最終章

呪詛 1

 Nature’s villa KEIRYUの搬入口まで差し掛かったところで、前を走っていた軽トラックが一旦停まり、私も車を停めた。運転席から良雄さんが降りてくるのが見え、運転席側の窓を開ける。


「霧野さん、僕は武山さんとここで少しやりたいことがあるので、先に山の家に行っていてください」

「え? でも、山の家の鍵は——」

「空いてます。誰も入ってこないから、そこは大丈夫です。それと——」


 良雄さんは一息間を置き、後部座席の榎田さんに静かに声をかけた。


「榎田さん、山の家で榎田さんが使ってた布団に、娘さんを寝かせてあげてくださいね」

「でも、良雄くんそれは——」

「山の家の大事なお客様を車の中でお待たせするなんて、僕にはできないですよ。それに、警察や消防が来たら、娘さんをお渡ししないといけないような気がするんです。だから、お布団、山の家ので申し訳ないのですが使ってください」

「良雄くん……」

「ぜひ、そうしてください」


 後部座席から、榎田さんの「ありがとう」と言う、震える声が聞こえた。


「実は、いつ娘が見つかってもいいように僕は車の中に色々と積んでいるのだよ。本当はそんな未来なんて来て欲しくないけれど、使うことなんてあって欲しくなかったけれど、でも、もしも生きて会えないのであれば、見つけた時に、せめて綺麗にしてあげたくって……だから、だから……良雄くん……本当に、本当にありがとう——」

「ありがとうなんて、そんなこと。当たり前のことですよ。山の家のお客さんの、榎田さんの娘さんが来てくれたんです。当然のことです。榎田さんの大事な家族なんですから」

「良雄くん、ありがとう、ありがとう……」

「後で、僕もゆっくり娘さんにご挨拶させてくださいね。それで——」


 良雄さんは、建物の中で亡くなっている水野さんと木下さんのご遺体に、ブルーシートをかけてくると榎田さんに申し訳なさそうに言った。それを聞いて胸が詰まった。レイさんが雷に打たれて亡くなったと言った時も、博之さんの時も、良雄さんは自分のできる範囲で、できることをしようとしている。それがあたかも自然なことのように——


 ——私は、そこまで頭も心もまわらなかった。せめて、手を合わせることくらいしか……。


 良雄さんの深い愛に触れた気がして胸が熱くなる。山で生きているからとか、そういう問題ではなく、良雄さんはそういう人なのだ。自分たちが大事にしているものを壊してNature’s villa KEIRYUを作った武山さんに対しても、寛容に対応している。山の家に毎年来る子供たちが、良雄さんのことが好きな理由がまた分かった気がした。きっと、良雄さんに何事も否定されない、包み込まれる安心感を求めてくるのだ。

 

「それでね、霧野さん」と言われ、はっと意識を戻すと、良雄さんは「博之さんのご遺体は、エントランスの入り口に運んであるからこのまま車で進めます」と教えてくれた。


「獣に遺体が荒らされたら、ご遺族の方もきっと悲しまれるような気がして。どんな方にも大事な家族がいるはずですから。でも、警察が来たら僕はきっと怒られますよね、勝手に移動しちゃったんで。ダメだろうなって思ったけど、それはもうしょうがないと思って移動させてもらいました。なので、そのまま車で山の家まで戻れます。僕は武山さんと一旦ここで残って、それから戻りますので。山の家でのこと、お任せできますか?」


 ——博之さんのご遺体まで。


 昨日の夜はそんなこと気づきもしなかった。でも、よく考えれば道を通るためにも、博之さんのご遺体を移動しなくてはいけなかったのだ。


 ——博之さんは背も高かったはず。ということは、榎田さんも一緒に……


 榎田さんはどんな気持ちで博之さんを運んだのだろうか。リカさんを見つけた時に猟銃を構えた榎田さんを思い出すと怖くなる。娘を殺したかもしれない武山さんに詰め寄る榎田さんは誰の声も届かないほどに狂気に満ちていた。そう考えると、この先、山の家に良雄さんがいないのは不安な気がした。


 ——でも、もう榎田さんが怒りに飲み込まれ狂気に満ちた状態になることはないはず。今の榎田さんは、リカさんのご遺体を抱き、空気の抜けた風船のように力なく萎んでいるのだから。それに、美穂ちゃんは一言も話さないし、私がしっかりしなくてはだめだ。


