落雷と雷撃 4
バンガローのドアを開けると、雨は幾分か弱まり、霧のような靄が川面をゆらゆらと漂っているのが見えた。轟々とその下を流れる渓流の音は、昨日よりも流れが激しいのだと言うことを知らせている。明るくなったとはいえ、昨日はあんなに綺麗だった木々の緑が灰色のベールに包まれているような色合いに見えた。濡れる河原の小石たちも、深い灰色に光り、世界全体が重たく感じるのは雨のせいだろうか。
——雨、これなら歩いていくのも大丈夫そう。でも川に近づくのは危険だよね。
台風の時に川を見にいき流されてしまう人のニュースを思い出し、そうなってしまっては本末転倒だと自分に注意喚起した。部屋の中に顔を向け、ベッドに寝っ転がっている美穂ちゃんに声をかける。
「じゃあ、行ってくるね」
「はぁ〜い」
その声がまたなんとも呑気な感じで、心がもやっとしつつも、バンガローのドアを閉めた。スニーカーを履いて来て良かった。昨日の夜も思ったことだが、またそう思った。
雷雲はまだ近くにいるのだろうか。時折空が白っぽく色を変える。
——雨がひどくなる前に、急いで家に帰ろう。
足早にセンターハウスまでの道のりを進み、センターハウスはもうすぐだろうかと前方に目を向けると、昨日小石を投げこんでいた淵の側で、赤い傘の女性の後ろ姿を見つけた。傘から下に紺色のスカートが見える。
——リカさんだ。良かった、これでお礼もちゃんと言える。
「リカさん」と声を出しかけて飲み込み、そっとそばに近寄ると、小石を踏む足音に気づいたのか、真っ赤な傘がゆっくりとこちらを振り向いた。
「瑞希ちゃん、おはよう」
「おはようございます。あの、スマホ、助かりました。それで、もう朝だし、今から片付けて家に帰ろうと思って。良かった。リカさんにちゃんとお礼を言わなきゃって思ってたんですよ」
「そうか。それは良かったね」
「なにしてたんですか?」
「川面に漂う靄がゆらゆらしてて幻想的だからみてたんだ」
「そうなんですね」と言った後で、スカーフのことを尋ねると、「ああ、持ってきたから」と、リカさんは腕にかけているスカーフを私に見せた。
「色々と、ありがとうございました」
「うん、いいよいいよ。あ、でもさ。ひとつお願い聞いてくれる?」
「お願い? もちろんです。お世話になっちゃって、私にできることなら」
「あのね、帰る車に私も乗せてってくれないかな?」
「え?」
「私、ここ何年か車に乗らない生活してたから、免許がもう切れちゃって」
「そうですか」と言った後で、リカさんと昨日話したたわいもない会話の中で、国内にいない時期が長かったと言っていたから、そのせいだろうなと思った。
「どこまでですか?」
「うん、そうだな。最寄りの駅まででいいよ。ここだと、どこだろう、郡上八幡だと思うんだけど」
「通り道なんで、大丈夫です」
「無事に帰れたら、だけどね」
そう言うとリカさんは空を指さし、「雷様がやってくるから」と言った。
「え……?」とリカさんの指差す方を見た瞬間、驚くほど大きな雷鳴とともに、銀色に輝く稲妻が大地に向かって走るのが見えた。その閃光は怒り狂った龍のようで、山々に、谷に、目に見える全ての世界に響き渡るような衝撃音が鳴り、空気が震える。
「落ちたかも」
リカさんはそう言うと、ふふふっと笑って見せた。その笑顔はとても美しく、そしてとても冷徹な笑顔に、私は見えた。
「瑞希ちゃん、急いで準備したほうがいいよ。また雨が酷くなると思うから」
「そう……ですね。すいません、じゃあ、私急ぎます」
急いでセンターハウスに戻り、中に入った。センターハウスの中は昨日来た時と同じように清潔に整えられ、昨日パーティー騒ぎがあったなんて思えないほど静かだった。深夜、パーティー後に誰かが綺麗に片付けたのだろうか。それにしても不思議なほど綺麗で静かだ。
——いけない。余計なことは考えず、急いで荷物をまとめなきゃ。
エレベーターに乗り、自分の部屋に到着すると木下さんに教えてもらったようにスマホのアプリで部屋のロックを外す。一歩部屋の中に入り、はぁっと息をついた。
——こんな部屋の中、誰も見せれないよね。
思った通り、昨日脱ぎ捨てた洋服がベッドやソファに散らかり、とても人様に見せれる状態じゃない。
——もう、美穂ちゃんもさ、こんなに洋服持って来なくてもいいのに。
そうは言っても、昨日はその洋服の一枚に助けられたし、と思い直し、とりあえず、気味が悪いほど赤いドレスを脱いでティーシャツとジーパンに着替える。
——本当、最悪な夜だった。趣味の悪いドレスに、頭のおかしいパーティーに、それに……。
リカさんの話してくれた怖い話を思い出しかけては、その記憶を手で振り払い、洋服を畳み始める。
——聞くんじゃなかったと後悔するほどに恐ろしい話だった。祟りなのか、事故なのか、自殺なのか、なんにしてもそんなものが起きた現場に今いるのはもう嫌だ。
そう思いながらも手は動き、洋服はどんどん綺麗に畳まれていく。こういう時、アパレルスタッフで良かったと心底思った。洋服が痛まないように気をつけながら畳むスピードも、長年蓄積してきたスキルなのだ。
「もう、何枚あるんだっつーの!」
ぶつくさ言いながらあっという間に洋服を畳み終わり、それぞれのバッグに詰めると、それなりに綺麗な部屋に見えた。
「よし。次は木下さんにスマホ持って来てもらわなきゃ」
アプリを起動し、人型のボタンをタップする。程なく木下さんが応答し、すぐにスマホを持って来てくれる手筈となった。
「これでもう安心……。はぁ〜」
深いため息をつき、ベッドに仰向けに倒れ込む。ふかふかと身体の重みを受け止めてくれるベッドに緊張していた心が溶けてゆく。
——これで車に乗れば、もう大丈夫だよね。
それにしてもひどい目にあった。まさか、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
——無防備。
まさに、無防備すぎる自分をまた思い出し、もう二度とこんなことはごめんだと思った。
「どんだけ男運がないんだよ……全く」
全面ガラスの窓の方に顔を向けると、やけに鈍い色をした鉛色の空と、その灰色に上塗りされたどす黒い緑が、ざわざわと揺れ動いているのが見えた。
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