第五章 提示される真相・マオウハンター岩田君、再び

「とりあえず、座標の確認などにも多少の時間が必要ですので、皆さんはその間、お風呂にでも入って来て下さい。着替えもご用意しますので」

 というクラリスの一言があって、岩田、鳩々山、ルースの三人は碓氷に連れられて長い廊下を歩いている(岩田は、空間ジャンプで現場まで転移すれば楽だと思うのだが、迷図のような廊下をのんびり歩くのがこの屋敷の醍醐味だということで、意外にも全員から却下された)。クラリスは、駿河の説得やその他の準備のため別行動だ。岩田は先程から、鳩々山の抜き身の超長剣が気になってしょうがない。風呂に行くのに何故武器が必要なのか。

「岩田さん」

 碓氷が、前を向いたままで名を呼んだ。

「何?」

「クラリスのこと、許してあげて下さいね」

 岩田には、何のことだかよくわからなかった。

「え?」

「ほら、強制夢を見せたこと」

「ああ、別に全く気にしてないけど」

「でしたら、お手数ですけど、直接言ってやって下さい。何か、あいつ、かなり気にしてたみたいなんで……」

 さすがは双子、相手のことをよく見ている(祝福されし子ら、というゼン・ハルティスの言い分はやはり正しい!)。岩田は感心しつつ、碓氷の頼みを快諾した。ふと、後ろを歩くルースのことが気にかかったが、彼女は別に何も言って来なかった。わざわざ振り返って顔色を窺うのも不粋だろう。

「なんで、双子で暗殺者やってたの?」

 岩田は、意識して話題を変えてみた。

 使用人の中には過去の穿鑿を嫌う者もいるが、碓氷は特に気にしていないらしい。気さくに答えて来た。

「母親が暗殺者だったもので、幼少の頃から英才教育を受けていたんです。ご存知ないですか? 母は昔、『疾風皇帝』っていう通り名だったんですけど――」

「『疾風皇帝』だと!?」

 横で驚きのあまりに大声をあげる鳩々山の形相に一番驚いた岩田は、その名を全く知らなかった。

「それは本当ですの?」

 後ろから、ルースの少し上ずった声まで聞こえてくる。どうやら相当有名な人物らしい、と岩田は当たりをつけた。

「本当ですよ。何しろ本人から手解きを受けましたからね」

 少し自慢げに語る碓氷。

「ごめん、その人、誰?」

 岩田は正直に尋ねた。後ろからルースの嘆息が聞こえた。

「二〇年程前に活躍していた暗殺者ですわ。有名なところでは、ヒビッ党創始時の党首キレラルゾの暗殺がありますわね」

「ああ、なんかそいつが予告通りに暗殺されたって話だけは聞いたことある」

「しっかりして下さいな。崩壊議長の資格を取る時に憶えませんでしたの? 二〇〇万人の警備兵を誰一人傷つけることなく突破し、キレラルゾによって用意された二〇人の腕利きの暗殺者を悉く返り討ちにして、その上でキレラルゾをニヴァンジ・ドルイ死に陥らせてから殺害するという周到な手口で完殺! これで『疾風皇帝』の名は、政界や暗殺業界で一気に生ける伝説と化しましたわ」

「凄いけど、警備兵の数が明らかに多過ぎだと思う……」

「『疾風皇帝』と言いますし、まさか女性だとは思いませんでしたわ」

「俺は、どうやら女性らしいという噂までは掴んでいた。戦ってみたかったから、一時期かなり本気になって捜していたしな。まさかこんな近くに情報が転がっていたとは……」

 舌なめずりをせんばかりの鳩々山の態度もどうかと思うが。

「どんな方なんですの?」

「いや、別に普通の人ですよ。今は暗殺稼業を引退して、キュロウザンの事務員として働いてます」

「何! まさか、ジゴル町支部の窓口にいる女か?」

「え、あ、はい、ご存知なんですか?」

「く、そうか、迂闊だった。ただの事務屋にしては立居振舞が尋常でないと思っていたんだ! 何しろ、筆記速度が速すぎて雑務書類に摩擦で火を点けていたからな……」

 碓氷が呆れたように頭を抱えている。岩田は笑いを噛み殺した。

「では、お父様はどんな方ですの?」

「父のことはよくわかりません。僕が物心ついた時から、周りに父親を名乗る男が一五人以上いましたので、一体誰が本物なのか見当もつかないんです」

 妙な沈黙がその場を支配した。

「……ええと、お母様はガファザ教徒の方なのですか?」

 ルースは絶句しながらも、多夫多妻制(教団の言葉を借りれば『わくわく乱婚例』)を推奨している宗教紛いの名を挙げた。

「いえいえ。ついでに言えば、ゴウオウ人でもありません。本当の父親以外は、暗殺の練習用に国家中から掻き集められた凶悪度の高い犯罪者だったそうです。この前クラリスから初めて教えてもらいました。あ、でもクラリスも、どの人が父親なのかは未だにわかってないそうですよ」

 どんな家だ。岩田は唖然とした。

「僕もクラリスも、結局その中の誰一人として殺すことが出来ませんでした。殺されるのを恐れてか、皆、僕達に優しく接してくれましたから。……でも、それくらいで殺害を躊躇うような甘さが、暗殺者としての致命的な欠点なんでしょうね」

 碓氷は自虐的に笑った。

「三年くらい前ですか。クラリスが標的を殺しに行ったまま、ふっつり連絡を絶って、戻って来なくなったんです。あの時は本当に焦りました。……その標的が要するに今の師匠なんですけど、当時は人となりなんて全然知らなかったですからね。返り討ちにあったんだと思い込みました」

 三年前といえば、碓氷とクラリスはまだ一三歳だ。岩田が一三歳の頃と言えば、鳩々山から「芸能人は実在の人物でない」と教えられて本気にし、テレヴィジョン放映局に見当違いの批判文を送った頃である。人間の生き方とは、かくも違いがあるものなのか。

「すぐに仇を討ちに行こうとしたんですが、母親に諌められましてね。『禁術の才に関しては確かにお前の方がクラリスより上だが、総合的暗殺技能はクラリスの方がお前より遥かに上だ。そのクラリスが敗れるような敵に、今のお前が突貫しても無駄死にするだけだよ』と……。二年間、全力修行という表現でもまだ生温い、絶息覚悟の研鑚を積みました。ようやく母のお墨付きを貰い、半年前に弔い合戦のつもりでここに来て、まあ、気負い過ぎて結果はご存知の通りですが、捕縛されて自尽を覚悟した時、クラリスが泣きながら止めに来たのには驚きました。まさか生きていたとは、それどころか、普通に使用人として働いていたとは……。標的の軍門に下ったなんてバツが悪くて、僕達には連絡出来なかった、と言うんですよ。こんなことなら、一度正面からこの屋敷を訪ねておけば良かったです」

 碓氷は曖昧に微笑みながら、初めて振り向いた。

「でも、クラリスが生きていて本当に良かった……。自らの暗殺を企てた者にすら寛大な措置をなさった師匠には、感謝の言葉すらありません。クラリスがあんなによく笑うようになったのは、師匠と、それから、岩田さん、あなたのお陰ですよ。家では、いつも泣きそうな顔をしていましたからね」

 碓氷は、岩田の目をしっかりと見据えて後ろ歩きのまま優雅に一礼した。するりと流れるように前に向き直る。

「……でも、クラリスに続き、君までこの屋敷に来てしまったら、お母さんが心配しているんじゃないかい?」

 岩田は、恥ずかしさを隠すようにその背に問うた。

「大丈夫ですよ。母にはきちんと承諾を得ました。むしろ、『クラリスがそんなに楽しそうにしているなら、お前も一緒にそこで働くべきだ』と、背中を押してくれました。ちょっと寂しそうでしたが、自主性を重んじる人間でもありますからね」

「ふむ、そんなことなどどうでもいい。とりあえず、今度のザ・ホリデイに一戦交えたいから、『疾風皇帝』に取次ぎを頼む」

「すみません。母はもう荒事には関わらない方針なんです。疾風皇帝の左腕と呼ばれた僕で良ければ、いつでもお相手しますよ。戦闘狂のローティストなんて、かなり素敵です」

「ふむ……お前ではルバ不足の感があるが、まあ、いいだろう」

「いや、お前、ルバ不足の使い方完全に間違ってるぞ……」

 岩田の指摘も何処吹く風、二人は決闘の日時と場所を正式に決め始めている。下手すればカドドルーキン関係者を呼びそうな勢いだ。

「岩田様」背後から、ルースの切迫したような声が聞こえた。

「ん、何?」

 岩田が振り返ると、ルースが心持ち曇った表情で、俯きがちに歩いている。

「……すみません。呼んでみただけですわ」

 そう言ってぎこちなく笑う。……怪しい。岩田は、自分の預かり知らぬところで何かとんでもない事件でも進行中なのかと勘繰ったが、該当するような事実は何も無かった。

 前を歩く碓氷が急に立ち止まった。

「お風呂場はこちらになります。男性は、こちらから向かって右に、女性は左に曲がって下さい」

 何故か、以前に祖父の家に来た時と風呂の場所が全く変わっている気がしたが、岩田はこの屋敷の間取りを考えるのを完全に諦めた。

 広い浴室を思い浮かべながら、彼は鳩々山と共に奥廊下を右折する。その時、自分を見つめるルースの少し複雑な表情が目に止まったが、岩田は何事も無かったように通り過ぎた。勿論超長剣は狭くなった廊下の角を曲がり切れず、止む無くその場に放置された。



「あの、少し手伝って貰いたいことがあるんだけど、時間大丈夫?」

 クラリスが自分の部屋を訪ねて来た時、駿河は心底驚いた。あまりに動揺し、夜分遅くの不粋な訪問を咎めるための決めゼリフを口にすることすら忘れてしまった。

「……そなたが我が部屋を直接訪れるとは、珍しいな」

「そう、かしら……」

 実のところ駿河は、仕事を終えたばかりで疲れていた(尤も、疲労の原因の大半は、宴の際に妙な技をかけられて皆からいいように弄られ、憔悴したためだ)。正直少し休みたかったが、クラリスの様子がいつもと違う気もしたので、迎え入れて話を聞く態勢を整えた。

 部屋に入って来るとクラリスは、ガブラブを切ったように止め処なく話し始めた。強制夢の騒動の顛末(予想通り、犯人類はクラリスであったようだ)から、マオウハントの概要、挙句に師匠が古代人であることまで包み隠さず口にした。古代人のくだりでは「手伝いの都合上やむを得ず教えるけど、絶対に他言しないで」と釘を刺されたので、どうやらそれは本当の話らしい。……かといって、駿河は特に意外とも思わなかった。師匠の、際立った凡庸さの影に巧みに隠された異質な雰囲気を、駿河は誰よりも理解していた。それが根本的な文化圏の違いに由来するというのは納得出来る話だった。

