用意してくださいな。今日もイベントが目白押しですよう」
「あああ、面倒くさいな……」と、思わず独りごちる。「雨音は好きだけど、濡れるのは苦手」
「寒いですからねぇ」間延びした口調で、黒子は応じた。
会話したつもりはない。これはあくまでもお互いに独り言を言っているだけ。私はルールを破るつもりはないし、むしろ重んじている。だから、勝手気ままなこの黒子のことは苦手だ。けれど、ニオ共々憎からず思っている。
どうしてだろうか。
わからない。
ニオから連絡があり、端末を開いた。もう駅に着いたらしい。今からでは十数分ほどかかるはずだ。少し遅れる、と返信しておく。
「どうも心に体が追いつかないみたいなの」と送ると、
「老いついたってこと?」
「やかましい」私は苦笑して、端末をポケットに仕舞った。
笑ったら、少しばかり元気が出たらしい。軽くストレッチしてから、顔を洗い、それからジーンズに履き替える。メイクは……今日は良い。白いセーターを着込むと、ニオにお勧めされた深紫色のコートを羽織り、ショルダーポーチを手にして家を出た。
傘を差すと、黒子が後をついて歩いてくる。彼女はいつも、傘を差さない。必要ないようだ。風邪をひいてしまいかねないと思うのだが、体調を崩したところを見たことがない。何故だろう? 黒子七不思議のひとつだった。他は知らない。
電車に揺られること十分。改札口を抜けると、光の三原色を形にしたような、水玉模様の雨合羽に身を包んでいるニオと、ビニール傘を持った、こちらはいつも同じ黒コートなセトの二人が既に居る。会話しているようだ。
近づくと、彼らは私に気付き、
「よお」セトは軽く手を挙げ、
「じゃあ行こっか」ニオは、にっと口角を上げる。
駅を出ると、更に雨足が強まった。セトが苦々しい顔で空を見上げる。食堂へ行く予定だったが、変更し、行きつけのお店まで足を運ぶことになった。私とニオが前に並んで歩き、セトは一歩後ろから、黙って付いてくる。ちら、と表情を窺ったけれど、幼馴染だから分かった。今日は機嫌が良い。
「さっきまで、どっちが雨人間なのかって話をしてたの」隣でニオが言った。「私はほら、晴れ女だからさ。問題なのはリセかセトなんだよね」
「俺は雨男じゃないぞ」
「じゃあ私かな?」
「いや。リセは霧のイメージ」
「何それ」私は吹き出す。「もやもやしてるってこと?」
「ううん。掴みどころがない。ミステリアスってこと」
悪い気はしなかった。
「褒め言葉として受け取ろうかな」
「そのつもりで言ったの」
「なら俺しか居ないじゃねえか。雨人間」セトが突っ込みを入れる。
「妖怪雨人間」おどろおどろしくニオが囁いた。「実写で映画決定。売れる?」
「売れないな」彼は笑い混じりに否定する。「客層はどこなんだ」
どうでも良いことだったけれど、「実写化したってことは、原作は人気だったんだね」と、言わずには居られなかった。もしかしたら、本当に老いたのかもしれない。
ニオはくすっと笑った。
カフェテリアに入ると、案内されるままに着席し、ほっと一息吐く。ニオが脱いだ光の三原色の下から、今度は真っ黒なブレザーが現れた。下は白のチノパンと、上下で三原色から導かれる二つの融合色がまとめられている。靴はグレーのスニーカーで、今度はそちらに上下の融合色を持ってきていた。
「色と光の三原色ね」耳打ちすると、彼女は何も言わず、嬉しそうに頷く。
セトはおもむろにメニューを開き、
「お勧めはあるか?」
「ストロベリーフラペチーノ」と、黒子。
「ブラックコーヒーが無難じゃないかな」
黒子の発言のどこかが可笑しかったのか、ニオがくすくすと、子どものように笑いながら言った。
「そうだな」彼は同意する。
メニューを見つめながら、今回は何を選ぼうか、と迷った。しかし迷うタイプではないので、
