第四章 論理の炸裂・突然登場する鳩々山・当然判明する犯人類

「起きろ。夕餉だそうだ」

 夢現の狭間でまどろんでいた岩田は、その声を聞いた途端に不愉快になった。不遜な態度で彼を起こした低い声が、祖父の屋敷の使用人のものであり得なかったからだ。ユクラプト領域から引き出したはずの音楽はとっくに終わってしまっている。

 眩しい。誰かが灯りを灯したらしい。正直開きたくなかったが、それでもゆっくり目を開けた。瞼を上げたそこに、巻き付きジェルファリカミ・マスニが大きな顎を開いて待っていた方がマシだった。今なら、それをこんがり網焼きにして兎の形に切り、国家六大珍味の一つを味わうのも存外悪くないような気がした(尤も、本当にやってしまったら、ミュキ・キキキタッヌーヌという奇妙な名前の笑い病にかかってしまうため、サルンドにある専門病院での二週間以上に渡る治療は避けられない。また、万が一国家六大珍味に興味を持たれた方がいれば、国家公認の美食家団体である『食の追求隊』が発行する季刊雑誌『美味いものが結構いっぱい載ってる本』の『珍味さん、いらっしゃい』のコーナーに目を通すと良いだろう。おそらくすぐに興味を失えるだろうから)。

 ギュルナ休題。岩田が目を開くと、そこには思った通りの親友の姿があった。きりっとした顔立ち。天性の運動神経。明晰な頭脳。ロートの才能。莫大な財産。誰もが羨む五つの要素を併せ持ちながら、破滅的な言動一つでその全てをぶち壊す破天荒の鑑。……言わずと知れた鳩々山だ(学生時代、クラスの女子の結婚したい男性アンケートで『ジャドキリュウに寄生された鳩々山』が『全盛期の岩瀬光斗』を抜いて堂々第一位に選ばれた挿話は、面白過ぎてルースにも秘密にしてある)。

「起きたか、岩田。夕餉だそうだ。もうすぐ誰かが呼びに来る」

 だったらそれまで眠らせてくれてもいいじゃないか、と思ったが、岩田にはそれより先に言わねばならぬことがあった。

「……ええと、お前どうしてここにいるわけ?」

 畳の上に直接寝ていたためか、体の節々が痛む。岩田はゆっくりと上半身を起こした。いや、起こそうとした。実に自然な動作だと岩田は思ったのだが、鳩々山には何かお気に召さなかったらしい。超長剣の切っ先が、ぴたりと一寸の狂いもなく岩田の首筋に突き付けられた。動けなくなる岩田に対し、鳩々山は低く脅すように言う。

「動くな。……起き上がれば、斬る」

「お前、自分で起こしといてその言い草は無いだろう……」

「何、そうだったか? まあ、こうなったのも何かの縁だ。せっかくだからその姿勢で一曲俺の歌を聞いてくれ」

「嫌だよ。腹筋が攣りそうだ」

 岩田は、仰向けにじりじり後退して超長剣の先端から逃れた。

「……とにかく、もう一度訊くけど――」

「ああ、俺の好きな歌か? デ・Qの――」

「訊いてない、そんなことは」

 よりによってデ・Qの歌(驚くなかれ、彼は一年に一曲ずつ必ず歌を出している。ただし、歌詞はアドリブだし主旋律も適当で、タイトルが無ければ全曲区別がつかない。当然売れない)を選ぶ鳩々山の趣味の悪さも気になったが、彼がここにいる理由を知るのが最優先事項だった。

「お前がどうしてここにいるのかって訊いたんだよ」

「ふむ、尤もな質問だ。それを訊かない者など鬼にも劣る」

「だったらとっとと答えろ」

「まあ、強いて言うなら――」

 肝心の理由を口にする直前だった。突如、鳩々山の目が鋭さを増した。右手の超長剣を振り抜くようにしながら、凄まじい速さで背後に向き直った。流れのままに廊下に繋がる襖を三枚続けて斬り破る。襖の破壊音よりも大きく、甲高い金属音が八つ連なって聞こえた。廊下から投げ込まれたと思しき手裏剣(暗殺業界で用いられる飛道具。ブーメランより小型で重い)が、剣に弾かれて床に散乱する。

「曲者! 覚悟!」

 破れた襖から、超長剣の隙間を縫うようにしてクラリスが飛び込んで来た(岩田の目に止まる速度ということは、本気ではあるまい)。その手には起用にも四枚の手裏剣(おそらくハティオーク)が握られている。小回りの利かない超長剣の懐に飛び込み、曲者こと鳩々山に肉薄したクラリスは、必殺の間合いで片手を振り上げた。次の一瞬間で親友が八つ裂きにされる様を空想した岩田だったが、クラリスの手は見事にその寸前で停止していた。少し残念なのは何故だろう、ぼんやりと岩田は思った。

「……失礼、鳩々山様でしたか。てっきり、岩田様の命を狙う小悪党かと誤解しました。来ているのならば、使用人に連絡を入れておいて下さい」

 クラリスは淡々と言った。

 ……どうやら、岩田の隣にあった気配が誰かわからぬ内からその殲滅を決意したらしい。クラリスの見たくもない一面を見せられ、岩田はぞっとした。鳩々山の対応が遅れていれば、飛来する手裏剣に脳天を打ち抜かれて死んでいたのは岩田かもしれない。

 クラリスは手裏剣を瞬時に掻き消すと、大破した襖を見下ろし、「弁償して下さいね」と、にっこり鳩々山に微笑んだ。屈託の無い笑顔の見本のようだった。

「突然の襲撃で俺の命を狙っておいて、挙句に金銭をせびるとは、随分無茶苦茶な女だな」

 ……クラリスと鳩々山は二年前に一度会っているが、当然(鳩々山がジャドキリュウに寄生されていないから当然)、二人の相性はあまり良くない。

「誰にも気付かれずにこの屋敷に侵入するお前の方が無茶苦茶だ」

 剣呑な二人の間をとりなすように、敢えて岩田は話に介入する。

「ふむ」

 鳩々山は鼻から息を抜き、電映モデルのように天を仰いだポーズをとると、さらりと話題を変えた。

「クラリスよ、俺の分の夕餉は用意されているか?」

「いえ。されていませんし、する気もありません」

「俺は客だぞ」

「そんな横柄な客もいないだろう」

「ふむ」

 沈黙が続いた。いつまで経っても天井を見上げるような姿勢で動きを止めている鳩々山を後目に、

「岩田様。夕餉のご用意が出来ましたので、大広間にどうぞ」

 と誘われた岩田は、破れた襖を踏み越えて部屋を後にした。鳩々山がここにいる理由を尋ね忘れたが、後で訊けば良いことだ。

「ルースは?」

「あ、先に大広間の方に」

「じゃあ、俺達も急がないとな」

「そうですね」

「鳩々山のことだけど――」

「……安心して下さい。あんな方でも、食事の支度くらいはします。腐っても客人ですからね」

「そうだな。腐ってるけど客だからな。……迷惑をかけるね」

「とんでもないことです」

 鳩々山のことだ、最前ずっと天井を見上げていたし、天井裏を伝って大広間に先回りする算段でも立てていたに違いない。……即手狩り(魔女リティ財閥が得意とする屋内最強の罠。ただし、切られた傷口からチュリアの果汁が滴り落ちるというのは噂に過ぎない)にでも引っ掛かって悶絶してくれれば良いのに。

「……ああ、そういえばクラリス」

 岩田は、眠りに落ちる前に考えていたことを思い出した。彼が立ち止まると、「何でしょう?」と先行するクラリスも立ち止まった。薄明るい照明器具に照らされて、ぼんやりした二人の影が足元で絡まっていた。

「ギジンダンの入った袋をじいさんの部屋に置いて来ちゃったんだ。悪いけど、後で拾って来てくれないかな」

「……ええと、ハティオークの巾着袋でしたよね」

「ん、ああ、そうだけど……頼めるかい?」

 クラリスは、一瞬だけ虚を衝かれたような顔をした。

「ええ、勿論です」

 弾けるような笑顔を見せて返事をした彼女は、マスチェンジングで質量を落とされたかのような軽やかな足取りで歩を再開した。

 岩田はその背に続きながらクラリスの反応を訝ったが、マシュゾット事件のことを思い出して、はっとなった。どうやら自分は、こういった繊細な問題に頓着しない性格のようだ。不用意に、それも異性にばかりこんな発言をしていたら、その内サンチャガリー会から勧誘が来てしまうかもしれない。

「あの、突然ですけど」クラリスが嬉々とした声で問うた。「国民は人種に関わらず皆平等である、と言いますが、岩田様はその考え方についてどう思われますか?」

 ご存知の通り、この質問には内容以上のことが暗に示されている。だが、詳細を語る野暮は止して話を進めよう。

 岩田は、クラリスがどうして政治問題について突然尋ねるのかわからず、酷く不可解な気持ちになった。しかし生来の、『わからないことは気にしない』という間違った方向に潔い性格が前面に出て来たので、律儀に答えを返すことにした。何より、このような問いは、崩壊議長の資格取得の際、『一〇秒間二一問先取一九択』形式の口述試験で嫌というほどやらされている。

「まあ、国定憲法ハウィドル案にそう定められているし、ソトルザンと国民総会はその理念に従っていることになっている。人種間の平等自体は悪いことじゃないけれど、実質的に機能しているかどうかは微妙な線だよ。例えば、ケラン人モドキは火葬の代金が二倍かかるし、ガンデデガンデ人は天井に頭をぶつけることが間違いないから、一般施設への進入に制限を受けている。ヨクヌヌ人に至っては、国道の地盤沈下を避けるためにキアンドッティ島に隔離されてるわけだし。そういうのを区別でなく差別と呼んでしまえば、平等なんてどこにもないことになってしまうだろう?」

「では岩田様は、現在の国民は平等でないとお考えなのですね?」

「うーん。まあ、そう言ってしまえばそうなんだけど、別に今のままで不満というわけでもないから、難しいところなんだよ。無理に完全な平等を目指したりすれば、ベッバーディケイド法会議の時みたいになるだろうし」

