II 女教皇
ニオと別れてから、私はそのまま自宅まで直帰した。電車に揺られている間は、端末から動画投稿サービスを開き、適当な映像を流し見する。背後から幽霊のような黒子の視線を感じたが、気にしない。
家に戻ってからは、音楽をかけながら複数のレポート課題に取り組んだ。必要な情報のために、ネットから大学のサーバへと繋ぎ、記録にアクセスする。文献を読み漁り、どのように書いていくか唸りながら、構想を練った。本文を書き始めてから終えるまでに数時間が経っていて、簡単な食事の後、シャワーを浴びて、ベッドに潜り込む。
この間、やはり黒子は私に話しかけてきた。普段から反応していないというのに、まめな人である。
目を瞑り、長いこと毛布を被っていたけれど、どうにも眠れず、欲に負けて端末に手を伸ばした。ああ、これで明日は疲れ目だ、と嘆き混じりに。
黒子も横に腰掛けて、画面を見つめる。何かしら言ってやりたいが、仕方ないので受け入れた。
ネットで検索したのは、何を思ったか、巷で話題になっている事件。例の消失について。概要は、セトが言っていたような情報と大体合致している。人が突然消えてしまう。ただ、その消え方にはバリエーションがあって、例えば「集団」で「塵」になるなんて具合に、小さな差異があった。
大枠では同じなのだろうその事件群を、個々に目を向けて、より詳細に調べていくと、幾つかに分類できる。演者が消えるパターン。黒子の方が消えるパターン。それに、何も残さず消えたり、塵のように痕跡だけを残して居なくなるパターンだ。
「うひゃあ、黒子も消えちゃうんですねえ。ぞっとします」とは、黒子の独り言。
私は薄目を開けて、黒子を見る。こういう時、ひとりでなくて良かった。寂しさのみならず、孤独感によって恐怖に苛まれることもない。
それより気になるのは、何が起きているのだろう、ということ。考えてみたけれど、不気味なだけで何もわからない。そもそも実際に発生したのだろうか。そこまで疑うつもりはないけれど、どうしても事件を情報としてでしか理解出来ず、他人事のように感じられる。
何せ、あまりにも理不尽なのだ。原因もなく起こり、意味のわからない現象として形になる。しかもどこで起きるのかさえ不明瞭。これではひとつとして掴みどころがない。恐れようにも恐れられないのだ。それでいて気味が悪いのも確かで、僅かに身震いすると、端末を手放して寝に入る。
「おやすみなさい」私は誰にともなく呟いた。
「おやすみなさい」木霊のように、黒子が返す。
消失事件のことなど、考えるだけ無駄なのだ。
そうして、夢を見るまでもなく、朝が訪れる。
朝食はヨーグルトに薄く蜂蜜を塗ったトースト。それからコーヒーを一杯。すべて
駅のホームには、あまり良い思い出がない。幼少期に嫌なことがあったのだ。今でも鮮明に覚えていて、時折り涙が出そうになる。軽く目眩を覚えながら、電車を待った。時間には余裕がある。音楽を聴きながら、別のことに意識を向けた。
やって来た電車に揺られ、駅に着き、待ち合わせたわけでもないのにセトと会う。今日は彼と同じ授業があった。他愛もない会話をしながら、並んで大教室まで向かう。道中の話題は、自然と集団消失事件へと移り変わった。
彼の「集団消失事件、知ってるか」の一言で。
目に掛かる前髪に息を吹きかけながら、セトは訊く。これは演技プランにはない、彼特有の個性だろう。
「流石にね。この近くであったんでしょう?」
「らしい。一度見に行ってみたんだが──」
「見にって、現場へ?」遮るようにして訊ねる、と指示があった。私は半ば呆れた調子を作り、「試験も近いのに……」
「悪かったな。俺は試験より事件の方が好きなんだ」彼は口を歪め、笑みを浮かべる。
目を細め、「で、何か見つかったの」
「いや。規制線貼られてて、何も見えなかった」セトは私から目を逸らし、「……だから、報道された以上のことは知らんよ」
「潜って行ってしまえば良いのに」とは私の黒子。「ねえ?」と、セトの黒子に話しかけた。
セトの黒子は黙ったまま、首を僅かに傾げる。それが少し可笑しかった。
大学の入口に設置された改札を通り、第三校舎へ。エレベーターに乗り込むと、五階まで上がる。私たちはそれから、大教室の中へ入り、前の席を選んで座った。確かにそう指示されたからではあったけれど、別に理由がある。第一に私たちは完全幸福マニュアルが定めたキャラクター通り真面目な性格であり、第二に講師が五戸ゲンジ教授だったから。つまり、前の席でないと聴こえない。
壁に掛けられた大きなプロジェクターを横目に、私は鞄を机に置く。セトも同じように、鞄を机に乗せると、中から筆記用具を取り出した。
「で、さっきの話だが」
「何の話をしてたっけ?」
無論、忘れてなどいない。流石に嘘くさかっただろうか。
セトは笑いを噛み殺しながら、「集団消失」
「ああ」と頷く。「そうだったね。それで?」
話の続きを促しながら、必要な道具を机上に並べ、鞄を足元に置いた。教授はまだ現れない。
「今朝の記事は見たか? 消えた奴の中には、うちの学生も居たらしい。駅内のコンビニから、客が突然六人も消えたんだと」
「集団って言うから、もっと多いのかと思った」
