Electrical Eden

八田部壱乃介

0 愚者

 夢を忘れることは、悲しいことだろうか。

 どんな夢を見ていたのかは、まったく思い出せない。ただそれが悪い夢だったのだろうことは覚えている。ベッドより飛び起きてから、まず最初に私は頬の涙を拭ったのだから。起き上がり、ここは現実なのだと理解して、安心すると、脱力してまた横になる。

 クリスマスの朝だと言うのに、別段寂しくもない、アパートでの一人暮らし。今日もまた、特別でも何でもない一日となるだろう。

 時計を確認して、二時限目にはまだ間に合うことを知ると、深く息を吐いた。今日の講義は何だっただろう? 視界にはそんな文章が浮かび、無意識にそれを読み上げた。昨日のうちに準備を終えてはいたけれど、授業が気になって確認する。

 そうそう、そうだった。今日は午前中に終わるので、午後からはゆっくりできる。と、私は独白を読み上げた。

 視界いっぱいに並ぶ、半透明でゴシック体の文字列は、その名称を『完全幸福マニュアル』という。生まれた時から誰の目にも流れ込むらしいこれは、一々私の思考や行動に口を出しては、自我を指定してきた。今は慣れてしまったが、幼少の頃は自分のでない心の声が雑念に感じられて、酷く邪魔に思っていたのを覚えている。

 でも、これに従うことで得られる利益は大きい。まず何と言っても、協調性が磨かれる。すべての人に完全幸福マニュアルは導入されているから、自我を出すことアドリブは利かない。すれ違い様に、通行人とどちらに避けるか予め決まっているのに、それを裏切る必要などないだろう。

 従っていれば、こうした小さなものから大きなものまで、あらゆる不幸とは無縁になるわけだ。

 利点はそれだけではない。文字通り、従っていれば望ましい境遇が約束される。というのは、一つに本当の意味で平等な社会になったし、二つには、台本のお陰でやること成すことすべてがスムーズに進むのだった。

 前者については、良くこのように言われている。通称、運命プロットの下の平等だと。天国とは、規則の例外となる神の不在である。或いはその神すらも運命に組み込まれているから、予定調和は乱されず、だからこそ誰からも不満は出ていない。出ていたとしても、そう言う脚本なのだろう。

 後者については、簡単だ。例えば指示に従って、大学へ行く時間を少し遅らせてみる。すると、普段通りに行けば混雑していた電車に乗ることもなく、すんなりと席に座れるわけで。のんびりと音楽を聴いたり、読書を楽しめたりする。

 また、それだけではなくて。こうして行動のすべてに指示があれば、そこに私の責任は生じなくなる。だから、誤って人とぶつかった際にも、謝罪こそすれ、指示なのだから仕方ないのだと思えるのだ。逆もまた然りで、もし相手からぶつかってきても、台本に従って演じたのなら、仕方ない。と、そのように解釈する。だから怒りが湧いたように演じても、実際には湧いていない。

 トートバッグを肩に掛けながら、電車を降りる。

 時間は申し分ない。これもすべて、台本通り。予定調和だ。視界には「嬉しくなった」とあって、独白を読み上げているうちに、なんだか本当に嬉しく思い始める。

 感情は認知の後に生まれるものだ。活字中毒な皆もまた、同じだろう。

 さて、電車を乗り換えて、長いこと揺られるのも暇なので、端末を開いた。ぼうっとニュースを眺めていると、どの世界でも似たようなことが起きていることがわかる。不思議な流行りとでも言うのか、突然、人が消失してしまうらしい。神隠しだとか、不吉の予兆だとか何だとか持て囃されていたけれど、実際のところはただの行方不明。

 いや、それでも大問題だとは思うけど。

 詳しく調べてみると、そう単純なものではないことがわかった。曰く、目の前でふと居なくなったのだという。隣で歩いていた友人が、少し目を話した隙に消えていた。手を繋いで散歩していた息子が、気がつくと姿を眩ましている。

