異端の王―彼方に集う獣たち―

小野寺かける

第1話

 ざばざばと海面で弾ける白い泡が面白い。テヘナは風に揺れる長い赤毛を手で押さえつけながら、若草色の瞳を嬉々として下に向けていた。

「あっ、ねえファリュン、今の見た? 小さな魚がぴょんって水の上に跳ねた!」

「そん、なもの、見る余裕はわたくしには……おえぇ」

 喜びを共有したかったのに、侍女は出港してからほぼずっとテヘナの後ろで青い顔をしている。たまに海に向かって顔を突き出すこともあるが、景色を楽しむためでないことは分かる。

 幸いなことにテヘナは船酔いをしなかったので、こうして初めて見る船や海を楽しめている。どちらも祖国ではまず見かけることのない代物だが、嫁ぎ先ではどうだろう。海に面した国と聞いているが、王都がそうかは知らないのだ。

「エスなんとか王国、だったかしら」

「エストレージャ王国ですわ、テヘナさま。お嫁に行く国の名前くらいしっかり覚えておいてくださいまし」

 ファリュンが口元を手巾で押さえながら訂正を入れてくる。まだ吐き気はあるようだが、ひとまず一時的に回復したようだ。

 エストレージャ王国、と国名を頭に刻み込むように何度も繰り返し呟き、テヘナはいまだ見えないその国の方角を眺めた。祖国を出立し、馬車や船を乗り継いで早一週間。到着予定はさらに一週間後だ。まさかこんなに長旅になるとは想像もしていなかったし、弓矢の鍛錬が出来ないことだけ少し不満だが、それ以外は楽しんでいる。

 テヘナが甲板から空を見上げると、風を受ける雄大な帆がまず目に入る。三角のものもあれば歪な四角形の帆もあり、見ているだけで楽しい。父の臣下が手配した船にはテヘナたちだけでなく、同じくエストレージャ王国を目指す多くの人々が乗船していて、あちこちから聞こえてくる言語も異なる。その違いを探るのも面白かった。

「鳥だって初めて見る種類ばかり。今飛んでいったあの白いの、なんて名前なのかしら」

「あいにく存じ上げませんわ。祖国フィリラディナトではまず見かけない鳥ですもの」

「食べたら美味しいと思う?」

「射ようとするのはお止めください! お淑やかさを身に着けておけと国王陛下から厳命されておりましたよね?」

 ちょっとくらい良いじゃない、とテヘナは唇を尖らせるが、いけませんとファリュンは譲らなかった。せっかく癖づけてきたのに、ちょっとした行動で台無しになるのだからと。

 癖づけておかなければいけないことは他にもある。食事の行儀、挨拶の作法、そして言葉。嫁ぎ先の言葉は母国語とかなり違う。覚えるのに苦労したが、語尾が不自然に上がったりなど多少の訛りは残るものの、今では問題なく話せるようになった。

 とはいえ気を抜くと母国語で話してしまうので、練習を兼ねて同郷のファリュンとの会話も今はエストレージャ語で行っている。

「私の夫になる人はどんな人なのかしら。名前以外はなにも知らないのよね」

「わたくしも詳しくは存じ上げませんが……噂であれば少々聞いたことはございます」

「そうなの? 教えてよ」

「……テヘナさまのお耳に入れるような噂では」

「そこまで言っておいて話さないなんてあり得ない。ほら、早く教えて」

 ずいっと顔を近づけて促すと、ファリュンは手巾の奥でため息をついてからようやく話し始めた。

「化け物だ、と……」

「バケモノ? どうして」

「分かりませんわ。あくまで噂でしたもの。『死なない』とか『一度死んで生き返った』とか」

「ふうん……」

 エストレージャ王国の年若き王、シウバ・アリウム・エストレージャ。

 テヘナの夫となる者の名だ。

 三年前に前国王が病で身罷り、二十四歳の若さで即位したという。テヘナが知っているのはその程度で、ファリュンが語った噂話を耳にしたことはなかった。

 彼女のことだ。きっと本当は他にも色々語られていたに違いない。テヘナを不安がらせまいと、言葉を選んで教えてくれたのだ。

「あくまで噂でしょ。死なないとか、本当にそうかは分からないわ。化け物って呼ばれてるのだって、見た目がものすごく怖いとか、厳ついとか、そういう理由からかも知れないし。ほら、どんな話だって人を介していけば、そのぶん尾ひれだって増すでしょ」

