I 魔術師
黒子は演者──というのは私たちのような一般人──ひとりにつき、ひとり付いている。だから街中では至るところに散見された。けれど彼らは文字通り黒子なので、居ないものとして扱わなければいけない。何故といって、彼らはあくまでも裏方。その役目は、主に完全幸福マニュアルの指示に合わせて、事態を円滑に進めること。つまり、運命を予定通りに現実化してみせることなのだ。
例えばクローゼットからパステルイエローのワンピースを着るよう命じられたとする。この時、探しても探しても見つからない場合があるかもしれない。こんな不測の事態に対処するのが、黒子なのだ。予め目に付きやすい位置に持ってきてくれたり、或いは位置を教えてくれたりして補助してくれる。
イメージとしては執事やメイドに近いだろうか。無視すべき存在に返事をしてしまう、ニオのような自由な
そんな彼ら黒子は、物心つく前から隣に立ち、静かに見守ってくれていた。殆ど専任という形で、例外なく交代されることはない。学校で得た知識によると、彼らは公務員なのだという。その割にプライベートな時間もなく、仕事内容もかなりハードだ。付きっきりで人に尽くすわけだから、給料も高くないと割に合わない。
実情はどうなのだろう、と黒子に向かって訊いてみたいと思ったことがあった。けれど彼らに話しかけることは原則的に禁止されている。のみならず、素顔を見ることや、黒子に関する発言や行動は厳しく処罰──内容としては罰金刑が多い──されるのだ。理由として学校で教わったのは、完全幸福マニュアルの定めに違反するため。
だから普通、裏方に徹する黒子もまた、喋りかけてきたりなどしない。
舞台上に立たないからだ。
なのだけど、一体、どういうことだろう?
私の黒子だけ良く喋るのだった。
何故なの? 訳がわからない。
しかもニオは何を考えているのか、黒子に反応してしまったりするものだから、見ていて本当にひやひやする。いつか処罰されてしまうかもしれない。或いは、既に何度も罰金を支払っているから、教科書も買えないのだろうか。
というより、私の専属黒子に問題がある。何度も市役所に問い合わせてみたりしたけれど、黒子が交換されることも改善されることもなかった。
私は溜め息と共に黒子を睨みつける。表情は見えないけれど、首を傾げてみせるその様子からは、きょとんとした雰囲気が感じられた。腹の立つ人だ、と思う。もしも台本と異なる状況が生まれたら、どうなってしまうのか。想像するだけで恐ろしくなる。
すべては予定調和で、運命的で、未来が保証されなければいけない。でなければ、私はきっと恐怖に支配されてしまうだろう。台本のない自由なんて、理不尽と混沌の極みだからだ。
「リセはまだ授業あるの?」
ニオはそんなこちらの悩みも知らず、呑気に訊ねてくる。もっとも、彼女に罪はない。
「いや、無いよ」と私。
「えー、いいなぁ。私、この後昼まで暇でさ、その後に一コマだけあるんだよね」
「ちゃんと考えて時間割決めなさいよ」呆れるのは今更で。「セトはどうなの?」
「うーん。それがね、もう帰っちゃったみたい」
「帰った?」思わず繰り返す。
「ね。酷いと思わない? こんな愛らしい彼女をほっとくなんてさ」
その行動に彼の意思はない。それと知っていたから、ニオは頬を膨らませ、わざとらしく怒った振りをしてみせる。やはりというか、演技力はない。自然体を大事にしているのだろう。
彼女の目を見つめながら、視界に映る活字に注目することは、慣れてしまえば簡単だ。
「わかった。授業が始まるまで付き合うよ」と私は言い、鞄を肩から提げる。「取り敢えず、カフェにでも寄ろうか」
一度大学を出て、近所のカフェに入った。暖房が効いている。時間帯のためか、客が多い。けれどとても静かだった。落ち着いた曲が、丁度良い音量で流されているためだろう。店員にテーブル席まで案内されると、それぞれカフェオレとホットココアを注文した。無論、黒子も傍に控えている。彼ら黒子たちは、テーブルの横で立ち尽くし、微動だにしない。
ニオはともかく、今や存在しないものとして認識して暮らすことには慣れてしまった。幼少期にはこんなことはなかったのだけど、もはやこれが日常となっている。適応した、ということか。
ニオは端末に目を落としながら、「あら、この後雨が降るってさ。どうしよう私、傘持って来てない」
「ずっと降り続くの?」
「そうみたい」
「どこかで雨宿りするしかないかもね」
「ごめんね、リセ。大丈夫?」
「私なら、傘持ってるから平気」鞄から折り畳み傘を摘み、彼女に見せる。「まさかの時の折り畳み傘だね」
「さっすが!」ニオは輝くように笑った。
タイミング良く店員がやって来て、カップを二つ、盆からテーブルへと置いてくれる。やがて立ち去ったのを横目に、
「授業終わったら、仕事あるんだよね」と、ニオは呟いた。「こんな雨なら、行きたくないなり」
「こら、子どもかあんたは」
「お母さんみたいだね。怒られたことないけど」
「そうなんだ?」そう訊いて、カフェオレを一口飲む。
「そう。優等生だから、私」
「家庭内優等生……」ぼそっと私の黒子が言う。
ニオは吹き出した。私は黒子を睨む。反応してはいけない。ここは我慢だ……。