 さらにクラリスは、「これは、」と前置きして、騒動の裏事情らしきものまで語って来た。駿河は「そなたもなかなか難しい状況に置かれておるな」と、思った通りのことを口にしただけで、立ち入った話は避けた。それだけのことで、クラリスははにかんだように笑った。

 師匠の孫娘の考案したという時間軸移動の方法は中々に興味深かったが、駿河はあの孫娘ごときの発想に感心したと思われるのが癪で、敢えてつまらなそうな表情をしておいた。こういう細かい修正を常にしていかないと、いずれ、殺意が薄れてしまうのだ。

 ともかく駿河は、最後に自分なりに話を纏めた。

「つまり我が仕事とは、エクストラセンサリー・パーセプションを発動させつつ、過去の世界に跳躍せし魂に、コーディネートチェッキングとマインドリーディングを仕掛ける、ということだな?」

 駿河は、物わかりが良いと他人からよく言われる。ロトジェナイ病で長年生きている分、話の要点を捉えるのに慣れているだけだと自己評価しているが、悪くない風評を自ら潰すこともしない。

「……そういうことになるわね。あなたなら、出来るでしょう?」

「無論だ。しかし、……師匠の孫娘のルウスに、結果的に協力してしまう形となるのが実に腹立たしい。よって――」

 否定の意思を叩きつけようとした刹那、クラリスが食い下がった。

「埋め合わせはするわ。夕餉にメラシトルーレが出た時は、優先的にあなたにあげるし」

「了承した! そなたには日頃から世話になっている。我が力が必要だとそこまで頼まれたなら、無下に断るわけにいかんからな」

 どう見てもメラシトルーレに釣られていたが、駿河は尤もらしい理屈を練った。クラリスは、ほっとしたような表情になる。

「ありがとう。助かるわ。じゃあ、早速わたしに付いて来て。岩田様の部屋に戻るから」

 微笑んで立ち上がったクラリスの背に憂慮の影を見た駿河は、「気にしない方が良い。筋違いの罪悪感なんて、百害あって一利無しだ」と、咄嗟に声をかけてしまった(かろうじて男口調を保てたのが幸いだった。下手をすれば地が出ていたところだ)。

 何を気にしない方が良いのか、駿河ははっきりと口にしなかった。ただ、それだけでも相手に想いが伝わったことは確信出来た。……伊達に一二〇年以上もか弱き女性をやっていたわけではない。

「……ありがとう」

 クラリスは、もう一度感謝の言葉を吐いた。その表情に柔らかさが戻っていたことを、駿河は素直に嬉しく思った。か弱き女を、力強き男が助ける。正しい男女のあり方とは、かくあらねばならない。

 部屋を出て行くクラリスの後に続きながら、駿河はふと、彼女の話に出てきた『マオウ』という言葉にひっかかりを感じた。

――マオウ……? どこかで聞いた憶えがあるような……。

 喉元まで出掛かっているのだが、どうしても思い出せない。何やら、という印象を受けるのだが……。

 廊下に出るや、隣室の襖の隙間からサグロゾールが襲い掛かって来た。この三津葛の式神は、駿河を明らかに敵視しており、ことあるごとに命を狙って来る。駿河は見向きもせずにそれを神剣で切り裂き(これで死ぬようならサグロゾールとは言わない)、思考に没頭し続けた。だが、如何せん答えは出てこない。切った傍から再生を始めるザグロゾールにもう一太刀くれてから、駿河は瞑目する。

――どうしても思い出せないが、きっと大したことではなかろう。仮に大事であったとして、二万年近くも昔のこと。今を生きる我には一切関わりの無い話なのだ。

 駿河は結論し、黙したまま歩を進めた。クラリスも無言を通している。足音を完全に殺した暗殺者特有の足取りで、秘めた想いを抱えたまま、二人は歩き続ける。



 岩田と鳩々山が風呂場から戻って来ると、既に廊下にはルースが待っていた。碓氷と二人で、グラスに入った透明な飲み物を飲んでいる。湯上がりのルースは、いつもの振袖姿とは異なり、浴衣の上に半纏を羽織った格好だった。岩田や鳩々山に用意されていた服が洋装だった(尤も鳩々山は、内ポケットがなくては隠し武器が収納出来ないではないか、と激怒し、結局それには袖を通さなかった)のに対し、ルースの方はあくまで和装に拘るらしい。背中にかかるほどの長い黒髪を下ろしているせいで、雰囲気が普段と随分異なっている。

「お二人とも、遅過ぎますわ」

 口を開けば、しかしルースはルースだった。手元のグラスを碓氷に預け、穏やかに岩田達を非難した。

「俺達が遅いんじゃなくて、ルースが早過ぎるんだよ」

 着替えや洗髪、洗顔にかなりの時間を要しそうなルースが、一〇分を切る時間で入浴出来る理由が岩田にはよくわからない(おそらく、一つ一つの動作速度がずば抜けて速いのだとは思うが)。

「言い訳は見苦しいですわよ」

「そうだぞ、岩田」

「なんでお前まで敵に回る……?」

「趣味だからだ」

「かえれ。家にではなく、土に」

 岩田は心からそう願い、鳩々山の超長剣による反撃を警戒した。

 笑いながらその様子を眺めていた碓氷は、グラスを空間ジャンプでどこかへ送って消し去ると、「戻りましょう。クラリスも準備を終えている頃合ですし」と言って、先頭に立って歩き始めた。

 最初の別れ道で、行きとは明らかに違った道を選んで曲がる。

「あれ? こっちだっけ?」

「帰りはこっちの方が早いんですよ」

 わけのわからないことを言われて戸惑う岩田に、

「空間ジャンプの関係ですわ」

 すぐ隣を並んで歩いているルースが教えてくれた。……ルースが自分の隣にいるとは珍しい。岩田は天変地異を覚悟した。

「わかり難いかもしれませんが、この屋敷には至る所に、別の場所へ転移するよう設定された空間ジャンプの罠が仕掛けられておりますの。そのため、行きと帰りで最短順路が異なるのですわ」

「え? そんなの前からあったっけ?」

「いえ。僕が来てから作ったんですよ。侵入者を攪乱するために」

「ふむ。俺は攪乱されなかったぞ」

「あなたはローティストだからどうにでもなるでしょう」

 鳩々山を無下にあしらう碓氷。場所に固定する形での空間ジャンプは、ただでさえ難易度が高い大技だ。それを幾つも常時発生させているとは、やはり只者ではない。

「この恐るべき禁術の才能は、やはり親譲りですわね。少々間の抜けたところも受け継いでいるのが玉に疵ですが」

 ルースが岩田に身を寄せ、小声で囁いた。ほのかに甘い石鹸の香りが漂って、岩田はどぎまぎした。

「……ルースさん、言いたいことがあるなら、大きな声で言って下さい」

 少し怒ったように言う碓氷の声。おそらく、本当はしっかり聞こえているのだろう。

「別に、何でもないですわ」

 ルースは悪びれる様子も無く、さらりと言ってのけた。

 その次の瞬間。何の脈絡もなく、「来るぞ!」と、鳩々山が叫んで、超長剣を振り回した。

 轟、と風を切る鋭い刃が、一瞬前まで何も無かったはずの場所を薙ごうとして、ガキン、と硬い音を立てて何かに受け止められた。

「!」

 いつの間にかそこにいた駿河の右腕が、鳩々山の一撃を上手く防いでいた。肘の辺りが鉤爪のようになっており、その隙間で刃を挟み取ったのだ。力のかけ具合によっては刃を破砕し得る、攻防一体の妙手だった。

 だが、当の駿河は何故か、こちらと同様何が起こったのかわからないという表情をしている。わずかに視線を泳がせ、周囲の状況を探った。……その目がルースを捉えた瞬間、憎悪を剥き出しにした。

 まずい! 岩田は嫌な予感に襲われる。

 駿河は、「敵襲だな!?」と勝手なことを叫ぶや、右腕をぬらりと溶かして鳩々山の超長剣を見事にやり過ごし、一足飛びでルースに向かって襲い掛った。

「駿河さん!」

 碓氷の咄嗟の制止の声も届かなかった。

 駿河は両腕をともに、剣呑な輝きを放つ神剣へと変容させ、さらに左右でその長さを変えるという巧みな作戦で必殺の攻勢を盤石なものにしていた。対するルースも、青山羊を倒すのに最も適している攻撃突出の『零式』の構えにて戦闘体勢を万全に整える。

 二人の武人が正面から激突した。

 両手の神剣で時間差を利用した刺突を繰り出した駿河に対し、ルースは死雀の体捌き(相手の攻撃が接触する瞬間まで微動だにせず、超高速で回避と反撃を同時に零距離から行う技巧。本来は、零距離から起こす回避のための体裁きのみを指す)で迎撃に出た。いや、ルースの体捌きは駿河の呼吸を上手く盗んでおり、精神領域の接触時点から始まる仮宿の裏技巧へと昇華していたため、むしろ先手をとっての攻撃に転じていた。完全に、ルースの必勝パターンだ。

 駿河は、回避出来ないことを瞬間的に察知したのか、左手の神剣を一瞬で大盾に変え、上半身を完全に覆い隠した。ルースの拳を一旦正面から受け止める体勢だ。

「甘いですわ!」

 叫び、その盾ごと相手を破壊するつもりなのか、ルースは拳の握りを芯撃ちのための代物に変えた。

「――覚悟!」

 気合の声が聞こえるや否や、ルースは岩田の目の前からぱっと消えてしまった。

「え?」

 直後、駿河の大盾の表面から無数の鋭利な金属針が凄まじい速さで生え出て来た。さらに、まるで針ゼルガの外殻のようになった盾の下を、刃の鈍い超大鎌と化した右腕が重々しく通り過ぎる。

 岩田の背を戦慄が駆けた。驚愕に値する連続攻撃だった。ルースがもしもあのまま駿河に一撃を浴びせていたら、反撃をまともに食らって両足を潰されていたことだろう。

「それ以上動くことは、罷りならん」

 鳩々山が、駿河の首筋にぴたりと剣先を押し当てている。駿河はルースという標的を見失ったためか、比較的大人しく指示に従っている。

 碓氷が岩田に向けて、溜息を吐く仕草をした。呆れていることを端的に現したかったようだ。岩田は神妙に頷き、そして問うた。

「ルースはどこに行ったんだい?」

「後ろ、です。空間ジャンプで送りました」

 碓氷に言われて振り返ると、確かに廊下の遥か先に、床にへたり込んでいる人影がある。岩田は慌てて走った。

「ルース、大丈夫か? 怪我は無いかい?」

 ルースは岩田に気付いて顔を上げると、慌てて立ち上がり、襟元の乱れを取り繕った。さらに、ぺたぺたと顔面を触って何事かを確かめている。

「あまりにも突然のことで慣性を殺し切れず、実は顔面から床に激突してしまったのですが、……大事無いみたいですわね」

「え……、あの速度で、まさかそんなわけはないだろう……」

 絶句しながら直近まで進むと、その理由がわかった。ルースのいる周辺だけ、板張りの廊下がキャラクタリスティックチェンジング(対象の特性を変化させる技)により、バモールフのようなふかふかの質感に変わっていたのだ。ルースの激突の衝撃は全て巧みに吸収されたに違いない。