 念のため、三〇年前のベッバーディケイド法会議事件について詳述しておく。法会議は、平等を理念とする国民総会の一部でありながら、人種間の覇権争いという側面が強いため、危険度が六と二分の一を超えた場合には、『法会議長』の持つ権利の全てが剥奪され、楽屋で待機していた『崩壊議長』による崩壊議が始まり、会場完全壊滅といったような有耶無耶な結末になることが義務付けられている。ベッバーディケイド法会議では、コースタイニー派リュクゼン党(ヤフドラキーニェの公式スポンサーとしてお馴染みだ)から、建前だけでない完全な平等を目指すべきだとする意見が提出され、今のままで十分に平等だとするニセ・ジェトジェン派の主張と真っ向から対立した。ここまでは全く問題は無く、危険度も二と七分の二程度だったのだが、突然崩壊議長が乱入し、「各民族がこれ以上平等になっては法会議が活性化しなくなり、ひいては自分の出番も無くなってしまう」という三段論法でニセ・ジェトジェン派の側につき、議長公平則に違反した。結果、ソトルザンの介入が合法となり、法会議における全党派の党首は海底楽園への強制移住を申し渡され、崩壊議長(後にこの人間は、ヒビッ党が送り込んだ、崩壊議長資格の無い議長モドキだと判明した)はシトライガーの下に埋められた。挙句の果てに、「完全な平等」という題目の法会議は、一〇年の間禁止されたのだった(無論、解禁された後も現在まで「完全な平等」という題目の法会議は行われていない)。

「平等なのかそうじゃないのか、判断のつかないところで均衡が保たれているのなら、その現状を維持するのが一番妥当なんだよ。良くも悪くも、ね」

 これは岩田の偽らざる心境だが、崩壊議長資格試験ではこの後に「しかし、だからといって過剰なほど現状維持に固執する気は毛頭ございません」と言い添えなければ確実に落ちただろう。

 クラリスは小さく笑った。背中側からでよくわからなかったが、たぶんそうだろうと岩田は思った。

「師匠も」振り向いた。「同じようなことをおっしゃいましたよ」

 予想通り、クラリスは笑っていた。一言ですぐさま前に向き直ったのを、勿体無いと感じた。岩田は他人の笑顔を見るのが好きだった。

「じいさんも同じことを?」

「はい。考え方が似ているんですね」

「……そうかもしれないな。同じようなことを親父にも言われたし」

 けれども、それが喜んでいいことなのかどうかは微妙なところだ。

 何故なら――

「鈍いところまでそっくりなんだそうだよ、俺は」



 一方、天井さえ高ければガンデデガンデ人さえ二〇〇人は入れそうな大広間。細長い座卓が整然と何十列にも渡って並べられており、ある種壮観とも言える眺めを作り出していた。だが、肝心の料理はそのごく一部、隅の方の一角にしか配膳されていない。

 もっと狭い部屋を使えば良いのに、と彼はいつも思う。この屋敷に勤めて半年ほどになるが、食事を摂る場所として、使用人を全員集めても一〇分の一も満たせない大広間に固執する理由が彼には未だにわからない。厨房から近くて、広さも適切な部屋が他に幾らでもあるというのに。

 彼は今、給仕のために師匠らの傍に控えている。料理の並んだ数少ない席には、師匠と奥方、そして彼にとっては今日が初見となる孫娘が座し、楽しそうに談笑していた。使用人である彼は、こういった場では話を振られない限り、会話に加わってはならない。

 彼の視線は、師匠の孫娘の端正な横顔に注がれている。

 ……ルースさん、か。

 礼を失すると自覚していながら、それでも目が離せない。峻烈な情動が胸を突く。出逢って早々あんな突拍子も無い計画の立案に立ち会わされて、印象に残らない方がどうかしている。師匠の奥方にそっくりという言葉の意味を痛感した。奇想も物腰も、瓜二つだ。

 そしてその美貌……、とまで賞賛するのは彼の贔屓目かもしれない。彼女より可憐度の高い人間はこの屋敷の中だけでも幾らでもいるだろう。それくらいはわかっていたが、長い睫毛の下の幻想的な緑色の瞳に、彼は一発で魅入られていた。双眸の強烈な個性が、相貌の淡い印象を一瞬で塗り変えてしまったのだ。さらに、如何なる時でも絶やされることのない柔らかい微笑み……。

 不遜かもしれないが、安寧のファラミュー神に重ねたくなる。

 彼が熱い視線を向けていた当の本人が、突如すっくと立ち上がった。とん、と静かに床を蹴って二歩後退する。

「……どうかしましたか?」

 と、思わず声を出して尋ねた瞬間だった。

 頭上からいきなり、猛烈な気配が降って来た。まるで、無軌道な若者が何の理念も無く目立ちたい一心でヒビッ党本部に突入したかのような無茶苦茶な振る舞いだった。

 気配を追うように天井から垂直に刃が突き下ろされて来た。続けて、いつの間にか枠取られていた天井の一部が踏み抜かれるようにして落ちて来る。天井板を両足で踏みしめ、板に刺さった超長剣を握った男が口を開く。

「鳩――」

 おそらく名乗りをあげようとしたのだろう。だが、そんなことを許す彼ではない。護衛の役目も申し付かっているのだ。何もしなければ職務怠慢ということになる。

 不届き者に向かって得意のジャンプ系の技を容赦無く見舞った。六体満足にどこかへ空間転移させるつもりなどさらさら無い。敢えて空間ジャンプの不完全展開を起こし、励起されて実体化した擬似空間に相手を閉じ込めるのだ。

 不届き者は依然ぱくぱくと口を動かしているが、何も聞こえない。音波が遮断されたのは、擬似空間が上手く相手を包み込んだ証拠だった。そのまま擬似空間の歪みに囚われて、相手の姿まで掻き消えるかと思った刹那――まるで嘘のように禁術効果が消滅した。

 手応えも何も無かった。

「!」

 彼は絶句する。空間ジャンプの展開全てが無効化し、不届き者が哄笑を上げる。

 つい今しがたまでルースの座っていた場所に、天井板が大きな音を立てて着地する。畳に穴が開く前に超長剣が引き抜かれていたのも奇跡なら、目の前の料理に埃一つかかっていないのも奇跡だった。

「貴様、ローティストか!」

 彼は、戦慄と共に叫んだ。この不届き者に屋敷の中枢まで侵入を許した理由を、彼はようやく理解した。ロートの才能に恵まれた人間と真正面から相見えるのは、一六年の人生で初めてだ。何しろローティストは穏健派が多いと聞く。マイペースに穏やかな人生を歩むことを切に願い、自身の万能性を浪費しがちなのだと。

 暗殺稼業を営んでいた頃から、彼は一度で良い、生温い穏健派でなく、死線をくぐった本物のローティストと戦ってみたかった。

 ……それが、今!

 彼は、ここしばらく忘れていた血の昂ぶりを感じた。彼の中にはとある伝説の暗殺者の血が流れている。時にそれを誇りにし、時にそれを憎みもした。屋敷に来てからは、とっくに割り切れたと思っていた。だが、それは自分の中で眠っていただけなのだ。生きている限り永遠に付き纏う業。久々に解き放つ時が来たのかもしれない。

 彼は躊躇せず動いた。

 あらゆる禁術が無効化されるなら、残るは肉弾戦しかない。既に飛燕拳(遠間合いまでの攻撃が可能な特殊な殴り方。達人ならば数十ポズレーに及ぶ脅威の貫通攻撃となる)の射程内に入っていた不届き者に、先制打を与えるべく振りかぶる。肩の角度、肘の位置、手首の捻り、拳の握り、指の気脈、全てがぴたりと整った。

 食らえ。

 飛燕――

「鳩々山様、登場の仕方には多少配慮して下さい」

 おっとりしたルースの言葉が、彼の集中を一瞬で解いた。

 鳩々山……?

 その名前には聞き覚えがあった。

 静。

 一瞬にして、広間は落ち着きを取り戻した。遠くに待機していた使用人は遠距離攻撃の用意をやめ、それより少し近くにいた使用人は中距離攻撃の用意をやめ、さらに近くにいた使用人は直接攻撃の用意をやめた。闇に潜んでいる使用人も闇討ちの用意をやめたに違いない。完全な攻撃態勢だった彼ら使用人に対し、その雇用主と家族はいずれも全く慌てていない。

 何なんだ、これは……。

 彼は、先輩から聞いた鳩々山という無茶苦茶な客人の話を思い返した。ことあるごとに名前が出て来たが、あまりに荒唐無稽な話ばかりだったので、フォルフォティーヌみたいな虚構の人間かと勝手に解釈していたのだった。もしかすると、全てが本当の話だったのかもしれない。彼は今更ながらに認識を改めた。

「あの、どのようなご用件でしょうか……?」

 努めて冷静に問うた。本当は取り乱したかった。しかし、自分の中で鎌首をもたげた魔獣のような闘争心を取り繕うのに必死だった。……ルースにだけは悟られたくなかった。

「ふむ」鳩々山はあくまで不遜な態度を改めず、超長剣を肩に担いだまま答えた。「夕餉を喰らいに来た」

「…………」

 絶句する彼を他所に、その師匠はあくまでも呑気にことを構えていた。

「久しいな、鳩々山(孫)。元気そうで何よりだわい」

「いやいやいや。そちらも元気そうで何より。二つくらいの意味で安心する所だったぞ。寸前で思いとどまったがな」

「お前も相変わらずだの。……おい、風虎よ」

「はい」

 呼びかけに答えて、どこからともなく最古参の使用人が現れた。

「岩田の到着より前に、もう一人分の食事の用意を頼む」

「かしこまりました」

 言い残して消えた。空間ジャンプを得意とする彼にも、風虎のしている移動原理はよくわからない。禁術能力の限界が見えないのは良いことだと、彼は個人的に思っている。

 ただ、とにかく今は成すべきことを成すだけだ。

「鳩々山様」

 穏当に声をかけ、床に落ちた天井の断片を指し示す。

「弁償して下さいね」

 鳩々山は愕然とした顔になり、「デジャヴュだ!」と吠えた。

 ルースがそれを眺めて、にこにこ笑っている。彼の目は相変わらず、その横顔に引き寄せられる。

 ちなみに、そのルースの原点である師匠の奥方に至っては、鳩々山の登場に際して終始一貫、何のリアクションも起こさず、のんびりと茶など啜っていた。

 ……きっとルースさんも、近い将来こうなるんだろう。

 彼は極めて妥当な推測を頭に描きながら、てきぱきと散らかった天井の片付けを始めた。



 何なんだ、これは……。

 岩田がクラリスと共に大広間に到着すると、天井に使用人が何人も張り付いて修繕工事を行っていた。ビルディング系の達人もいるはずだから、すぐに終わるだろう。

「遅いぞ、岩田。何か事情でもあったのか?」

 会席料理を前に座卓につき、舌なめずりをせんばかりに自分を待ち構えていた鳩々山に対し、岩田は何の言葉も出なかった。さりげなくルースの隣席が取られているのが腹立たしい。

