第2話

 結論から言うと、シウバは普通の人間だった。

 少なくとも、見かけは。

 テヘナは白いベール越しに、右隣に立つシウバをちらちら見やる。二人の前には白亜と青碧せいへきの二色から成る衣をまとった男の神官が立ち、先ほどから祝福の言葉だとか、互いの愛がどうのとか、色々と伸びやかに語っていた。

 エストレージャ王国に到着して一週間ほど。テヘナは今、王都にある教会でシウバと共に婚姻の儀式に臨んでいる。他国の王侯貴族を招いて王妃を紹介する宴は、また後日催されると宰相から聞いた。今日の儀式は、エストレージャ王国で奉られる光の神と闇の神に国王が后を迎えたことと、神や先祖に国家の繁栄と安寧を約束し、夫婦としての契りを交わすものだそうだ。

 ――でもまだ、まともに話したことないのよね。

 もう一度横目でシウバを見てみるが、彼は唇を引き結んだまま微動だにしない。精悍な横顔は、二十七歳というには少しばかり幼く見えた。

 艶やかで癖のない黒髪は肩の下あたりまで伸びており、今は丁寧に撫でつけられて複雑に結われているが、普段は首のあたりで緩く括ったままなのを何度か目にしている。ゆったりした衣装が好みなのか、初対面の時も今も、彼は袖にゆとりのある衣をまとっていた。瞳が瑠璃色なのに併せてかシウバの衣装は寒色系が多いのだが、ともすれば地味になってしまいそうな装いを、彼は難なく着こなしていた。

 テヘナはテヘナで、普段の装いからは想像がつかないほど美麗なドレスを纏っている。

 肩がむき出しにされた純白のそれは、裾に向かうにつれて色合いが橙色に移ろっていく。まるで夕焼け空のような生地の随所には、故国の国旗を複雑に意匠化した花の模様と、エストレージャ王国の象徴である星の刺しゅうが施されていた。首元を彩るネックレスは真珠が連なり、浅黒い肌の上で光り輝いている。手首あたりまでを包む手袋はレース仕立てだ。

 ――全くこっちを見ないわね。緊張してる、とか?

 むしろ先ほどからやたらとシウバを見ているテヘナこそ落ち着きがないのだが、この場にそれを咎めるファリュンはいない。

 その時、一瞬だけシウバがテヘナを見た。一秒にも満たない僅かな間ではあったが。王宮に来た初日に謁見の間で顔を合わせて、目が合ったのはその際から数えて三度目だろうか。なにを考えているのかまでは、あいにく探れなかったのが少し悔しい。

「国王シウバ。汝はテヘナ・ペリペティア・フィリラディナトを妻とし、如何なる困難を前にしようと、共に歩み、守り、敬い、命の限りこれを貫くことを誓うか?」

「はい」

 神官の問いに、シウバは迷う間もなく答える。その声はどことなく中性的で、けれどしっくりした重みがあった。

 同じようにテヘナも問いに答えたところで、二人は神官に促されて向かい合った。頭上から降り注ぐ陽光に照らされ、それぞれの影が身廊にゆっくりと伸びる。

 テヘナとシウバの身長はさほど変わらない。テヘナがやや上目遣いにならなければいけない程度の差だ。シウバはいまいち感情の読み取れない表情でテヘナのベールをゆっくりと上げると、唇に触れるだけの軽いキスを落とした。

 えっ、意外と短いのね、などと思う間もなく、シウバは再び体ごと神官に向き直る。彼に倣ってテヘナも正面に向き直ったところで、神官が「今ここに、お二人は夫婦となられた」と朗々と宣言した。神の祝福があらんことを、と両腕を広げると、彼がまとう香りなのか、柑橘系の甘酸っぱいにおいがふわっとただよう。

 婚姻の儀式なんて、こんなものなのだろうか。微妙に戸惑いの残るテヘナの隣で、シウバはようやく面倒が終わったとでも言いたげに、小さく息をついていた。



「それで、まだ陛下とはお話されていないのですか?」

 ファリュンが嘆きとも呆れともつかないため息をこぼし、テヘナは髪をくしけずられながら渋々頷いた。

「婚姻の儀式からもう一週間も経っていますのに?」

「そうなのよね……」

 どういうわけか、シウバとまだ会話らしい会話をしていないのだ。

 王宮に来た初日こそ長旅を労う言葉を投げかけてもらったものの、あれ以来これといって話をしていない。話しかけたいのはやまやまなのだが、日中のシウバは執務室にこもって出てこず、食事を摂るのも夫婦別々だ。寝室も夫婦で使うものがあるが、婚姻の儀式当日以外、テヘナはずっと王妃個人の寝室を使っている。