 ここまで来ると冗談の類にも思えるが、付随されるコメント欄を見てみるに、大半は真面目な発言だった。そして彼らに共通しているのは、自分も同じ体験をした、という境遇である。

 皆で祭り上げているのだろうか。眉唾物だ、と私は目を細め、端末を閉じる。

 アナウンスが流れ、目的の駅に着いたため、私は席を離れた。電車の扉が開くと、次いで、駅のホームに設置された防止扉が開かれる。一瞬だけ胸が苦しくなり、小さく深呼吸した。それから一歩跨ぐと、ホームに降り立つ。やはり駅は好きじゃない。

 改札を通り過ぎ、都内某所にある大学まで、緩やかに足を運ぶ。道中には沢山の店があり、恐らく同じ大学なのだろう、学生たちが出入りしていた。台本通り、何気なくそちらを見ていると、人混みの中に見知った顔を発見する。相手もこちらに気付き、目が合った。

「よお」三月みつきセトは、隣に来るとぶっきらぼうに言う。

「おはよう」と私は返した。

 彼とは幼馴染で、小中高と同じ学校である。身長も高いが、髪もやや長い。いつ見ても、三ヶ月は伸ばしっぱなしという感じだ。三白眼の瞳が少々威圧的だけれど、根は真面目なのだということを、私は知っている。

 大学へ向かう道すがら、セトはレジ袋から缶コーヒーを取り出すと、おもむろに蓋を開けた。

「そう言えば、あれ見たか」

 と言う彼の目が泳いでいるのは、台本を読み上げているからだろう。

「あれって?」求められるままに応じると、

「今世界で流行ってる、変な現象だよ」一口啜った後、蓋を閉めて、レジ袋に戻す。

 言われてから、ああ、と私は頷いた。

「行方不明になるっていう、あれね?」

「そう。俺のイメージじゃあ、行方不明というより神隠し。人体消失だな」彼は前を向いたままに、そう頷いてみせる。

「どれも同じじゃない?」

「違うだろ。行方不明だと、自発的なり誰かの仕業だったり、いずれにせよ人為的なものだろう。でも、報道で見かけるのはそうじゃない。何と言うか、存在ごと消える感じだ。映画、あったろ。何だったっけな……」

 ビル風が吹いて、前髪が揺れた。髪を押さえて、私は台本の指示を待つ。

「CUREですかね。いや、違うな。回路でしょうか?」

 セトは無言で私を見やった。

「風と共に去りぬ?」一拍置いてから、私はセトを見つめ返す。

 言ってみて、こんな返答、台本が無ければ無理だと苦笑した。私はあまり映画を観ない。彼はそれだ、と首肯して、

「まさしくそう言うイメージだ」

「内容に関係ありませんね」

「あそう……」私は首を捻り、「でも、本当にそうかな。実際は何でもないと思うけど」

「何でもないか?」

「ほら、人の目を惹くために、わざと誇張して報道するところがあるでしょう? 捏造とまでは言わないけどさ、事実は小説ほど奇怪じゃないと思うな」

「優等生め。もう少し現実を楽しもうぜ」

 台本には悲しげに微笑むとあったので、その通りにする。少なくとも私にとって、それは演技ではなかった。大学が見えたので、私たちは受ける授業を確かめ合い、それぞれの教室へと別れる。

 広場を抜けて校舎に入ると、階段を上り、教室の扉を開けて中に入った。授業開始まで後十数分、というところ。まだ学生たちは集まり切っておらず、まばらだった。適当な席に座り、鞄を机の上に置く。待つ間、暇だったので端末を開いていると、

「リセ」と私を呼ぶ声がした。

 誰だろうと思って振り返ると、まず長く色素の薄い髪が目に入る。彼女は二葉ふたばニオだった。黄色いコートに白のセーター、茶色のミモレ丈スカートという格好で立っている。また、必要ないだろうに、頭にはサングラスが乗っていた。

