山道の先に 5

「お邪魔しまぁす」と声をかけ入り口から土間に入ると、何足か靴が脱いであった。黒い女性用の長靴は木下さんのものだろう。その他には男性用のサンダルのようなものと、登山用の靴。もう一足は子供用のピンクのサンダルだった。それをみてほっと胸を撫で下ろす。子供用のピンクのサンダルがある場所に、殺人鬼はいない。いや、そんなことはない。だって昔見た映画で、と、子供がサイコパスなホラー映画を思い出し始め、もうやめようと意識を現実に戻した。


「どうぞ雨合羽そこで脱いで、中に入ってきてください」と木下さんの声が聞こえ、「わかりました」と答える。土間の靴箱の横には木下さんが着ていたカーキ色の雨具が脱いであった。フードを頭から取り、上着のボタンを外すしていくと、蒸し風呂状態だった気温が一気に下がり、ほうっと肩の力が抜けた。


 ——心地いいほどに、涼しい。


 お店に来る常連さんの奥様が、「お茶会に行った後で着物を脱ぐ時の開放感が最高なの」と言っていた意味が分かった気がした。ものすごい開放感だ。急いで雨具のズボンも脱ぎ、パンパンと外で水気を払ってから畳みたくなる衝動を抑え、木下さんのものと重ねた。そういう時でもつい綺麗に畳みたくなるのは、もう私の習性なのだろう。


 古民家の中に入ると、外から丸見えだった縁側から続く大広間だった。奥に床の間のような段差が見える。今は衣装ケースのようなものが置いてあり、中には洋服ではないものが入っていそうだった。


「こんな雨の中大変だったね」と初老の男性に声をかけられ、「はい」と咄嗟に答えた。大広間には大きな一枚板の古びた座卓が置いてあり、そこに座っているおじさんが私に話しかけてくれたのだ。見たところ、六十代、七十代くらいだろうか。田舎のおじさんというよりは、学者風な、髪の毛が薄い眼鏡をかけたおじさんだった。この人が良雄さんなのだろうか。


「まあ、歩いてきて疲れたでしょ。どうぞどうぞ」と人の良さそうなおじさんに勧められ、「ありがとうございます」と言ってから、おじさんの反対側、木下さんの隣に座る。


「本当ひどいことになってるっすよね」


 今度は違う男性の声が背後から聞こえ、その声のする方を見ると、さっき見た薄汚れたような黄土色のティーシャツを着た若い男性の姿があった。一瞬にして身体が強張る。あの、肉の塊を鉈で切っていた人だ。


「これ、麦茶ですけど。てか、里香りかちゃん、あんないいとこにやってくるお客さんにコップで麦茶とか出してもいいの?」と、男性が木下さんに話しかけているのを聞いて、一気に緊張感が解けていった。良かった。殺人鬼ではなさそうだ。それに——


 ——リカって名前なんだ。


 さっきまできっちりかっちりしていた木下さんは、正座をしているけれど、さっきとは雰囲気が違って見える。一応、スーツの白シャツを着ているけれど、下は緑色のジャージのズボンで、胸元のボタンもいくつか外している。まるで実家にいる時の私みたいだ。


「霧野様、この方が良雄さんです」と木下さんが私に若い男性を紹介し、「どうも」と男性が小さくお辞儀をした。二十代後半、三十代? ということは私と同じくらいか。こんがりと日に焼けた肌。背も高く、ガッチリとした筋肉質な身体で、山男というイメージがぴったりだった。ここに住んでいるのだろうか。髪の毛は、短くしてたけど伸びちゃった、といったラフすぎる感じだ。