「いや、六人でも充分に多いだろう」
「そうかもけれどしれないけどさ、集団というほどではないよね」
「じゃあ他に適切な表現があったか?」彼は眉を顰めてそう訊いた。
「どうだろう……六人といえば、グループとか」
「和訳したら同じだろ。どちらも集団じゃないか」
「でもイメージとしてはこっちの方が合うと思うな。同じ意味でも、少し変えるだけで受け取り方が変わってくるし……」
返事がなく、ふと顔を上げると、セトは驚いたような顔をしている。一瞬、目が合ったと思うと、彼は我を取り戻したらしい。控えめに、それでいて面白そうに笑うと、
「確かにそうかもな」と同意する。「今のは有益だった」
「そう?」あまりピンとこない。
「まあ、な。あまり深く考えんでくれ。おい、先生来たぞ」
五戸教授はからくり人形のように、小股に歩いて現れた。それを見てくすくすと笑う声がする。少しばかり嫌になって、私はむっとした。教授は気にしていない様子で前に立つと、コンピュータを立ち上げる。モニターの内容が、プロジェクターに映し出されたと同時に、チャイムが鳴った。
「それでは、前回の続きから……」蚊の鳴るような声で言う。
基礎内容とは異なり、些か応用されているためか、教科書とは違う説明もあり、メモが捗った。プロジェクターには要点だけがまとめられている。後ろの席からカメラの音がして、
「撮影はやめてください」
教授はマイクを手にしてそう告げた。教室内には廊下からの足音が良く聞こえる。
「お通夜みてえだな」セトが片手を口元に、囁くように言った。「撮影くらい良いだろう」
否定はしない。私は肩を竦めて、
「端末アレルギーなのかも」と応じる。
私を真似るように、彼も肩を竦めた。
授業も終わり、チャイムと共に溜息を吐く。今になって睡魔は現れ、目蓋が重くなった。隣ではセトが小さく欠伸している。学生たちが会話を始め、騒がしくなった。支度の早い者は、もう教室から出て行ってしまっている。
私は教科書を鞄に戻そうとして、何気なく前を見た。と、音もなく。教授が塵になって溶け、消えた。
「え……」
「おやおや」とは、黒子の感動詞。
教室が静まった。
皆、同じものを見ただろうか。
感電したみたいに体が固まる。
今やそこにあるべき姿がない。
彼は、地面に、散乱していた。
人は塵だから、塵になる──
「いつか、今日の意味も分かる日が来ると思う」
トラウマが蘇り、目眩する。
何も考えないよう目を瞑った。
息が上手く出来ない。嫌な汗が噴き出す。
「おい」第一声をあげたのは、隣のセトだった。「大丈夫か?」
唾を飲み込むと、目を瞑り、十秒数えて深呼吸する。脈拍が落ち着くと、
「大丈夫。ありがとう。今の、何だったの?」
「まさかとは思うが、消失事件か?」
事件という言葉が出た所為か、教室内は再び騒がしくなり、数人が前へ躍り出る。セトもまた、ふらっと野次馬たちに混ざった。
どこからか、「誰か呼んでこないと」という意見が聞こえた。誰のものかは知らない。女性だった。
「動かない方が良くない?」
「でも誰かは呼んだ方が」
「警察が良いんじゃないか」
私の周りでそんな話が進み、やがて一人が本当に通報する。程なくして二人の警察官が到着した。彼らは塵を見やり、
「ここに、本当に居たのですね?」と、質問する。
私たちは皆、首を縦に振り、そうだと認めた。警察官たちは相談すると、一人が無線機に何やら話しかける。もう一人の方は、私たちに向かって、
「わかりました。では、ここで何があったのか、詳しく教えてください」
事情聴取のために、この後予定された授業には出られなくなった。憂鬱になりかけたが、大学から連絡があり、すべての授業が休講となったらしい。事件を受けて、学生たちの身の安全を守るためであるという。
その後、大勢の捜査員たちが押しかけてきた。一体何を調べるものか、塵を採取したりしている。私たちは刑事からの質問に答えて、連絡先を教えた後に解放された。駆けつけてから数十分ほどの時間である。
二人で駅まで戻ることになった。道中、セトは思案気に押し黙ったまま喋らない。信号が青になるのを待つ間、端末からニオに、目の前で教授が塵になったことを報告する。すぐに返信が送られ、
「本当に!?」
「本当に」
「わお。詳しく教えて」
「後でね」
と、短いやり取りになった。駅前でセトと別れ、プラットホームで電車を待っていると、ニオから連絡が。
「明日、大学来る?」
「どうだろう」
「良かったら、食堂で集まって、話しない? 詳しく聞きたいし」
電車がやって来たが、学生たちで混んでいる。見送ると、諦めて近くの席に腰掛けた。画面に目を戻す。
「わかった。じゃあ、十二時に」
私は端末を仕舞い、天を仰いだ。疲れているのかもしれない。目の前で、人が死んだのだ。
……本当に?
本当に、彼は亡くなったのだろうか。
頭が重い。プラットホームという環境も良くないのだろう。
明日、ニオ達と話せば気が紛れるかもしれない。小さく息を吐くと、椅子から立ち上がり、黄色い線より後ろに並んだ。
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