「空間ジャンプ以後のフォローにまでしっかり手を回すとは、碓氷様は相当気配り上手な方ですわね。なかなか見所がありますわ」

 ルースはにこにこと笑いながら、元・暗殺者の少年を絶賛した。岩田としては、良いところを全て持っていかれたようで面白くない。やつ当たりのようにルースに苦言を呈する。

「……それはともかく、駿河とはもっと上手く付き合おうよ。少なくとも今回に限って言えば協力者なわけだし」

 ルースは、わずかに眉根を寄せて不快を示した。二、三度、裾を気にした後、皆の待つ方へと静々歩き始める。

「私としては、存分にそのつもりだったのです! なのに、向こうが急に襲い掛かって来たのですわ。いわゆる、絶対完全正当防衛戦闘行為という奴ですわ」

「……いや、まあ、そういう言い方が出来ないわけじゃないけど、結局、君の反撃の方が早かったわけだし――」

「いつもと違う無防備な格好ですし、安易に後手に回るのは危険なのです!」

「無防備って……」

 妙な沈黙が訪れる。振袖より緩い襟の合わせ目に吸い込まれそうになる視線を、岩田は意図的に引き上げる。透明感のある緑色の瞳がこちらを見上げていた。岩田は耳まで真っ赤になる。

「何ですの……? もしかして、私が本当に無防備かどうか確かめたいんですの?」

「え、いや、別にそんなことを具体的に考えたわけじゃなくて――」

「じゃあ、一体どんなことを考えていたんですの?」

「…………」

「所詮、男は狼ですわね」

「ち、違うって。誤解だ、思い違いだ、不当なリュリュミルだ――」

 しどろもどろとそんな言い訳をしている内に、岩田達は三人のいる場所に到着した。駿河は碓氷に事情を問い質されていた。その首筋には、超長剣が突きつけられている。

「だから、何度も言っているであろう! 我は、クラリスの後に付いて、岩田(孫)とやらの部屋に行こうとしていただけなのだ! なのに突然クラリスが消え、我だけここにいて、あまつさえ、こやつに切りつけられたのだぞ! 敵襲だと考えても無理はなかろう!」

「だから、ここにジャンプしたのは、駿河さんがトラップに引っ掛かったためなんですよ。あなたの言う辺りには、アサシネイション系のヒドゥンに反応して発動する空間ジャンプが敷いてありますから。どうして、ヒドゥンなんて使って歩いたんですか?」

「それは……、我の勝手であろう。我も元は暗殺者だ。不意にヒドゥンを使いたくなったとしてもおかしくなかろう?」

「……あなたの、ルースさんへの躊躇いのない攻撃を見る限り、彼女の暗殺のための伏線だったようにも思えるんですけどね」

「ギクッ……」

「疚しいことがある時、自分で『ギクッ』ていう癖、治した方が良いですよ。今時、流行りませんから」

 駿河はむっつりと黙り込む。

「おい碓氷。こいつ、ここで斬っておいた方が良くないか?」

 本気の目で不敵に言う鳩々山に、碓氷は両手を合わせて頼んだ。

「すみません。それだけは勘弁を。駿河さんにも悪気があったわけではないので――」

「だからこそタチが悪い気もしますが」

 ルースが、話に割って入る。

「あ、ルースさん。先程は、突然の無礼、申し訳ありませんでした。二人とも無傷のまま戦闘を終わらせるにはあれが最良でして……」

「その件は別に気になさらないで下さい。素晴らしい判断でしたわ」

「駿河さんの襲撃のことも、僕に免じて――」

「それに関しても、もう構いませんわ」

「え?」

 思いの外慈悲深い酌量を下したルースは、駿河の方に向かって真っ直ぐ猫差し指を伸ばした。全員、それに釣られて視線を動かすと、いつの間にか駿河の真後ろに、クラリスが怒りの表情で仁王立ちしていた。駿河の不在に気付き、彼を追って自らもジャンプして来たらしい。

 彼女の右手には、特大のガツクトックが握られている。

 鳩々山は超長剣の切っ先を下げる。展開をその場の流れに任せることにしたようだ。

「……では、とりあえず殴りますね」

「いや、ことわ――」

 拒絶のセリフは途中から悲鳴に変わった。断末魔に一歩足りず、駿河はかろうじて生還した。

 やれやれ。とんでもない無法者ばかりだ。

 岩田は先程碓氷のやったように、仕草だけで溜息を吐いた。



 些細なことだが、どうにも気に食わない。超長剣を水平に維持するいつもの負荷を腕に感じながら、鳩々山は苛立っていた。

 クラリスと駿河が加わったことで六人となった一行は、行啓パレードの如く二列に連なって廊下を歩いているのだが、その並びに不服があった。

 先頭に碓氷と駿河が配置されている点は良い。道案内役の碓氷が、駿河の暴走を停止する役目も兼ねているからだ。何より、駿河を先頭に置いておけば、その一挙手一投足を見張っておける。

 問題は、残りの四人だ。岩田の少し後ろを付いて歩きたがるルースの癖が、何故か今回に限って発揮されていない。手すら触れそうな距離で、岩田の隣を歩いている。まさか、湯上がりの色香を使って積極的にアプローチを仕掛けているわけではないと思うし、仮にそうでも鈍感な岩田は気付かないはずだが、不快なことには違いなかった。また、必然的に鳩々山は残ったクラリスと隣り合うことになるのだが、どうにもこの女は前から苦手なのだった。

 何しろこの容姿端麗な一流の暗殺技能者は、凡庸な野暮天の二流ハティオーカーに完全にほの字なのだ。当人は想いを心に秘めているつもりなのかもしれないが、傍から見ていてこれほどわかりやすい慕情など、とんと聞いた覚えが無い。今も、その焦がれるような熱い視線は、前を行く緩い男の背に注がれている。……それがまた、丁度ルースがクラリスほどの年齢の時に呑気な従兄弟に向けていた視線にそっくりで、鳩々山は嫌になる。

――どうしてよりによって、そいつなんだ。

 味方よりも敵を作るのが得意な鳩々山にとって、岩田は唯一無二とも言える大切な親友だが、正直、男性としての魅力に富んでいると思ったことなど皆無だ。おそらく国家で一番モテ神に縁遠い性根をしているはずだと、個人的に考えている。……にも拘らず、何故か岩田は異性からの人気度が異様に高い。岩田の適度な弱腰が女性に特有の何らかの本能をくすぐっているに違いないと鳩々山は踏んでいるが、該当する言葉が見つからずに歯痒い思いをしている。

――せめて、岩田本人が色々と自覚してくれればマシになるんだが。

 とはいえ、下手に横槍を入れて平和な交友関係が崩れるのが最もいただけない。鳩々山の日常は恋愛事などと無縁な殺伐としたものなので、岩田を取り巻く愉快な人間関係は実のところずっと維持して行きたいのだ。

――友情、愛情、憎悪、狂気、あらゆる概念の集積体だな、ここは。

「あ、そういえば、クラリス」

 鳩々山の感慨を打ち消すように、おそらく何の打算も計算も無い自然体の岩田が、突然に後ろを振り返った。クラリスの視線が素早く、曖昧に逸らされる。きっと岩田は彼女がずっと自分の背を見ていたことになど、永遠に気付かないだろう。

「な、何でしょうか?」

 鳩々山は、気を利かせるつもり半分、嫌がらせのつもり半分で歩調を速め、ルースの隣に並んだ。超長剣を上手く操り、岩田をクラリスの隣まで自然に下がらせる。ルースが何か物言いたげにこちらを見ていたが、鳩々山は知らぬ顔をした。

 背後では、もどかしいやり取りが続いている。

「俺に強制夢を見せたことだけど」

「は、はい。その節は本当にご迷惑を……」

「ううん、そんなに気にしなくていいって」

「……ありがとう、ございます」

「夢なんかで確かめなくても、俺は少なくともクラリスの相談にはちゃんと乗るからさ。その、なんだ。もっと気軽に話し掛けてよ」

 岩田が笑いかけている様子が、見なくてもわかった。鳩々山は超長剣を足元で捌き、刃の側面で岩田の脛を軽く小突いた。自分でも何がやりたいのかよくわからなかったので、誰もが偶然だと思ったことだろう。

 クラリスは岩田の言葉に対し、まだ何か気まずさを抱えているような間をとったが、

「はい、ありがとうございます。そう言っていただけると、その、本当に嬉しいです」

 と、幸せそうに返事をした。全く、聞いているだけでサマロンティーノ症状になりそうだ。気を紛らすため、背後のやり取りに完全に注意を向けている隣のルースに小声で囁いてみた。

「随分、二人のことが気になっているみたいじゃないか」

 ルースは突然の言葉に驚いたのか、狩りの直前のフィオアル鳥モドキのような表情になって、鳩々山の方を振り向いた。長い黒髪がふわりと揺れて、淡く気高い香気が舞う。

 鳩々山は深く魅入られそうになり、我知らず顔を逸らした。

 ルースはまるで何事もなかったように、淡々と言葉を紡ぐ。

「岩田様は、優し過ぎるのですわ」

 ルースの言葉に鳩々山は、静かに微苦笑した。

「ふむ。それ故に残酷、と続けたいようにも聞こえるがな」

「あら、そうですか? 優しさが過ぎて残酷に見えるならば、岩田様はきっと残酷王になれますわ」

「ほう、なら逆に、残酷が過ぎて優しさに見えるならば、俺はきっと優しさ王になれるぞ」

「鳩々山様らしくない、随分と身の程を弁えた発言ですわね」

 冗句にくすくすと笑うルース。鳩々山は複雑な気分になった。

――ルースがあいつの優しさに惹かれているのなら、そんな情念とは無縁の俺に、全く勝ち目は無いのやもしれない。

 本当に、難儀な話だ。

 鳩々山はむしゃくしゃして、煩悩に塗れた妄念を全て頭から振り払った。今なら、特攻ゼルガにだって一人で勝てそうな気がした。



 部屋に着くと、すぐに最終的な打ち合わせが始まった。

「ええと、マインドリーディングは軽度に発生させるに過ぎませんので、念のために皆さんにはマインドシールド(多くの禁術使用者が常に発動させておく禁術。精神攻撃に対する障壁を作る技)を外していただきます。重要な時にそちらの思考が読み取りづらくなったりすると危険ですし。構いませんか?」

「別にいいよ」

「やはり、そうなると、男性である僕や駿河さんがルースさんにマインドリーディングをかけるのはエピラルファ律に悖りますので、ルースさん担当はクラリスということで」

「構いませんわ」

「僕と駿河さんのどちらがいいか、お二人は希望がありますか?」

「俺は別に、どっちでも構わないよ」

「俺も、この期に及んでそんな些細なことには拘らない」

「ではまあ、僕が岩田さん、駿河さんが鳩々山さんということで。駿河さん、問題ありませんか?」

 頷く駿河は、殴られた部分をまだ押さえている。

「それでは早速始めましょう。意識を失う際に倒れて怪我など負わぬよう、あらかじめ横になって下さい。後は、マインドシールドを外して楽にするだけです。あ、魂の状態の皆さんと会話をしようとすると幾つかの関門があって酷く煩雑なので、基本的に僕達側からは言葉をかけられません。そのつもりでお願いします。そちらの考えていることは伝わりますので、心配は要りませんが」

