バッハを弾く女
増田朋美
バッハを弾く女
今日もまた暑い日であった。でも、朝と晩はだいぶ涼しくなって過ごしやすくなっている。毎年夏は、やってくるけど、何故か強烈に印象に残ってしまうのは、なぜなんだろうか。とりあえず、今年も日中は暑いが、日がかげると涼しく、そして寒い季節に変わっていくのだろう。
その日、杉ちゃんたちがのんびりと製鉄所で食事をしていると、
「こんにちは。右城先生はいらっしゃいますでしょうか?」
と、玄関先でこえがした。
「だれだろう?」
杉ちゃんが言うと、
「僕ですよ。桂です。今日は、先生にぜひ聞いてほしい演奏者を連れてきましたので、先生、ご指導を願います。」
やってきたのは浩二くんであった。やれやれ、いつものことですか、と、杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。
「はい、お入りください。大丈夫ですよ。怖い先生とか、そういうことは全くありません。前のお教室でかなりひどいことを言われたようですが、そんなことは全くありませんから、大丈夫です。」
浩二くんと一緒にやってきたのは、若い女性であった。まだ、二十歳そこそこである。だけどその表情は、とても引きつっていて、なんだか、周りの人に恐怖を持っている様子が見て取れる。服装は、ジャージを着ているが、適当に身に着けているような感じがする。
「名前は持田敦子さん。弾いていただく曲は、バッハの平均律クラヴィーア曲集から、10番のホ短調です。さあどうぞ。」
浩二くんに促されて、持田敦子さんは、水穂さんのピアノを弾いた。確かに、弾いたのは、平均律クラヴィーア曲集から10番の、前奏曲とフーガの2曲である。平均律クラヴィーア曲集では、比較的簡単と言われる曲であるけれど、バッハ先生、さすがである。ひきこなすにはかなり技術がいる。
弾き終わると、杉ちゃんも水穂さんも、拍手した。
「確かに雰囲気はよく出てるし、演奏技術もあるとは思うんですが。」
と、水穂さんが、言った。
「もう少し、柔らかい音で弾いて頂いても良いのではないでしょうか。弾くことに一生懸命になりすぎていて、音楽を楽しむことを忘れてしまったような演奏です。」
「そうなんです。右城先生、よく見抜いてくださいました。僕も彼女には何回もおんなじことを言いましたが、ちっとも治らないので、それなら右城先生に見ていただこうと思って連れてきたのですよ。」
と、浩二くんがいった。
「はあ、いったいどういう経歴なの?彼女は。前のお教室とは違うと彼女に言っていたけど。」
杉ちゃんがすぐ口をはさむと、
「はい、音大を一度は目指そうとしていたようで、音大の先生にも習ったようですが、何でも受験前に自信をなくしてしまい、とじ込もってしまったようです。」
と、浩二くんがいった。
「音大ってどこの?芸大か?」
「いえ、武蔵野だそうです。昔は名前が知れていましたが、いまは、他の音大に押されて、だんだんに生徒の質が悪くなってしまっているため、先生方も躍起になっているようです。」
「はああ、なるほどね。」
浩二くんの話に杉ちゃんは腕組みをした。
「確かに、ちゃらんぽらんな生徒ばかりで、先生がやたら威張っているのは聞いたことある。それに、やたら自尊心ばかり強いやつばかりで、なかなか友達ができないとかきく。」
「そうでしょう杉ちゃん。」
と、浩二くんが言った。
「だから、彼女にもう一度音楽を楽しんでもらえるように、お母さんから依頼があったんですよ。それで僕が稽古しているんですが、彼女、ほとんど口を聞いてくれないんですよ。僕たち音楽家を怖い人だと思ってしまっているのでしょうか。それではまずいですから、連れて来たのですよ。」
「お話はわかりました。じゃあ、もう一度、前奏曲から、弾いて見てください。音が違うところなどあれば、直していきましょう。」
と、水穂さんが優しく言った。敦子さんは、もう一度、10番を弾き始めた。
「もっと明るい感じの曲をやらせたほうが良かったのでしょうか。僕も何回も説得しましたが、彼女、短調の曲しかやりたがらないんですよ。一度、月の光をやらせましたが、全く硬い演奏になってしまいましてね。気持ちを明るくしてもらうには、長調作品のほうがいいですよね。」
浩二くんが、ちょっと不服そうに言った。確かに短調の作品は、暗いとか重いとか、物悲しい感じがする。
「ほんなら、シャコンヌとかやれば?」
と、杉ちゃんが言った。
「シャコンヌニ短調だっけ?あれなら
向いてるかもよ。彼女は長調作品には全く向いてない。それなら、彼女の良い方を開花させてやらなくちゃ。」
