【背中が地面についた日 ③】


 高校は別々になった。彼女の方だけが電車通学になった。前のように毎朝学校の玄関で会う、というようにはいかなくなっていた。かといって毎朝駅前で会う約束をとりつけることも出来なかった。ひとえに臆病によるものだった。刻まれた自尊心の欠如が容赦なく力を発揮していた。無敵であったが小心者であった。己が相手にとって負担になることを極端に恐れていた。会う回数は極端に減っていき。精神の安寧は次第に削られていった。

 中学の頃の友人は殆ど高校が違っていた。数少ない何人かもクラスが遠く離れていた。有り体にいって孤独だった。まったく新しい人間関係を構築する必要があったが、それでも依然男は無敵を保てていた。他人の意図にそって動こうとする従順な心根は教師陣には好ましく移った。他人からの肯定がなお彼の力を保たせていた。しかし確かに疲弊していた。

限界が近づいていた。己の歪みに気付き始めていた。


 「必ずしも他人を慮るのみがコミュニケーションではない、と言うことだね。ヤマアラシのジレンマという言葉を聞いたことはあるかい?ヤマアラシはお互いに硬いトゲを持っていて、近づきすぎればトゲが刺さって痛い目にあうが、離れてしまえば寒くて凍えてしまう。離れ難くとも近づき難い、人間関係の難しさの例えというわけだ。しかしこの例えは単に難しい、ということだけを表したものではないんだ。つまり、他者と距離を縮める時には…友人になる、はたまた恋人になる、そんな時には…相手も自分も傷つける覚悟が必要だ、ということだ。そのリスクを勇気でもって乗り越えることで、より深い関係を築ける訳だ。友達を名字でなく名前で呼ぶ、なんてこともそれにあたるのかな。案外切り替えるタイミングをはかるのは難しいものさ。些細なことなのだけれどね。」


 彼女を名前で呼んだことが無かったのは、羞恥心によるものだけではなかった。罪悪感に似た抵抗があった。以前に彼女のことを名前で呼んでいたのはかつての親友だけであって、横恋慕のやましさから殊更気を配っていて、そこで凝り固まってしまった。いつしか周りも名前で呼ぶようになっていた。一人取り残されていた。どうしても口に出せなかった。あたかも呪いのようだった。


 無敵が剥がれ墜ちるのは思ったよりも早かった。高1の夏だった。さしたる理由はなく、成績もそこそこで、部活での友達も出来ていた。けれどもしかし、「何か」が欠けていた。正体は分からなかったが、「無い」ことだけが理解できた。それまで何が起きても体を学校へ運んでいた惰性とも呼べる力がすっかり消え失せてしまったようだった。頭痛に悩まされるようになっていた。慢性的なものだった。悩みとともにずっしりとした鈍痛が絶えず肉体と精神を蝕んでいった。原因はわからなかった。学校に行けなくなる代わりに自身に向き合う機会が増えたが、大抵最後には悲観的な結論に陥っていた。負の連鎖に呑み込まれているのは明らかだった。どうすることも出来なかった。

 とうとう全てを疑い始めて、しかも矛先は常に自分に向いていた。自虐で以て事態を解決した過去の自分のツケを支払うことになった。無敵であった頃がひどく懐かしかった。無敵とは疑わないことであり、故に無敵に戻ることは叶わぬ夢だった。己を信じる傲慢と己を疑う悲哀との間で反復横跳びを絶えず繰り返していた。そのうちに愛情すらも疑うようになった。今までの自分は常に「求められる姿」を模倣していたのだ、と思うようになった。求められる成績をとった、求められる態度をとった、彼女への想いすらも模倣であったかもしれない。かつての友人でもあり恋敵への憧憬が未だに強く自我を縛っていた。自分がわからなくなっていた。そうして順調に精神は腐っていった。

 何とか単位をとって進級は出来たが、事態はますます悪化した。かろうじて作った友人たちは一人も同じクラスにはならなかった。去年とは訳が違った。新しいコミュニティを作る気力なんてものはとうの昔に消え失せていた。殆ど学校には行けなくなっていた。

 何の解決策も見いだせないうちに夏休みになっていた。彼女とはもう何ヶ月も話をしていなかった。せめて付き合った記念日には話をしたいと思った。待ち合わせ場所に彼女はこなかった。

もう限界だった。

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