第2話 煙

 冷たい空気を吸って、温かい息を吐く。そうして私は、ページを捲る。


『私の名前を呼んだ貴方へ、送ります。


 これはたぶん、私と貴方を綴った、手紙のようなものです。


 …手紙、というのは、報告をするためのものだと伺いました。

 

 まずは、私のことを報告しようと思います。


 私の一族は、常に鳥居に見られております。これは、私の曾祖父母が産まれてくる前から決められていました。私個人の力では、どうにもできないことです。


 しかし、まだ学生だった私は、鳥居の存在に反発心を抱いておりました。


 毎日視線を感じながら、朝に起きて、昼に勉強して、夜に寝て。

 一人きりの時間、というものを、産まれてこの方、感じたことはありません。見られていることが当たり前だった私は、一人きりを選択できるクラスメイトたちが、どこか遠い存在の人のように思えました。


 一族の風習のようなものは特にありませんが、私は日課として、毎日神社に赴きました。長袖とズボンを身に纏い、マスクをつけ、帽子を被り、一見不審者にも見える格好で、慣れた道を歩きます。

 

 私は、お参りが大好きでした。

 神社にある鳥居をじっと見つめていると、日頃見られている仕返しをしている気分になれたからです』


 書き綴る音が、何もない部屋に木霊する。


『…貴方と出会ったのも、あの神社でしたね。


 赤い鳥居の向こう側で、白いカーディガンが靡いたのを、今でも鮮明に覚えています。


 カラリとした風が、足元を吹き抜け、私は、ふと顔を上げました。

 瞬間、今まで感じていた鳥居の視線が、パッと消えたような気がしました。


 それくらい、視界に飛び込んできた景色は、衝撃的なものだったのです。


「ひい、お助けー!!!」


 なにせ、人がに襲われているところだったのですから。 


「うわあああ!!」


 私は慌てて、辺りを探りました。自身の背丈ほどある猫は幾度も見てきましたが、人に襲い掛かる猫に遭遇したのは初めてです。


 結局使えそうな道具はなく、私物を投げようとしました。

 しかし肩こりがひどく、ぐきりと嫌な音をたて、靴は地面を転がります。


 貴方は猫の尻尾に絡まりながらも、転がってきた靴に気付き、美しい所作で蹴り上げます。宙で回転した靴は見事、猫の鼻に引っかかり、猫は毛を逆立たせ、石畳を蹴って、一目散に逃げていきました。


「ぷっ…あははっ」

「え…あ…」


 固まる私に、お腹を抱える貴方。印象的な切長の瞳をさらに細め、目尻に涙を浮かべています。私は、急に笑い出した貴方にたじろぎ、猫のようにその場から逃げました。


「またね! 唯松さん!」


 名前を呼ばれたことに気づかず、私は走り続けました。



 あの日を境に、貴方を神社で見かけるようになります。


 神社には小さな池があり、貴方はいつもそこに石を投げ入れ、スゥと水面に溶けていく波紋を眺めていました。


 私は貴方の背中を見て、貴方がこの場から帰ることを願っておりました。一人きりを体験できる貴重な場所が、壊されたようで、鳥居に向ける視線と同じようなものを、貴方に向けていたのです。

 貴方は結局、私に気づかないまま、煙のように拭き消えてしまったのだけれど。 


 いつからかはわかりません。

 神社に貴方がいることが、当たり前となっていました。

 言葉を交わすことはありませんでしたが、なんだか、貴方が私の心を読み取って、寄り添ってくれるような気がして。私は貴方に応えようと、池に石を投げました。


 私たちは確かに、同じ場所で、同じ時間を共有していました。あの時間は、私にとって、触れることが臆病になる程、特別なものでした』


「もう、貴方はここにはおりません。『唯松さん』と、水紋のように響いた声は、もう、聞くことができません」


 唯松はペンを筆箱にしまい、ページをむしり取る。

 小さな石をくしゃくしゃの紙で包み、開けた窓から、庭の池に放った。


 ボチャ…と水の王冠が浮き上がり、丸めた紙が水に落ちる。

 紙はじわりと黒ずみ、池の底に溶けていく。


 唯松の姿は、部屋にはない。


 鳥居の影が窓ガラスに映る。

 蝋燭のように揺れている。

 影は左に大きく揺らぎ、

 そのままフッと、消えていった。


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