第4話

「魔獣と魔力の存在が確認されて八年経つけれど、いまだにどちらも謎が多い代物だな」

「〝レチア教〟が関わっているのでは、との話が数年前に出ていたように思いますが」

「関わっていたとして、その目的は? ……ともかく、私が初めて魔獣を見かけた山、あのあたりでまた魔力の靄が確認されていただろう。なにか報告は?」

「幸い今のところ魔獣らしき動物は発見されなかったと。ですが用心するに越したことはない。念のため付近の住民を避難させ、魔力の出どころの確認を続けさせています」

 山のように積まれた書類を挟み、シウバと宰相はあれこれと話を進めていく。彼らに背を向けているためにテヘナから表情をうかがうことは出来ないが、二人の声色からは真剣さが伝わってくる。

 宰相が提案し、シウバが異論を述べ、また宰相が別の案を出す。シウバもただ文句をつけるだけでなく、代案を出して結論を導き出そうとしていた。二人が思いえがく答えがなんなのか、テヘナには分からないのだが。

 ――そもそも魔獣とか魔力とか、そこから分からないし。

 嫁いできてから分からないことばかりだ。魔術師や〈核〉とやらがどういうものか、いまだに理解できていない。

 ――余計なこと考えてる場合じゃなかった。

 テヘナは目を瞬いて思考を切り替え、手元に意識を集中させた。

 視線の先には、茶器や菓子が乗ったワゴンがある。じゅうぶん蒸らしたし、そろそろ抽出された頃合いだろう、とテヘナはポットを持ち上げ、不器用さの残る手つきで二人分のカップに茶を注いでいった。最後に少しだけはちみつを垂らしてかき混ぜると、すうっと目が覚めるような香りが鼻をくすぐる。自分が飲んでみたい衝動にかられたが、今は我慢だ。

「失礼いたします。お茶のご用意が整いました」

「ああ、すまない。ありがとう」

 宰相が強張っていた表情を少しだけ解き、カップや菓子を置きやすいように机の上を片付けてくれた。細やかな心遣いに感謝しつつ、テヘナは極力目が合わないように気を付けて、二人の前にカップと菓子の皿を置いた。

 シウバは特に礼を言うこともなく、宰相と話を続けている。彼にとって侍従など空気に等しい存在なのだろうか。

 ――まあ、気付かれてつまみ出されるよりはいいわよね。

 テヘナはワゴンごと部屋のすみに移動し、背筋を伸ばして直立不動の姿勢を取った。自分は置物だ、と強く思い込み、「作戦大成功」と大はしゃぎしたい気持ちをぐっと押し込んで息を殺す。

 シウバも宰相も、テヘナに気づいた様子はない。

 というのも、現在テヘナは侍従の格好をしているからだ。

『執務室には、毎日同じ時間――昼食から二時間ほど後の頃合いで、侍従がお茶を運んでいるようですわ』

 ファリュンからの報告に、テヘナはそれを利用しようと考えた。

 テヘナとして訪れたのでは、シウバに追い返されるかも知れない。けれど侍従なら。思いつくやいなや、テヘナは長い髪を切り落とした。ベレニは「もったいない」と直前まで躊躇っていたが、「どうせ伸びてくるんだから」と納得させて、首筋が出るくらいまで短くしてもらった。

 衣服はどうやって調達したのかといえば、執務室に入る直前に借りた。

 より正確に言えば、強奪した。

 ワゴンを押してやってくる侍従を柱の陰に引きずりこみ、上から下まで一式借りたのだ。哀れな侍従はどうしたのかというと、邪魔をされると迷惑なので気絶してもらい、ファリュンに見張ってもらっている。

 テヘナは女子にしては背が高いし、残念ながら胸も平べったい。けれど今はそれが功を奏している。侍従から借りた衣服はどれもぴったりだった。

 だがいくら侍従の格好をしていても、顔を見られるとすぐに気付かれる。肌は化粧で限界まで白くしたが、かえって違和感がないかと内心冷や冷やしていた。

 今のところ、シウバと宰相の反応を見る限り、そんな心配はなさそうだが。

「魔力がどこから……誰から発生しているのか確認でき次第、すぐにゼクスト家を現地に向かわせろ。神力イラでなければ魔力は浄化出来ない」

「ではそのように手配いたします。尋問などは?」

「それも指示しておくように」

 ――ああもう、また分からない言葉が出てきた。神力って何?

