鳥居草子

かんたけ

第1話 ウサギ

 あるところに、から始まる物語は、一体いくつあるのだろう。


 ベッドに寝そべりながら、少女は手を翳した。

 

 天井には、お姫様の手を取る王子様がいる。パステルカラーの雲に埋もれながら微笑む彼らは、幸せそうだ。きっと、二人は今から、夢の国にある、大きなお城に行くのだろう。


「あーちゃん、一緒に、いきたかったな」


 胸に抱えていたスケッチブックを床に放る。ざらついた紙には、ランドセルを背負い、虹の中で踊る、「あーちゃん」の幸せそうな姿があった。


 少女の名は、晴瑠はる。留守番中の、小学二年生だ。

 あーちゃんとは、ハルの四つ上の従姉妹のことで、今日は遊んでくれない。


「ごめんねハルちゃん。明日は、ぜーったい、一緒に遊ぶから!」


 顔の前で手を合わせ、申し訳なさそうにするあーちゃんを思い出し、ハルは唇を尖らせる。あーちゃんは、同じクラスの人と遊ぶのだ。

 知らない人に囲まれるあーちゃんを想像して、なんだか身体中がむず痒くなり、ジタバタと暴れた。


「なんで、なんで遊んでくれないの! なんでなのあーちゃん。ハルのこと、きらいになっちゃったの?」


 ベッドからずり落ち、床で手足をばたつかせる。

 体が当たり、ランドセルからウサギのストラップが飛び出す。ストラップに気づいたハルは、先ほどまでの怒りはどこへやら、慌ててウサギに手を伸ばし、キャッチした。


「あぶなかったあ…」


 小さなウサギを抱きしめ、ほっと息を吐く。

 ぐっしょりと濡れたウサギに、靴下が泥まみれだったと思い出す。小雨の中、傘をささずに下校したせいで、全身ずぶ濡れになってしまった。札も濡れ、鳥居の前の箱も枯れている。それくらい、あーちゃんと遊べないことがショックだった。


「そうだ!」


 ハルは靴下を脱ぎ捨て、部屋から飛び出し、階段を駆け降りる。


「会いに行けばいいんだ!」


 そうと決まれば話は早い。

 右手に傘。背中には、お菓子・水筒・スマホを入れたリュックサック。

 お気に入りの長靴に足を入れ、鼻息荒くドアを開ける。


 途端、ザァと冷気が吹き抜け、肺が雨の香りで満たされた。

 玄関という境界線の向こうで、細い糸のような雨が紫陽花を揺らしている。紫陽花の下には鳥居がおり、雨宿りをしているようだった。


「ウサギさんも、一緒に行こう」


 ポケットの膨らみに手を当て、ハルは頷く。


「いってきまーす!」

「行ってらっしゃい」


 ウカは狛犬にお辞儀をし、意気揚々と走り出した。



※※

 あーちゃんは、意外と早く見つかった。


 ハルは彼女たちを見て、慌てて電柱の裏に隠れる。

 なぜなら、同級生と話すあーちゃんが、知らない人のように思えたからだ。


 ハルと遊んでいる時の彼女は、もっとかっこよくで、面白くて、優しい、完璧なお姉さんだ。男子の前でたじろぐような、弱い人ではない。


 この前の休みの日だって、あーちゃんはハルを公園に連れていって、遊んでくれた。一緒に、砂の山の作り合いをした。あーちゃんの作る山は、苔や砂利を使った、本格的な山で、そこまでしなくても…と距離を取った記憶がある。

 彼女は、他の子に山を壊されてもへこたれず、背中の後ろで中指をたてながらブランコを譲るような、優しくてかっこいい人だ。断じて、他の子を見て照れたりするような、頼りない人なんかじゃない。


 ハルはあーちゃんを疑った。本当は別人ではないかとも思ったが、ハルと同じウサギのストラップを持っているので、本人なのだろう。


 あどけない顔を武将のように渋くしたハルは、このままあーちゃんたちを見張ることにした。

 彼女たちはハルに気づいていない。ハルの足音も、気配も、雨の音に紛れている。


 気づかれそうで気づかれない、小さなスリルに、ハルは楽しくなっていた。



※※

 尾行を続けて分かったことは一つ。

 あーちゃんが、ハルが思うような素敵なお姉さんじゃなかった、ということだ。


 ブランコを立ち漕ぎしながら、ハルはため息を吐く。


  水滴が落ちる。雨は、尾行を始めた頃よりもひどくなっている。


 男子と一緒に、コンビニでお菓子を買っていたあーちゃん。公園に行って、二人でお菓子を食べていた。チョコレートがあーちゃんの頬についているのを、男子は笑って教える。あーちゃんは真っ赤になって、ハンカチでゴシゴシと拭った。

