6章 そして、染まる

 いつもより早く着いた教室はなんだか騒がしかった。

 テスト期間はカンニング防止のために自分の机以外に座るので、落書きされることも無くて安心できる。

 まぁ、私の席の周りだけ明らかに人が寄り付いてないのはいつも通りだが。

 バックから取り出した確認用のプリントをめくって最後の詰め込みをしていると、右肩を叩かれた。

「あん?」

 敵意剥きだして振り返ると、そこにはいつものアイツが立っていた。教室で声かけるなって言ったろ。

「なんだ、アンタか。ごめんな」

 私が謝ると申し訳なさそうに声をかけてくる。

 緊張で筋収縮でも起こしてそうな雰囲気だ。

「今日の、放課後なんだけどさ、いつもの場所来てくれない?」

「ん? あぁ。分かった」

 ドンッと何かが机にぶつかって消しゴムが前に落ちる。

「あ、拾うよ」

 直ぐに左手で消しゴムを拾って、私のお礼も聞かずに離れてしまった。

 教室で話しかけるなとは言ったが極端すぎるだろ。ぽかんと開いた口を舐めて、消しゴムを弄ぶ。

 それにしても、放課後に何があるのだろうか。

 また一段と騒がしくなった教室の声を聞きながら、私はそんなことを考えていた。


***


 テストも無事に終わった私は裏庭に向かっていた。

 まだ昼時で明るい学校は暖かい色をしている。

 テスト中も考えていたが、何の話だろうか。一緒に帰ろうとか、もしかしたらご飯食べにいこうみたいな奴かもしれない。

 そんなこともあろうかと、今日はお金を持ってきている。

 テストも終わり明日からは実質的に夏休みだ。

 そのことを考えると海とか夏祭りのお誘いかもしれないな。

 踊る心を落ち着かせながら、奥に進んでいくといつもの場所に座る人影が左半身だけ見えた。昼ご飯を食べる時と逆方向だからか? 少し違和感がある。

「すまん。遅くなった。それで何の用だ?」

 ほんの少しだけいつもより高い声になってしまったような気がした。けれど返答は毎日聞いた明るい声じゃなくて、泣きそうな憂鬱な顔だった。

「どうした? なんかったのか?」

 私がそう聞くと、思ってもいなかった場所から声がした。

「いやぁ~、ほんとに来るとは思わなかったぜ?」

 ねっとりと悪意に満ちた、放課後の体育館裏でしか聞かなかった声が響く。

「白雪ッ⁉ おい、待て。どういうことだ」

 いつの間にか覚えてしまったいじめっ子の名前を叫びながら、花壇の方を見る。

しかし、そこに座っていたはずのそいつは、返答もせずにそのまま背中を向けて走り出してしまった。

「ッッッ」

 どふっ。

 視界が飛ぶ。横から蹴られたみたいだ。

「いってな! おい待てよ、どういうことだっ!」

 痛みの広がる脇腹を抑えながら再度花壇を見ると、そこにはもう少女は居なかった。

「ッチ。あの野郎、逃げやがったな。せっかく、久々に二人同時に遊んでやろうって思ってたのに、ッよ!」

「ッハ」

 思い切り殴られて、体の中の空気が全部外に出る。


 どういうことだ。

 何が起きてる。

 どうしてこうなってる。

 二人同時? 