 全部まとめてシウバに問い質したいところだが、両手に拳を作って気分を鎮める。

 一応、何度かベレニが説明しようとしてくれたのだ。それを断ったのはテヘナ自身である。どうせならシウバから教えてもらいたいという望みがあってのことだが、果たしていつになることやら、自分でも見当がつかない。

 ――あ、そろそろ次の作戦に出るべきね。

 宰相が菓子に手を伸ばした。手のひらほどの大きさのそれは楕円形で、カリッと焼きあげた生地の表面には砂糖をまぶしてある。一口食べると中はしっとりとしていて、香ばしいアーモンドの香りが口いっぱいに広がるはずだ。

 エストレージャ王国では定番のお菓子だというそれを、宰相は何気なく食している。だがすぐに「ん?」と首を傾げた。

「どうした」

「いつもの味と少し違うなと」

「ふうん?」

 宰相の反応で興味がわいたのか、シウバも菓子を一つ口にする。彼も同じように首を傾げたところで、テヘナは「ああ、そういえば」とさも今思い出したかのように口を開いた。声で気付かれないように声色は意図的に低くしている。

「王妃さま自らがお菓子を作られたそうです」

「王妃が?」

「はい、陛下のためにと」

「では私は食べない方が良いかな」と宰相がくすくす笑う。「陛下のために用意されたのだから、私が食べてしまっては申し訳ない」

「いや、アタラムも食べるといい。私一人では食べきれない」

 そんなに量は多くないはずだけどな、とテヘナが感じたところで、シウバが横目でこちらを見た。君も食べなさい、とか言われるのかしらと思っていたが、違った。

「焼き時間が長かったのか、全体的に焦げくさい」

「こっ……焦げ……?」

「苦みを覆うためなのか知らないが、砂糖も必要以上に多くてむだに甘い」

 そんなはずはない。味見をしたのは他ならぬテヘナで、作り方を教えてくれたのはベレニだ。試食したファリュンも美味しいと言ってくれていたのだが、あれはお世辞だったのだろうか。

 テヘナの予定では、「こんなにおいしいお菓子は誰が作ったんだろう」「王妃さまです」「彼女はこんな素晴らしいものを作れるのか」という流れになるはずだった。

 だが実際は、シウバは菓子を咀嚼しながら渋い顔をしている。

 ――こんなはずじゃ……。

 落胆のあまり、思わず俯きかけて、今の自分は侍従なんだと思い直す。けれど落ち込んだ気分が戻ることはなく、今すぐに執務室から出ていきたくなった。

 その時、堪え切れなくなったように宰相が「ははっ」と笑い始めた。

 急にどうしたのだろう。テヘナが情けない顔をしているのがそんなに面白かったのだろうか。

「全く、陛下は素直ではない。正直に申し上げたらよろしいのに」

「……?」

「ちょっと、アタラム」

 なにやら不都合なことを言われると察したのか、シウバの眉間にしわが寄る。

「王妃さまは初めてこれを作られたんだろうか」

「え? あ、あぁ、自ら厨房に赴き、今日までに何度も練習を重ねたと」

「努力が伝わる良い味がします。そうは思いませんか、陛下?」

「…………まあ、多少は」

「えっ」

 驚くテヘナを、なんだよと言いたげにシウバが睨みつける。

 彼は菓子を一つ食べ終えると、再び皿に手を伸ばした。不味そうなことを言っていたのに、どうして。テヘナが目を白黒させている間に、シウバはいつの間にか二個目を食べ終えて三個目を口に放り込んでいた。

「陛下、先ほどは焦げ臭いと……」

「別に食べられないほどではない。あなたが作ったものを捨てるほど、私も無礼者ではないし」

「そう、ですか……ん?」

 ちょっと待て。

 今、シウバは。

「……〝あなたが作ったもの〟と仰いました……?」

「そのように聞こえなかったのなら耳が悪いと思う」

「聞こえたからお尋ねしたんです!」

 声を荒らげたところで、しまったと気がついた。

 シウバは苦々しげにため息をついて、宰相は微笑ましそうに目を細めて、それぞれテヘナを見つめていたからだ。

「えっと、あの……いつから……?」

「『いつから気付いていたのか』という意味なら、初めから」

 シウバはカップを持ち上げて水面を揺らし、淡々と答える。茶を一口飲むと、ほのかに目元が緩んだように見えたのだが、すぐに凍てついた面持ちが戻ってくる。

「ど、どうして」

「そんな特徴的な赤毛、この国にそうそういない。肌の色は無理やり白くしたみたいだが、それでも顔立ちや、瞳の色まで変えられるものじゃない」

 顔立ちを見てテヘナだと気付くほど、シウバはテヘナを見てくれていたのか。

 微妙に喜びを覚えながら、その観察眼に驚いた。シウバが気付いたのだから、恐らく宰相もとっくに気付いていたのだろう。そう考えて、テヘナはさらに驚いた。

「お二人とも、私に気付いていながら、なぜ追い出したりしなかったのです?」

「追い出す手間が面倒くさかったから」と答えたのはシウバで、「お二人の様子を見るのも一興かと思いましたので」と微笑んだのは宰相だ。

「どうせ侍従の振りをして入ってくるなら、もう少しまともな変装は出来なかったのか。髪を切るんじゃなくて鬘を被るとか、他にもやりようはあっただろう」

「では次回からそうします」

「しなくていい」

 馬鹿正直に答えたテヘナに、シウバはまた深くため息をついた。

 ひとまず「思わず話しかけずにはいられない状況」を作ることには成功した、と思う。予想とは違う展開になったが、正体に気付かれたからといって無理やり追い出されてもいない。