「あれは、ブゾーニによる編曲作品で、バッハの正式な作品ではありませんが?」
浩二くんは、ちょっと驚いていった。
「いや、いいんじゃないですか?シャコンヌニ短調、良いと思いますよ。弾くのには時間かかるかもしれないけど、勉強になる作品だとおもいますよ。」
水穂さんもそういった。
「そうですね、大丈夫かな?」
浩二くんが、心配そうにいうと、丁度、平均律クラヴィーア曲集のフーガが終わった。
「ええ、次の課題曲として、シャコンヌニ短調をやってみてください。かなり長い作品ですが、あなたなら、できると思います。」
水穂さんが、そういうと、敦子さんは、シャコンヌニ短調と、メモ用紙に書いた。
「版は全音でも外版でもいいです。音が取れれば気にしないので。」
意外そうに浩二くんが、水穂さんをみた。
「版の指定をしないなんて、右城先生も変わってますね。全音は、安かろう悪かろうだとよく言われるんですが。」
「まあ、そんなのどうでもいいじゃないか。音さえ取れればそれでいいのさ。だって内容は皆同じなんだから。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。
「じゃあ、また、レッスンに来てください。日付は他に生徒さんがいないので、いつでも好きなときに、来ていただければ。」
水穂さんが優しくそういうと、持田敦子さんは、水穂さんのことをじっと見た。私のことを捨てない?とでも言いたげな顔だった。
「大丈夫ですよ。簡単に捨てるとか、もう来るなとか、そんなことは言いませんから。先程は、ちょっときついセリフを言ってしまいましたが、演奏技術もかなりある方だと思いますし、きっとシャコンヌも弾けるのではないかな。」
水穂さんは、にこやかに言った。
「よし、なんかあだ名をつけたほうがいいな。名前は持田だったよな。よし、もーちゃんとよぼう。」
杉ちゃんがそういったため、彼女には、もーちゃんというあだ名がついてしまった。もちろん、彼女のことを親しみを込めて呼ぶためである。他の著作物で知られているあだ名でもないし、作曲家モーツァルトを茶化したわけでもない。
そのもーちゃんは、週に一度、バッハのシャコンヌの楽譜を持って、製鉄所に現れるようになった。初回のときは、緊張しすぎていたのか全く喋らなかったのに、次第に声を出すようになってきて、普通に話をするようになった。あるときは浩二くんがついていないで、一人で来訪したときもあった。ただし、どうやって、製鉄所に一人でやってきたのかを聞くと、バスで来たとか、タクシーで来たとか、そういう曖昧な答えしか返ってこない。杉ちゃんなどは細かいところは気にしない性分なので、何も気にしないで過ごしていたが、あまりに頻繁に製鉄所にやってくるので、ちょっと、変だなと水穂さんは思うようになった。
ある日、もーちゃんが、日本バッハコンクールと書かれたパンフレットを持って、製鉄所にやってきた。にこやかに笑って、彼女は水穂さんにそのパンフレットを見せた。
「日本バッハコンクール?」
水穂さんがパンフレットの表紙を読み返して言った。
「はい。バッハの音楽を、専門的に演奏するコンクールだそうです。ちょうど、バッハのシャコンヌをやっていることもあって、その曲がとても派手な曲であることもあって、出てみたいと思いました。一度、運試しをしてみたくなったんです。もちろん、音大の先生についているときより、下手になっているとは思うんですけど、でも、今のままの私を、正当に評価して頂いても良いかなって。」
と、もーちゃんは言った。
「わかりました。しかし、シャコンヌは、バッハではなくブゾーニによる編曲作品ですが、それでもよろしいのですか?」
水穂さんがそうきくと、
「ええ。私もそこが不安だったので、主催者にメールで問い合わせたところ、自由曲であれば大丈夫だそうです。」
と、彼女は答えた。
「はあ、それじゃあ、課題曲もあるの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい。あります。ここにも書いてあると思うんですが、課題曲は平均律クラヴィーア曲集からであれば何でもいいそうです。」
もーちゃんは答えた。
「しかし、そうなるとかなり難易度の高いコンクールになりますね。平均律クラヴィーア曲集もかなり高度な技術が要求される曲もあります。それに前奏曲とフーガの二曲演奏しなければいけません。それに、15分近くあるシャコンヌを弾くわけですから、あなたもかなり体力が要るのではないでしょうか?」
水穂さんがそう言うと、