 世間一般では「初夜」と呼ばれるそれも、お互い特に触れたり触れられたりすることなく、ただ眠るだけで朝を迎えた有様である。

 これでは「愛し愛されるような仲に」など難しい。

「ねえベレニ。シウバさまってどんな性格?」

「そうですね、初めは少し冷たい印象を受けますけれど、とてもお優しい方ですよ」

 テヘナのドレスを整えてくれていたベレニが、そばかすが目立つ顔に笑みを浮かべる。彼女はエストレージャ王国に来てから加わった侍女だ。年の頃はテヘナより少し上だろうか、白い肌に黒い髪という典型的なエストレージャ人の特徴を持っていた。

「王太子の頃から、民たちに気を配るのを欠かれたことはありません。昔は病に弱く、臥せっていることも多い儚げな方でしたが、〈核〉を得てからというもの見違えるほどで」

「……〈核〉?」

「ご存知ではありませんか?」

 なんだそれは。首をひねるテヘナに、ベレニはどう答えたものか迷うそぶりを見せた。シウバが話していないのに、自分が勝手に教えてしまっていいものか決めかねているのだろう。

 とはいえ、ここで話を打ち切られてしまったのでは疑問がつのる。テヘナがじっと目を見つめて好奇心をむき出しにすると、ベレニは己の胸のあたりを撫でた。

「陛下には心臓がないのです。いえ、正確に言えばあるのですが、その機能はとうの昔に停止しているのです」

「……どういうことですの?」とテヘナより先にファリュンが戸惑いを口にした。

「幼少期に毒を口にしてしまって、生死の境をさまよったのです」

「そういえばファリュン、言ってたわよね」

〝死なない〟〝一度死んで生き返った〟という噂だ。後者の噂は、生死の境をさまよったことに由来しているのかも知れない。

「それで、どうなったの? どうなったも何も、生きてるんだから助かったのは確実でしょうけど」

「このままでは命が危ないという時に、魔術師の方が〈核〉を用意して、無事命をつなげたのですよ。その結果、陛下は心臓が停止してなお、生き続けておられるのです」

「その〈核〉っていったい何なのよ」

 当然のように話を進められているが、全く分からない。一方ベレニもまた、テヘナが〈核〉について知らないと分かると、意外そうに目を瞬いた。

「あと魔術師ってなに? 占い師みたいなもの?」

「フィリラディナトにはいないのですか?」

「いる、のかしら。ファリュン、知ってる?」

「いいえ、残念ながら」

「てっきりあちこちにいるものだと思っておりました。申し訳ありません」

「別に謝るようなことじゃないと思うけど」

 話している間に身支度が整っていた。癖のある赤毛はファリュンによって編まれ、頬や唇には薄らと化粧も施してある。ドレスは祖国から持ってきたものにベレニが手を加え、エストレージャ風の膨らみを持たせてくれた。ネックレスや指輪などの装飾品も欠かしていない。

 なぜこんなに着飾ったのかと言えば、理由は単純。

 シウバと話すためだ。

 執務室にこもっているとはいえ、食事を摂るためや寝室に向かう際に部屋から出てくるのは知っている。「淑女らしく夫のおとないを待つべき」というファリュンに従っていたが、何もせずにじっと待つばかりは性に合わない。

 いつも通りの格好でただ会いに行ったのでは素通りされるかもしれない。ならば最低限着飾っておけば目に留まる確率も高まると予想し、珍しくあれこれと着飾ったのである。

「そろそろ昼食のために執務室から出てくる頃ね。行ってくる」

「わたくしもお供いたします」

 では私は部屋の掃除を、というベレニを残し、テヘナは努めてしずしずと歩き出す。内心は獲物を狩りに行くときのようにかなり勇んでいるのだが、表面上は取り繕えている、はずだ。