「それにしても、良い曲だよね」ニオはココアに手を当てながらも、まだ口を付けていない。「この店と合ってる」
「雨の日に合ってるよね」
「そう? 私は晴れの日のイメージかな。雨だったら、もっと悲しげな感じ。それにこれ、アップテンポだし」
「え?」私は些か狼狽えた。だって、スローテンポなのだから。「そうかな。……結構、ゆったりしていると思うけど」
「あらら。互いにイメージが分かれましたなぁ。それとも聴こえている音楽が全然別物だったりして」
「そうかもね。だって、イメージが真逆じゃない?」
「うんうん。やっぱりリセって面白いな」
私は反応に困って、
「貴方ほどじゃないよ」と、断りを入れた。
完全幸福マニュアルに依存しないなんて、強くなければ出来ない芸当だろう。最初に出会った時には、この性格にびっくりしたけれど、今はもう受け入れている。これが彼女なのだ、と。
「私から見たら、お二人とも面白いですね」
黒子が言い、私たちは軽く流す。
「……でも、誰よりも貴方とは話しやすいわ」ニオは寂しげに微笑すると、ようやくココアを口に運んだ。それからまろやかな笑顔に戻って、「私らしく居られるのは貴方のお陰かな」
「それ、彼氏さんが聞いたら妬くかもね」
「焼くって、何を?」
「ふふふ。伝わらなかったか」
「ねえ、どういうこと? ちょっと教えてみ。二葉さん、とても気になるなあ」
「それより」と、話題を変える。「セトとはどうなの?」
「彼氏さんはね、とても良い人だと思う」ニオは他人事じみた言い方で、「でももう少しくらい、遊びがあると良いなあ」
「遊びって?」
「具体的に言うと、真面目過ぎってこと」それが、と口を挟もうとしたが、ニオは止まらない。私は口を噤む。「完全幸福マニュアルに従って、私と付き合ってる感じ。わかる? 愛してくれてるのは、何となくわかるけど、心はどこか別にあるような、ないような……」
それは多分、貴方が台本から逸脱し過ぎているからだと思うな、と友人として言ってあげたかった。けれどそれは出来ない。何故と言って、今の台詞にはアドリブが含められていて、用意された言葉とは多少異なっているからだ。
本来なら、『真面目過ぎってこと』の後には何も続かない。私が「それが彼の良さでもあるでしょう?」と返答して、また次の会話へと進展するはずだった。だから、今目の前に書き連ねられた台詞を、このタイミングで口にしては、噛み合わなくなる。
「おや、おや」黒子が茶化すように肩を竦めた。
「だんまりなのね」ニオはやっぱり、どこか寂しそうな顔を浮かべて、「わかった。貴方も、そして彼も……真面目過ぎだってこと」
私は目を伏せて、「でもそれが、彼の良さでもあるでしょう?」
段々と雨足が強まって、曲に音色がひとつ加わる。やっぱり、雨の日に似合っていると思った。曇ったガラス窓は濡らされ、青く染まった外の景色が歪められていく。暖房が弱まったのだろうか。少し、空気が冷えてきたかもしれない。
「そうね。そうだと思う」
ややあってから、ニオはひとり頷いた。いつの間にか、カップの中身は空になっている。
台詞はあてがわれていなかったけれど、仕草までは指定されていない。精一杯のアドリブを利かせて、首を傾げてみせると、
「すべては運命なのかもしれない」予定にない言葉を紡ぎ、黒子たちへ目を向けた後、私へと帰ってくる。「だから私は、彼を──貴方を──気に入ったのね」
そう言って、ニオはふう、と息を吐いた。その憂いを湛えた表情に、少しどきっとする。気分を切り替えたのか、彼女の表情が明るくなると、店員を呼び、ココアのお代わりとパスタを頼んだ。
時刻を確認する。もう午後一時に差し掛かっていた。私も同じものを注文すると、ふと俯く。それから顔を上げると、壁に掛けられたモニターが目に入った。
四辻アナエという名のニュースキャスターが、用意された原稿を読み上げている。彼女には何がどう見えているのだろう、と想像した。読むべき文字は、その手に収まる紙に記されているのか、それとも網膜に刻まれているのだろうか。台本は、この時には見えなくなっているのかもしれない。
彼女は澱みなく、すらすらと発声してみせる。その技量に惚れ惚れとしながら、内容に耳を傾けた。映像が切り替わり、駅内の様子が映し出される。
四辻の声は淡々と、
「今日未明、〇〇駅で集団消失が起きました。現場からは塵が見つかりましたが、依然としてどこに消えたのか、また行方不明者数は判明しておらず、現在、東京市警が主導して捜索に当たっています」と、読み上げていった。
「嘘っ」ニオが目を丸くさせて、「〇〇駅って、うちの近くじゃない」
彼女はセトと同棲している。前に一度、お邪魔したことがあった。
「最近多いね、こういうの」と私。
「なんか怖いな。少し前までは他人事って感じだったのに」
注文したパスタが運ばれて来て、会話は一時中断。フォークを手に、食べ進める。
「何もなければ良いけど」私の発言に、
「さあ、どうでしょうね」黒子が軽い調子で、不安を煽った。「本当の意味で無関係なまま居るなんて、難しいことですから」
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