「ええ、それは大丈夫です。こないだまでやっていた10番をやればいいじゃないですか。それに、平均律のなかで一番簡単なのは10番だと仰っていたのは、右城先生ですよね?それに私、賞が欲しいとか、そういう気持ちは全くありません。ただ、自分の運試しをしたいだけなんです。」
もーちゃんは、素人らしく言った。
「しかしですね。コンクールで一番簡単な曲を弾くのは、ずるい手だと言われて減点されるおそれがあります。なので、音楽学校の受験でも不利になるから使用しないんですよ。それに予選の開催日は、来月のようですし、今から平均律クラヴィーア曲集から選び出して、やるとなっても、非常に難しいのではないですか?」
水穂さんがそう言うと、
「ええ。そうかも知れないですけど、私はコンクールに出られればそれで満足なんです。それ以外に何もありません。先生は、それもいけないことだとおっしゃるんですか?音大受験なんてとうの昔に諦めました。だけど、運試しをしてもいいじゃありませんか。」
と、彼女は言った。
「お前さんも変わったな。初めてきたときはやたらおどおどしていて、なんかこいつ大丈夫かなって笑っちゃうくらいだったのに、そんなに積極的にコンクールに出てみたいなんて。なんか、単に運試しをするだけの目的じゃ、シャコンヌは大曲すぎると思うけど。なんか、綱渡りをムリヤリさせられている様に見える。」
杉ちゃんがそう言うと、もーちゃんは、決然としていった。
「そんな事ありません。ピアノサークルでも大曲をやりたがる人もいるそうですし、素人がシャコンヌやったっていいじゃありませんか。それでね先生。いつも週に一回レッスンにこさせて頂いているんですけど、今度から、3日に一度はこさせてもらってもいいですか?先生がいう通り、シャコンヌも平均律クラヴィーア曲集もまだちゃんとできてないし。もしレッスン料が必要なら、ちゃんと払います。だから、先生お願いします。私のこと、ちゃんと見てください。」
「水穂さん体は大丈夫なのか?」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは小さく頷いた。
「わかりました。じゃあこれからは3日に一度来てください。平均律クラヴィーア曲集は10番で構いませんが、その代わり派手な演奏効果などが得られないので、賞には届きにくくなると思ってください。」
「ええ。わかりました。あたしは、それだけでも構いません。先生ありがとうございます。嬉しいです。」
その顔に嘘はなく、彼女はレッスンに来られて嬉しいという顔をしていた。その顔を見て、杉ちゃんと水穂さんは、彼女にレッスンしてあげようと思った。
「なにか事情でもあるのかい?こっちへ来られなくちゃ行けない事情。」
杉ちゃんが思わずそうきくと、
「いえ、そんな事はありません。ただ私は、普通に生活しています。それでいいじゃありませんか。先生だって、レッスンする相手がいれば、生きがいが出ていいでしょう?」
と、彼女は言うのだった。
「はあ、隠し事は行けないぞ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「隠し事なんかしてませんよ。コンクールに出て、もう一度運試しがしたくなった。それだけのことですよ。あたしはもう、音大は行けないけれど、その代わりのものはこうして溢れているんですから、良い世の中になったものですわ。」
と、もーちゃんは言った。
「じゃあ、次回は、三日後の一時に来ていただけますか。曲が増えて大変になると思いますが、頑張って練習してきてくださいね。」
水穂さんがそう言うと、
「はい。出来の悪い弟子で、本当に申し訳ありませんが自分にできる範囲でがんばります。よろしくおねがいします。」
もーちゃんは改めて水穂さんにお願いし、
「今日はバスで帰りますから、それで大丈夫です。本日もありがとうございました。」
と、いって立ち上がった。そして、カバンを持ってそそくさと製鉄所を出ていった。
「あれえ、あの人、上着を忘れてった。まあ、まだ暑いから、忘れていったんだろ。彼女の住所は確か、」
杉ちゃんが、彼女がレインコートと兼ねた薄コートを忘れていったことに気がついた。
「ええ、浩二さんのお話によれば、彼女は船津というところに住んでいるそうですね。船津行のバスは、一時間に一本しか走っていないはずですから、まだ、くるまで30分近くあります。多分、バス停の近くでウロウロしているんじゃないかな。」
水穂さんがそう言うと、
「それなら、車椅子でも行けるや。直ぐ行ってくるよ。」
と、杉ちゃんが急いで出かける支度を始めた。
「ほんとにすみません、お願いします。」