 いつか絶対に禍々玉をぶつけてやる。

 ……そんな気分で始まったこの日の夕餉は、結果的にはここ数ヶ月で最も楽しい食事となった。鳩々山が酒とクルロワを絶妙な割合で混合して発煙水(テレヴィジョンドラマで玉手箱の中に入れられているあれだ)を造り、あまつさえそれを一気に飲み干すというデ・Q並の瞬間芸を披露して場を沸かせると、最初は仏頂面をしていた岩田も自然と宴の独特な雰囲気に飲み込まれた。鳩々山の芸に触発されたのか、場は対抗心旺盛な使用人有志による一芸お披露目大会モドキにまで発展し、投票による優勝者紛いさえ決めるという白熱ぶりだった。ちなみに優勝したのは陽炎という女性で、ドリーミング系とコントロール系の複合技術によって駿河の性格を一時的にクラリスのものに変えるという荒技は、駿河の普段の言動を知る使用人から喝采を浴びた。ずっとこのままでいいんじゃないですの、というルースの冗句に、「ふ、ふざけないで下さい!」と駿河とクラリスが同時に叫んだのも好評の一因である。岩田としては、鳩々山の性格を風虎あたりのものに変えて欲しかったが、ローティストである鳩々山が大人しく随うわけはないのだった。

 岩田は、美味い食事と愉快な知人類達の中に小さな幸福の形を見つけたような気がした。

 とは言え、超一流の料理人でもある風虎と鎌竈の饗した本格料理の数々は材料費だけで何十円もするような代物であり、これほど恵まれた夕餉を摂れる国民はそう多くない。挙句、愉快な知人類と岩田が評した連中は国家でも指折りの暗殺技能者であって、この屋敷内でも無ければ素顔を拝めないという事実を、彼はすっかり忘れている。これで小さな幸福というなら、大きな幸福など永劫に見つからないに違いなかった。


 夕餉後。客人である三人(即ち岩田、ルース、鳩々山)は、客間に戻るべく、クラリスに連れられて廊下を歩いていた。岩田の右手には、今しがた受け取ったばかりのハティオークの巾着袋がしっかりと握られている。

「ええと……。今更になるが、鳩々山がどうしてここに来たのか、理由を聞きそびれていたんだが」

 かねてからの疑問を口にする岩田に、鳩々山は笑いながら超長剣を振り回した。どうして、こんなに長い剣を天井にも床にも壁にもぶつけず振り回せるのか、岩田には不思議でならない。刃が足元を通る度に、無難に跳躍して回避する。クラリスは振り返ることなく気配だけでそれをこなしていた。

「……教えて欲しいか?」

「さっきからずっとそう言っているだろうが……」

 少しの間沈黙が続き、足音だけが小さく反響した。

「盗聴装置には気付いていたか?」

 鳩々山が、一見脈絡も何もない爆裂ゼルガ発言をした。

「は?」

「盗聴装置、つまりバルバルモールだ。神社で耳打ちした時、こっそりお前の右腕に取り付けた奴だ」

「え? え、え?」

 うろたえてみたものの、心当たりは無いでもない。キリニャーグ室から出た時、後ろから鳩々山に右腕を小突かれた。鳩々山ならあの一瞬でバルバルモールを仕掛けるくらいのことは可能だろう。慌てて右腕のあちこちを確認し始める岩田の後ろから、「もう付いておりませんわ。私が壊しましたから」と、楽しげな声が聞こえて来た。

「……え?」

 少し早足になったルースが、混乱する岩田に追いつき、「これですわ」と、粉々になった小さな黒い塊を手渡して来る。

「…………」

「その顔だと、気付いていたのはルースだけだったようだな」

 茫然とする岩田を横目に、鳩々山は不敵に笑った。

「これ壊したのって、いつ?」

 岩田は、かろうじてそれだけルースに尋ねる。

 ……どうしてこう、自分の知らないところでばかり、物事が進んでいくのだろうか?

「おじい様の部屋で、右腕の関節を極めた時ですわ」

 …………。右腕の関節を極めた時、だって?

 岩田は愕然とした。

 あれは、珍しくルースを言い負かしたと喜んでいた直後の反撃だった。てっきり、岩田に負けた悔しさを誤魔化すための意趣返しだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。直前に右腕をルースの頭に乗せるようにしていたから、彼女はその時に岩田の腕に仕掛けられたバルバルモールの存在に気付いたのだろう。関節を極められた時、肘から何かが割れるような音が聞こえていたが、あれはオーヴァーヒアリングの過剰作動でなく、バルバルモールの破砕音だったようだ。

「正直、よもや発見されるとは思わなかった。破壊されることなど全く考えもしなかった。何せ、その盗聴装置はギコルット石より硬いジュンブランキーの石材で出来ているのだからな。装置が壊されたあの瞬間は、本当にアゾフルルニを塗り直されたぞ」

 『アゾフルルニを塗り直される』とは、言ってしまえば『すげーびっくりする』の雅語である。こういうどうでもいいところで、鳩々山は語彙の豊富さをアピールするのだ。

 それに対しルースは平然と、恐ろしいことを口走った。

「一応、芯撃ち(物体の重心点に直接的な衝撃を加えることにより構造的に不安定にし、性質を非常に脆くする仮宿の技巧)から入る三連コンボでしたから。破壊出来ない物理物体はありませんわ。どちらかと言えば、攻撃が岩田様に当たらないようにするのに苦労したくらいですもの」

 こうなってくると、自分より強い相手に対する岩田の徹底した態度「反射的回避行動すら抑制した完全な無抵抗」が、岩田を救ったことになる。あのルースの不意打ちに対して岩田が何らかのリアクションをとっていた場合、芯撃ちの影響をもろに受けて右腕が木っ端微塵に吹き飛んでいたかもしれないからだ。

 岩田は、左手の黒い粉を忌々しげに鳩々山に向かって撒くと、

「で、それがお前の来た理由とどう関係してくるのさ?」

 何度目かわからない問いをぶつけた。

 鳩々山は大仰に肩を竦めて見せる。

「わからんのか。お前に盗聴装置が付いていたということは、俺がお前達の会話を聞いていたということだ」

「正確には盗み聞いていた、だがな。そんなことはわかってるよ」

「ならば、俺がマオウハントの真相を気にしていると思わんのか?」

 岩田は心底驚いた。いや、アゾフルルニを塗り直された。岩田の知る限り、鳩々山が知的好奇心だけで行動を起こすことなど殆ど皆無だ(何しろ、普段は何の意味も無く行動を起こすから)。以前、「デ・Qが入った箱を何本ものザグロゾールの尾で串刺しにし、蓋を開けるとデ・Qが無傷で出てくる」というお決まりの手品のトリックを公開する試みをテレヴィジョンでやっていた時も、鳩々山だけ見向きもせず、一人で全力焼肉をしていた程なのだ(結局この手品にトリックなど無く、狭い箱の中でデ・Qが必死になってザグロゾールの尾を退けていただけだったから、鳩々山の判断はある意味で正しかった。デ・Qのごり押し芸は神業の域で面白かったが、手品の種明かしという範疇に入る放映内容ではなかったので)。

「……それを知るためだけに、わざわざここまで来たってことか?」

「まあ、そういうことだ。我ながら殊勝な心がけだ。感謝感激しろ」

「なんでだよ」

 岩田は、先程のルースの言葉の意味がようやくわかった。


『ギリギリまでわからなかった方が、その分長く平等でいられますもの』


 ルースはこの時既に、鳩々山がマオウハントの続きを知りたがることを予想していたに違いない。バルバルモールを破壊されて状況がわからなくなった鳩々山を思い遣って、自身の計画を岩田に切り出すのを躊躇ったのだ。二人が平等でいられるようにとの配慮からの、小さな特例措置だ。

 岩田は鼻から息を抜くように、ふっと笑った。特に笑おうと意識したのではなかったが、何だか妙に滑稽だった。まるでルースの掌の上で踊らされているようだ。

「だ、そうだけど、ルース。とりあえず、鳩々山も揃ったところで、俺に強制夢を見せた犯人類を教えてくれても良いんじゃないか?」

 岩田が提案すると、鳩々山は大声を張り上げた。

「何だと! お前、まだわかっていなかったというのか!」

「……悪かったな」

 ムッとする岩田に対し、彼はさらに驚くべきことを口にした。

「犯人類くらい俺にだってわかったぞ。お前、本当に鈍いな」

 またかという思いとまさかという思いが、同時に去来した。何も言えなくなる岩田を無視する形で、ルースが会話を継ぐ。

「序盤のみを盗聴していたに過ぎない貴方に、わかったんですの?」

 岩田はその言葉に我に返る。

「そうだ。お前、バルバルモールが壊されたのは、三人の犯人類候補の登場以前だろう? ジョシュアさんも三津葛さんも知らないはずのお前に、どうして犯人類が指摘出来ると言うんだ!」

「ふむ。何故そんな二人の名が出ているのか、理解に苦しむな。ちなみに、ジョシュアとやらは先程宴の席で見かけたし、三津葛というのがソノノハルカ人の女暗殺者のことなら、昔一緒に仕事をしたことがあるぞ。だが、そんなことは一切関係が無い。岩田の立場であれば、強制夢を見せた犯人類など、一瞬でわかっていたとしてもおかしくないのだ。動機がいまいちわからんが、状況的に該当者が一人しか考えられんからな」

「……着きました」

 その時、これまで黙って先導していたクラリスが、一つの部屋の前で立ち止まった。岩田に与えられた客間だった。鳩々山によって破られたはずの襖は、いつの間にか完全に修繕されていた。