「私はこの、抹茶ラテにしようかな」なんてすぐに決まる。「アイスとビスケットが乗ってて、美味しそう」
「あ、私も私も」
「甘そうだ」セトが苦い顔をさせた。
「乙女はスイートな時間がお好みなの。ね、リセ」
「ああ、まあ、そうだね」これ以上ない曖昧な返事に、
「ああまあそう。縮めて『甘そう』だね」ニオはこれ以下もない、くだらない冗句を入れる。「これでセトの台詞に原点回帰」
「何言ってるの?」
すっかり困った私は、ニオをじっと見つめてやった。彼女は照れたように応じる。セトにも理解出来なかったらしい。
それから店員を呼び、各々の注文をすると、珍しいことに、やってくるまでさほど時間が掛からなかった。求めたものにありつけた喜びを舌先で味わう。社会の素晴らしさとは、ある程度までは、求不得苦をお金で退けられることにあるのかもしれない。
カップに注がれたブラックホールを、セトは胃に運びながら、「それにしても良かったよ」と机に向かって微笑んだ。
「何が?」と訊ねれば、
彼はカップの底を見据えたままに、
「昨日、あんなことがあっただろう?」
「ああ……」思い出して、反射的に目を閉じる。「そうだった」
「そのことなんだけど、私にも教えて。記事を読んでも良く分からなくてさ」ニオは端末をこちらに向けながら言った。
「おい」セトは戸惑った様子でニオを睨む。
どういうことだろう、と不思議になった。二人は同棲しているのだから、当然、話をしているだろう。そう思って訊いてみれば、彼女は「違う」の一点張り。曰く、画面を見ろという。
訝しみながらも従うと、記事の題名の下に、小さく『瀬戸ミツキ』と記事作成者の名前が記されていた。
「これ、誰だか分かる?」ニオが悪戯っぽく笑う。
セトはかき氷を食べた後みたいに、頭を押さえていた。
「まさか」と言った直後、視界には答えが明示される。「どうなの、ミツキさん?」
「最悪だ」苦笑いするセトの声には確かに感情が込もっていた。「恥ずかしい……」
「恥ずかしがることなんて無いと思うけど」
「いや。偽名を使っている、とバレたのは結構恥ずかしいぞ。心に来るものがある。ニオに見つかった時も、かなりキツいものがあった」
「ちなみに、それが馴れ初めでもあるんだよねえ」
同じサークルに参加していた際に、姓と名を入れ替えると本人と同名であることから直感したらしい。ニオは初対面の彼に、「本人ですか?」と訊ねた。
「あれは痺れたね……」セトは頭を掻く。「人前でマスクを剥がされた思いだった。全く、デリカシーってものが無いんだな」
怒ったような言い方で、彼はくすくすと笑った。それがニオの笑い方と似通っていて、何だか微笑ましくなる。
「まさかここまで来て、惚気話を聞かされるとはね」
「あー、すまん。元はと言えば、全部ニオがだなあ」
「あれ、私の所為? じゃあお詫びにその抹茶ラテをご馳走するよ……セトが」
主語が遅れて定義される。
「日本語って面白いわね」私はレシートをセトの前に追いやると、「ご馳走様。それで、本題は事件についてだったよね?」
「いや。事件のことなら、俺から説明してある。今回はただ、
空になったカップをテーブルから、セトはちら、とこちらに目を向けた。ニオは大きく首を縦に振り、
「心配だったからね。でも、それも大丈夫そうで安心」
私は些かびっくりして、
「ありがとう。皆のお陰で心が晴れました」
そう言ったものの、外は土砂降りだったけれど。
「そうか。そりゃ良かった。じゃあ、ここを奢る代わりに、事件をどう見るか、貴重なご意見をお伺いしたいね」
「それは記者として?」私は気になって訊ねる。
「俺は記者じゃない」という返答も、台本に書いてあった通り。「ただのバイトだ。それで、どう思う?」
「どう思う、って言われてもね……」
腕を組み、考えてみるにも取っ掛かりがない。情報不足のため、不定である。そう伝えると、つまらないと言われた。