「仰る通りですわ、テヘナさま」

「まあ、私はどんな人でもいいの。会ったことも話したこともない人だけど、結婚するんだもの、どうせなら愛し愛されるような間柄になりたいわね」

「前向きで大変よろしいかと……う、おぅえぇ」

 また胃からなにかがせり上がってきたようだ。吐き出すものなどもう何もないはずなのに、ファリュンは身を乗り出して海に向かって嘔吐く。

 侍女の背中を撫でさすってやりながら、テヘナはまだ見ぬ夫に想いを馳せた。

 現在は二十七歳。つまりテヘナより十歳年上で、あだ名は「化け物」。テヘナの父である国王はエストレージャ王国と同盟を結ぶ際に何度もかの国に訪れていたし、当然シウバとも面会している。

「……どんな顔立ちかくらい、お父さまに聞いておけばよかったかしら」

 あだ名を先に聞いてしまったせいで、ワニとか犬とか、祖国でよく見た色んな動物を混ぜ合わせたような奇怪な顔しか思い浮かべられなくなって、テヘナは少しだけ唸った。



 ファリュンが船上生活に慣れ始めたころ、ようやくエストレージャ王国が見えた。港に着いたら今度は馬車に乗り換えなければならない。荷物などをまとめて準備し終え、テヘナはゆっくりと近づいてくる港に目を向けた。

「あそこにあるのは何かしら」

 ほらあれ、とテヘナは視線の先にある白い建物を指す。屋根は平べったく、太い柱が何本もそれを支えている。かなりの大きさがあるように思えるが、そばに比較対象となる他の建物が無いので具体的な大きさは計り知れない。港からは長い橋でつながっているらしいが、そこを行きかう人の姿は見受けられなかった。

「神殿でしょうか」と答えたのはファリュンだ。

「そうなの?」

「恐らくは」

「近くに行って観てみちゃ駄目かしら」

「観光などしていたら王都への到着が遅れてしまいます。諦めてくださいまし」

 仕方がない。後ろ髪を引かれながらもテヘナは大人しく頷いた。

 港に着き、慌ただしく荷物を積みかえて馬車に揺られること三日ほど。テヘナたちはようやくエストレージャ王国の心臓部とも言える王都に入った。とはいえ、まだここは端の方だ。緑が多く自然豊かで、民家はぽつぽつと点在している。見慣れない馬車が通り過ぎていくのを、羊とともに近くを歩いていた幼い子どもたちが興味深そうに眺めていた。

「中心部まで行ったら、もっと雰囲気が変わるのかしら」

「ええ、きっと信じられないくらいに」

 船の上では散々不安がっていたのが嘘のように、ファリュンは心なしかうきうきと楽しそうに応えた。

 道中でも何度か感じたが、祖国とここでは何もかもが違う。話に聞いて予想していたけれど、実際に目にするのとでは衝撃が段違いだ。

 今でこそエストレージャ風の裾が広がりふわりと膨らみのある華やかなドレスを着ているテヘナだが、このあたりに暮らす人々は庶民なのか、麻のシャツによれたパンツ、もしくはスカートを身にまとう者が多い。祖国にいた頃のテヘナは彼らより多少まし程度の身なりだった。今着ているドレスとは比べ物にならない動きやすさだったことを思い出し、まだそう遠くない過去のことなのに無性に懐かしく感じる。

 それよりも驚いたのが肌の色だ。テヘナの肌はこんがりと茶色いのに対し、こちらの人々は日に当たっているのかと不安になるほど白い。髪の色も黒がほとんどで、テヘナやファリュンのような赤毛は全く見かけなかった。

 テヘナは子どもたちを見つめ、ひらひらと笑顔で手を振ってみる。彼らは一瞬だけ不思議そうに目を合わせていたが、やがて少しだけ恥ずかしそうに手を振り返してくれた。

 自分でも知らないうちに緊張していたようだ。ほんのわずかな交流だったが、子どもたちと手を振りあえたのはよい緊張緩和になった。

 ――王宮まで、もう少し。

 間もなく見えるであろうそれと、そこで初めて顔を合わせることになる夫を思い浮かべ、テヘナの頬がうっすらと赤らんだ。

 この時は信じて疑わなかったのだ。

 夫との生活、そして王妃として送る日々が、順風満帆なものになるのだと。

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