 岩田、ルース、鳩々山の三人は、部屋の中央で川の字を作るように並んで横たわった。岩田が久し振りにマインドシールドを解除すると、裸で外出したような不安に襲われた。以降は考えることが碓氷に筒抜けだと思いながら動いた方が良い。

 碓氷は、クラリスと駿河に何事か指示して段取りを確認しているが、早口過ぎて岩田には何を言っているか聞き取れなかった。

「さあ、行きますよ。離魂状態になる時、多少気分が悪くなると思いますが、我慢して下さい」

 念のために発動させたフォースフィーリング(自らが禁術の対象とされた際、それを感知する能力)が、ソウルセパレーションの被術事実を警告して来た。本来的にはフェータルな術式であるだけに、さしもの岩田も緊張を免れ得ない。

 離魂に特有の時間差をおいてから、突然にそれは来た。岩田は、脳を直接掻き回されているような、絶望的な不快に揉まれた。酒をどれだけ飲んでもこうはなるまいという壮絶な平衡感覚の混乱が起こる。内臓そのものが反転し、揺り動かされているような絶息ものの悪心に苛まれ、悶絶する。ぐるぐる回る世界の中で、死こそ安らぎだと伝える魔獣の咆哮が聞こえる。それすら救いに思え、岩田は一度ならず死にたいと考える。誰か、どうか、一刻も早く、俺を、殺して――

 ふっと、その全てが消失した。陶酔的な解放感と共に、岩田の意識は完全に虚無に溶けた。



 唖。何も無かった。

何も無いということの本質がわかった。わかるということはわからなかったが、それを確信し、確信した瞬間に動作の主体たる自己の存在を確認した。何も無いことがわかった、私が、いる。

 一体、これは何なのだろう?

 無であることはわかっていたが、それがわかるということは、自分が「何か在る」という状況を知っているということに他ならない。しかし、何かとは何か? しばらくの間思いを巡らせてみたが、さっぱりわからない。何か大切なことのような気がしたが、果たしてこの私にとって大切なこととは何なのか、その姿かたちが全く思い浮かばなず、見当もつかない。だが、姿かたちが思い浮かばなかったことで、逆に、姿かたちという概念自体を思い出した。

 その姿かたちを確認するための方法があったはずだ。

 それ以前に、それを行う何らかの器官があった気がしたが、それを何と呼ぶかわからず、それこそ逆に言えばあらゆるものに呼び名があるという原則があったのだと思い出し、さらにそれを規定する言語という概念をようやく認識し、その言語自身も名を持つことを把握し、語彙という語彙を得、続いて――――


 ガツン、と強烈な衝撃が主体の全存在に均等に襲いかかってきた。唐突だった。


 脈絡なく、この『私』に岩田という人間存在の意識が共鳴し、自我が強制的に喚起され、姿かたちがどうとか言語がどうとか、そんな根源的な煩悶を全て超越して、岩田は完全に岩田としての『私』を取り戻した。けれど、あまりの認識の格差に頭が簡単には付いて行かず、岩田が現在の状況を思い出すまでさらに若干の時間が必要だった。

――今のが、離魂に特有の意識の混乱という奴か?

 碓氷は、岩田が離魂してすぐにマインドコントロールをかけてくれたはずだ。それでも、岩田には今の根源的葛藤が小一時間続いていたように感じられた。魂の時間感覚が現実の時間流と大きくかけ離れているというのは、どうやら事実のようだ。

 岩田は周囲を見渡した。しかし、魂は光学器官である目を持っていないためか、正確に物を見ることは出来ないらしい。想像の中で作られたと思しき『現在あり得べき客間の様子』が、テレヴィジョンのコマ送りのようになって、かくかくと再現されるに過ぎなかった。丁度、碓氷が三人の肉体をフリーズさせているところだ。もしかすると、存外に正しい現実世界の姿を捉えているのかもしれない。

 すると突然、ぬらりと全身(精神存在としての魂の外殻か)を包むような違和に囚われ、岩田は戦慄した。五感が曖昧でも確実に把握出来るほど、日常とは異質な空間に転移したことを知った。……つまり、これが擬似空間へのジャンプなのだ。

 空気中から水中に没する際、徐々に体性感覚が馴致して行くように、岩田の魂もしばらくすると擬似空間の質感に慣れて来たが、そこへさらに強烈な違和感が襲い掛かり、岩田は翻弄された。知っている感覚の中では落下中の加速感に似ていたが、落下する方向と加速する方向の不一致とでも言うべき致命的な齟齬が、たった一つの感覚の中にまるで泡沫のように無数に生じていた。

――これが、過去へ飛んでいる感触か?

 もはや言葉では表せない複雑な認識の渦に揉まれ、岩田は果てしなく落ちて行った。



「……さん、起きて下さい」

 鈴の鳴るような美しい声が聞こえる。心の、どこか深い奥の方でそれを感じながら、は、逆に初めて自分がことを思い出した。そういえば、久しぶりに仮眠をとったのだった。二時間経ったら起こすように、ルースに頼んでおいたのだが、もうそんな時間なのだろうか。思いの外、深く寝入ってしまったようだ。

 覚醒のために意識を外に開いていく。背中が痛いのは、岩にもたれかかって眠ったからだろう。それ以外に、体の節々がぎしぎしと軋んだが、今までの冒険の疲労の蓄積を考えれば無理もないことだった。どこから調達したものか、体には肌触りの良い毛布がかけられている。砂漠の夜は冷え込む。その心配りはうれしかった。

 ゆっくりと目を開く。星明りの中、こちらを覗きこむようにしている着物姿の女性がいた。目が合った。女性はにこにこと、

「おはようございます。クラッシュ浜松さん」

 と、笑いかけてきた。

 岩田君は、一気に覚醒して、そのおかげで、ここまで完全に岩田君に同調していたも、無事に覚醒することが出来た。

――これだ、間違いない。タイムスリップは本当に成功したんだ!

 岩田は、気分が昂ぶるのを感じた。しかし、

――夢の中で俺が考えていたことと、今俺が考えていることは随分違うけど、これでいいのかな?

 と、少し不安に思う部分もあった。

 強制夢で見せる未来図は不確定要素が多いから、このくらいの誤差は許容の範囲内かもしれない、と意識的に楽観する。

「おはよう、ルース。この毛布、ありがとう」

 岩田君は、ぎこちなく笑いかけて、立ち上がる。

 ルースが岩田君から毛布を受け取って、七メートルほど向こうの焚き火まで座フロウで滑っていくのを他人事のように――実際その通りだが――眺めつつ、岩田は、

――あのルースの中にも、ルースがいるわけだ。

 と、前に夢で見ていた時には考えもしなかったことに思い至り、微笑した。勿論それは、岩田君の表情には全く反映されなかった。

「クラッシュ浜松さん、起きましたわ」

 ルースがそこにいる二人に報告し、岩田君もそちらに向かった。

「起きたか。クラッシュ浜松さん、そろそろ出るぞ」

 二人の内、背の高い方――鳩々山だ、二つの意味で――が声をかけて来る。

返事もせずに無言のまま立っている岩田君を不審に思ったのか、もう一人が軽快な身のこなしで立ち上がり、「まだ寝ぼけているのか? 名称不明さん」と、問う。

 岩田は何だか、話の筋がわかっているテレヴィジョンドラマの再放送を見ているような気分になった。

「いや、寝ぼけてはいない。絶好調とも言えないがな。森林ウッディーは寝てないのか?」

 確か岩田の夢の中では、この辺りで自分と岩田君の違いに気が付いたのだ。発端は岩田君が岩田の存在にちらりと注意を向けたことだったはずだが、夢と異なり、この岩田君は特に岩田に拘泥する様子は無かった。

――怪しまれずに同調出来た方が、むしろ好都合だな。

「睡眠なんて、必要のないことだ。武術を極めた者にはね」

 森林が、岩田君の言葉を笑い飛ばした。岩田君はそれに何も言い返さず、ふと、辺りを見て、「ヨーマは? 偵察か?」と、問うた。

「そうですわ。今しがた連絡が入りましたの。マオウの巣を見つけたそうですので、早く合流しましょう」

 マオウ。ルースの口から、ついにその言葉が発される。

 夢で見た時は、かなり困惑したものだが、今は岩田達にとって一番の興味の対象である。

「そうか、じゃあ急がないとな。方角と距離を教えてくれ。あと、ヨーマに今から行く旨を伝えるんだ。焚き火は消しておこう」

「北西に五キロ。連絡はもう行ってる」

 鳩々山が応じ、森林が火を踏み消している。

 四人は、北西に向かって移動を開始した。

――荷物らしい荷物もないのに、どうやってじいさん達は旅をして来たんだろう?

 結局、岩田はそれが不思議でならなかった。


 五キロを踏破するのに、三〇分とかからない。

 全てが予定通りだった。国境壁より低い、それでもかなり高さのある土壁の見える場所まで来て、ヨーマと合流する。マオウの王についての推論を語り合い、ワインディングスターロードの伝説についての曖昧なやり取りがあって、

「ともかく、捕まえてみないことにはわからないですわ。無駄な会話もほどほどにして先に進みましょう」

 という一方的なルースの発言を潮に、五人は洞穴に向かうのだ。

 気持ち悪いくらい、夢の通りだ。

 真っ暗な洞穴の中、光源は、ヨーマの持つ不思議な形状をした小さな発火装置しかない。それでも壁面にぶつかる心配は無いし、事実ぶつかることも無かった。

 岩田君の鼓動はかなり速かったが、岩田の方はかなり落ち着いていた。

――話の流れがわかる内は、全く狼狽することもない。

 一行は立ち止まり、五〇メートル先の広間にいるらしいマオウの王との遭遇に備えているところだ。鳩々山が急に口にした作戦という言葉に一通り翻弄された後、岩田君は森林から頼まれる。

「マオウハントが終わったら、本当の名前、教えてくれよ」

 それに対して岩田君は素っ気無く、

「無事に、終われたら、考えてやる」

 とだけ応えていた。……岩田は胸を打たれた。

――果たして森林は、祖父の本名を知ることが出来たのだろうか。

 その全てが、まもなく明かされる。

――今頃、ルースと鳩々山は、かなりどきどきしているだろうな。

 あの二人は概要を聞いているとは言え、どこで何が起こるか詳しく把握しているわけではない。舞台が古代という全く未知の時代である以上、些細な物事に対しても緊張の連続であろう。

――先に夢として話を知っている俺は、良い意味での緊張感もない。これは良し悪しだな。

 人間はやはり、未知という領域においてのみ平等となり得るのだ。

 岩田は少し楽しくなって来た。

――皆にとっての平等、完全な未知領域がすぐそこに待っている。

 岩田がそう考えた瞬間だった。一行が広間に到達し、場が開けた。眩い明かりが突然灯り、反射的に目を覆った岩田君を、二つの気配と足音が追い抜く。

「ダメだ! 下がれ!」

 岩田君が指示を出す。マオウから反撃が来る。高らかに響く鳴き声があがる。



 マオーウ!!!!!!!!!!!!!!