「とりあえず、ゆっくり話し合いたいので、皆さんこの部屋の中へ。……勿論、クラリス様もですわ」

 ゆったりと、ルースが笑った。

 襖が開く。謎の解体が始まる。


「何からお話しましょうか?」

 部屋の隅にあった小振りな座卓を部屋の真ん中に引っ張り出し、男性陣と女性陣が向き合うように座ったところで、ルースが口火を切った。鳩々山の超長剣が部屋の隅で、自己主張するかのように蛍光球の灯りを反射させる。

「犯人類の正体からだな」

 岩田はそう答えた。

 ルースは、まあ当然ですわね、と口の中だけで呟き、覚悟を決めるように大きく一つ息を吸った。

「岩田様は、消去法をご存知ですか?」

 知っているに決まっている。デッド情報入門で嫌というほどやらされたため、消去法で解析出来る最大難易度の情報におけるリトジバルト数の算出方法までそらで言える。

「複数個の選択肢を、不適格である要素の多い方から順に除外していって、最後に残った一つを正解とみなす方法だろ?」

 ルースは頷いた。

「犯人類は、この方法を使うと、至極簡単にわかってしまいますわ」

「それは変じゃないか?」

 岩田は、思わず大きな声を出した。

「どうしてですの?」

「俺達がやっていたアプローチは、消去法だったじゃないか」

 屋敷外から強制夢を見せることはほとんど不可能と見て、屋敷外の人間を除外する。

 岩田の祖父母に関しては、犯人類とは考えられないから除外。

 残る使用人も、クラリスの嘘発見器による取調べの結果、ジョシュア、三津葛、風虎を残して全員除外される。

 ジョシュア、三津葛、風虎の三人はかなり不透明な部分が多いが、ルースの推理によると全員除外される……らしい。

 岩田が犯人類を見つけられなかったのは、このような考え方で、結果として誰も犯人類候補に残らなかったためである。

「そうですわ。だからこそ、すぐにわかってしまう、と申しているんですわ」

 ルースは、にこりと会心の笑みを浮かべた。

「消去法においてまず重要なことは、除外された選択肢が、果たして除外されるに足るものであったかどうかということ。即ち、不適格とみなす際の要素に一体どこまで信憑性があるのか……それが問題だと、普通は思いますわね」

 ……そうだ。岩田も自分なりに色々考えてみたが、ルースが三人の犯人類候補を除外した理由がよくわからないのを除けば、他は特に問題無さそうだ。かといって、三人の中で誰かを犯人類であるとみなす決め手も無く、結局、推論は暗礁に乗り上げてしまう。

「犯人類候補の三人がどうして白人類なのか、その根拠を教えてもらわないことには、何とも言えないぜ」

「ご安心を。それについては後できっちり説明致しますわ。薄弱な理由でない、とだけ申し上げて、ひとまず先に進みましょう。何しろ今回の消去法失敗の要因は、全く逆の部分にあったのですから」

「逆の部分?」

「消去法による絞り込みは完璧だったんです。ただ、最後に残った正解の選択肢を見過ごしたために、犯人類が忽然と消えてしまったのですわ。……正解は、最初から目の前に転がっていたんですの」

 岩田は、ますますわけがわからなくなった。

 いや、違う。わけはわかってきた。わかってはきたのだが、しかし、だとすると、その言い回しを聞く限り、犯人類は――

 屋敷内におり、祖父母でもなく、クラリスの取調べを受けた使用人でもなく、ドリーミング系の能力を持つ者……。


『現在この屋敷で働いている使用人の中に、ドリーミング系の能力の持ち主はどのくらいいらっしゃいますの?』

『そうですね。少し齧った程度、というレベルでなら。達人級になりますと……、五、六人といったところでしょうか』


 見落としていた。確かに、正解は目の前に転がっていたのだ。

「駿河が議論に乱入した時、岩田様は偶然、非常に重要な言葉を口走られたんですよ。そう、確か、『そっちこそどうなんだ?』と……。私、それでピンと来ましたわ」

 岩田達は、尋問の結果をあくまで伝聞で知ったため、現場の臨場感を致命的なまでに失っていた。

 そっちこそどうなんだ。

 この生きた一言が、決定的に欠けていたのだ。尋問の際に何度もあったはずのこの切り返しは、報告の際は当然黙殺される。

 だから、気付かなかった。冷静になって見れば、こんなものは謎でも何でもない。彼女は、ただ言われた通りのことをやっていただけだ。消去法の結果でも、彼女一人だけが犯人類候補として残っていた。だが、彼女が自分達と同じ立ち位置にいるという岩田の勝手な先入観が、彼女を犯人類候補からいつの間にか外していた。

 おそらく一言、こう尋ねてやれば良かったのだ。


『で、、クラリス? ドリーミング系の技の使用者に心当たりは?』


 きっとそれだけで、彼女はおずおずと喋り始めただろう。

「……そういうことか。君が、犯人類だったのか……」

 岩田は呟いて、クラリスを茫然と見つめた。儚くか弱げな一六歳の少女の瞳が、不安に揺れていた。泣くのを堪えるように顔を歪めて、クラリスは深々と頭を下げた。

「申し訳、ありませんでした……」

 とんでもない、謝るのはこっちの方だ……。岩田はどうしてもその言葉を口に出来ず、夢から覚めやらぬような心地で、微かに震える少女の肩を眺めるしかなかった。

「そういえば、鳩々山様はどうしてクラリス様が犯人類だと?」

 ルースが、当事者二人を無視する方向で話を進めていた。岩田は、恐縮するクラリスを見ているとヨーミルが歩いたので、親友の方へ顔を向けた。鳩々山は自分に注目が集まったのを確認すると、不敵かつ不適な表情を浮かべ、徐に解説を始めた。

「決め手となったのは、ドリーミング系に特有の余波だ。知っての通り、ドリーミング系の能力を無造作に使用した場合、対象者を中心として波紋を描くように能力の余波が広がる。余波は原則として眠っている者にのみ影響を与えるが、ドリーミング系の能力者なら起きていてもその存在を感知することが出来る。余波の強さは技の種類や術者の技量次第だが、完全に消すことは不可能だ。また、術者と対象の物理的距離が短いほど余波の広がりは小さい。身近なところで、岩を小池に投げ入れる際のことを思い描いてみれば良い。技の難易度が岩の大きさ。術者の技量が、岩を抵抗の少ないフォルムに削る技能。術者と対象の距離が、岩を落とす水面からの高さ。小さな岩を細く削って低い所から落とせば波が立ちにくい。つまり、簡単な技を洗練した技能で近距離から用いれば余波は小さい、と自ずと導かれる。以上の点を踏まえれば、犯人類の行動も見えて来る」

 すらすらと、助先生が生徒に物事を教える時のように淀みなく論理を展開していく鳩々山を見て、岩田はこいつだけは敵に回すまいと心に誓った(岩を小池に投げ入れる例は全く身近でないが、それは不問に付しておこう)。

「そもそもお前達は、『岩田が強制夢を見るほどの強烈な余波を出す、何らかの大技を使っていた者が偶然いたのではないか?』などという頓珍漢な可能性を除外せずに話を進めていたが、聞いていてもどかしくなったぞ。……何だ、その長ったらしい鬼仮説は。にわか知識が完全に足を引っ張っているではないか。犯人類は岩田に直接強制夢を見せたに決まっているだろうが」

「あら、どうしてですの?」

「簡単なことだ。岩田はあの時、のだ。ドリーミング系の能力者でもないのだから、だろう」

 岩田は頬を張られたような気分になった。いつの間にか、すっかり失念していた。どちらも同じく意識を失う現象であるが、睡眠と気絶が全く異なる理念から構成されていることは、サジ概念論の基礎中の基礎だ(あの岩瀬光斗のドラマのセリフを引用するまでもない)。基本技能的禁術に過ぎないドリーミング系が、サジ概念論の理念原則を超越することはあり得ない。鳩々山の言う通り、余波が『眠っている者にだけ有効』なら、『気絶している者には無効』ということになるのも当然だ。

 ルースはほんのわずかに眉を顰め、全然面白くありませんわ、と言う時と同じ表情をしている。苦手なサジ概念論の知識不足によって犯した失態だけに、何か思うところもあるだろう。

 ルースを論破したことで調子付いた鳩々山が、さらに続ける。

「不透明な部分はこれでなくなった。では、岩田に強制夢を見せたい犯人類が取るべき行動とは何か? 答えは、岩田に出来る限り近付くことだ。この屋敷内には、神みたいなドリーミング系能力者が何人かいるから、岩田に強制夢を見せる時の余波を感知される可能性は非常に高い。大事な客人である岩田に無断でそのような不埒な真似をしたと知れれば、いかなる処罰があるかわからない。犯人類はそれを避けるため、対象である岩田に極限まで接近することを余儀なくされる。当該時間に岩田に接近出来たのは、傍で控えていたクラリスだけだ。本来部屋の外で待機するはずの所をわざわざ岩田の枕もとに座り、あまつさえ顔を覗き込むほど、ないしは直接触れるほどにまで近接し、外部への強制夢の余波を最小限にとどめたのだ」

 言われてみれば確かにそうだった。目を覚ました時、必要以上にクラリスの顔が接近していたような気はしていたが、まさかそんな裏があったとは思わなかった。

 ……それにしても、クラリスが岩田の顔を覗き込んでいたことを盗み聞きだけで把握するとは、鳩々山は一体何者なのだろう。そんなに盗聴慣れしているのかと思うと、酷く不気味だった。

 ふと、顔を真っ赤にして恐縮しているクラリスに、ルースが棘のある視線を投げかけたように見えた。すぐに微笑に解けて消えてしまったので、岩田の気のせいかもしれない。

 鳩々山はまとめに入った。

「仮に、もし他に犯人類がいて、そいつが岩田に強制夢を見せたのなら、岩田の直近にいたドリーミング系能力者のクラリスは、その余波を感知出来たはずだ。クラリスの性格からして、客人に仇なすそんな行為を看過するなど考えられない。にも拘らず彼女は何もしていない。ゆえに犯人類はクラリスしかいないと決まる」

