【ただ、それだけのこと】
その年の9月に振られた。止められないことだった。付き合うということそもそもが嫌になった、と言っていた。彼女のほうでもいろいろあったようだったが、何をいう資格もなかった。覚悟はとっくに出来ていた。それでも自分から切り出すことは出来なかった。思いは募るばかりだった。己の利己心に吐き気がした。また心の闇が表れ始めていた。
元より事態はなんら変化していなかった。安心を手に入れることは出来たが、しかしそれは最低限の生命保険でしかなかった。精神の安寧にはほど遠かった。見ないふりをするのにも限度がある。もう一度過酷な問いに向き合わねばならなかった。
優れている、とされる対象に空虚を見いだすようになった。悪しきものだ、とされた人物に理解と同情を持つようになった。何もかもが正しく、そして間違っていると思うようになった。これが大いなる苦しみをもたらすようになった。
全ての人工物に感動と侮蔑を同時に抱くようになっていた。身近にある道路、車、ライト、スマートフォン。何千万年かけた人類の技術と願いの結晶がこうして現代にモノを作り出していた。人類の霊長たる証左であった。そうして作り出される製品が環境を破壊していた。当然のように地面の上にコンクリートが敷かれ、その上で鉄の塊が蠢いていた。1億年前にはありえないことだった。世界は純粋かつ精錬された一つのシステム、つまり弱肉強食であり食物連鎖で成り立っていた。全ての生物が循環して巡っていた。だが、たかだか1種族がその理を食い破らんとしていた。今目の前にある全てのモノは、何かを破壊して作られている。モノへの拭い去れない不快感が常に同居し、その文明の利器を当たり前のように享受して暮らしている自分も厭になった。だからといって環境保全を叫ぶ気には到底なれなかった。どこまでいっても人類は何かを破壊して都合の良いように作り替えるしかないのだから。たとえ火力発電が0になろうがゴミの不法投棄が無くなろうが、本質は何も変わらなかった。活動を否定する気は全くなかった。ただ虚しいと思った。
全ての人間に価値があると思い、そうして社会の構造そのものが嫌いになった。全ての人間にある「生きたい」という欲求がたまらなく愛おしかった。しかし全ての人間がそれを叶えられる訳ではなかった。不平等はどんな世界にも存在していた。社会が形成されたその瞬間から格差は生じていた。社会を形成するには、共通の尺度が必要だった。物差しで測るということは、優劣がつけられるということでもあった。そうして支配する側と支配される側が生まれたが、これは自然界でもままあることだった。しかし人間は肉体でなく精神という尺度で見るならば間違いなく平等であった。この世に間違った人間は存在しない。どんな在り方をしていようとも、それはその人の人生をその人なりに幸福に生きようとした結果であるのだから。みんな幸せになりたいだけだった。社会は全てを受け入れられないように出来ていた。肉体は確かに自然界の理屈で廻り続けるかもしれない。ならば報われなかった精神はどこへいくのだろうか。良いか悪いかという話ではなかった。事実人類はそのシステムでここまで発展して見せたのだから、生物としては寧ろ正解なのかもしれない。だが、もうどうしようもなく嫌いになっていた。そのシステムの一部に自分も組み込まれていくことを恐ろしく思った。精神までシステムにとらわれる訳ではないことは重々承知していた。そうして大人たちは生きて居ることも分かっていた。
冷えた深海に沈んでゆくような心地がした。酸素が次第に減っていく様な気がした。
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