 市役所の森林公園を、男子と一緒に歩くあーちゃん。つまづいたのを、男子が助けていた。あーちゃんはまた真っ赤になり、転んだ。男子はあーちゃんに手を差し出し、引っ張り起こす。まるで、物語の王子様のように。


 どのあーちゃんも、かっこよくなかった。お姫様みたいだった。

 終始真っ赤なあーちゃんが頭の中を通り過ぎ、視界が歪む。


 

 イメージが崩れていく。


「……あーちゃんは、ハルの王子様なのに。…え」


 雨風に頭を叩かれ、空想から現実に引っ張り出される。


 下を向いたハルは、視界に広がる光景に、目を見開いた。


 地面が、ない。

 水溜りが膨れ上がり、公園を水槽に変えたのだ。排水溝に向かって、無数の小川が流れている。砂場のシャベルやゴミ袋が、水面にぷかぷか浮かんでいた。


「ひっ…」


 傘が吹き飛ぶ。ハルはブランコの鎖を握り、しゃがみ込んだ。途端に迫る水面に、今度は立つ。いくらか水の気配が離れ、ハルは喉を鳴らした。

 気を抜けば、飲み込まれる。

 ふと、体の感覚が離れる。暑いのか、寒いのかわからない。冷や汗は雨に流された。叩きつけるような風に、目を瞑る。


 怖い  誰か


 口が震えて声が出ない。耳元で轟轟と雨音が響く。あーちゃんの姿が脳をよぎり、ハルは首を振った。


 王子様は、もういない。大好きなあーちゃんは、お姫様だった。


 助けてくれる人なんかいない。お父さんもお母さんも、仕事ばかり。あーちゃんは、あーちゃんを大切にしてくれる王子様のもとで、幸せになった。今も、虹の向こう側で、王子様と踊っているんだ。スケッチブックに描いた、絵みたいに。


 ハルは、ひとりぼっちだ。


「……まけないもん! わたしが、王子さまになるの!!」


 ブランコにしがみつきながら、ハルは叫んだつもりで、口を小さく動かす。長靴は、すでに水面に触れている。

 魔法の力なんてない。鳥居はただ見ているだけ。絵本のようなことは起こらないのだと、ハルは幼い時から知っている。だから。


 傘の裏につけていたお札を二つにおり、紙飛行機のように飛ばす。雨の影響を受けないそれは、快晴の空を泳ぐように、小さくなっていった。


 両親から言われていた、身を守る方法。札さえ破れなければ、大丈夫らしい。


 気が抜けた瞬間、一面の空が見えた。ハルは、ブランコから手を離していた。強風に煽られ、体制を崩したのだ。

 水面が長靴を飲み込み、ポケットからウサギが飛び出す。ハルの指先に触れたストラップは、音を立てて離れた。

 鯨のようにうねる雲を、眺める。



「見つけた!」


 どこからともなく、声が聞こえ、ハルの視界に大きな手が映った。

 あの手は、何度も見てきた。ペンダこでゴツゴツした、かっこいい手。砂山や、折り鶴を作ってくれた、器用な手。ハルと手を繋いでくれた、優しい手。


 ハルはその手に、自身の手を重ねた。


ーー大好きな、あーちゃんの手だ。


 引かれるままに、身を任せる。視界が真っ暗になったが、怖くはない。優しい暖かさに顔を埋め、ハルはあーちゃんの背中に手を回した。


 あーちゃんと呼ばれた少女は、小さな従妹にロープを回し、強く抱きしめる。

 ギリギリだった。鳥居を潜り切る前で、本当によかった。おかげで、届いた。


「よく頑張ったね、ハルちゃん」


 誇らしげに笑うハルに、あーちゃんはグーサインを送る。そして、額に流れた汗を振り払い、遠くでロープを持つ人たちに手を振った。


「和森おじさん、春美おばさん、ハルちゃん無事です! 引っ張ってください!」

「わかった!」「ええ!」


 雨が乾き、日が暮れる。

 今日が終わっていく。


 眠る寸前、ハルはあーちゃんの横顔を見た。

 傘をささなかったのか、彼女はずぶ濡れだった。

 あーちゃんは、ハルが思っていたよりも髪が長く、頼もしかった。



 王子様は、もういない。


 お姫様も、必要ない。


 結局、ハルはが大好きなのだ。


「あーちゃん、わたし、お腹すいた」

「うーん。じゃ、帰ったら何かお菓子つまもっか。おじさんと、おばさんには内緒でね」

「うん!」


 ハルはウサギの頭を撫で、笑う。

 二人のポケットの中で、お揃いのウサギがくるりと回った。

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