呪詛 18

「七年くらい前にお母さんが飲酒運転の事故でバッカみたいに死んで、それで見つけたのが、あのテープです。びっくりしましたよ。その時初めて、私にもおじいちゃんやおばあちゃんがいるって知ったから。私はずっと、お母さんとお母さんが連れてくる大人の男の人と三人の生活しか知らなかったんですから。おじいちゃんって、何? おばあちゃんって何? って思いましたね。それに、お母さんが死んだ後、私を引き取ってくれたおじいちゃんとおばあちゃんは、学校の先生をしているからなのか、めちゃくちゃ厳しくて、漢字ドリルとか、計算ドリルとか、無理やり勉強させられて、学校なんて行ったことないから分かるわけないのに、こんなこともできないのかぁ! って、間違えると竹刀で叩くんですよね、床や壁を、バシーンって。木下家の恥さらしって言われて、普通になるようにって、躾をされて。それで蔑むような目で私を見て言うんですよ。お前はろくでもない男とウジ虫のような娘の間にできた可哀想な子だって。最悪でしょ? 


 だから、そんな世界から逃げるように、お母さんが昔使ってた部屋の押し入れにいつも入ってました。押し入れで育ってきたから、押入れの中が一番落ち着くんですよ。暗闇で、何も見えないからいつでも眠っているような気分になれて、見たくないものは見えないし。それに空想の世界の中では、優しかったお母さんの姿が見えて、押し入れだけが唯一の居場所みたいで。完全に母親の呪縛に囚われてるって、今なら分かるけど、あの当時はそんなこと思いもしなかった。ただ、お母さんに会いたかったんですよ。空想の中でも。でも会えなかった——もう、死んじゃってるから。


 毎日毎日否定的な言葉を浴びせられながら普通になれと言われて育ち、引き取られて二年くらい経った頃、何かのきっかけでスイッチが入った私は、おじいちゃんたちの目の前で手首を切ってみたんですよね。血がたらたらたらたら流れて、リビングの白い絨毯の上に落ちて……あの時のおばあちゃんの顔は今でもはっきりと思い出せる! あはは! それを見たおばあちゃんなんて半狂乱ですよ! やっぱり出来損ないの子は出来損ないだとかなんだとか嘆いて、それで、私を無視し始めた。いないもののように扱って、ご飯という名の餌を与えるだけの保護者になった。だから、私は、また一日中押し入れに入って生きてました。あ、可哀想、霧野さん今、そう思ったでしょ? 顔に出てますもん、心の声がわかりますよ。


 でもね、押入れの中が一番落ち着くんですよ。だから、押入れの中に詰まっているものを出してしまおうと思って、だって、そのほうが私の住んでいた押入れの広さに近くなるような気がしたんですよね。だから押入れから一個ずつ段ボールを出して行って、それで、偶然見つけたのがさっきのビデオテープです。ご丁寧にカメラの箱に入れられて、押入れの一番奥にしまってあったのを見つけて、それで、これなんだろうって思って、学校にも行ってなかったから時間はたっぷりあるし、電源を入れて再生ボタンを押したら、さっき見せた映像が流れてきたんですよね。びっくりですよね。だって、もう会えない若い頃のお母さんの笑ってる顔が映ってて、とっても楽しそうで。夢中になって何回も巻き戻して見ていたら、その先があって女の子の動画が映ってて。あ、これ私もされてたって思い出して、一瞬にしてその時のことがフラッシュバックしました。だから怖くなって、それでミヨちゃんに連絡したんです。そこから全てが始まった——」


「ですよね?」と木下さんはレイコさんに聞く。


「違うの、あのね里香ちゃんこれは——」

「違わないでしょ? だって、そうじゃなきゃ、孝哉君も、私のところにやってこなかったっ!」


 大きな声を出してから、木下さんは「はぁ〜」と息を吐き、また話し始める。


「良雄さん、洗脳って、マジで怖いですよ。家から一歩も外に出ちゃいけないって教えられて育った私は、それを真にうけて、なかなかその洗脳から抜け出せなかったんですよねぇ。今なら冷静に考えてわかります。死んじゃう前の私のお母さんは、不良品のような母親で、まともな男と付き合えない女だったんです。髪の毛を鷲掴みにされて暴力を振るわれて、それに依存していくような、そんな母親——。


 学校の先生をしている両親がいるにも関わらず、いつからそんなことになったのかなんて知らないですけど、狂気に満ちた生活が好きな人だったんですよ。最低な母親です。そんな母親に育てられた、いや、育ててもらってなんかないか、飼われていた私は外に出ることも許されず、押入れの中に住んでいて、それが普通なんだと思って生きてたんですよ。躾と言う名の暴力、たまに貰える餌と言う名の菓子パン。一緒に住んでる男と私を躾るんですよ。男にお前がやれと言われれば、ごめんねごめんねと言いながら、黒い皮のベルトで鞭打って私を躾るお母さんは、たまに口元が微笑むんですよね。ふふふって、まるで笑ってるように、ふふふって、口元が少し緩むんですよ。気が狂ってるって今ならわかるけど、当時の私はそれが普通なんだと思ってた——」