 何言ってやがるんだ。頭の中にグルグルと疑問が浮かんでは消える。


「なんだぁ? あいつがお前のことを売って逃げたのがそんな不思議かー?」

 スーと体が冷えていく感じがした。


『お間のことを売って』


 その言葉だけが頭の中でリフレインする。

「そ、そんなわけない」

 何とか捻りだした声は自分で思っている以上に弱い。

「おー、良い友情だねぇ。でも、お前が殴られるようになった原因もあいつだぜ?」

 いや。そんなはずない。

 こいつ等が私を殴り始めた時は、まだあいつとも知り合ってないはずだ。

 そんなわけ、ない……はずだ。

「わっかんねぇって顔だな。特別に教えてやろうか?」

 いつの間にか私を取り囲むように立つ女子生徒たちは、キャーキャー気持ち悪い声を上げている。

「五月の……いつだったかなぁ? あいつに聞いたんだよ。お前の分も代わりに午時に受けてもらうか? ってな。そしたらアイツ、迷いもせず頷きやがってよぉ? 面白かったぜぇ? クラスメイトを売るってのになんの躊躇もしないんだもんなぁ?」

 白雪はそう言って、舐めまわすように周りを見つめている。

「この場所だって聞いたらすぐ答えたぜ? 今日は呼び出しまでしてくれたしなぁ? 初めてお前の事殴った日とか、清々したみたいに笑ってたしよぉー」


 『なんか呼び出される時間が長いんだよなぁ。ゴールデンウィーク明けたぐらいからだと思うけど』


 自分で言った言葉が頭の中を回る。

 いやだ、嫌だ、と泣く脳はたった一つの結論を出すのだけを渋っている。

 これ以上聞きたくないと、考えたくないと五感が情報を拒否している。

 それでも鼓膜は空気の揺れを、聞きたくもない音を感知する。

「だからさぁ、午時? お前は売られたんだよ」

 脳にそんな音が入ってきて意味を成した瞬間、私の体は冷たくなった。


 体を支える脊髄が抜け落ちたかのようにぐったりと倒れ込んでしまう。

 音が消える、匂いが消える。

 無理矢理起き上がらされて、殴られるのさえ遠い世界の様だ。


 どふっ、どふっと誰かが殴られる音だけが灰色の学校に響いていた。


***


 コツコツコツと廊下に冷たい音が響く。時計を見るに三時間近くは殴られていたようで、学校から人の気配が消えて久しい。そんな灰色に染まり切った学校から出るために裏門に近づいて、そっと視線を伏せる。

「あ、あの、葵ちゃん」

 コツコツコツ

「ねぇ、ちょっと待ってよっ」

 コツコツコツ コツコツコツッ!

「ねぇってば!」

 肩に引っかかる手を弾く。

「うるっさいんだよッッ!」

 大きな声が出た。

「今更何の用だよッ! 私の事売っといて、自分のために私のことを犠牲にしてッ! 今更何の用だってんだ‼」

 自分のすぐ後ろにいた女子生徒の襟首を掴む。

「お前に! 最初から私を騙してたお前にッ!」

「ちがっ! そんな」

「何が違うんだよっ! 自分の代わりに私を虐めさせたことの何が違うんだよッ!」

 指に力が入る。目の前の制服からブチブチと音がする。

「楽しかったかよッ! なぁっ! 私の事弄んで……そんな楽しかったのかッ!」

 目から染み出すようにしょっぱい水が零れだす。

「違う! 私は、そんなつもりで一緒に居たわけじゃないッ」

 目の前で叫んだ女子の綺麗な目に自分の顔が反射する。

「じゃぁ、なんでッ! なんでっ! なんで……」

 ドロリと溶けた真っ黒な目から次々と涙を落とす自分の顔が映る。

「私は! 私の体は! 私の時間は! あんな人形と菓子と同程度だってことかよッッ。ふざけんなッ!」

「違う。違う! 違うッ! そんなつもりで渡してたわけじゃないッ」

 涙で視界がぼやける。言葉にならない音が漏れ始める。

「なぁ、なぁっ、なぁッ! あの時間はなんだったんだよッ! なぁ、なぁっ!」

 力を籠める指先の感覚が無くなっていく。目の前に広がる顔すら見えなくなる。

「ねぇ、私の話を――」

「うっせぇっよ! お前と話すことなんてないっ!」


 ぱちん

 灰色の世界の中で、私が叩いた彼女の頬だけが赤く染まって見えた。


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