「霧野様、ここは私の唯一、気が抜ける場所でして。もう、この喋り方とかも、やめていいですか? だって霧野さん達、絶対会員になんてならない系の人ですよね?」

「え?」


 木下さんの言葉遣いと態度の豹変にびっくりするも、なぜか親近感が湧き、「もちろん」と自然に言葉が出ていた。それを聞いた木下さんは伸びをしてから足を投げ出した。


「はぁ〜。もうまじで疲れて、もう限界だったんですよねぇ」

「そりゃ、寝ずにって大変だよ」

「ガチそれな! ですって。まぁ、給料いいし、誰も来ない日は超ひまで動画配信みまくりだし、酒池肉林パーティーも楽しいからありちゃあ、ありなんですけどね。でも人が雷に打たれて死ぬとかは、まじ勘弁ですよ」


 同じ人間に対して、あまりの豹変さにびっくりするを二回も体験するのは珍しいことだと思いながら、木下さんと良雄さんの話を麦茶を飲みながら聞く。


 ——本当にあの、きっちりしたサービスができる木下さん? すごい変わりようだよ。


 そうはいっても、仕事をしている時の自分たちもバックヤードに入れば同じようなものだ。ショップで販売している洋服を着て接客する私たちハウスマヌカンは、その存在だけでもお店の顔なのだから。本来の自分は表に出さず、常にブランドを背負ってお店で働いている。高級なインポートブランドを好きなだけ買うお客様用の話し方、一枚をじっくり選んで予算内でお洒落を楽しむ若い女性用の話し方。同じように見えても、多少なりか相手に合わせて話をしている。オフともなれば言葉使いは違えど、木下さんみたいな感じにもなる。


 ——それと同じって思えば、納得か……。


「で、あれなんですよね? 防災無線で連絡はできたってことですよね?」

「まあできたけど、なんか下の方でも土砂災害があったみたいで、ほら、下の方が上流から水が集まるからさ、ここよりも濁流になっちゃってるみたいで」

「てことは、まだこっちの道を直してくれるまで時間がかかるってことですか?」

「だねぇ。まあ、今日は無理だろうってことだった」

「え〜。最悪〜。だって、駐車場に人が死んでるんですよ? それに通行止めでって、もうミステリー小説だったらクローズドサークルでこの後何人か死ぬパターンですって」


 それにしてもざっくばらんな話し方だなと聞いていた私は、木下さんの最後の言葉に「え?」と思わず声が漏れた。


「霧野さん読んだりしません? ミステリー小説とか」

「いや、あんまり……」

「私、山奥でひまなんで、よく読むんですよね。小説。主にミステリー小説が好きで。でも、そんなマニアみたいな感じで詳しくはないんですけど。ちょうどこの間読んでたのが雪山の別荘に閉じ込められちゃう系のやつで」

「へ、へぇ」

「で、そういうのって、どんどん人が死んでくんですよ。殺人鬼から逃げ場がなくなって」

「そうなんだね」

「そうなんですよ! で、最後その小説どうなったと思います?」

「え? うんと、どうなったの?」

「なんと、全員死んだんです。主人公まで。もう、それはそれは全員。で、最後、どうなると思います? なんと、犯人と相打ちなんですよ。まじ、それ一人称で書いてるから意識が切れるところで終わるんですよね」

「えっと……」

「これが、僕の、人生の最後なのだ……。とか言っちゃって。あああ、なんて可哀想な主人公って、私はそこまで読んで、主人公に弔いの涙を流しましたよ。あれは、号泣ものでしたね」

「へぇ……」


 そこで木下さんはお茶をごくごくっと飲んで、良雄さんに「おかわり!」とコップを差し出した。余程仲がいいのだろうか。


「で、霧野さん。防災無線で連絡取れてるっぽいので、今日は無理だけど、明日には帰れるかもです」と、木下さんは今度はまともな情報をくれた。でもその後に、「この情報、オーナーにどうやって言おうかなって思っちゃうんですけどね」と、小悪魔のような微笑みを見せた。その顔があまりにも「にやり」としていて、一瞬私は身構えた。


 ——この子は一体どういう子なのだろうか?


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