 王宮は広く、まだ全ての部屋を把握できているわけではない。王族の居住棟だけでなく、恐ろしく広大な敷地には図書館や美術館、庭園や薬草園、さらに廟まである。

 だがシウバの執務室は居住棟のほぼ中央にある。この位置と食堂だけは頭に叩き込んであるので迷う心配はない。時たますれ違う女中や兵たちと挨拶を交わしながら、テヘナは執務室の前に立った。

「テヘナさま?」

「こういうのって、勝手に開けちゃいけないのよね、確か」

「まずはノックをしませんと」

「私の部屋の前で何をしているのかな」

 ノックは何回するんだっけと考え込むより先に、いまだ聞きなれない声が横から入る。

 はっとして目を向けると、婚姻の儀式以来まともに顔を合わせていなかったシウバが立っていた。傍らにはよく似た顔立ちの銀髪の宰相を伴い、彼らはそろって訝るようにテヘナを見つめている。

「テヘナさま、陛下にご挨拶を」

 耳元でファリュンに囁かれ、テヘナは慌ててドレスをつまみ、膝を折った。

「ごきげんよう、陛下。お食事はもう済まされたのですか?」

「つい先ほど。失礼、執務室に入りたいのだけど」

「その前に私と少しお話をしませんか。夫婦になったというのに、私たちの間にはあまりにも会話が無いように思います」

「する必要を感じない」

 会話を強制的に終わらせたいという雰囲気をありありと感じ取り、テヘナはむっと唇を尖らせた。ふと宰相を見ると、彼はシウバに咎めるような視線を送っている。宰相から見ても、シウバの態度は拒絶的だと感じるのだろう。

「話をする必要がないって、どういうことですか」

「言葉通りの意味だ。これ以上になにか?」

「ええ、もちろん! だって私が陛下の人柄を知らないように、陛下も私がどんな性格なのかご存知ありませんよね? この国のことについて教わりたいこともたくさんあるんです。お仕事の邪魔にならない程度、数分くらいで構いません。息抜きとでも思ってなにか……」

「はっきり言わねば分からないか」シウバの声から感情が抜け落ちた気がした。「私はあなたと夫婦になりはしたが、国王としての義務からだ」

 テヘナを見ることなく、シウバは背後に控えていた侍従に執務室を開けさせた。

 冷ややかな声はなお続く。

「あなたと結婚したのもあくまで同盟の証だからであって、それ以上でもそれ以下でもない」

「……なんですって?」

「どこかの誰かみたいに愛を育んだ結果の結婚ではないと言っている」

 失礼する、とシウバは執務室に音もなく入っていく。

 ――なによ、それ。

 テヘナは唖然と言葉を失ったが、あんまりです、と密やかに呟いたファリュンの声で、呆けている場合ではないとすぐに我に返った。お淑やかであれという父からの命令は彼方に吹き飛び、ずいっと身を乗り出してシウバの背を追った。

「確かに仰る通り愛のない結婚ではあります! でも、だからってこの先もそのままでいいと私は思わない!」

「私は構わないと言った」

「陛下は構わなくても私は構います! 今後もこのような態度を続けるおつもりですか? 世継ぎの誕生だって望まれているでしょう!」

「私に世継ぎは必要ない」

 シウバは少しだけ振り返るが、テヘナを見るためではなかった。困ったようにテヘナとシウバを交互に見やる宰相を呼び寄せるためだったようだ。宰相は二人になんと言葉をかけていいものか悩んだように唇を曲げ、結局言葉が見つからなかったのか、なにも言わずにシウバを追う。

 納得がいかない。世継ぎを儲けるのは王族の義務だと母から教わっている。なおも食い下がろうとするテヘナに、シウバは氷のように凍てついた眼差しを向けた。

「あなたは無理をしているだろう。〝化け物〟に嫁いだのだからと」

「……は?」

 今の一言は、なんだ。

 テヘナが眉間にしわを寄せて黙ったのを好機と見たのか、シウバは侍従に扉を閉めろと命じる。彼は「お下がりください」とテヘナをさり気なく扉から遠ざけ、心なしか申し訳なさそうに目を伏せた。

「――――君はヴェラとは違う」

 かすかに聞こえたシウバの一言を最後に、執務室の扉には鍵がかけられる。

 それはまるで、テヘナに対するシウバの心の拒絶を表しているようでもあった。

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