 淡々とそこまで話を続けた木下さんは、「それに——」と酷く顔を歪ませて「ある時から、新しい男ができるたび、自分の男に私を捧げ物のように与えた」と言った。


「それを見てるんですよね。可哀想って顔をして涙を溜めて。わかりますぅ? 霧野さん、想像できますかぁ? 可哀想って時々言いながら涙を流し、それでも口元は緩んで見えるんですよ。ああ、可哀想可哀想、小さな娘が男に犯されていてそれを見ているわたしが可哀想って、涙を流しながら口元は緩んでるんですよ。それを見た私は、お母さんが泣いてて可哀想って思うんです。バッカみたいでしょ? 可哀想なのは、私なのに——」


 辛い過去の話なのに、それを淡々と話す木下さんを見て胸が苦しくなってくる。そんな状態の彼女を、誰も、助けようとはしなかったのか。家庭という狭い密室の中、外の世界を知らずにそれが普通だと思って生きてきただなんて——


 ——可哀想。


 心の中で呟いた後で、その言葉に違和感を感じた。私が今思った可哀想は、木下さんの口から何度も聞かされた『可哀想』と何が違うのか。その答えがわからないで探している間にも、木下さんは話を続ける。


「そんなある日、お母さんが家に帰ってこなくなったんですよね。どっか別の男のところに行ったのか、なんなのか、それはそれは全然家に帰ってこなくて。あれは確か、私が十二歳くらいのことだったかな。躾という名の暴力で支配され、ある種の洗脳状態だった私は、家から出たらいけないという言いつけを守って外に出かけることもなく、ただ大好きなお母さんを待っていたんですよ。


 だって勝手にテレビは見てはいけないし、お母さんと私、大人の男、それだけが私の世界だったんだから。だから、ずっと待ってたんですよ。古い木造アパートの二階で窓の外をずっと眺めながら。お母さんまだかなって、そう思って。もしも帰ってくるのが見えたらすぐに押し入れに入らなきゃと思って、押入れの襖を開けたままで、ずっと待ってたんですよね。でも、全然帰ってきてくれなくて、食べるものもだんだんなくなってくるし、外は雪が降っていて、ストーブは火を使うからつけちゃいけないし、寒くて寒くて、何日か経ったある日、お母さんはどっかで道に迷って帰ってこれないんじゃないかと思って、それなら探しに行ってあげなくちゃと思って家から一歩出たんですよね。鍵のかかっているドアを開けて、恐る恐る一歩外に。


 びゅう〜っと冷たい風が吹き抜けるアパートの廊下に裸足で出ると、家の中とは違う冷たさの空気がそこにはあって、息をしたら、ぶわぁって白い煙が沢山自分の口から出るのを見て、初めて自分の身体がここにあるって思ったんですよ。バッカみたいでしょ? 身体がなかったら生きてるわけなんてないのに。それでもその時、そう思ったんですよね。あ、身体がここにあったって。それで、はっと、言いつけを守ってない自分に気がついて。外に出たことがバレたらお母さんに怒られちゃうって思って、辺りを見渡してから家に入ろうとした時、声をかけてくれたのが、顔に大きな火傷の跡がある優しいおばちゃんで。それが、ミヨちゃんだったんです。


 裸足で立っている私にミヨちゃんが、大丈夫? って声をかけてくれて、お母さんに怒られるから嫌だという私の腕を無理やり引いて、ちょっとうちにおいでって言って、自分の部屋に連れて行ってご飯を食べさせてくれたんですよね。それからお母さんが事故で死ぬまでの三年間、ミヨちゃんは私を何度も助けてくれました。お母さんが何日も帰ってこないと、こっそり家を抜け出してミヨちゃんの家に行くんですよ。隣の隣のそのまた隣の部屋がミヨちゃんの部屋で。窓からお母さんの姿が見えないか覗きながらご飯を食べて、食べ終わると急いで家に戻っていく。そうやって、ミヨちゃんに助けてもらったんです。それが、お母さんが死んで、おじいちゃんとおばあちゃんの家に引き取られてからミヨちゃんには会えなくなってしまった。最悪でした。お母さんがいなくなったことも最悪だけど、大好きなミヨちゃんに会えなくなることが本当に最悪でした。ただ救いだったのは、ミヨちゃんが、何かあったらいつでも電話してきていいよと、お守り袋に電話番号の書いた紙を入れて、私にこっそり持たせてくれていたと言うことです。電話のかけ方なんて知らなかったから、だいぶ時間が経ってからしか電話できなかったけど、でも、大事に取っておいて良かったと思いましたね。


 あのビデオテープを見つけた日、中身を見た私はものすごく怖くなって、おじいちゃんたちが仕事に行っている間に、こっそりとミヨちゃんに電話をかけたんです。


 優しかったなぁ、ミヨちゃんは! 二年も会ってなかったのに、すぐに私ってわかってくれて。大丈夫なの? って聞いてくれて。住所を調べて、私が住んでいる場所まで電車とバスを乗り継いですぐにやってきてくれたんですよ。家を抜け出して、ミヨちゃんの家に二年ぶりに行って、あったかいご飯を食べたんです。小さいじゃがいもを煮た甘くてしょっぱいおかず、お豆腐のお味噌汁、それに卵焼き! 今でも覚えてる! それで、あのビデオをミヨちゃんに見せたんです。ミヨちゃんは、深刻な顔をして、これは私が預かっておくねって。それっきり、そのビデオのことは忘れてしまっていたけど。今ならば、それが始まりだったって分かる」


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