第8章 涙の味

「あんのばっかやろう」

 玄関のドアをこじ開けて学校に走る。 

「あぁ、クッソ」

 心臓がドクドクとうるさい。空気を吸い込む音が耳障りだ。

 こんな周りの音が拾えるなら日頃からもっと拾っとけよ。

 そうだよ、違和感はずっとあったはずだろ。

 どうして気づけなかった。

 いや、気づこうとしなかったのか。

「あぁ、だっせなぁ、わたし! 何が変えさせられたくないだよ」

 いつの間にか声が出る。


 いつからだろうか。

 虐めから隠れるように動き出したのは。

 いつからだろうか。空気なんて読むようになったのは。


 …………いつからだ。

 こんなにも弱くなったのは。


 なぁ、いつからだよ。

 私が人形みたいにあんな、真っ黒な目をするようになったのはッ!


 そんな自分。そんな人形なんて殺せ。そんなのは私じゃない。


 胸を叩く。

  ドンと堅い固い音が響く。


 鼓動が上がる。

 体中に血液がまわる。

 久々に見た学校の正門を超えて、一直線に教室に向かう。

 アイツが私の名前を見つけてくれた座席名簿が有るはずだ。

 いつもは開けたくもない教室の窓を荒々しくこじ開けて、教卓の中身を掻きだす。

 あった。

 座席名簿。

 そこには座席と出席番号、名前が書いてあった。

 おい待て、アイツの席はどこだ。


 一瞬の思考を経て、直ぐに結論へ辿り着く。


 分からない。

 畜生、思い出せよ。クラスメイトだろッ! 

 なんでそんなことも分からない。

 なんでそんなことすら知ろうとしなかった。

 頭をガンガンと叩く。もうそこまで出てるんだ。思い出せよッ‼


『ほんとに出席番号って良くないよね。私、三十四番だから——』


 ふと、いつかの言葉が降ってきた。

 三十四……三十四……。

 あった。『牡丹一花』と言う文字だけを脳に刻み付けて、職員室に走る。

 大きな足音が響く。

 教室から一直線に走って、ノックもせずに職員室のドアを叩く。

 教員がぎょっとこちらを振り向いた。



その目は酷く冷たかった。



 凍えるような目は体中の熱気を冷ましていく。

 今、自分がなにをしてるのかを再認識させられる。

 思考が止まる。

 職員室中から自分に視線が集まる。

 めんどくさそうで、疲れ切った目が自分を見つめてくる。

 なんだなんだ、めんどくさいな、なんて声が酷く大きく私に届きて来た。

 

 …………私は、なにを、しているんだろう。

 ドクドクと鼓膜に反射した音がうるさい。

 

「先生、その、クラスメイトの牡丹に、……電話させて下さい。」

 冷静になった私は、これしかできない、弱虫だった。

 あぁ、本当に、自分の弱さが嫌になる。

「午時⁉ どうした⁉ 何があったんだっ」

 驚くように声を上げた担任に「いいですから」と何とか伝えた。

 ここに居るだけでどんどん、冷静になっていく自分が怖くなる。

「牡丹もついさっき来たけど、そんなこと出来ないんだよ。諦めてくれ」

 担任が溜息を吐いた言葉は良く分からなかった。

 でも、どうやら自分がしてきたのは馬鹿なことらしい、ということだけは分かってしまう。

「そうですか、すいません。変なことして」

 凍てついた体からでた声は弱弱しかった。

 職員室から出ようと、振り返る。


 ふと、窓ガラスが目に入った。

 外には正門に向かって歩く一人の少女が見える。

「あぁ!」

 あいつだ。間違いない。後姿を見てそう確信する。

「お前、さっきからどうした?」

 目の前の担任から非難めいた声が挙がる。

 周囲を見渡せばつららのような視線が私を突き刺してくる。

 熱くなった心しぼんでいく。

 どうする、どうするッ。正門から帰られたらどこ通るのかなんて分からない。

今、この場で呼び止めるか? 

いや、でも……、流石にこれ以上は。



 いつからだろう。私が、こんなにも弱くなったのは



 いんや、違うッ! そんな私はもう殺した!