 もはやそれは鳴き声ではなく、衝撃波だった。表皮の全てに震えが走り、衝撃に押された体はじりじりと後退する。

――これが、マオウか!

 真っ先に飛び出してそれと対峙する鳩々山の右手には、陣術の媒体である複雑な紋様の描かれた札が握られている。他人事のように状況を吟味した鳩々山(孫)は、

――じじい……こいつは、敵対するにはあまりにも偉大過ぎるぜ。

 神性とも呼べるものをマオウから嗅ぎ取っていた。人間存在如きには冒すことの出来ない領域、マオウはおそらくそこにいる。

――まずい……。桁違いの圧力だ。万が一戦闘に突入したとして、じじいの陣術が通用するのか……?

 懸念をよそに、鳩々山は毅然と相手を見据えていた。膝を屈したくなる強烈な波動に耐え、臆する心を奮い立たせ、必死にマオウと対峙し続けたのだ。

 鳩々山(孫)は、祖父の勇姿に快哉を叫んだ。



「マオウをいれた籠が共鳴してますわ!」

 座布団に座したルースの持っている籠が、わずかに震えながら、青くぼんやり発光する。

――共鳴? 共鳴って一体何ですの? どうしてそんなことが起こるんですの?

 祖母の中のルース(孫)は、近年に無い高揚を覚えていた。

 聞いていてわからないことだらけだったマオウハントの謎が、今、実質的な意味を伴って眼前にあり、さらにその謎を解く鍵すらも用意されているのだ。

 冷静でいられるわけがない。

 何しろルース(孫)は元々、好奇心が人一倍強いのだ。

「ヨーマ! 精神感応を開始しろ! でかい方でも、今まで捕まえた方でもいい」

「分かった!」

 岩田君のその声に、ヨーマが瞑目し、集中を始める。気脈の活性化のためか、髪の毛がふわりと浮き上がって逆立っている。

――しかし、このヨーマという少年、かなりの禁術能力者ですわね。

 目に見える情報を詳細に解析しつつ、ルース(孫)は未知の世界を貪欲に吸収して行った。ここで見た全てのことを記憶するつもりだった。



「……相手から攻撃が来るまで、こちらからは手を出しちゃダメだ。予想に反して、こいつも攻撃意志は強くないようだからな」

「百も承知だ」

 鳩々山が、大マオウを食い入るように見詰めている。左手で懐から、さらに二枚の札を取り出して身構える。

 一度鳴いたきり、大マオウに動きはない。

――そろそろ、最初の精神感応が始まるはずだ。

 岩田がそう考えるや、ヨーマの声と共に、頭の中に乱雑な文字列が飛び込んで来た。

『\;aprof@.c::@o―^④p@九dkjri:②―ir,cmv04k』

「日本語かギリシャ語に変えてから送れ!」

「ごめん、今やる」

 少し間が出来た。ヨーマが言語の変換処理を行っているのだろう。やがて、岩田にもおなじみの文字が次々と書き込まれ始めた。

『貴様ら人間が……、今更何の用だ? 我らのことは忘れ、安寧の中で生きるのではなかったのか?』

『お前らは一体何者だ?』

 鳩々山のものらしい書き込みが加わった。

『知らないか。本当に、我らのことは完全に忘却したらしいな。まあ無理もない。あれから二千年近い日々が経過した』

『何を言っている……?』

『裏切りだ。我らへの裏切り。世界への裏切り。あの日、人間存在は我らを切り捨てたのだ』

 マオウは相変わらず、具体的な出来事について何も触れない。

――絶対に、真相を暴いてやる。

 岩田は強く決意した。とは言っても、岩田は実質的に傍観者に過ぎず、行動は岩田君任せにするしかない。

『ワインディングスターロードとは何なんだ?』

『星の道、か。我らを集合させれば、もう一度過去に回帰出来るとでも思っているのか? 否、そもそもそれは無知ゆえの愚考。歪んだ道など、最初で最後、もはやあの時に途切れたのだ。我らが再び機能することなどあり得ない。貴様らは、気付かぬうちに最後の砦に篭っていたというわけだ』

『私達は、マオウ四二匹を捕まえればワインディングスターロードが開かれる、という伝説のみしか知りませんが、それは完全に間違っていたということですか?』

『マオウ? 我らはそのような名で呼ばれているというのか? そちらの都合だけで魔王として遠ざけようとしたのか……。何れにせよ、我らの集結が過去への回帰に繋がらないことは先に言明した通りであるが、それが何も意味をなさないと言えば虚偽となる』

『具体的には?』

『滅びだ。我らは過去になることは出来ないが未来を潰すことは出来る。完全な壊滅だ。一人間存在が好奇心で踏み込んだ領域としてはあまりに絶望的だが、致し方あるまい』

 ぞっとした。岩田君と岩田の精神の振幅が完全に同期していた。禍々しい気配に当てられた。

『貴様らの行為がもはや悪以外の何物でもないとわかった今、それでも貴様らは逃げぬか?』

 その言葉を受けた岩田君の行動は迅速だった。

『少し時間をくれ』

 すぐさまそう書き込み、ヨーマに精神感応を切るよう命じる。頭の中の文字列はすぐに消滅した。


――とうとう、ここまで来た。

 岩田君達一同は、皆で今後の対応について相談を始めていたが、岩田はその内容を全く聞いていなかった。

――マオウの正体が、ようやくわかる……。

 さらには、祖父達の記憶が書き換えられた理由や、未来への時間軸移動の機構も明らかにしたい。

 謎は、山積みになっているのだ。

 二千年前に起こった出来事。

 ワインディングスターロード。

 もはや岩田には、自分が一番気になっている事柄が何なのか全くわからなくなっていた。

 とにかく、今のこの状況が、ひたすらに楽しい。

 未知を知ること自体が楽しいのか、それとも未知を知ることが出来そうだという期待感が楽しいのか。

――いずれにしても、以前の俺にはここまでの好奇心は無かったな。

 岩田は苦笑した。勿論、岩田君の表情は全く変わらなかった。

 岩田があれこれ考えている内に、岩田君が結論を出す。

「……精神感応を、もう一度だ」

 場の雰囲気に当てられ、さすがの岩田も緊張してきた。

「一つ、マオウの正体を知る。二つ、二千年前にあったことを知る。三つ、今の状況の詳細を知る。四つ、打開策を知る。それが全てだ」

 もうすぐ、未知の領域に踏み込む。はちきれそうな期待が岩田の魂を揺さぶっている。

「最悪の場合、マオウと戦ってでも世界の崩壊は止める。絶対にな」

 四人が、力強く頷く。

 ヨーマの精神感応が始まる。

『君たちの本質は、何だ?』

 答えはしばらく無い。

 そして――

『世界だ』

 未知領域が始まる。



『世界?』

 岩田君の受けた衝撃は、疑問という形に変えられ、頭の中に書き込まれた。ヨーマの慣れのためか、もどかしい時間差を感じることなくすぐにマオウからの返事が書き足された。

『世界は分割されている。概念の集積が世界を分割させる。分割された世界には分割時の過誤に備えて控えが存在する。現在の我らは、世界の予備存在として在る』

 意味が、よくわからない。

『それは、どういうことですの?』

『世界を構築するためには要素が必要だ。要素を要素として認識させるには要素の細分化が必要だ。細分化するためにはその規則が必要だ。その規則こそが概念の集積。知的生命における共通概念による世界の分割。我らはその三段階目。我はその四段階目』

 ますますわからなかった。岩田君は困惑し、その内容を把握しようと必死になる。

『俺達にもわかるように説明してくれないか』

 不必要なほどの、間があった。

 もしかすると、軽率に何かまずいことを口走ったのかもしれない。そこにいる全員が肝を冷やしていると、

『良いだろう。貴様らの行動が果たして何をもたらすか、自身の把握の下に置くべきやもしれぬからな』

 という答えが返って来た。

 岩田君は、ほっと一息吐いた。無意識に強く握り締めていた拳を開く。掌は汗でびっしょり濡れていた。指先は小刻みに震えている。

 マオウが何か迷っているのか、それともヨーマが何か手間取っているのか、妙な間を挟んでから書き込みが再開された。

『平易な言葉で表現するならば、我らは二千年前まで、貴様らに地球と呼ばれていた存在であった』

『な、何? どういうことだ』

 もはやその書き込みが誰のものなのか、岩田君にはわからなかった。狼狽の様子まであからさまなそのセリフは、この場にいる者全員の気持ちを上手く代弁していた。

『貴様ら人間が未だ到達していない故、世界の二段階目までの分割概念を詳らかにすることは出来ぬ。しかし、三段階目の分割の概念を貴様らの言葉で表すと、「天体」。さらに四段階目は「地形」。五段階目以下に至ると、もはや現状では問題とならぬ。「地形」の概念を表す各々の我らは元は一つであり、地球と呼ばれる「天体」であった。それだけの話だ』

『ちょっと待て。お前達が地球だと言うのなら、! 地球じゃないのか?』

 鳩々山の書き込みからは、彼の昂奮が直に伝わって来た。マオウは温度の無い返答を繰り返す。

『現段階では、我らは貴様らの言うところの「マオウ」にしか過ぎず、貴様らの足元の天体が地球である。先にも言った通り、分割された世界には控えが存在する。二千年前、地球であった我らは、とある事情によって、のだ。故に、現在の地球は二千年前まで、貴様らの言うところの「マオウ」に過ぎなかった存在だ。地球であった我らは見捨てられ、一段階概念の分割が進んだ状態で新たな地球上にばら撒かれた。名目上は予備としてだが、それは建前に過ぎない。我らを排し、控えを迎え入れた段階で、人間存在はその生きる世界を根本から裏切ったも同然。一度廃された我らが事前の如く、天体として返り咲き再び機能することなど、現段階では全き夢物語である』

 一つ目に知りたかったことが、おおよそ明らかになった。マオウの正体は、二千年前まで地球という『天体』であった概念が、放逐され、『地形』として分割された姿だった。逆に、今の地球こそ、二千年前までマオウだったのだという……。

 マオウは今、悔しさのあまり涙しているのではないかと、岩田君はそんな風に想像した。語られる内容はあまりに荒唐無稽だったが、疑う必要を感じなかった。宙に佇む砂色の球体を前にしては、説明が非現実的だ何だと文句を垂れている余裕は無かったのである。