 なるほど。岩田は大いに納得した。

 一方ルースは、細かいようですが、と前置きしてから質問した。

「クラリス様がドリーミング系の能力者でないという根本的な可能性は考慮しませんでしたの? 『ほぼ全員』は『全員』とは違いますわ。確かに大多数ですが、クラリス様がドリーミング系を使えるという明確な根拠が無ければ、十全な論理とは言えませんわ」

 鳩々山は一歩も引かずに答えた。

「根拠は、ある。ルースは知らんだろうが、岩田とクラリスが岩田じいさんの所に向かっている途中、駿河に襲われたんだ」

「はい? ゼルガでもフィルガでもなく駿河ですか? あの?」

「そう、あの駿河だ。原因は、クラリスが泣いていたのを岩田が虐めたためだと駿河が勝手に誤解したからだ」

「……クラリス様、泣いていたんですの?」

「あ、いえ、その、大したことではなかったのですが……」

 あたふたと言い訳をする当のクラリスも半泣きなので、説得力があるのか無いのかよくわからない。

「ともかく、その際クラリスは『ユズラグラフィトーレの濃度が高くて涙腺が刺激された』というような発言をしていた。ユズラグラフィトーレはご存知の通り、呼吸大気中にも少量含まれる形而上化学物質だが、精製すると睡眠導入の概念波を放出する。ダッツェル国民総会で原液を床に零した粗忽者がいて、参加者が全員眠りこけた件は有名だな。普通に考えれば、クラリスは『眠くなって欠伸が出たの』と主張したことになるが、どう考えてもこれはおかしい」

、ですか」

「そう。だ。成人してないクラリスがクロット修道会に入れるわけはないし、不用意に欠伸などするはずがない。一般人なら一発で嘘だと見抜くはずだ」

 岩田は深く頷いた。実際、妙なことを言うものだ、と思った。

「ところが、駿河はそれで納得した。『形而上化学物質過敏症のきらいがあるのか。気をつけた方が良い。不妊の原因となる恐れがあるらしいから』そんなことを呟きながら、な。どういうことだと思う?」

 どうもこうも、岩田には駿河がチェアルキッツェ期を忘れて適当な返事をしているようにしか思えない。

「まさか」ルースは小さく呟いた。「クラリス様はユズラグラフィトーレを体内にしていらっしゃるのですか?」

 クラリスは、こくりと小さく頷く。

「なあ、俺には何が何だか全くわからないんだが」

「あらゆる形而上化学物質は、人体に直接投与すると粘膜に移送されて効果を現す。過敏症なら当然、粘膜で炎症を起こすことになる。不妊についての発言から、駿河が懸念したのはそのことだとわかる。『涙腺が刺激された』という発言を、ユズラグラフィトーレが粘膜にまで回って来た、と解釈したんだろう」

 あのやり取りにそんな深い意味が隠されていたとは思わなかった。岩田はただ茫然とするのみである。

「問題は、『クラリスがユズラグラフィトーレの直接投与を行っているところだ』という共通見解が駿河との間に既に確立していたことだ。……クラリスが常用でもしていない限り、普通はそんな認識が生まれるわけはなかろう。形而上化学物質の常用理由として最も尤もらしいのは、そう、禁術触媒としての活性作用を利用し、円滑な術式行使の助けとすることだ。さて、禁術知識汎論で習った語呂合わせを思い出せ。ユズラグラフィトーレの概念波が触媒となって効果を強めるのは、何系の能力だ?」

 急に言われて戸惑った。形而上化学物質の禁術触媒活性の話など、日常生活で使う機会が無いため、すっかり頭の奥底へ仕舞い込んでいた。岩田は随分と長い間悩んでから、埃塗れの陳腐な言葉をどうにか引きずり出す。

「『里の湯じゃ 砂糖水降り 柚子踊り』だっけ」

 ティティラーク(性)はンプ系、ティティラーク(性)はーズ系、ラグラフィトーレはーミング系……。特徴が似通っていて紛らわしい十一族化合物の禁術触媒活性を覚えるのに用いられる、暗記必須の語呂合わせであった。

 ユズラグラフィトーレはドリーミング系……。

「まさかクラリス様、ドリーミング系の習得効率を上げるため、ユズラグラフィトーレの使用をおじい様に強要されているのですか!?」

 目の色を変え、今にも殴り込みに行きそうなルースの剣幕に、クラリスが慌てる。

「い、いえ、違います、違います。とんでもないです。師匠はそんなこと命じません。この屋敷に来る前からの悪癖なんです。その、わたし、ドリーミング系との親和性が若干低いから……」

「不妊との関連はまだ立証されていませんけれど、健康を害することは確かです。絶対に止めた方がよろしいですわ」

「は、はい……」

 過酷な世界もあったものである。職業暗殺者だった頃のクラリスは、「親和性が低いからドリーミング系能力の習得を諦める」とは口が裂けても言えなかったのだろう。禁術の才能に恵まれているとは言い難い岩田が、絶対に近寄りたくない職域だ。

「ともかく、一連のユズラグラフィトーレのやり取りから、俺はクラリスがドリーミング系の能力者であること、いや、少なくともドリーミング系能力の習得のために触媒を利用していることを論理的に推論出来たのである。以上」

 鳩々山は満足げに締め括り、どうだとばかりに踏ん反り返っている。ルースは笑んだまま御座なりに拍手した。

「お見事ですわ。伊達にキュロウザンと付き合いが深いわけでありませんのね」

 勿論付き合いが深いのは、捜査官としてではなく追われる側としてだが、それでも犯人類を絞り込む技術は上達するのだろうか。

「では、次は私の番ですわね。事情を知らない鳩々山様には申し訳ありませんが、ジョシュア様、三津葛様、風虎様を白人類と断定した理由を説明致しますわ」

「ほう……、ならば俺はそれに対抗して、歌を歌おう」

「いや、頼むから黙って聞いとけ」

 岩田は鳩々山にびしっと言いつけると、ルースの展開する論理に耳を傾けた。他人の推論に付いて行くだけで精一杯なので、出来るだけ邪魔は入れたくない。

「まずはジョシュア様。彼は、鎌竃様主催の全力味見マラソンに参加していたようなので、ドリーミング系の能力を使えたはずがありません。オーヴァーテイスティング以外の禁術使用厳禁ですので」

「……おいおい、それって俺が指摘したのと同じだろう」

「ええ。別に間違っていると言った覚えはありませんわ。ジョシュア様の場合、最も合理的な白人類の理由は結局これです」

「ジョシュアさんが大嘘吐き大将だってのは、関係ないのか?」

 ルースがくすくすと笑った。

「彼が大嘘吐き大将なのは間違いないですが、今回の事件と直接の関係はありませんわ。大きな嘘を吐き通そうとした結果、自ら墓穴を掘ってしまった。これはそういう不運な事例なのです」

「ジョシュアさんの嘘って、一体何なんだ?」

 ルースは、ここだけの話にしてあげて下さい、と前置きした。

「ジョシュア様は、オラウ軍の軍人類ではありません」

 岩田は、きょとんとなった。目の合ったクラリスも似たような表情をしている。

「いや、確かにこの家で使用人をしている以上、正式にはもう軍から除名されてるだろうけど……。彼の場合、それでもまだ心はオラウ軍属だってことを、身をもって示してるんじゃないのか?」

「あの、そうだと思います。厳格な軍紀に従って生活してるのは、一生涯の軍への忠誠の証だって、当人が言ってました」

「鈍いお二人ですね。私は、それが嘘だと申しているのですわ。ジョシュア様は、オラウ軍の軍人類であったことなどないのです」

 ようやく岩田は仰天した。

「どうしてそんなことがわかるんだい? オラウ軍は完全非公開の軍隊だから、隊員の情報なんて何もないはずだろう?」

「ええ。でも逆に言えば、軍紀に従ってさえいれば、一般人からはオラウ軍所属の軍人類に見えるということですわ。軍紀くらいなら、インフォメーション系があれば容易に参照出来ます。情報に過度のこだわりを持つ発言の数々から考えて、ジョシュア様はインフォメーション系の能力者だと思われますわ」

「うーん、となると、ノルクワイェを素晴らしいタイミングで運んで来られたのも、インフォメーション系の賜物かもしれないな」

「そうですわ。クラリス様によると、普段から『細かいことによく気の付く』方だということですしね」

 鈍い鈍いと言われる岩田には、実に羨ましい話だ。

「でも、どうしてオラウ軍の軍人類の振りなんかしてるんだ?」

「詳しいことはわかりませんが、それが彼の生命線なのでしょう。……案外、冗談のつもりが引くに引けなくなった、というくらいの話かもしれませんが」

「そう考えると、彼の嘘発見器に対する異常な拒否反応は、軍紀に従わねばならないためじゃなく、軍紀に従わねばならないという嘘を守るためだったんだろうな。そのせいでルースに疑われて、肝心の嘘まで暴露されたんなら全く皮肉な話だけど」

「で、でも、本当に嘘なんですか? あ、え、つまり、ジョシュアさんがオラウ軍所属じゃないって、どうして言えるんですか?」

「そうでした。肝心の部分の説明がまだでしたわ。オラウ軍の軍紀の最も特徴的な点は、両足をゴムで束縛していることでしょう。それと、敬礼と食事に関する決まりごとを併せて考えれば、オラウ軍の本質が見えて来ますわ」

 岩田は、たぶん考えてもわからないだろうと思いつつ、念のために考えを巡らせてみた。敬礼は右手を額の横に当てる挨拶で、長時間行うほど深い敬意を表せる決まりだという。そして確か、食事については、三〇分以内に食べなければならないとのことだった。……どちらも時間が関係しているということはわかるが、両足が縛られていることとどういう関係があるのだろうか。

「あ、わたし、たぶんわかりました」

 岩田は途端にやる気をなくした。推論は自分に向いていない。

「逆さま、だったんですね。全部、逆さま。ジョシュアさんたら、一番肝心な情報を手に入れ損ねたんですね」

 クラリスは、ルースみたいなくすくす笑いで一人楽しんでいる。

「悪い。誰か、俺に答え教えて」

「本当に鈍いな、お前。逆さまなんだよ、オラウ軍は。地面に手を着いて、逆立ちして軍務に当たる連中なんだろう」

 よりによって鳩々山に返答されてしまった。

「あら、鳩々山様、ご存知でしたの?」

「いや、正確なところを知ってたわけじゃない。ただ、倒立を常とする軍があることは噂に聞いていたし、以前、チェルグオン雪原で雪上訓練をしていた倒立中の一個中隊に見付かって追い回されたこともある。どうにか逃げ切ったが、あいつらは強かった。あれがオラウ軍だったわけか……。また逢いたいものだ」

