第3話 歌

 彼女はいつも、歌っている。


 勉強をするときも、運動をする時も、カップラーメンを啜る時もそうだ。歌詞は全くわからないが、鈴を波に放ったような声で、ずっと何かを口ずさんでいる。


 私は何を言うでもなく、彼女の様子を観察し、札に報告する。


 歌に興味はないけれど、気に入った曲調が耳に流れ込んできたら、私は彼女のそばに行って、ちょっとだけ歌を聞く。たまに歌詞を口ずさんだり、踵を鳴らしたりして楽しむが、彼女は私を一切気にしない。

 相変わらず、誰に知られることもないのに歌を喰み、踊って、光に浸っている。


「ねえ、その歌変だね。なんで歌っているの?」


 木漏れ日がカーテンを捲り上げたとき、一瞬だけ彼女が見えた気がして、私は問いかけた。

 木枯らしが止み、また景色の中に彼女だけが浮き彫りになる。

 彼女は、何を言うでもなく、歌い続けている。


「…ねえ、私の話聞いてる? ねえ、ねえってば」


 私は懸命に話しかけたつもりだったが、口から出たのはお婆ちゃんのようなしわがれた声で、思わず口をつぐんだ。

 他、他に方法があるはずだ。彼女の肩に手を伸ばしてみたりもした。騒音を出して歌を邪魔した。散らかった勉強机を掻き分けて、時には椅子を投げたりして、教室を荒らした。

 日が暮れかけているのにも気づかず、ほのかに頬の赤らんだ彼女を、夢中で睨みつけていた。


「…あ、あ」


 掠れを知らない喉が鳴る。

 ふと、彼女と目があった。汚れを知らない純粋な、水晶玉のような目だ。


 私の顔はカーッと赤らみ、体は尻餅をついていた。変に切り分けた髪を片手で潰して、視線を落とす。

 少女の中に映った自分が、どうしようもなく、惨めに思えたのだ。


「…な、なんで、歌ってるの。いみ、ないでしょ」

「意味?」

「そう、意味! 歌う理由のこと! そんなことも、わからないなんて」


 楽しいからだとか、意味なんてないよだとか、彼女は笑って言うのだろう。けれど私はそれを嘲笑い、馬鹿はここじゃあ生きてけないよ! とアドバイスをしてやるのだ。彼女の楽観的な顔を殴り飛ばし、強者の戯言だと笑うのだ。そうして、ズタズタになった彼女を蹴って、札を貼り、私はまた別の教室に向かう。

 ハミングをしながら机の山をトントン、と降りてくる彼女に、私は今か今かと口を開閉する。


 まあるい目をキュッと細め、彼女は私を視界に入れた。


 しかし、彼女は私の横を過ぎ、こともなげに教室の鳥居をくぐる。ふわりと揺らいだ髪からは、何も漂ってこなかった。


「歌を聞いてくれて、本当にありがとう」


 お札を回して、彼女は笑う。私はポケットに膨らみがないことに気づき、口を開けた。


 彼女は去る。一瞬見えた顔は蒼白で、身に纏うスーツが、不相応に見えた。


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