水穂さんはつかれた顔で杉ちゃんに言った。杉ちゃんは、はいわかったよと言って、彼女のコートを持って、すぐに製鉄所を出ていった。製鉄所を出て、富士山エコトピアというゴミ焼き場兼、観光施設の近くにバス停はあった。この施設は、ごみ焼き場だけではなく、環境にまつわる博物館や、ちょっとした文化センターのようなものがあり、結構利用者が多くて、複数の行き先のバスが通るようになっている。富士駅行のバスなら本数がかなりあるが、船津行のバスは、本当に少ないので、まだ彼女は待っているはずだと杉ちゃんは思った。
杉ちゃんがバス停に行ってみると、彼女は、そこにいた。
「おーい!レインコート忘れていっただろ?お前さんもおっちょこちょいだな。これからは忘れないように気をつけな。」
と、杉ちゃんが言うと、彼女はぎょっとしたような顔をした。
「そんな顔しないでよ。なんで、そんな顔してんだ。」
杉ちゃんに言われて、もーちゃんは、申し訳無さそうな顔をして、
「杉ちゃんお願い、今日の事は、絶対誰かに他言しないでください。そうでないと、あたしが後で大変な、」
と思わず言ってしまった。
「それじゃあ、お前さんはここに来ていることは、ご家族に内緒なの?」
杉ちゃんがそういうと、もーちゃんは黙って頷いた。
「ご家族って、誰?」
杉ちゃんがそう言うと、もーちゃんは絶望したような顔で、
「杉ちゃんのことや、右城先生のことが知られたら、あなたまでやられるわ。」
と言った。
「はああ、なるほど。」
杉ちゃんは少し考えて言う。
「つまり、お前さんにはご主人がいるってことだね。」
「そうなのよ。もう帰ってよ!あなたがここに居たら、あたしがあなたと不倫関係ということになってしまうの。あたし、ここに来ているのは、その人から逃げるためで。」
もーちゃんはえらく慌てたように言った。
「そうなんだね。お前さんは、夫と別れるべきだ。」
杉ちゃんはきっぱりと言った。
「杉ちゃん、車椅子でしょ。そうなったら、主人に叶うはずも無いわよ。」
もーちゃんはそういうのであるが、杉ちゃんは平気だった。
「だって悪いやつは主人のほうだろ。それなら、なんとか、ごまかしてやめさせてやる。」
「でも口で言ったって、分かる人じゃないわ!」
もーちゃんがそう言うが、杉ちゃんは何も変わらず平然として、そこにいた。もーちゃんとしてみたら、早く帰ってもらいたいようであったけれど、杉ちゃんは口笛を吹いて平気な顔でいた。
しばらくして、赤いセダンが二人の前に現れた。確かに、身なりの立派な男性が、運転席に乗っている。もーちゃんは逃げようと思ったようであるが、それより早く、見つかってしまった。
「あなた、一体どこの誰ですか?うちの持田敦子と、何をしているんですか?」
「僕の名前は影山杉三であだ名は杉ちゃんだよ。杉ちゃんって呼んでね。」
と、男性に聞かれて、杉ちゃんはしたり顔で答える。
「敦子はピアノレッスンに行っているはずですけど、あなたは敦子をたぶらかして、なにかしているんですかね。」
男性は、そう聞いてきたので杉ちゃんは、
「何もしてないよ。ただ、彼女が、コンクールで運試しをしたいというので、ピアノを教えているだけのことだよ。」
と、あっさり答えてしまった。
「それにお前さん、敦子さんを、常にそばに置きたいようだけど、それは無理な話だからね。僕も意思があるし、やってみたいことだってある。伸子さんだっておんなじことだ。今度、彼女はバッハコンクールに出て運試しするんだって。ぜひ、応援に行って上げてね。まあ、なんで俺の目を盗んでピアノやっているのかなんて腹をたてるかもしれないが、彼女はお前さんのお駄賃でちゃんと生きているんだから、そこを忘れずに居てくれれば、彼女は素晴らしい演奏をするぜ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。隣で敦子さんがとても怖いという顔で、杉ちゃんを見ているが、
「大丈夫だよ。彼女はお前さんから離れていくことは無いよ。だからお前さんも、穏やかに話すってこと考えよう。そりゃみんな、誰だって寂しいという感情は持ってるさ。でも、僕みたいに、脳天気に生きているやつもいるんだからさ。少しでも僕達よりはマシだと思ってくれたら嬉しいな。」
「そうだねえ。まあいい、とりあえず乗れ。」
杉ちゃんがそういうと、敦子さんの夫は、彼女を車に乗せた。
「また三日後に、待ってるぜ!」
杉ちゃんは手を降って見送った。
バッハを弾く女 増田朋美 @masubuchi4996
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