 何やら、誰にも理解出来ない感慨に耽る鳩々山を横目に、ルースが解説を入れた。

「逆立ちと考えれば、全ての軍紀がしっくり来るのですわ。足を縛るのは通常の歩行を不可能にするため。敬礼が時間に比例して敬意の深さを表すのは、片手での倒立が非常に大きな困難を伴うため。同様に、食事の時間が制限されているのは、何時間もかかってしまうのを律するためなのですわ。ジョシュア様は軽い決まりとおっしゃっていましたけど、三〇分という時間は普通に食べ切る分には楽ですが、逆立ちしながら食べ切るにはかなり厳しい設定でしょう……。オラウ軍の軍紀は、終始一貫厳しい代物なのです」

 実際にそれらしき軍隊を鳩々山が目撃している以上、ルースの推論は正しいのだろう。そして、足を縛ったままよじよじと窮屈そうに移動するジョシュアは、ニセオラウ軍の軍人類ということになる(ゴムでの束縛をしている以上、軍服着用時でないから倒立していないのだ、という言い訳は通用しそうにない)。一体ジョシュアにどんな複雑な事情があるのか訊いてみたい気もするが、放っておいてあげたい気もした(下手に聞き出そうとしたら自刃されかねない)。

「あ、でも、食事の規則に関しては別の解釈も出来ますよ。もしかすると、正立を許されるのが食事の時間だけなんじゃないですか? 食事時以外は睡眠中ですら倒立を余儀無くされるのだとすれば、この規則は休憩時間を定める厳格な代物として非常にわかりやすい構図になります」

「あら、素晴らしい逆転の発想ですわね!」

 ルースは隣のクラリスの手を握り、目を輝かせんばかりにして推論を絶賛した。クラリスは、雰囲気に飲まれてされるがままになっている。

 何にしろ、オラウ軍の軍紀が厳しいことは間違いないようなので、万が一オラウ軍から徴兵のお知らせがあっても見て見ぬ振りしよう、と岩田は決意した。

「さて、ジョシュア様の余談で思わぬ時間を食ってしまいました。急いで三津葛様と風虎様についても説明しませんと」

 ルースが多少早口になった。

「三津葛様の場合、鳩々山様の説明した余波の話が肝になって参りますわ。自室と岩田様の客間との物理的距離が遠過ぎます。さほどドリーミング系に秀でているわけでないとのことですし、もしも岩田様に強制夢を見せようものなら、屋敷中に強烈な余波が広がってしまうはずです。それに、三津葛様の部屋の斜向かい、焦土の間にはドリーミング系の達人ジムチ様と陽炎様がいらっしゃったとのこと。三津葛様もそれをご存知だったわけです。近くに達人がいる状況で、ドリーミング系をこっそり用いる気になどなれるでしょうか? 普通に考えたら、出来ませんわ」

「いや、でも、三津葛さんがずっと自室にいたとは限らないだろう? 例えば、俺が気絶している間、独りで風呂にいたとしたら?」

「お風呂からでも、客間までかなりの距離があります。第一、三津葛様は今日、お風呂にいらっしゃることは出来なかったと思いますわ」

「どうしてだい?」

「部屋で年賀の仕分けを頼まれていたのですもの」

「年賀だって?」岩田は反駁する。「クラリスの話だと、三津葛さんの部屋には年賀なんて一枚も無かったはずだろう?」

「あ、はい。確かにありませんでした」

「つまり、年賀の仕分けなんてしてなかったってことじゃないか?」

「それを否定するつもりはありませんわ。では、逆に訊きますが、ジムチ様が手渡したはずの年賀は一体どこに行ってしまったとお考えですの?」

 岩田は言葉に詰まる。

「どこかその辺に捨てたんじゃないのか?」

「と、とんでもないこと言わないで下さいよ。師匠宛ての大切なお便りですよ? 駿河でさえ捨てるなんて出来ません。ソノノハルカ人の三津葛さんでも、それくらいの分別は弁えています!」

「じゃあ、どこに?」

「……いや、それは、その、わからないですが」

じゃないか?」

 鳩々山が平然と口にした言葉に、ルースが大きく頷いた。

「その通りだと思います。三津葛様は、押し付けられた年賀を持て余し、全てザグロゾールに食べさせたんですわ」

 クラリスの顔から色が抜け落ちた。

「な、まさか、そんな……。あ、あ、三津葛さん、なんてことを……。風虎さんに知れたらどうなるか……、あ、眩暈が……」

 ふらふらと崩れそうになるクラリスを横からルースが支えた。

「落ち着いて下さい。ザグロゾールは半絶体動物ですから、大丈夫ですわ。生命現象の一切を停止させてから飲み込ませれば、消化液や内分泌液の影響も全くありません。体内は便利な貯蔵庫になるのです。年賀もきっと無事ですわ」

「その通りだ。俺と行動を共にしていた頃、三津葛は基本的に式神を絶体にして扱っていた。止むに止まれず服が必要な時はその腹から取り出していたな。非常食を詰めていたこともあった」

 今の発言には、三津葛が鳩々山の前でも普段全裸だったという恐ろしい情報が含まれていたが、岩田は何故か詳しい話を聞きたくなかった(おそらく鳩々山も普段全裸だったというさらに恐ろしい情報を引き出しそうだからだ)。

 ルースが続ける。

「ひとまず、年賀二〇〇枚という恥ずかしいものを目に止まる範囲から排除出来たわけですが、三津葛様は途方にくれたはずです。そのままずっと仕舞っておくわけにはいかないでしょうし、仕分けする覚悟も決まらない。焦土の間に式神を送り込んで、こっそりと仕分け前の山に年賀を吐き出させたいところですが、ジムチ様達がいらっしゃる間はそうもいきません。お風呂場になんて、行きたくても行けなかったでしょう」

「……どうしてだい?」

「年賀を式神のお腹から出して、部屋に置いておくんですよ? 紛失でもしたらどうするんです? 申し開きは利きませんわ」

「……何でせっかく仕舞ったのにお腹から出すんだよ。ザグロゾールに入れたまま置いておけばいいだろ?」

「ザグロゾールですよ? そんなものを式の制御範囲外に置き去りにしたら、死者の出る惨事になりますわ」

 岩田は呻いた。式は、動植物に生涯の支援を約束させる契約だが、契約であるだけに式神にある程度の自由を認める性質がある。術者の目の届かない範囲では行動の制約をしないのだ。クラリスが口にしていた『三津葛さんと一緒にいれば大人しいものですよ?』という言葉が端的に式神の特徴を現している。……要するに、三津葛から離れればザグロゾールは暴れるのだ。

「じゃあ、ザグロゾールの腹に入れたままお風呂に連れて行けば良いだろ」

「だから、ザグロゾールですよ? お風呂では爆縮するんですよ? 一〇〇分の一の大きさになって棘が生えて硬くなるんですよ? そんな中に年賀を入れておいたら、ぼろぼろになってしまいますわ」

 岩田は寓の音も出ない。

「脱衣所に年賀だけ置いておくのは?」

「紛失の危険や若干の湿気が気になりません?」

「その、年賀をコーティング系で防水にして持って入る、とか」

「持ってお風呂に入る? 正気ですの? 岩田様、見たくもない春画を持ってお風呂に入る気になれます? 大浴場で、誰がいつ入って来るとも知れないんですよ? それでは自ら恥をかきにいくようなものではありませんか! 乙女心検定〇点必至ですわ」

「……俺が悪かったよ」

 岩田はさすがに折れた。

「お風呂と自室の往復の毎日を送る三津葛様が、今日に限ってそれ以外の場所を訪れるとも考え難いですし、お風呂場に行けなかった彼女は、自室に篭っておられた可能性が非常に高いということになります」

 しかし、そんな生活の三津葛を果たして使用人と呼べるのだろうか? 岩田はかなり疑問に思ったが、お風呂場の掃除が主な仕事に違いないと勝手に納得した。

「そして、自室にいた限り強制夢は使えたはずがない、と」

「その通りですわ。さらに言えば、クラリス様が尋問に現れた時、彼女は年賀の仕分けを手伝って欲しかったのだと思いますわ。クラリス様の質問に何も知らないと繰り返し続けたのは、羞恥心のためもあるでしょうが、早々に用件を終わらせて自分の頼みを聞いてもらおうと焦っていたからでしょう。基本的に内気な方ですし」

「あ、え、じゃあ、わたし、酷いことしちゃいました。早く退散して欲しいのかと思って、質問が終わったらすぐに部屋を飛び出してしまったんです」

「まあ、あの短時間で八〇人以上の証言を集めるためには仕方のない部分もありますわね」

 三津葛にせがまれて全裸になったはずのクラリスが質問終了と同時に部屋を飛び出すと、何やら大変なことになりそうな気がするが、岩田は敢えてそれを考えないことにした。

「年賀の仕分け、隣室の住人にでも助けを借りて解決していると良いですが……。ちなみに、隣室はどなたの部屋ですの?」

「右隣は空室です。左隣は、……駿河ですね」

「あら。助けは絶望的ですわね」

「……陽炎さんにこっそり打診してみます」

 クラリスが、善とヨックトは急げの格言通り、影話機で早速誰かと話し始めた。

「でもルース、三津葛さんが年賀の仕分けで途方に暮れてるって知ってたんなら、もっと早目に誰かに言って、助けてあげれば良かったのに」

「残念ですけど、私はそこまでお人好しではありませんわ。そもそも、三津葛様だってもう子供ではないのですから、しっかりしていただかなくてはなりません」

「ああ、三津葛さんって幾つ?」

「女性に歳を尋ねるのは無礼ですわよ。三七歳です」

「そう言いながら答えるのもどうかと思うけど……」

「……何ですの、その微妙な表情は。女性を年齢で差別するなんて鬼にも劣る品性ですわ」

「いや、違うって……」

「ふむ。だが考えてみれば岩田のおふくろより年上だからな。身構えるのも無理はなかろう。三津葛は実年齢より遥かに若く見えるが」

「へえ、幾つくらいに見えるんだい?」

「俺が知っているのは三年前の三津葛だが、一五より上には見えなかった」

「まさか。……虚偽だろう?」

「……本当ですわ。でも、鬼より性質の悪い岩田様には絶対に面会させません」

 会いたいとも会いたくないとも言えず、岩田がまごついているとクラリスが戻って来た。

「どうやら三津葛さん、大広間で宴会をしている隙を突いて、年賀を焦土の間に返したみたいです。今は無事にお風呂に入っているとのことでした」

「ま、妥当な結末ですわ」

 ルースはさばさばと言うと、最後は風虎様ですわね、と仕切り直した。

「彼は、すぐに白人類と断定しましたわ。普通に考えて、おじい様の孫である岩田様に強制夢を見せるような暴挙に出るわけがありませんもの。鎌竃様がずっと一緒にいらしたということは、怪しい挙動があればすぐに発覚するということでもありますし」