 ドンッ! 

 もう一度、強く胸を叩く。

 目の前で心配そうに立ち上がった担任を押しのける。

 窓を開けて息を吸った。殴られて吐き出してきた全ての息を吸いなおす。

「いちかぁぁぁ!」

 私が叫ぶと遠くの人影がびくっと跳ねる。

「そこに居ろッ! 今すぐ行く」

 それだけ言って職員室から抜け出す。

 心臓の鼓動がうるさい。体中から空気を吸う音が聞こえる。

 でも不快じゃない。

 これで、良い。これで良いんだ。

 階段をかけ下がる。少しでも早く正門へ行きたいと体中が騒ぐ。

 靴を引っかけて遠くに立つ少女の下に走り寄る。

 ゆっくりとこっちを振り返ったそいつは首を傾げていた。

「葵ちゃん? なんで?」

 何を言うかをずっと考えてた。謝罪じゃだめだ。謝ったら許してもらえるなんて思う権利なんてない。だから、私は……。

「ありがとう」

 精一杯明るく出した声に一花が目を見開く。

「一花のおかげで学校が綺麗になった」

 戸惑うように彷徨う目線を捕まえる。

「昼休みが楽しみになった」

 今度は逃がさないと手を掴む。

「学校で笑えるようになった」

 アンタに言われて自分が学校で笑えなくなったことに気付いた。

「ぜんぶ、全部っ。一花のおかげだ」

 久々に意識して動かす筋肉は軋む声を上げた。

 でも、それでも。この感情を伝えるにはこの顔しか無いと思うから。

 私は、あの咲き誇るような笑顔を浮かべよう。

「だから、ありがとう。一花のおかげですんごい楽しかった」

 捕まえた視線がまた揺らぐ。

「私だって……葵ちゃんのおかげで……」

 何かを抑えるように必死に瞬きを繰り返す。

「真っ白だった学校が鮮やかになったんっだよ?」

 私が掴んでた手を包み込むように強く握り返してくる。

「昼休みに一緒にご飯食べるのが楽しみになったのも、頑張って勉強しようって思うのも、朝が来るのが待ち遠しのもッ! 全部、葵ちゃんのおかげだからッ!」

 それでも耐えられずに目の前の頬に涙が滑り落ちた。

「葵ちゃんといると心がきゅうぅって言うんだよっ。私にそんな権利無いって分かってるのに、もっとここに居たいって思っちゃうんだよッ」

 もう枯れ切ったと思ってた。

「私のせいで、葵ちゃんはッ! 毎日ひどい目に合ってるのにッ! 私のせいでッ」

 でも目の前でボロボロなく一花を見て、いつの間にか自分の視界が歪んでいた。

「違うッ。違うだよ一花」

 手に暖かい涙が落ちる。

「私さぁ、弱いからっ。周りの事なんて見る余裕なくてさぁ! 一花が虐められてたのも……。私のせいで殴られてるのも気づけなくてッ!」

 腕一本の距離さえ遠くて、一花に強く抱き着いた。

「ずっと知らないふりしてた! ずっと、気付かない振りしてたんだよ」

 柔らかくて、暖かいその体を離さないように力を籠める。

「私ッ! 一花と……一花とぉ」

 零れてくる涙が多すぎて目の前に広がるはずの顔すら見えない。

 それでもすぐそこの胸に顔を埋めてしまいたくなかった。

 目の前の事から目を逸らしたくなかった。

 だから、顔を上げたまま話そうと思ってた。

「ずっと一緒に居たいッ‼」

 でも、無理だったんだよ。顔を上げて離れる少しの距離だって嫌なんだ。

 手の届く、あったかい体を離したくないだよ。

「ねぇ。葵ちゃん」

 頭を包まれて、優しく引き上げられる。

 赤く染まって、ぐちゃぐちゃの、綺麗な顔が広がる。

「私と……」

 涙を流しながらほんの少し微笑んだ。


「一緒に教室に帰ってくれますか」

 落ちた涙が私の頬を打つ。

「あぁ、あぁ! 当たり前だろッ」


 ボロボロ流した涙は甘い味がした。

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