「例えば教授も含めて、一連の消失事件は、人為的なものだと思うか?」
「誰かが人を塵に変えたって言うの?」
「水をワインにするよりは簡単だろう」
「比較対象が間違ってますね」黒子が楽しそうに横から割って入る。「ぶどうがあれば可能かと」
「それは人為的な力なの?」ニオが更に指摘して、「アブダクションって言われた方が納得するなり」
「何? あぶだく、しょんって」知らない言葉に、私は繰り返した。
「アブダクション。ほら、牛がUFOに攫われて、悠然と浮かび上がっていくの、あるでしょう」
「あるね。もーもー言って空を飛ぶやつだ」
「そんな牧歌的なやつだったか?」セトが笑う。
「それの名前だよ」
ニオの答えに、へえ、と私は相槌。
「じゃあ犯人は宇宙人だって?」セトの問いに、
「地球人だって宇宙人だよ」とニオ。
「何なのこれ。禅問答?」
「まあ、これがニオの仮説ってわけだな。犯人はUFO。で、俺の仮説だが──例えば趣向を凝らしたマジックだった、というのは?」
「まさか……」突飛な仮説だったので、笑いそうになった。「どういうこと? 何でそんなことをしたの」
「動機なんてない。皆、台本の指示に従っただけさ。問題なのは『何故』じゃない。『どうやって』だ」
「それを考えてどうなるの?」私は疑問を口にする。
「少しでも分かれば役立つだろう。防止策だって生まれるし、記事にもなる」
「それが理由ね?」
「否定はしないが肯定もしない。一番は好奇心かな」
「私も気になるな」ニオも同調した。「最近、妙に多いし……」
「集団消失とかあったしな。人も黒子も、一斉に消えたんだ」セトは店員を呼び、お代わりを頼んだ。「ケーキも頼もうか?」
「わかった」私はカップを口に、根負けした。店員が立ち去るのを見届けて、「例えば昨日の件だけど、教授が消えることにしたとして、どうやったか。一つ思い付いたのは、黒子に成り済ますということ」
「ほう」セトは眉を片方持ち上げて、「続けてくれ」
「教授が消えた後、あの場には塵と黒子が一人残されていたでしょう」セトは頷き、ニオはぽかんとしている。そうだったのだ、と説明してから、「あの場から出て行くことは、事実上困難だったと思うの。なら、残されるのは黒子になる方法だけ」
「どこか隠れる場所があったかもしれない」
セトは反論してそう言ったけれど、
「だったら、警察がすぐに見つけるでしょう」
「床が開くようになっていたかも」ニオが手を挙げて仮説を唱えた。
「そんな仕掛けがあったら、一目で分かるんじゃないかな」
私が一蹴したので、彼女はしょぼくれた目をしてセトを見る。
「残念だけど」と、セトは首をゆるく振った。「続けて」
「続けようにも、私が思い付いたのはここまでだから」抹茶ラテを一口啜ると、「具体的な手法はさっぱり。衆人環視の中、黒子衣装に早着替えするなんて、ね。どう考えても有り得ない。現実的じゃない」
「ずっと俺たちが見ていたもんな」彼は溜め息を吐いた。「そんな様子は無かった。あれは確かに五戸教授で、しかも一瞬で溶けたんだ」
そう。その通り。
私は鼻息を漏らし、静かに頷く。
「じゃあさ、人形だったんじゃないの?」ニオは言った。「蝋人形なの。だから、一瞬で溶けた」
「授業をやり終えてから? そりゃまた器用な人形だ」セト口元を綻ばせて、「俺たちは近くから見ていたが、あれは本物だったぞ」
それから彼は、店員が新たに運んできたカップを一気に飲み干すと、レシートを掴んで立ち上がる。
「あれ、帰っちゃうの?」ニオは目を丸くした。「まだまだ話そうよ」
と、予定にないアドリブ。セトは慣れた様子で「すまない」と謝ると、「アドリブには対応出来なくてな」そう言って立ち去る。
少しだけ、セトのことを見直した。
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