「まあ、そうだろうな。でも、風虎さんの場合、何か突拍子もない手段で俺に強制夢を見せてもおかしくない気がするんだけど」

「例えば、鎌竃様と一緒にいらした厨房の風虎様はギジンダンで、本物は密かに岩田様の部屋の近くに隠れていた、とかですか?」

「そうそう。さすがにギジンダンにそこまで高度な擬人化は無理だろうけど、彼の禁術の合成利用技術を使えば、それに近いことは出来るんじゃないか?」

「そうですわね。それどころか、ドリーミング系の余波を何らかの手段で打ち消し、全く余波の出ない強制夢なんかも実現可能かもしれませんわ」

「おいおい、何でもありなら白人類になんてなり得ないじゃないか」

「いえ、その逆ですわ。何でも出来るのなら、のです。むしろ、誰にも出来ないような隠蔽工作を行ったら、風虎様以外犯人類がいなくなってしまうではありませんか」

 言われてみればその通りだ。もしもクラリスが頑なに犯行を否定していたら、「風虎が能力を駆使して実行したに違いない」という以上のことが何も言えなかったはずだ。

「風虎様なら、他にいくらでもやりようがあったはずなのですわ。例えば、稚児車様のようにドリーミング系なら風虎様より得意という方がいらっしゃるのですから、いっそ犯行を丸投げして頼んでしまえば良かったのです。勿論、罪を着てもらう段取りまで取り交わして。強制夢は、『術者の体験記憶』、『付近にいる第三者の体験記憶』、『被術者の不確定要素の多い未来像』、いずれかを見せる能力です。……わかりますよね? これは使なのです」

 クラリスが目を丸くしている。強制夢が、被術者にのみ依存する術式であったことに初めて気付いたのだろう。岩田も全く同様だった。以前から、妙な縛りがある技だとは思っていたが……。

「ちなみにそれには理由があるぞ。ドリーミング系は、既に滅んだ何たら言う教団を起源とする禁術体系だが、中でも強制夢は背信者を改心させるために生み出されたものなのだ。一人の背信者を中央の寝台に寝かせ、山のような数の信者でそれを取り囲んで祝詞を唱える。やることはそれだけだ。何しろ体系付けられていないから、ドリーミング系の能力の洗練度も低い。個人の技術では展開しない拙い術式を、祝詞を介した数の暴力で無理矢理結合して背信者にぶつけるのだ。見せる夢は、『信仰により幸福を掴んだ信者の体験記憶』か、あるいは『背信により不幸に陥るはずの背信者の未来』が望ましい。さらに、信者全員が幸福を掴んでいるわけはないから、前者は『信者の誰か一人』を恣意的に選択出来た方が良いし、後者は、『今からでも信仰を取り戻せば避けられる未来』とした方が教団にとって何かと都合が良い。……この儀式が何百年と続く内に、例の概念原則に従った技が出来上がる、という寸法さ」

 鳩々山の長広舌に、岩田は「まさかその教団ってマルカドゥ団じゃないだろうな」と言って失笑を買うことしか出来なかった。

「ともかく、立場的に誰を犯人類に仕立てることも出来る風虎様が、自ら実行犯人類を買って出るはずは無い、という結論ですわ」

「あ、でも例えば、強制夢では見せられないような特殊な図像を夢で見せる能力を、風虎さんが独自に開発していたとしたら? 風虎さんが実行するしかないんじゃないの?」

「同じことです。風虎様が実行するしかないような代物ならば、隠れてこそこそ行う意味はないのですわ。名乗っても名乗らなくても犯人類は風虎様しかいないのですから。……いえ、千歩譲って風虎様が何らかの理由で名乗らなかったのだとしましょうか。だとしても、

「……へ?」

「犯人類は、消去法により残った最後の一人、クラリス様。私達はそう結論するしかないのですわ。仮にその後ろに、から!」

「そんな! 不条理な!」

 岩田は戦慄を覚えた。

「現実を受け止めろ、岩田。本当に地上の全てが知りたければ、マルファフサに至るか、神になるしかない。お前は、最初は卑近なモテ神でも目指せ」

 鳩々山が本気とも冗句ともつかないことを口にする。

「あ、あの、何やら不穏なことで盛り上がっているみたいですが、この件は、わたしの単独犯行ですから、その、風虎さんに無用な疑いがかかるのは、ちょっと、あの……」

「そ、そうだよな。クラリスがそう言ってるんだし――」

「いいえ! それはクラリス様が風虎様を庇うために無理に言わされているに違いありませんわ!」

「そ、そんな、違います!」

「ほら、泣きそうな顔しながら違うって言ってるぞ!」

「本当だ。では、そろそろここで一曲俺の歌を聞いてくれ」

「お前は黙れ」

「あ、あの、わたしは本当に、一人で……」

「……と、このような混沌が訪れること必至なので、その防止という意味も込めて、風虎様は早々に白人類と断じたのですわ」

「ルースは賢いな」

 岩田の一言でどうやら状況は丸く収まったらしい。えもいえぬ疲労感が岩田を襲った。鳩々山が犯人類を指摘した段階で議論を止めておけば良かったと、今更ながらに思う。

 深呼吸を一つ挟み、岩田は新たな議題を持ち出した。

「クラリスが犯人類だとしても、その動機は一体何なんだい? 謎の記憶を強制夢で見せられる謂れは全く無いつもりなんだけど」

「動機に関しては」ルースが口を開く。「本人の口から説明していただく約束ですの」

 岩田が視線を移すと、顔を上げていたクラリスと目が合った。その表情は決意に満ちていたが、どこかぎこちなさがあった。硬く引き結んだ唇を、わずかに動かす。

「約束は、やはり守らなければなりませんね……」

 どうやら、事前に二人の間では深刻なやり取りがあったらしい。岩田は、ロイティーハバーの密約で知らぬ間に土地を獲得していたキジェ族がその土地に『困惑』という名を付けた理由が、今ようやく本当にわかった気がした。


「未来を、見てみたかったんです」

 クラリスが、いつもの落ち着いた口調で切り出した。岩田は一瞬、全く別の思い出話でも始まるのかと思った。

「わたしは今、将来の身の振り方のことで悩んでいます。自分が本当にやりたいことが何なのかわからないし、このままずっと師匠の元にいるわけにもいきません。……考えが行き詰まっていたんです」

 祖父の部屋に向かう途中で聞いた話と同じだった。

「そんな折に、岩田様が現れたんです。わたしは不意に、その、まことに差し出がましいようですが、という選択肢に思い至りました」

 岩田に付いて行く、という部分で部屋の空気が一瞬だけ不穏な動きを見せた。一体付いて来るつもりだったのか、岩田にはよくわからなかったが、それを言うとルースあたりに罵倒されそうな予感がしたので(「乙女心検定〇点必至ですわ!」)、神妙な顔でやり過ごした。鳩々山は渋い顔で腕を組み、首をこきこきと鳴らしている。……落ち着かない時の癖だ、と岩田にはわかった。ルースの表情はいつも通りだったので、その背に燃え上がって見える激情のオーラが本気なのかどうか、いまいち判然としない。

「だから、その、果たしてそれが成されるのかどうか、もし成されたとしたらどんな風になるのかを確かめておこうと思いまして……偶然意識を失っていらした岩田様に強制夢を見せ、同時に発動させたリーディング系のドリームリーディング(他人の夢を自分の脳内に情報として取り込み、処理を加え、ある程度の秩序をもたせながら読み取る能力)で、『』を読もうとしたんです。あの、それだけなんです。それが動機です。なのに、言い出すタイミングを窺ってる内に、こんな大騒動にまでなってしまって……本当に、申し訳ありませんでした」

 クラリスは、深々と頭を下げた。本意でない事件を引き起こした負い目を感じ、随分と心苦しかったことだろう。本音を吐露して、少しでも楽になれたら良いな、と岩田は気楽に考えた。

 ……が、納得出来たのは勿論動機だけだ。

「ちょっと待て。おかしくはないか?」

「ああ、今回ばかりは俺もそう思ってたところ」

 クラリスの証言には、根本的に看過出来ない矛盾があった。

「クラリスの話が本当なら、岩田は何らかの未来図を夢に見たはずだ。しかし、実際に岩田が見たのはなのだろう? この齟齬は一体どういうことなんだ?」

 そもそも、岩田が夢で祖父の失われた記憶などという代物を見たからこそ、状況は混沌となってしまったのだ。推論で導かれた『祖父の体験記憶を持つ何者かが屋敷内にいる』という奇妙な構図が、謎を支える大きな骨子であった。つまり、岩田達は論点から完全に見誤っていたことになる。犯人類が強制夢で見せようとしたのは、祖父の過去でなく岩田の未来であった。……ケドイドイ人の予想域を越えかねない発想である。

 思い起こせば、『犯人類は岩田に誰かの体験記憶を見せた』という風説を最初に流したのは岩田の祖母だ。いつもは奇想ばかりの祖母が、当然とばかりに手堅く披露した順当な説だったため、絶大な説得力をもって場に受け入れられてしまった。……何とも皮肉な話ではある(尤も、それは岩田の未来像だ、と真面目に言われても到底信じられなかっただろうが)。

