第3話 千の夏を抱えて

 ここは、ツンと鼻につく塩の匂いが通り抜ける海沿いの苔が生い茂る寂れた港の埠頭。

 俺は、毎年夏の終わりになるとここに来る。

 耳を澄ませば、声がするんだ。天真爛漫な小さな彼女の声が。

 それはまだ幼い頃のひと夏の出来事の断片。


 「ふゆにぃー! 早くはいろー!」

「いいけど、ちー。そこから入るのは危ないぞー」

「だいじょうぶだよー! ふゆにぃ、こわがりすぎだよー! そーれ!」


 目の前の少女のちー、こと千夏はバシャーンと水飛沫をあげながら

 海へ飛び込んだ。


 ちゃぷちゃぷと海に浮きながら、陸地にいる俺、冬也を見上げる彼女。くしゃって笑う千夏の笑顔は、まるで向日葵のようだ。


「ふゆにぃもはーやーくー」

「わ、わかった。行くぞ……!」


 俺も彼女にならって、勇気を持って飛び込んだ。

 夏の灼けるような暑さも、海へ入ってしまえば、スーッと身体が冷たくなる。冷えるどころか、むしろ心地いいくらいだ。

 彼女は隣でケラケラと笑う。俺もつられて笑っていた。俺は物怖じしやすい性格で、何をするにも勇気が足りなかった。そんな中、現れたのが千夏だった。

 ここはあまり人が居ない地域で、外から来る人が珍しいと思う場所に引っ越してきたのが彼女で、年が2才しか違わないことと、家が近くに歩いて数メートルの位置ということで、俺が気づいた時には彼女が隣にいるようになっていた。

 何をするにも、そばにいてくれて、俺が物怖じしてると彼女はいつもニコニコしながら、知らない世界に連れてってくれる女の子。それが千夏だ。

 彼女は、言葉一つ一つが俺とは真逆だった。あれしたい、これしてみたい、興味を持ったことに対しては全力だったっけな。断片での思い出の海に飛びこんだのもそう。だけど、その後お互いの両親に怒られたっけ。それでもニコニコしながら、

 

「やってみなくちゃ、わからないもんだよ! ふゆにぃ!」


 そう言ってたっけな。

 

 でも、そんな彼女は、もういない。俺と出会って3年後、突然倒れて病院へ搬送された後に亡くなった。突発性の心臓の病気で、サヨナラなんて言う暇なんてなくて。遠くの世界に行ってしまった。


 ザザーンと、大きく打ちつけられる波の音を聴きながら思う。


「あぁ……、1度くらい俺がどこかに連れてってあげたかったな」


 あれから俺の両手の指では足りないくらいの時間が経った。そんな後悔が頭の中で、楔のように遺っている。

 きっとニコニコしながら、着いてきてくれるだろう。ふゆにぃって呼び方じゃなくて冬也兄とか呼ばれてたのかな。髪は長かったのかな、身長はどのくらいだっただろう。色んな未来が思いたつ。見たかったな、そんな姿も。

 そんな中、少し強い風が俺を避けて駆け抜ける。そして、夕暮れの刻、風の音と共にふと声がした。


「大きくなったね、ふゆにぃ。この海にいつも来てくれてありがとうね」


 俺は咄嗟に振り向くがそこには誰もいない。


「誰もいないよな。そりゃそうだ」


 俺は近くにある灯台を見上げる。

 その灯台と夕陽が重なって、海を橙色に染め上げる。

 その光が眩しくて、目を細める。すると、当時の千夏がそこにいた。


「ずっと、忘れないでいてくれてありがとう。でも、ふゆにぃには、もっと前を向いてほしいな。私ばかりじゃなくて。だから、私が言った事忘れないでね! やってみなくちゃ……」

 「わからないってな。大丈夫だよ」


 俺は胸に手を当てて、彼女を思う。これはずっとずっと忘れない。

 

「俺に勇気を踏みだす事を、教えてくれてありがとう」


 と。

 すると彼女はニッコリ笑って、瞬きしたら消えていた。

 例えこれが幻想でもいい。夢だとしてもいい。

 俺の中でずっと、生きてるよ。千夏。

 

 

 

 

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