 言うなればその格好は、遅れてきた秋──という感じ。

 彼女はセトの彼女である。同じサークルで出会ったらしい。彼と度々行動を共にしているので、いつの間にか私たちは仲良くなっていた。

 ニオは私の前に着き、こちらへと身を捻ると、

「ねえ、ニュース見た?」と訊ねられる。

 彼女の目はあまり動かない。澱みなくすらすらと台詞を口にした。

「人体消失?」訊き返すと、

「そうそう」眩しそうに目を細めて笑った。「不思議だよね」

「まあね」曖昧に相槌。

「あれあれ、クールじゃん。あまりそそらない?」

「いまいち不思議さが伝わらなくて」

「世界中で同時多発的に起きているんだよ?」

「行方不明って、そう言うものじゃないの」

「わお」吐息混じりに肩を竦めて驚いてみせる。「割り切ってるね」

 いちいちリアクションがオーバーだ。それに彼女の反応にはアドリブの気配がある。私は眉を顰め、しかし諦めて、溜め息を吐いた。ニオには、その無邪気さ故か、許せてしまう何かがある。

「それにね」ニオは端末を開いて、画面を私に向け、「起きているのは、何も人体消失だけじゃないの。例えば酸素アレルギーとか携帯端末アレルギーの流行だったり、陸地で溺れたり、他には──」彼女は端末を弄り、「死者の蘇り、だって」

「何それ」

 鼻白んだ私は、目を細めてニオを見つめた。けれど、彼女はそれと気が付かない。

「あれ、四国の方で大地震だって」ニオは端末を見たまま、「被害は……少ないみたいね。最近多くて怖いわ。それで、そうそう。異変と言えば、突然、人が塵になって散り散りになるって」

「何、駄洒落? 凄く寒い」私は呆れた。

「私は好きですよ。評価に値すると思います」

 ニオは悪戯っぽく片方だけ眉を上げて、「だってさ。私のは駄目じゃないお洒落。略して駄洒落よ」

「話を戻すけど」と台本通りに。「塵になるってどういうこと」

「そのままだよ。突然ね、塵になるんだって。こう、ぱらぱらと……体が分解されるみたい。何だっけ、ほら、あるじゃない? 『人は塵だから、塵になる』ってわけね」

「何それ」

「知らない」他人事みたいに彼女は笑った。「名称なんて覚えるだけ無駄なのよ。無駄無駄……」

 鼻息を漏らすと、私は釣られて苦笑する。同い年だというのに、自分の妹のように思える瞬間があった。これが愛嬌というものだろうか、なんて解釈してみる。

 暫く実もない会話を楽しんだ後、五戸ゲンジ教授が緩慢な動きで現れた。チャイムが鳴らされると同時に、彼は何事か呟き、ぬるっと授業が始まる。声が小さいので、学生たちは自然と前の席に集まるため、その点では、授業への意欲を高める素質があるのかもしれない。

 教科書と一言一句違わぬ台詞を聞いているうちに眠くなり、私は頬杖を突いた。頭に独白が流れなくなり、呆けている間にチャイムが鳴らされる。教授は亀のようにゆっくりと教室を出ていき、部屋は次第に騒がしくなった。

 私は伸びをすると、ニオを見やる。彼女は真面目にノートを取っていた。それもそのはずで、教科書を持っていない。決して貧乏なわけではないことを、私は知っている。モデルの仕事もそれなりにあるようだし、一緒に遊びに行く際にも割とお高めのカフェに入ったりして、むしろ私の方が冷や汗を掻くくらいだ。

 つまりどういうことかと言えば、ケチっている。そして、そのように指示されている、ということ。ノートに目を落とすと、教授の発言が一字の抜けもなく、しっかりと書き記されている。

「いつも凄いね」素直に感心して、私は言った。無論、完全幸福マニュアルに従ってはいるけれど、感情がこもっていたはず。

「そうかな」ニオは小首を傾げて、「これくらい普通だけど」

「そうね。これが貴方らしさだ」と、妙に納得する。

「台本に従わなくてもわかりやすいキャラクターがある、というのは良いですねえ」

 私とニオは顔を見合わせ、二秒ほど押し黙った。

 目を合わせないように、発言の主を見る。彼女は私の黒子。本来なら会話に混ざらない存在だった。

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