呪詛 2

 山の家に着き、車から降りると、夏のもわっとした熱気が身を包んだ。都会の夏とは違う、気温。それでも八月初めの深山に降った雨が、水分量の多い空気となって身体に纏わりついた。開けた場所に建つ山の家からは、山々から立ち登る白い靄と青い空が見える。蝉の声が聞こえ、現実の世界に戻ってきたような気がした。悪夢のような体験。あれは本当に私の身に起きたことなのだろうか。そう思えるような景色の中、後部座席のドアが開き、榎田さんがリカさんを抱き抱え車から降りるのに気づく。


 ——夢なんかじゃない。全部現実に起きたことだ。


「榎田さん、何かお手伝いすることはありますか?」


 自然と言葉が溢れた自分に驚いた。榎田さんの抱き抱えているリカさんはミイラ化していて、本来の私であれば目を背けてしまうような状態なのに、そんな風には思えない自分がいた。リカさんは榎田さんの大切な人、そして私を助けてくれた人。


 ——どんな方にも大事な家族がいるはずですから。


 良雄さんが言った言葉を思い出し、私もそう思える人でありたいと思った。


「車のドアはこのままでもいいだろうか」と、榎田さんの声が聞こえ、「もちろんです」と答える。


 後部座席のドアを閉め、急いで山の家の玄関を開けると、田舎の家の普通の日常がそこにはあった。黒光りする廊下とその端に置かれた段ボール、奥に見える古い緑の冷蔵庫。目に映るその光景に自然と涙が溢れた。


 ——リカさん、ようこそ山の家へ。


 なぜかそう心で呟き、頬を流れる涙を手の甲で拭き取り、急いで中に入る。大広間の中を見渡すと、今いる大広間からひとつ隣の開け放たれた部屋に、布団が一組畳んであるのが見えた。「お布団、敷きますね」と、榎田さんに声をかけ布団を敷くと、そこへ、真新しい毛布に包まれたリカさんが、身体をくの字に曲げたまま横になった。薄いピンクの毛布には薔薇の花が描かれている。布団に寝た、薔薇の花に包まれたリカさんのそばに榎田さんは座り、話しかけ始めた。


「梨華、ようやく布団でゆっくりできるね。梨華、探していたんだよ……梨華、梨華……。ようやく会うことができたね……、あんな暗いところで、どんだけ寂しくて苦しかったことか。なんも気づいてあげれずに、はやく見つけてあげれずに、本当にごめんな、梨華……」


 いつの間にか私の隣に来ていた美穂ちゃんと、顔を見合わせ、榎田さんの後ろに座った。薔薇色の毛布に包まれたリカさんは、二十五年間も山の中の洞穴に閉じ込められていたとは思えないほど、綺麗なお顔をしている。長くて黒い髪の毛を榎田さんが撫でる度に、はらはらと細い毛が布団の上に落ちて、それを榎田さんは大事に拾い集めた。


「良雄くんには感謝しかないわ。梨華のことを大事なお客さんだって言ってくれて。本当はね、僕は車に色々と積んでいたんだわ。もう生きていないかもしれないなんて思いたくはないけども、こんなことは望んでなかったけども、それでも望まない形ででも再会できたなら、ゆっくり綺麗な布団で寝かせてあげたいって思っとったで。でも、良雄くんの気持ちが嬉しいで、山の家の布団を使わせてもらうわね……。梨華を……梨華を……大事なお客さんだって、そう言ってくれた良雄くんに感謝しかないわ……。それなのに僕は良雄くんに銃を向けて……。怒りに飲み込まれてしまっとったんだわ……。ようやく、娘に会えたのに……」


 榎田さんは肩を震わせて、また深い悲しみの中を彷徨い歩き始めたように見えた。その後ろ姿を見ながら、私も美穂ちゃんも手を合わせた。


 ——リカさん、榎田さんは、ずっとずっとリカさんのこと探してたんですね。全国の山奥の祠に行ったそうですよ。リカさんの声が聞こえたから、あてもない祠を探して、全国の山奥に……


 じわりじわりと涙が睫毛を押しやる。その涙が流れ落ちないように、ぎゅっと力を入れるけれど、榎田さんの思いが伝染して押し止めることはできなかった。榎田さんの声が聞こえ、頬をさっと手で拭いそっと目を開ける。


「本当に、良雄くんにはお世話になってまって……。良雄くんはあの震災の時に、東北にいたらしくてね……。だいぶ長いこと現地に残って、災害ボランティアしとったって言ってたから……。きっと、僕の気持ちをわかってくれたんだわ……。本当に、本当に、良雄くんには、感謝で胸が詰まるわ……。たまにやってくるだけの僕に想いを寄せてくれて……。何回も山に連れてってくれたでね……。僕がなんで祠を探しとるかの本当の理由は言ってないけども、一緒になって探してくれたで……。おかげで、ようやく娘を見つけることができて……」


 榎田さんはそう言うと、よろめきながら立ち上がり部屋を出て、自分の車へと向かって行った。張り詰めていた心を解き放すように息を吐くと、自然と言葉が漏れる。


「災害ボランティア……」

「良雄さん、してそうですよね……。そんな感じしますもん。どんな時も冷静で的確で……。アレルギーの薬も、一緒にプールに行った時に飲ませてくれたんですよね。祟りでついた手の跡に効くかはわからないけど、症状的には効くと思うって言って。暗くて説明書き読まずに飲んだから、その後ひどい眠気に襲われちゃったけど……」

「そうなんだ……」

「でも、確かに、身体が疼くのが少しは治ったんですよ。良雄さんは、すごい人ですね……」

「そうだね……」


 良雄さんは私よりも少し年上か、同じくらい。だとすると、東日本大震災の時は二十代。泥に塗れ、汗を流し、被災地の人の為に動いている良雄さんは、容易に想像できた。


 ——私はその頃、何をしていただろうか。テレビを見て、何かできることがないかと思って、募金をしたくらいだったかもしれない。良雄さんはその時から、今みたいな良雄さんだったのか……


 良雄さんに想いを馳せながら、美穂ちゃんと静かな声で話をしていると、榎田さんが腕に箱を抱えて戻ってくるのが見えた。リカさんの寝ている布団の前に座り、箱から何かを取り出している。


 ——箱から四角い額のような物。あれは、きっと誰かの写真……?