「わかりました」と、答えると、良雄さんは「美穂ちゃん」と、助手席に座る美穂ちゃんに声をかけた。びくっと美穂ちゃんの身体が震え、ゆっくりと良雄さんの方を向く。


「榎田さんが持っているアレルギーの箱、わかるよね? 祟りでついた手の跡に抗アレルギー薬が効くなんて聞いたことないけど、症状は何かでかぶれた状態によく似てるし、もう一回飲んどいて。一回飲んだからわかるよね? 薬、飲みすぎると眠気がすごいから」

「い……っかい、二錠?」

「そう、一回二錠。前みたく四錠も飲んじゃダメだからね。塗り薬も山の家にあるから。霧野さんに頼んでダメもとで塗ってもらって」

「わ……かりました……」

「じゃあ、僕は車を駐車しますんで」


「わかりました」と私が答えると、良雄さんは軽トラックに戻り、搬入口の駐車場に車を停めた。軽トラックから二人が降りてきて、バタンと音を出して軽トラックのドアが閉まる。裏口のドアを開け、武山さんと一緒に入っていく良雄さんを横目で見ながら、私は車を発進させた。


 ——私がしっかりしなくては。必要なことは今、全部良雄さんに聞いたんだから。


 自分で自分に気合を入れて、アクセルを踏んだ。


 センターハウスの建物を抜け、駐車場に向かう道に出ると、博之さんのご遺体があった場所は、どことなく黒い染みができているように見えた。雨に流されたとはいえ、沈着した濃い血の色までは洗い流せなかったのだと咄嗟に気づき、博之さんが亡くなる瞬間を思い出し目を背けた。その上を車で通り過ぎることが怖い。


 ——御面様の祟りのように、博之さんの怨霊に祟られてしまうかもしれない。


 そんなことが頭にふっと湧いて、かぶりを振った。


 ——祟りなんて、ない。もう、御面様は祠に返してきたし、終わったんだ。


 心の中で何度もそう唱えながら、博之さんが亡くなっていた黒い染みを踏み越えようとした時、博之さんの最後がフラッシュバックのように脳裏に蘇った。博之さんは、今車で踏もうとしているここで、誰かに襲われているような言葉を発し、必死に何かに抵抗していた。


 ——やぁ……めぇ……ろ……離してく……れ……助けて……助けてぇ! 四人死んで……呪いは終わったんじゃなかったのかよぉ! 俺は……俺は何にもしてない……俺は誰も殺してない!


 博之さんの声が頭の中で聞こえる。あの時の博之さんは、地面にお尻をつき、腕を伸ばして必死に後ろに下がり、何かから逃げようとしていた。私にはそう見えた。もう黒い染みは車の真下あたりに来ている頃だ。そう思ったら、黒い染みから博之さんの怨霊が手を伸ばし、私を掴もうとしてくるような気がした。見えそうで見えない自分の足元が怖い。薄暗い足元が怖い——


 ——もう四人死んだじゃないか……。御面様のお怒りは鎮まったんじゃないのか……俺じゃない……俺じゃないだろ! 離せ! 離せ! 離せぇ〜!


 博之さんの声が聞こえる。まるで地面から湧き上がるように、聞こえる。アクセルを強く踏みはやくこの場所を通り過ぎたいのに、アクセルを踏む右足に力が入らない。こんなのはただの思い込みなだけなのに。また、怖いと思ったら恐怖に飲み込まれてしまう。


 ——やめて、もう終わったんだ! もう思い出したくなんかないんだ! それに、私がしっかりしないとダメなんだ!


 もう一度、アクセルを踏む足に力を入れた。黒い染みを通り過ぎても、後ろから博之さんの怨霊が手を伸ばしてきそうな気がして背筋に冷たいものが走る。下り坂の道を勢いよくタイヤが進み、その勢いで車ががくんと揺れた。榎田さんの車を運転し、人を乗せていたのだと思い出し、右足をアクセルからゆっくりと離す。


「すいません……」と呟く私に、助手席の美穂ちゃんが囁くように、「わかります」と答えてくれたのが、唯一の救いだった。


 ——美穂ちゃんも、おんなじように怖いって思ってたんだ。


 自分だけが怖かったわけじゃないことが、なんだか安心できた。自分がしっかりしなくては、と思うくせに、自分が怖いと思った時に同じように怖いと思っていた人がいて安心するなんて、なんてちぐはぐな考えなのだろうか。でも、理屈ではなく、そういうものなのかもしれない。


「今後は気をつけて、安全運転で、山の家まで行きます」と、自分で自分に宣言し、山の家までの道を慎重に運転した。私はひとりじゃないのだからと、心の中で何度も言い聞かせながら。


 



 


 

 


 

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