 なんとなく、以前執務室の前で相対した時より、シウバはいくらか取っつきやすくなっているように思える。会話すらしたくないという雰囲気が漂うこともない。口調の節々に棘があることに変わりはないが。

「それで? あなたは何の目的があって潜入などという真似をしたのかな」

「陛下とお話をしたかったからです」

「する必要を感じない、とこの前も言ったはずだが」

「でも今は普通にお話されているじゃないですか」

 ははっとまた宰相が笑い、シウバは猛禽類のような瞳で彼を睨みつけた。

「陛下、私はまだエストレージャ王国がどのような国なのか、詳しく存じません。夫から文化や風習などを聞きたいと思うのは間違っているでしょうか。魔術師とか神力イラとか、他にも分からないこと、知りたいことはたくさんあるんです」

「知りたければ侍女に聞け。文化を知りたいだけなら図書館にも山ほど資料はある。そこの案内なら宰相がしてくれるだろう」

「私は紙の上の情報ではなく、陛下から直接お話を頂いて知りたいんです。出来ることなら国内も一緒に巡れたらと思いますが」

「どうして公務でもないのにあなたと出かけなければいけないんだ。そうまでして〝化け物〟と親しくなりたいのはどういう理由だ?」

「あのですね、私がいつ陛下のことを〝化け物〟だなんて言いました? その所以すらよく分かっていないのに、〝化け物〟呼ばわりするわけがないでしょう」

 一向に話が進まないテヘナとシウバを横目に、宰相は菓子を食べては「美味しいです」とご丁寧に感想を言っていた。空気を和ませようとしているのか、はたまた単純に空気が読めないだけなのか。

「要するに、あなたは『自分の目で、耳で、手で確かめた生の情報を知りたい』と」

「まあ、そんなところです」

「なら城下町に繰り出せばいい。身分を明かさず、庶民に紛れ込んで町の様子を窺って来ればいいだろう」

「陛下も一緒に来て下さるんですか?」

「誰もそんなこと言ってないでしょ」とシウバの口調が一瞬だけ砕けた。彼はすぐに取り繕うように軽く頭を振ると、宰相を呼び寄せて何ごとか指示を下す。宰相は少しためらっていたが、やがてテヘナに目を向けると、申し訳なさそうに口を開いた。

「恐れ入りますが、テヘナさま。そろそろご退室願えますか」

「ですが、私はまだ陛下と……」

「――これは陛下には内緒なのですが」

 粘って居座ろうとするテヘナの耳元で、宰相は虫が囁くような小さな声でひそひそと続ける。

「陛下はまだ夫婦という関係に気恥ずかしさを感じておられるのです。決してテヘナさまを嫌っているわけではありません」

「!」

「明日、テヘナさまは侍女を伴って城下町を散策なさってください。陛下も同時刻に町へ繰り出すよう、私も調整いたしますから」

 宰相としても、このままテヘナとシウバの関係が進展しないのは喜ばしくないのだろう。そっと横目で様子を窺うと、シウバはテヘナたちがこそこそと話しているのを不可解げに目を細めて、面白くなさそうに頬杖をついていた。

「分かりました」

 宰相の提案に、テヘナは笑顔でこっくり頷く。笑みをそのままにワゴンを回収し、お邪魔しました、と執務室を後にした。扉が閉まる直前に見たシウバの顔は、世にもおかしなものを見た、とでも言いたげに歪んでいた。


 テヘナが立ち去って数秒後、シウバは何度目か分からないため息を漏らした。

「まったく……あの子がいたら話が進まない。で、彼女になにを吹き込んだの?」

「特に何も。陛下の邪魔をしてはいけませんよと厳しくお願いしただけです」

 とてもそんな風には見えなかったが、とシウバは異母兄に疑いの目を向けたが、これ以上追及しても、アタラムは口を割らないだろう。

 机の上には、テヘナが作ったという菓子の皿が残されている。侍従の真似ごとなど初めてであろう彼女が回収しそびれたものだ。ここに乗っていた菓子は全て、シウバとアタラムの胃に収められている。

 ――毒が入ってる可能性も考えてたけど、異変はないな。

 ――仮に入ってたとしても、僕には何の意味もないけど。

 変装までして侵入してきたのだ。よほどの理由があってのことだろうと思ったのだが、いまだにテヘナがどのような理由で行動しているのか、よく分からない。

 王という立場は昔から狙われやすく、暗殺の危険がある。いまだにシウバを廃し、異母兄であるアタラムを王位につけようと策を練る輩もいるのだ。何かとシウバと接触を図ろうとするテヘナをその手先かと警戒するのも、無理からぬことである。

 今のところただの思い過ごしのようだし、これから先もそうであれば良いのだけれど。

「それで、陛下。いかがでしたか?」

「なにが?」

「テヘナさまのお菓子です。お味の感想は?」

 笑いを堪えきれずに、アタラムの唇はゆるりとした弧を描いている。聞かなくとも答えは分かっている、という時の顔だ。

「…………別に、不味くはなかったよ」

 そうですか、とかみしめるように頷いたアタラムの顔に、シウバは思わず書き損じた書類を丸めて投げつけた。

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