【背中が地面についた日 ④】

 死のうと思った。何もかもを置いていこうと思った。心からの願望だった。現状の辛さだけではなかった。心が世界を拒絶し始めていた。おためごかしの理論武装を図って、それが真理だと本気で思っていた。しかしその屁理屈は否定されなかった。

「生きた方が幸せ?   …死んだこともないのに?」

どうしたって覆せない問いだった。当たり前のように生きることを強制する社会に嫌気がさしていた。世界と自分との齟齬にはとっくに気がついていた。それに耐えられなくなっていた。夏の、よく晴れた日だった。泣きたくなるくらいの快晴だった。

死ぬには良い日だった。 



 結局のところ、買ってきたハサミで自分の心臓を突くには至らなかった。親に宛てる遺書を書き終わり、姉妹へのぶんを書き始めたあたりでペンが動かなくなってしまった。良心の呵責だった。遺される妹があまりにも不憫だった。最後の最後は自らの性分によって生きながらえた。人間全てに尊敬の念があった。苦しくてたまらない世界を、自分が嫌で嫌でたまらない世界を、それでも生きているすべての勇者たちを素晴らしい存在だと思っていた。勇者たちを自分のような存在が悲しませてはいけないと思った。巣くった根強い劣等感と自虐が逆にかろうじて命を留めさせた。ぼうっとしている内に警察が来ていた。親が連絡したようだった。言われるがまま動いて、聞かれるがまま答えた。まっさらになっていた。ようやく背中が地面についたような気がした。

 

「自殺を人は止めるだろう。当然のことだ。だがその理由はなんだ?簡単だよ。『死んで欲しくないから』だ。『生きていればいいことがある』なんて後付けに過ぎないさ。仮に目の前で誰かの飛び降り自殺を止めたとして、その人がその先幸せになれるなんて誰が保証できる?まったく一つも良いことがない、なんてことは言うつもりはないよ。誰にだって楽しみの一つや二つあるだろう、食事なり娯楽なりで楽しみは確かにあるだろうさ。だからといって、その人のこれからの人生が全体を通して幸せになるということ、人生ひっくるめてああ、幸せな人生だった。となることが約束できるのか、という話だよ。要するに、『やっぱり死んだ方が幸せだった』とならないと言い切れる人がいるのかってことだ。根拠をもって言い切れる人間は存在しないよ…だって生きて居るのだもの。死んだことがない人間が死んだ後と比べるなんて出来るものか。これはあくまで過激な例えに過ぎないがね、その飛び降り自殺を止められた人間が、2日後に自宅が家事で焼け落ちて窒息死したとするなら、『生きていればいいことがある』という理論は虚偽だった訳だ。ああ、さすがに極端なことはわかっているよ。ただね、言いたいのは、未来なんて誰にも分からないってことなんだ。良いほうにも悪いほうにもね。未来予知は空想の世界の代物で、ラプラスの悪魔は量子力学によって否定された。科学において『未来は予知できない』ことは証明されているんだよ。誰にも保証ができない未来を宛てにして説得する、というのはいささか根拠に欠けているとは思わないかい?言いたいことはわかるんだ、だけどそれは真実ではない。あくまでそれは主観だよ。そのあたりはもう少し認知される必要があると思うんだ。さも当然のように語るその論理が、果たして根拠を持つものなのか、それとも経験則によった単なる推論なのか、をね。」


 留年か転校か退学の3つに絞られていた。転校を選んだ。現状は認知されたが、だからといって何が解決されたわけでもなかった。留まるだけではまた繰り返すだけだと思った。通信制の高校へ行くことにした。まるまる一年を棒に振ることになった。両親は「自分で選んだならそれでいい」と言った。我ながら甘やかされているとは思ったが、素直に享受しておいた。なりふり構っては居られなかった。必要なのは時間だった。

 次の年の春に転校した。授業は自宅で受けられたから、外出する必要が無かった。無闇に人と関わらずにすむのは喜ばしいことだった。深い思考の海に自身を解き放つことができた。以前にも増して思慮深くなっていった。あらゆる感情、行動の原因を考えていた。行動そのものが理解できなくても、その源にある欲求は理解でき得るはずだと考えた。そうして自身についての考察を深めていった。

 何もかもを詰め込んだ分、こぼれる量も多かった。そういうことだったのだろう。無敵の自分が抱え込んだ荷物は、気付けば重荷になっていた。全て剥がれてこぼれ落ちて、ずいぶんと少なくなった。失ったものは仕方が無かった。大切なものはちゃんと残っていた。それを失うことだけは間違いなくやらないと誓った。ハサミは必要なくなった。


「大切なものは失って初めてわかる。ありきたりな文言だけれどね。






それでもまだ、苦しみは終わらない、と。」

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