『今、とおっしゃいましたが、もしかして、いずれはあなた方が元の機能を取り戻すことが出来るということですか?』

 ルースの鋭い問いかけに、岩田君ははっとした。大マオウは堅苦しく解答を返して来た。

『半分は正解だ。半分しか正解でないというべきか。貴様らには「天体」と「控え」――マオウだ――の入れ替わりという概念から理解させねばならぬようだな。本来、それは貴様らの認識埒外の存在――最も平易な換言は「神」だ――によって起こされる具象。当該の天体上に生息する生命体は全て無に帰される。「控え」が「天体」になった後に改めて無から生命を生み、世界を構築、創造する。最後に、以前の「天体」が「控え」と化し、「神」の御業はここに終了する。「神」が実際にこれを行う際ですら、相応の理由が求められる。否、世界を覆す行為であるゆえ、当該の天体の概念に瑕疵でも無い限り、真に正当な理由など存在しない。それ故、入れ替わりなど、決して起こらぬのが道理であった。しかし』

 逆接の接続詞が登場するまでもなく、この先に続くのは、マオウを襲った悲劇以外にあり得なかった。

『それにも拘らず、二千年前、とある人間存在によって、その大原則が覆されたのだ。彼奴は、よりによって我ら――つまり、当時の地球だ――の上から「控え」の概念集積体――当時のマオウだ――を探し出し、勝手に公約を交わして、天体の入れ替わりを行ったのだ! 公約の中には、「以前の当該天体の存在を完全に忘却すること」という条項が含まれ、結果として我らは各々一段階分割されて、「地形」の概念に堕した。そして現れたのが、現在の貴様らの住む、この地球だ。これこそまさに、歪み切った星の道ではないか! 新たな「天体」地球は、「控え」と公約を交わした一人の凡夫を「神」と奉じる始末になってしまったのだからな』

 二つ目、二千年前に起こった出来事が、明らかになった。たった一人の人間によって過去の地球は崩壊の憂き目に遭った。新生した地球には分割されたマオウが存し、地球は歪んだ神を抱く天体となった。

『「神」となった彼奴は、新たな地球に生命体としてたった一人君臨し、生命と世界を構築、創造するという手に余る責を負った。しかし人間存在の脆い精神で、その痛恨に耐えられるはずがない。彼奴は、世界を創造してから七日目、よりによって自ら命を絶った。わかるか? この地球における「神」は死んだのだ。地球と我らの入れ替わりの後に生命を再生させ得る唯一の存在が、「神」だ。この原則は、当然現在でも有効である。貴様らは、地球の「神」ではない。貴様らの手で我らと地球が入れ替わった後、貴様らが新たな地球上に生命体として存在出来るか否か定かではないが、仮に存在出来たとしても、「神」でない故、世界を構築することは出来ない。唯一高度に機能している我、即ち「砂漠」という「地形」しか存在しない「天体」の上で何も出来ず、潰滅する運命だ。後には、何も残らない。無尽の砂漠世界が広がるのみ。これこそ、現段階で我らが再び天体として返り咲くことがないといった真の意味。地球の「神」が輪廻転生で再び生を受けるまでには、その死から約二万年が必要だ。万が一、その「神」の生まれ変わりが我らと地球の入れ替わりを行えば、我らは天体へと再生したやもしれぬが……。貴様らは一万八千年、我らに気付くのが早かった!』

 三つ目、現在の状況の詳細が、判明した。『天体』の予備である四二の『地形』概念マオウと現在の地球を入れ替えた場合、新たな天体は砂漠しか存在し得ない。さらに、『神』でない岩田君達には、生命を創出する権利すら与えられない。要するに、破滅が待つのみだ。

 大マオウの語り口を見て、岩田君は確信した。

 この大マオウは、元のように、正常に機能した地球に戻ることを切に願っている。だがその一方で、妥協、あるいは復讐の結果として、自らが機能しない死の天体となることも同じほど望んでいるのだ!

 同刻、岩田もその祖父と同じような思考から、確信を深めていた。

 つまり――

――マオウが懇切丁寧に説明してくれるのは、これがだ。もしも、大マオウが強制的に四一匹のマオウを飲み込み、としたら、その時点でお終いだ。危機的状況は、何ら改善されていない……。

 そうだ。岩田君は生唾を飲んだ。

 真に重要なのは、ここからだ。

 四つ目、――打開策を知ること。

 いや、もしかすると、それは既に正確でないかもしれない。打開策は、この段階で一つしか考えられない。問題は、その道がまだ残されているかどうか……それだけだ。

『率直に訊く。君は、もし俺が四一匹の他のマオウを連れてここから逃げ出したとしたら、それを追って来るのかい?』

 岩田君達には、もう、その方法しか残されていなかった。

 緊張感が極限まで張り詰めた。

 答えは存外に単調だった。

『無論だ。自らの力では概念の再統合をなし得ぬ我らを一堂に会させた貴様らは、既に入れ替わりの意思を示したに等しい。運命を受け入れるか、文字通り必死で抗うか、二つの選択肢しか残されていないのだ。今更、穏便に引き返すことなど出来ぬ』

 運命を受け入れれば、地球は滅ぶ。……選択の余地は無かった。

 岩田君は、深く嘆息した。このマオウとは、もっと別の出会い方がしたかった……。星の存亡を賭けた突拍子も無い状況でなければ、例えば、自分の深刻な悩みを悟り切った言説で飄々と解決してくれる謎の老師のような存在として、慕うことが出来たかもしれない。

 戦う以外に道は無い。だが、文字通りそれは『必死』だろう。……正直な話、自分達にマオウを倒すことが出来るとは思えない。存在としての格が違うのだ。

 それでも、岩田君達が負ければ、地球は滅ぶ。

 何と陳腐な冗談だろうか。こんなにも安易に滅びの危機を迎える日常に、盤石さを感じていたというのか、退屈さを感じていたというのか。……何たる、何たる欺瞞!

 岩田君は、半ば飽いていた穏やかな日常こそ掛け替えの無い宝であったのだ、という使い古されて黴の生えた言説で思考を締め括った。実に自分らしい結論だと思った。

 やるしかない。そして、勝つしかないのだ。

 岩田君は、決心と共に仲間を見遣る。

 ルースはいつものように笑みを絶やさず。

 鳩々山は不敵にも見える毅然とした表情で。

 森林は、戦士としての覚悟に満ちた顔で。

 それぞれ、岩田君の考えを汲んで、大きく頷いてくれた。

 岩田君は最後に、精神感応に集中しているヨーマを見た。

『ヨーマ、感応、切っていいよ』

 頭の中の書き込みが消える。違和感と共に現実が戻って来る。

「ヨーマ……。大マオウから普通に逃げようとしても、おそらく捕まるだけだ。だから、その、俺達はこいつと戦って、そして……」

 ヨーマは、言葉を遮るように首を振り、子供らしい純粋な笑みを浮かべた。場にいる全員を和ませる、無邪気な表情だった。

「大丈夫、だよ」

 その笑みが豹変したのは、次のセリフと同時だった。

 一瞬だけ表情が歪み、瞳に壮絶な悲壮が宿る。頬は痙攣でもしたように、不自然に片方だけ釣り上がっていた。その場にいる他の者――それは、未来からやって来てシンクロしている魂だけの三人も間違いなく含んでいた――には、あまりに突然過ぎて、ヨーマの変貌の意味が全く把握出来なかった。

「戦う必要は無いよ。だって、から」

 淡々と、言った。

 直後、洞穴の中を猛烈な衝撃波が吹き抜けた。



 その瞬間、客間の中を鮮烈な衝撃が駆け抜けた。

「え! ちょ、ちょっと、どういうことよ、これ」

 双子の姉の悲鳴を耳にし、碓氷は自分の中の動揺を全力で押し殺した。岩田の座標を捉え続けていたコーディネートチェッキングが、突如その座標を見失った。そのため自動的に、座標に依存していたマインドリーディングも途絶してしまったのだ。

 クラリスの狼狽振りからして、ルースの座標もロストしたのは間違いない。碓氷は慌てて、駿河の顔を窺う。駿河は的確に碓氷の意図を見抜き、深刻そうに頷いて来た。

「何故かわからぬが、我も完全に対象を見失ったぞ。断じて、我に落ち度があったわけではない。対象の身に何か異常があったと考えて相違ない」

 だが、フィーリング系とチェッキング系を同時にスポイルされる事態など、あり得るだろうか……。

「そうか、わかった。これは、岩田さん達が、僕達の知らないような概念空間にジャンプした結果なんだ! 擬似空間が音波を完全遮断するように、禁術を通さない特異な時空が形成されたに違いない。ひとまず落ち着いて対策を考えよう」

「でも、待ってよ。わたし達の知らない概念空間って何? 現実空間でも、擬似空間でも、チェッキング系は大丈夫なはずでしょ? 他に何があるの? 形而上空間? 虚数空間? 電映空間? 精神世界? 御伽噺の中? どうして岩田さん達がそんなものに急に巻き込まれるの? 脈絡が無いじゃない。しかも、シンクロコントロールはしばらく惰性で続くだろうけど、その内それも無力化するのよ? 岩田さんが浮遊魂になって漂っている時に折悪しく形而上生物や絶体動物が魂を食みに降臨した場合、誰が助けるの? 座標がわからないと、空間ジャンプで助け出すことも出来ないのよ。なのに、どうして落ち着いてられるっていうのよ!」

 岩田を心配するあまりに(そうとしか考えられない)、完全なパニック状態に陥っている姉を見て、碓氷はぎりりと奥歯を噛んだ。客人には『様』を付けろと煩いクラリスが素の呼び方に戻っていることから考えて、使用人という立場まで完全に見失っているようだ。クラリスを今のクラリスたらしめている最大の要素がこの地位であるだけに、何者でもなくなったクラリスはあまりに無惨だった。

「クラリスッ!」

 碓氷は、大声で姉の名を呼んだ。双子の姉はびくりと体を震わせる。頬を張るか、空間ジャンプで小池に落とすか、いっそフリーズさせるか、碓氷はその三択で刹那迷ったが、自分にそっくりな切れ長の瞳が仔猫のように儚げに揺れているのを見て、心が折れた。幼い頃よくしてやったように、クラリスの肩を優しく抱き寄せる。すっかり成長してしまった姉の体に微かな羞恥を覚えたが、何度も背中を擦って宥めてやる。

「大丈夫……。僕がいる。僕が何とかしてみせる。クラリスのために、岩田さんは絶対無事に帰還させる。そう、『疾風皇帝』の名にかけて誓うよ……。だから、落ち着いて……」

 ようやく我に返ったらしいクラリスは、碓氷の背に両腕を回し、一度だけぎゅっと抱き締めた後、ゆるゆると抱擁を解いた。家にいた頃のような今にも泣きそうな顔で、碓氷を不安げに見上げる。碓氷は元気付けるように大きく頷いた。

 そこへ、わざとらしく咳払いで間を作った駿河が、告げる。

「師匠はそのマオウハントとやらの後に、今から五〇年程前の現実世界に現れるのであろう? 今遮断されておるコーディネートチェッキングが、その段階で復活する可能性は極めて高い。シンクロが解けぬ内は、魂の体感時間は我らの現在時間流に完全に依存するため、懸念すべきは、、ということのみだ。それまでこのまま待機しておれば、自ずと向こうから座標が明らかとなるに違いない。時間軸移動とは、そうした概念だ。碓氷、そうであろう?」