 榎田さんは、リカさんに見えるようにその額を持ち、話しかける。


「梨華、麗子れいこの成人した時の写真だわ。見たかったやろ? 母親代わりで世話しとったで。梨華が居なくなってまって、どんだけ悲しんだか。麗子もそのうち来ると思うで。山の道が開通したら、麗子もここに来るもんで。昨日そうやって携帯に連絡があったでね。お姉ちゃんが見つかりそうなら、私もすぐに向かうからって、そう言っとたで。それに、梨華を見つけることができたのも、麗子が美代さんを紹介してくれたおかげだで……。お姉ちゃんに会いたいって、ずっとずっと麗子はそう言っとたで……」


 榎田さんはそう言うと、リカさんの枕元にその写真を立てて置いた。緑の振袖を着た綺麗な女性の写真に、なぜか視線が釘付けになる。


 ——どこかであったことがあるような……。まさか、そんなわけはないか。


 榎田さんは箱の中から古いアルバムを取り出し、私たちの方に向き直って見せてくれた。古いアルバムは色褪せた写真がいくつか並んでいる。公園で撮ったものなのか、少し歳の離れた仲の良さそうな姉妹が、芝生の広場でお弁当を食べている写真だった。


「これね、梨華の妹の麗子なんだわ。これが小さい頃の二人なんだけども、美人姉妹って呼ばれとってね」


「本当に、お綺麗なお嬢さんですね……」と、相槌を打ち写真を見るけれど、何か頭の中に引っかかるものがある。リカさんの小さい頃の写真は、私があったリカさんの面影がある。でも——


 ——妹さんも、どこかであった気がする……?


「下の娘が生まれてすぐに母親が死んだもんで、姉の梨華がそれはそれはよく面倒を見てくれて。僕はずっと仕事ばっかりだったから、梨華はまるで母親のようでね……。これが、最後に撮った梨華の写真だわ……」


 そう言って榎田さんが広げたアルバムの写真に目を見張る。私が会ったリカさんよりも、若い頃の顔写真、それは理解できる。でも、その隣で写っている中学生くらいの女の子にも、やはりどこかで会ったような気がするのは、気のせいだろうか。


「娘さん、本当お綺麗だったんですね」

「美穂さんにそう言ってもらえると、父親としては嬉しいわ」

「本当に、お綺麗ですよ。それによく似てますね。妹ちゃんも二重にしたらお姉ちゃんとそのまんまの顔ですよね」

「え……?」

「瑞希さんもそう思いませんか? 妹ちゃん、一重の切れ長で綺麗な顔してるけど、二重にしたらお姉ちゃんそっくりだって。お二人ともアジアンビューティーって感じがしますよね」

「アジアンビューティー?」

「そうですよ、榎田さん。ミスユニバースに出てもおかしくないくらい、お綺麗なお二人ですね」


「そんな風に言ってもらえて……」と、榎田さんは涙声で言い、リカさんと向き合うように膝をずらした。


「梨華、良かったなぁ……。モデルの仕事続けてたら、そんな未来もあったんかもしれんなぁ……」


 膝に手をつき、肩を振るわせてまた涙を流す榎田さんの背中を見るのが辛い。生きていればそんな未来も本当にあったのかもしれないと、記憶の中のリカさんを思い出しながら、視線をまたアルバムの写真に戻した。


 ——それにしても、リカさんの隣に写っている妹さんと、どこかで会ったような気がする。もちろん、大人になった状態のと言う意味でだけど。もしかして、お客さんでお店に来た人の中にいたとか……


 頭の中にある違和感の正体が知りたくて、榎田さんについ聞く。


「妹さんは、今日はどちらからここへ来られるんですか?」

「麗子は、名古屋から来るんじゃないかな……。美代さんが亡くなったって、昨日の朝、連絡くれて、それですぐにこっちに向かうようなこと言っとたで。でも、土砂崩れだもんで、いつ来れるかわからんな……」

「そうなんですね……」


 ——名古屋ってことは、お店で会ったことがあったのかも。


 見覚えがあると言っても、そう言う見覚えだったのかと納得し、リカさんの枕元に視線をやった。成人式の時の写真、立ち姿の綺麗な女性は、私の働いているショップにもよく来そうなタイプに見える。


 ——でも、やっぱりそれだけじゃないような気がする……


 もう一度、成人式の写真に目を凝らした。妹の麗子さんは、離れた場所からは見えにくいけれど、化粧映えのする美しいお顔だと思った。赤みの強い口紅と、成人式用にアップにしたヘアーは二十歳よりもずっと大人びて見える。そう思った瞬間、着ていたファッションとともに、鮮やかに記憶が蘇ってきた。記憶のテープを巻き戻すように、場面場面が脳内で逆再生されていく。


 ——着ていた洋服、それは黒いボディースーツ。それに、真っ赤な口紅と真っ赤なマニュキュアをつけていた女性……


 


 


 






 


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