 さすがに長く生きているだけあって、冷静さを全く失っていない。碓氷は少し感心したので、素直に頷いておいた。

 過去に飛んだ岩田達の魂は、基本的に旅行に出掛けた哲学ザルの例と変わりない。三日間出掛けたサルの巣には三問の逆説問答が溜まるし、五問の逆説問答が巣に溜まっていれば、そこのサルは五日間出掛けているのだとわかる。つまり、碓氷達が三時間経過したのなら、岩田達の魂も三時間を体感しているはずなのだ。そのせいで、師匠が五〇年程前の世界にタイムスリップした事実が既にありながら、現時点では、(おそらく間もなく現れる)という、不可解状況が発生し得る(何が不可解かわからない方は、カドドルーキンでも見て少し頭を冷やすことをお勧めする)。……尤も、所詮は禁忌哲学の空論の一種であり、状況を観察する術が全く無い『不可知の論証』に当たるため、無矛盾な時間律はかろうじて保たれている。

 とにかく、駿河の言い分を纏めれば、禁術の途絶の原因は依然不明ながら、コーディネートチェッキングの対象リストから岩田達の名さえ削らなければ、全ては時が解決してくれる、ということだ。

「まあ、呪後のシェズクは寝て待て、というところだな」

「いや、それはあまりにも喩えが不気味過ぎますよ、駿河さん」

 そこに、クラリスの押し殺した泣き声が聞こえて来たものだから、碓氷と駿河は焦りに焦った。

「ク、クラリス、別に駿河さんは悪気があってこんなことを言ったんじゃなくて――」

「そ、そうだ。語彙の確認だ。他意はない、他意は」

「いや、そうじゃ、なくて――」クラリスは、嗚咽と共に言葉を吐き出した。「碓氷が、『疾風皇帝』の、名にかけて誓うとか、言ってたけど、ママって、結構、嘘吐きだったじゃない? だから、そんな誓い、あんまりあてに出来ないなあ、って思ってたら、何か、哀しくなって来ちゃって……」

 それこそ、悪気があったわけでもない。

――どうしろって言うんだ。

 碓氷は途方に暮れ、破れかぶれになって駿河と一緒に素数を二進法で数え始めた。人間を泣き止ませるのに最も適したまじないだったはずだが、クラリスは案の定しばらく泣き止まなかった。

 その間も、コーディネートチェッキングは、岩田達の座標を伝えては来なかった。



 岩田もその祖父も、ルースもその祖母も、鳩々山もその祖父も、森林もマオウも、その時何が起こったのか、わからなかった。

 しかし、ヨーマにだけはわかった。何しろ全てが、彼の仕業だったからである。

 ヨーマの目の前には、銀色に輝く小型の一人用宇宙船が出現していた。さらに、その右手には、つい先程まで岩田君が持っていたはずのマオウを入れた籠が乗せられている。

 岩田君、ルース、鳩々山の三人は、何やら大きなガラス球のような代物の中に、一緒に閉じ込められている。それは、ヨーマが宇宙船を衛星軌道上(一度動き出せば、後はエナジーを殆ど消費せずに何週でも回っていられる回廊。宇宙にある)から空間転移させた際、その余波として現出しただ。

 元よりヨーマは、これが狙いで宇宙船を転移させたのである。空間を歪曲させることにより二点間の距離をほぼゼロとして――さらに今回は、宇宙船と地球の相対速度を一気に消失させて――物体を移動させるため、消失したエナジーの分だけ、衝撃波と空間のひずみが発生するのだ。この実体化したひずみを、亜空間と言う。

 華麗な回避行動により、一人、亜空間に巻き込まれることを逃れた森林は、ヨーマとマオウの間を塞ぐように宇宙船の上に立ちはだかった。

「……どういうことか、説明してもらおうか」

 森林は、脅すでもなく戦う姿勢を見せるでもなく、ただ淡々と、ヨーマを促した。

 対するヨーマは、ちらりと亜空間の三人を見遣った。ガラス玉のような境界面は光を通過させるが、音波は完全に遮断する。現に、三人は口々に何かを喋っているようだったが、ヨーマには何を言っているか全くわからなかった。いや、あまりにも辛すぎて、わかりたくなかったのだ。

 ちなみに、亜空間の内部の三人――正確には六人か――には、全員読唇術――ないしは、リーディング系のリップリーディング――の心得があったので、ヨーマと森林のやり取りは手に取るようにわかった。

 ヨーマが、小さく被りを振った。

「さっきも言っただろ? 僕が、マオウを統合させる。それだけさ」

「……それがどういうことか、説明しろと言っているんだ」

「僕がどうしてこの星に来たか、言わなかったかい? 僕の住んでいたロア星が世界戦争を始めたから、命からがら宇宙へ逃がれて来たんだよ。まさか、こんな風に人の住める星に一年で辿り着けるなんて思わなかった。本当に、奇跡的な確率だったんだ」

「……それが、どうした?」

「丁度、僕がこの星を見つけた頃、僕はロア星から空間超越通信を受けた。……わかる? 光波を越える速度で時間差無しに情報をやり取りする技術だよ。それによると、なんと戦争が終わったらしい。けれど、最悪兵器『ガルトランドザイント』により、ロア星全土が、植物の生育出来ない土壌へと変化させられ、人間の持つ超能力は全て無効化され、電子機械によるシステムは殆ど全て崩壊した。その空間超越通信機だって、瓦斯で動かしてるって言うんだ。信じられるかい? 二〇〇兆人の人口は二〇〇億人まで激減したらしいし、勝者なんて、何処にもいなかった。もう、放っておけばロア星は滅亡するというところまで来てるんだ。空間超越通信を送って来た人も、途中で誰かに殺されたよ。皆追い詰められてるから、治安も最悪だ。わかるだろう? ……あの星にいては、駄目なんだ。もう、あの星の上で、人間は絶対に生きてはいけない」

 ヨーマは、そこで一息吐いた。森林は、そんな少年の一挙手一投足からも目を離さない。

「でも、希望が無いわけじゃない。唯一残っている最新鋭のこの宇宙船には、ロア星最高の研究者だった僕の父の研究データが全て入っている。動植物の遺伝情報もあるし、一つの細胞からの生体復元技術も持っているから、後は広い土地さえあれば完全自給自足のメカニズムが作れるんだ。さらに言えば、この宇宙船には対象を自在に空間転移させる能力も付いている。……この意味がわかる? 僕は、ロア星に残された二〇〇億の人間を、全部とまで言わないけど、かなりの数、救うことが出来るんだ。いや、人間だけじゃない、動物だって併せればもっと沢山の数になる。僕は、ロア星の皆を助けたいんだ! きっと、僕の友達や家族が、僕の助けを待ってるんだ! マオウを統合させて天体の入れ替えを行えば、! 数百億の命が助かるんだ!」

「ふざけるな!!!!!!」

 森林は怒声を上げた。いつになく強い調子の一喝だった。

「お前、自分が何を言っているのか、本当にわかっているのか! 確かにロア星の二〇〇億人は助かるかもしれないが、地球にいる六〇億の人間、そしてその他多くの動植物はどうなる! 皆、無に帰されるんだぞ! 何も知らぬままに、、無辜の民が命を散らさねばいけないと言うのか! そんなことが許されるのか! そしてこの俺に、!」

 額の血管を剥き出しにしながら、森林はさらに言い募る。

「それに、マオウの統合と天体の入れ替えで、『神』でないお前も無に帰される恐れがあるんだぞ。そうなったら、どう申し開きをするつもりだ! 誰一人として救えやしない! お前はただ地球に破滅をもたらしただけという結末になるぞ……」

 その言葉に対して、ヨーマは悲しげに笑った。

「僕は、この星の住人ではない。それで充分なのさ。マオウは、その性質上、『天体』、正確には『地球という天体』と言う段階以上の概念で影響を与えることは出来ないから、僕は如何なる地球の入れ替え劇にも巻き込まれないよ。実際、ロア星では何万年も前から歴史がはっきりしている。この星に起こった二千年前の『世界への裏切り』はこの『天体』にしか影響を与えなかった、ということだよ。あなたは、それに気付いていなかったみたいだね?」

「……ならばいっそ、今からロア星に戻ってロア星の『控え』を探したらどうだ。お前がロア星の『神』になって、平和な世界を創れば良いだろう」

「じゃあ、森林さんはそれで満足出来る? 今苦しんでいる家族や友達を無に帰して、無かったことにして、新しい家族や友達を平和な世界に創出して、皆幸せになりました、良かった良かったって、本当に言える? ……僕には、地球の『神』が自ら死を選んだ理由が、よくわかるよ。人は、絶対に『神』にはなれないんだ……」

 森林は、ついに黙した。

「僕だって、本当はこんなことしたくない。でも、ロア星のためを思えば、仕方ないんだ。もう、これしか、道が無いんだ」

 ヨーマは、沈痛な面持ちをしていた。

「あなた達とは、争いたくなかった。だから、亜空間に閉じ込めようとしたんだ。もしも、マオウの統合と天体の入れ替えが終わっても、あなた達が新しい星に存在し続けられたなら、記憶を消して、一緒に新ロア星で暮らそうって、本気で思っているんだ」

 ヨーマは、いつもの優しい表情に戻っていた。この少年の悲劇は、どこまでも甘過ぎて、優しさを捨てられなかったことだった。自分の世界を救うために仲間を裏切ったこんな時でさえ、仲間を思い遣る心を持っている。

 両者にとって、これ以上の残酷は無かった。

「……森林さん、僕は、あなたとも戦いたくないんだ」

 ヨーマは、泣くのを必死に堪えながら、宇宙船の上の森林に呼びかける。

「自分が酷いことをしてるのは充分にわかっている。でも、どうしたって地球のことは他人事になるよ! 僕は、ロア星の人達が死んでいくのを黙って見ていられないんだ。『ガルトランドザイント』のせいで、今、星にはまともな食料を確保出来る人なんて一人もいなくなってるはずだ。二〇〇億の人間がどんどんどんどん減っていくんだ! どんどんどんどんどんどんどんどん! 僕には、そんなのもう耐えられないよ!」

 ヨーマの言葉は、終いには悲鳴になった。四一匹のマオウを入れた籠は、依然共鳴を続けて震えていた。

「元々僕は、ここを移住用の星にするために着陸したんだ。つまり、先住民である地球人なんて皆殺しも辞さない覚悟だったんだよ、最初から! でも、偶然出会ったあなた達皆が良い人で、色々と助けてもらったし、楽しかったし、だから決心が鈍って……、その間にもロア星の人は苦しんでいるんだと思うと居たたまれなくなって……、いっそロア星のことなんか忘れちゃえば楽だとも思ったけど、目を瞑ると瞼の裏に浮かんで来るんだ。母さんや父さんやお婆ちゃんや、ラファやミルドやグラースやチャゴルスや、とにかく皆、皆、皆が! 僕一人を逃がすために、必死になって戦ってくれた皆が! もう、嫌だ。駄目だ。こんなの限界なんだよ! マオウハントが、乾坤一擲なんだ! 渡りに船なんだ! 僕の気持ちを吹っ切るための、最初で最後のチャンスなんだ……!」

 ヨーマはとうとうぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。亜空間の中では、ルースが貰い泣きしている。

 森林は、目元を拭い続けるヨーマに視線を送り、それから背後の大マオウを一度だけ確認した。大マオウは依然、宙に浮かんで泰然としている。

「……お前は、自らが奪うことになる六〇億の地球人と、その他の動植物の命を背負いながら、二〇〇億のロア星人、さらにはその他の動植物を救おうというわけだな……」

 ヨーマが、こくりと頷いた。

「その覚悟、見事だ」無理矢理に笑んだ森林の頬が歪んだ。「だが――」ついに、森林の目からも涙が零れ落ちる。

 岩田君も、ルースも、鳩々山も、その様を呆然と見ていた。

「お前がロア星人であるように、俺も地球の人間なんだ。理由なんてそれだけで充分だ。お前も、よくわかっているだろう? なあ、そうなんだよ。俺は、これから見殺しにするロア星の数百億の命の重みを背負いながら、この星『地球』のありとあらゆる命を守って戦わなければいけない。ロア星人の子供であるお前がそこまでやる以上、地球人の戦士である俺が、逃げるわけにいかないだろ……?」

 交渉は、決裂した。

「だから、勝負だ! 戦争で自壊した間抜けな星からの侵略者野郎」

「……黙れよ、太陽系から脱出出来ない未開の引き篭り民族め」

 ヨーマと森林は、二人とも泣きながら笑った。

 そして、馴れ合いの時間は終わった。

 勝敗は一瞬で決する。


 亜空間に閉じ込められている三人は、その瞬間を確かに見ていた。

 ヨーマが宇宙船を迂回して走り、大マオウに向かって、四一匹のマオウを閉じ込めた籠を投げようとしたその瞬間を。

 一方の森林が宇宙船の壁面にあるパネルを開き、中から小型の銃のようなものを取り出したその瞬間を。

 そして――、森林が銃口をヨーマの方に向け、迷うことなく引き金を引いた、その瞬間を。

 岩田君は、思わず絶叫した。


 ただ、結局その叫びは尻すぼみに小さくなっていくことになる。

 その銃から飛び出したのは空間のひずみであり、それはヨーマと籠を包むように広がり、結局ガラス球のようなもの――亜空間――にヨーマを閉じ込めるという効果しか生み出さなかったからだ。

 大きく安堵して、岩田君は深く息を吐き出した。目元から自然と涙が零れてきた。泣きじゃくっている隣のルースに見られぬように、こっそりと涙を拭った。

「これは、かなり都合の良い展開になったぞ」

 鳩々山が呟いた。

 確かに彼の言う通りだった。ヨーマと一緒に四一匹のマオウが閉じ込められたことにより、マオウの統合は大方阻止出来たということになる。何しろ、大マオウは地球レベルでしか事を起こせないはずだ。ガラス玉のようなこの空間を破る術など持ち合わせていないだろう。地球潰滅の危機は、当面の間は去ったのだ。

 それは真に結構なことだった。

「でも――」


 岩田君が口に出そうとしたのと同じことを、丁度、別の亜空間の中のヨーマが叫んでいた。

「どうしてあなたが、壁面にギシェットコーラインが隠してあることを知ってるんだ!」

 ギシェットコーラインというのは、森林が今使った銃のことだ。それが収納されている宇宙船の壁面パネルは巧妙に隠されており、瞬時に見つけ出すことなど出来ないはずだった。さらに、見つけたからと言って、すぐに扱えるような代物でもない。

 森林は、なおもギシェットコーラインをヨーマの方に向けたまま、ヨーマの唇の動きを読んで、問いに答えてやった。

「悪いけど、実は俺だけマオウハントでのさ」

 読唇術を知らないヨーマには、彼が何を言っているのか勿論わからなかった。

 森林は、次の刹那に銃口を大マオウへと向け、引き金を引いた。

 マオーーーーーーウ!!!!!!!!

 大マオウは大きく一声鳴き、空間のひずみから逃れるように俊敏に体を動かし、果ては地面に潜るようにして広間から忽然と消えてしまった。ギシェットコーラインから発射された空間のひずみは、壁にぶつかって亜空間への実体化をせずに掻き消える。

「……、逃がしたか」

 森林はそう呟くと、さらに宇宙船の別の壁面パネルを開き、そこにあったキーボード様の入力装置にパス(合言葉)を打ち込んだ。しばらくすると、大きな音を立てて、小型宇宙船の一区画が丸ごと外れた。それは、大人一人がようやく入れる大きさのやたらごてごてした軽金属の容器だった。

「……人工冬眠装置!」

 ヨーマは驚愕する。人工冬眠装置とは、半永久的に人間を休眠状態にさせられる機械である(期限無制限のフリーズを仕掛ける箱という理解で良い)。空間転移システムが万一故障しても、これを使えば、命を失う前にどこか人の住む星に辿り着くことが出来るという按配だ。本来、船内の操縦区画から連絡しており、装置のみを単独で切り離すことなど、船長であるヨーマと、船の設計者兼開発者である父しか出来ないはずだった。

 それを、何故この男が為し得るというのだろうか?

 森林はヨーマに向け、悲しい笑みを送った。

「この装置のみでも、充分な推進能力を持っているそうだな? とりあえず、月の衛星軌道上を半永久的に廻り続けるプログラム(計算機械用の言語で書かれた計画書のようなもの)を組んだ。実のところ、俺はこれが最良の手だとはどうしても思えないが……しかし、他に手は無い。仕方が無いんだ。お前にはこの中で、マオウと一緒に眠ってもらうことになる。……せめて、良い夢を見てくれ」

 その時、何故かヨーマには、森林の言っていることがわかった。

 ヨーマはゆっくりと、何も言わずに瞳を閉じた。

 森林は、そんな異星人の仕草から、彼の覚悟を読み取った。ギシェットコーラインを亜空間に向け、トラクタービーム(物体を牽引する力を持った電磁波)を発射する。ヨーマとマオウの箱を内包した亜空間は、銃口からの指示に沿って動き、人工冬眠装置の中にすっぽりと収まった。途端、自動的に隔壁が下りて来て、装置内部を完全に外界から遮断した。森林は、そうやってヨーマが外に出られなくなったのを確認すると、ギシェットコーラインに更なる操作を加えて彼を覆っていた亜空間を消失させた。

 そして、宇宙船本体からの外部入力コマンドで、時限出発装置のスイッチを入れた。

「……さよなら、ヨーマ」

 森林は既に泣いていなかった。


 視界には先程から靄がかかっている。

 睡眠誘発性の気体が充満して来たのだ。この気体で意識を失った後に、仮死状態になる人工冬眠処理が加えられるのだ。

 そんな状況の中、ヨーマラリリックは不思議でならなかった。

 既に意識は朦朧として来ており、混濁した記憶が走馬灯のように頭の中を流れている。

 しかし、そのどれもが、岩田君達に出会った後のごく最近の出来事ばかりで、楽しかったはずのロア星の思い出がまるで浮かんで来ないのだ。

――僕にとって、ロア星とは、その程度のものでしかなかったのか?

 マオウの共鳴は、もう止んでいた。まるで死んだように動かない。いや、そもそもマオウにはまともな機能も残っていないと言っていた。人間に裏切られた、『地形』の欠片達。『砂漠』を除く、地球の構成要素達。

――でも、こんなものでも、ロア星に持っていけば、何かの役に立つんじゃないだろうか? 汚染された大地を見たら発奮して、『海』や『河川』や『森』や『山岳』や『丘』のマオウが、大地一面を塗り変えてくれるかもしれない。ああ、どんなにか素晴らしいことだろう。

 何もかもが、夢物語だった。

 涙が、止まらなかった。

――僕は、これからどうなるんだろう? 永遠に眠ったままってことは、つまり、死ぬのかな……。

 もう、まともな思考が浮かんで来ない。

 薄れ行く意識の中で、彼はようやく瞼の裏側に、自分を必死に逃がしてくれた両親の姿を見た。

 二人とも、笑っていた。

――ああ、母さん、父さん、お婆ちゃん、ラファ、ミルド、グラース、チャゴルス、皆、無事だったんだね……。

 …………。

 完全に沈黙し、ヨーマは幸せだった頃のロア星の夢へと引きずり込まれて行った。少年は、崩壊する自分の星のことも忘れ、半永久的に夢を見続けることとなる。

 それは不幸なことなのか、それとも――

 時限装置がゼロを告げる。人工冬眠装置は、本体の宇宙船から空間転移のエナジーを受け取ると、歪曲した時空を一瞬で飛び、計算で求められた最適な空間へと到達した。推進装置を駆使し、効率的に加速を開始する。

 ……まもなく、地球の衛星に衛星が出来る。



 小型宇宙船の中に入って行った森林がなかなか出て来ず、岩田君達は心配になった。

 亜空間に閉じ込められている三人は、ヨーマを巡る展開に三様のショックを受けていたが、「もしかしたら自分達は一生ここから出られないのではないか?」という不安がそれを遥かに上回っていた。明るく談笑するような雰囲気でもなく、亜空間の中は文字通り暗く沈んでいる。

 そこへようやく、森林が宇宙船から出て来た。右手には例の亜空間を操る銃を携え、左手には大きなアナログ時計(円盤の円周上に一から一二までの数字が割り振られ、中央の二本の針で時刻を差し示す仕組みの機械)と、ペンライト(明かりを照らす機械で、本体が筆のように細い。カツフォルの前身)に似たものを持っていた。

 森林は、言った。亜空間越しで声は聞こえなかったが、唇の動きから、何と言っているのかはわかった。

「今から、皆を亜空間から助け出す。だが、いいか。その前に、このペンライトの光をちょっと見てくれ。五秒くらいは目を離さないように。……いいな?」

 森林は、ペンライトのスイッチを押した。

 ペンライトの先に光が灯ったが、それは発光したというより、どちらかといえば、先端が光っているように思い込まされているだけのような、奇妙な印象を受けた。

不思議だな、と確かに感じた。

 引き込まれるようにその光を見続けて五秒目。

 突然、眩い光が視界一杯まで一気に広がり、そのまま世界が白色に塗り変えられた。亜空間の内部で、三人折り重なるように倒れる。

 ……岩田君、ルース、鳩々山は意識を失った。

 無論、その内部で同調していた三人の魂も、五感を一気に失い、周囲の様子を全く把握出来なくなった。


 そして。

 次に気付いた時、岩田君達が倒れていたのは、岩田達の良く知る世界だった。

 ……岩田君の時代からおよそ一万八千年後、岩田の時代からは五三年前。一九九四八年の世界に、転移していたのである。

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