「パラサイト系の能力者に技の制御を奪われたというのか?」

「いや、それは無いだろう。夢の内容を変えるなんていう強引なやり方で制御を奪われたら、クラリスだってパラサイトされたことに気付くはずだ。気付かれたが最後、パラサイト系の能力者は潔く身を引くのが鉄則だろう」

 とりあえず、岩田は鳩々山の案を否定した。他人が発動中の禁術制御に割り込みをかけるパラサイト系能力『フォースパラサイト』は、相手にそれと気付かせぬように長時間継続して用いるのが基本である。というより、気付かれずに使用出来るからこそパラサイト系と大別されるのであり、相手に感知可能ならばそれはコントロール系に属する(未熟なパラサイト系能力者が用いる技がしばしば『パラトロル系』と揶揄されるのはこのためだ)。

「ならば、どうして未来でなくて過去が夢に出たと言うのだ!」

 鳩々山が、質問と言うより詰問に近い口調で問うた。正面にいるクラリスは困ったように身を竦め、「それは、ルース様から説明していただいた方が……」と、子猫のような目で隣に助けを求めた。

「そうですわね」

 ルースは、飄々とした雰囲気と笑顔でそれを受け止め、前に向き直ってから言った。

「結論から申しましょう。岩田様が見たのは、本当に岩田様の未来の姿ですわ」

「……は?」

「というより、あれを岩田様の未来図にしていただきます」

「それは、どういう――」

「そのままの意味ですわ」

 ルースは、それだけ告げると、どこからともなく小さな音叉を取り出した。爪で弾くと、ピンと張り詰めた細い高音が響き渡る。

「失礼致します。お招きに預かり、参上致しました」

 襖の向こうから少年のものと思しき声が聞こえ、岩田はぎょっとした。まるで降って湧いたような唐突さだ。

「どうぞ。入って来て下さって構いませんわ」

 正座した体勢で静かに襖を開ける使用人の少年と、何事も無かったように音叉を仕舞うルースを見て、岩田はその音叉が少年を召喚する合図であったことを悟った。あんな小さな音をどうやって聞きつけて来たのだろうか。

 鳩々山が、少年の顔を見て過剰な反応を示す。

「お前は! 大広間で俺に向かって出会い頭に空間ジャンプを仕掛け、あまつさえ殺意までぶつけて来た不届き者ではないか!」

「その仕打ちは、お前が不届きだったからこその代物と思うが……」

 岩田の指摘をよそに、少年はふっと頬を緩め、自ら名を名乗った。

「その節は、どうも。僕は碓氷うすいと申します。半年ほど前から、この屋敷の使用人をしております。以後、お見知り置きを」

 碓氷はゆっくりと頭を下げ、釣られた岩田も、どうも、と会釈を返す。岩田の記憶が確かならば、先程の宴で、空間ジャンプを活用した見事な前衛舞踏を披露した少年のはずだ(その後、「お前だけいい格好するんじゃない!」とジムチから窘められ、無理矢理クルロワを飲まされて目を回していたことの方が印象に残っているが)。

「碓氷様は、今回の作戦における重要な協力者ですわ。クラリス様の弟さんであるという点と、半年前にポチをフリーズさせ、自分で展開した空間ジャンプに自分が巻き込まれて捕まるという大失態を演じた人物であるという点を押さえておいて下さいな」

「いや、後者は押さえなくていいですから。是非忘れて下さい」

 碓氷は少し困ったような顔になった。口調が早くも少し崩れているし、素地は人懐こい人間なのかもしれない。

「クラリスの弟なんだ?」

 岩田は、まじまじと碓氷を見つめた。流水のように柔らかい金髪と透き通った青い瞳は確かに共通している。何よりも、男性ながら可憐度を測定したくなるほど整った容貌が、クラリスに非常によく似ていた。どうして大広間で気付かなかったのか不思議なほどだ。

「はい。より正確に言えば、双子の弟ですね」

「双子!? それはおめでたい!」

 岩田は叫んだが、双子の存在がおめでたいという感性は、ゼン・ハルティスのファンでない人間には全く通用していないようだった。

「双子だったんですの? そこまでは知りませんでしたわ」

「言っていませんでしたっけ?」クラリスは碓氷の顔を一瞥した後、「年齢的に、わかっても良さそうなものですけど」と、続けた。

「人間、見た目で年齢を判断するのは難しいのですわ。スド人やロトジェナイ病患者は元より、キュロイ人が良い例です」

 ルースは、どうやらクラリスと碓氷が双子であったと見破れなかったのが悔しいらしく、死ぬ直前まで二五歳の外見を維持する人種の名前を挙げた。そういえば一時期、デ・Qはキュロイ人ではないかという噂がまことしやかに囁かれていた。会見を開いた本人が「そう思うのは自由だが、それは非常に虚偽っぽい」と、いまいち何が虚偽っぽいのかわからない不可解な発言で噂を否定したため、現代ツラック語文法偽造委員会に波紋をもたらしたのは周知の事実だ(それ以前にデ・Qの外見は明らかに二五歳のものではないのだから、噂が広まること自体がおかしい、と岩田は思ったものだ)。

 ……ギュルナ休題。

「結局、碓氷君はこの件にどう関わってくるんだ? つまり、俺の未来がじいさんの失われた体験記憶だって話に、どんな説明がつくわけ? ……まさか、過去にタイムスリップした俺こそがじいさん本人だ、なんていう与太じゃないだろうな?」

 仮にそうなら、岩田は自分自身の孫であるということになり、禁忌哲学で時間禁忌の第一命題とされているタイムパラドクスに抵触する。もしもこの問いかけに、「はい、そのまさかですわ」「おお、良かったな、岩田。これでお前の未来は、最低五〇年は保証されたぞ」というような展開で応えられでもしたら、『ガゼリアルの滝に打たれながら祈りの歌を熱唱する』という、国家で一番過酷な罰ゲームに自ら志願してでも、この場から逃亡するつもりだった。時間禁忌の命題に抵触することは、即ち正常な時間軸そのものから弾き出されることと同じなのだ。それは、死ぬよりも遥かにつらい。岩田はそんな憂き目に遭ってまで真実を追求したくはなかった。刺激に飢えているとはいえ、平穏な日常を放棄するつもりは無い。

 緊張の中、ファミルカミル人が毒舌ゼルガと対峙した時の様な不安げな面持ちで答えを待った岩田だったが、

「ご安心を。そういうことでは御座いませんわ。若手脚本家モドキの電映ノヴェルでもない限り、そんな絵空事は起こり得ませんもの」

 というルースの言葉に胸を撫で下ろした(勿論、安堵の表情を見せることは禁止されていないはずだよな、と確認しつつだ)。この安心を霧散させないためにも、かく言うルースが若手脚本家モドキとして生計を立てていることには触れない方が良いだろう。

「じゃあ、一体どういうことなんだい?」

「……そもそも、禁術ではタイムスリップが出来ないとされている一番の理由をご存知ですか?」

 質問に質問が返って来た。岩田は戸惑う。

 そりゃあ、タイムパラドクスが起こるからじゃないのか? と思ったが、時間の移動とタイムパラドクスは直結しているわけではない。タイムパラドクスを起こさなければ時間軸移動が出来るという話も聞いたことがなかったので、どうやら違うようだ。

 岩田が黙っていると、鳩々山が当然のように解答を出した。

「禁術におけるエナジー資本、つまりフォースが、時間流そのものだからではないのか? 時間流のエナジーを用いて時間を操るのは極めて効率が悪く、禁術では時間を逆流させるに足る資本が集められないとする説が有力だな。電力で発電を続けようとしてもすぐに枯渇するのと同じ原理だ」

 そうか。『禁術における時間流体解釈』だ。岩田は得心する。

 禁術を使う者の中にも知らない者が多いが、禁術は根源的に『時間』を核とした共通法則に従っているはずだ、とする説がある。これは、コントロール系能力を確立した人物として名高い、『大きな小人』デシリーリバンティー・J・オースが提唱し、帰納的に公式まで編み出したが、証明に至らず公表を挫折した幻の理論だ(なので、『理論』でなく『解釈』と呼ばれる)。オースの公式は、禁術で実現可能な現象と不可能な現象の線引きがかなり正確に行えることから、禁術研究者の間では現在でも便宜的に常用されている。しかし、時間の流れを流体と仮定して物理量を与えるやり方には抵抗も多く、さらには、未だに物議を醸している『ペネトレーション系による光速度突破現象』が明らかに時間流体解釈と矛盾するなど、妥当性を疑う声も上がっているようだ(松暗坂太夫が提唱する『虚無の力場解釈』が近年になって脚光を浴びたこともあり、数年内には革命的な理論が確立するかもしれない。この辺りの詳しい事情については、国家禁術研究センター六番街に行って自力で調べていただきたい)。

 鳩々山は、証明されていない一解釈を当然の事実であるように堂々と語り、あくまで毅然とした態度を崩さなかった。

 ルースも満足そうに頷いている。

「そうですわね。それは勿論、禁術資本を巡る一つの仮説に過ぎませんが、時間移動の不可能性は実に見事に説明していると思います。私が調べた一万以上の禁術解釈の中で、時間との関連を語る最も妥当な代物でしたわ」

 一万以上の禁術解釈など、いつの間に調べたのだろう。ルースを除く四人は、皆一様に、何とも言えない表情になった。

「しかし結局のところ、オースの仮説も含め、全ての解釈は禁術の物理的な側面に捕らわれ過ぎている、と言わざるを得ませんわね。必然的に、時間軸移動についても的を外したものとなるのは否めません。時間と物体の相関でなく、概念の総体を探究すべきなのです。……尤も、形而上物理学では時間流と禁術の総合アプローチなど行われませんし、サジ概念論と禁忌哲学の学際領域にあるこの題目が取りこぼされるのも無理からぬことですわ」

 ルースの話の主題が全くわからなくなって、岩田は思わずクラリスと碓氷の姉弟に助けを求めた。二人はルースの講義に真剣に耳を傾けていたが、碓氷の方が岩田の必死な視線に気付いて、「禁術による、物理的なタイムスリップは実質的に不可能です。それならいっそ発想を変えて、時間移動を物理物体に対してでなく、より概念的な領域で行おうって話ですよ」と、小声で解説してくれた。

 そこまではかろうじて意味がわかった。しかし、

「形而上物理学的に『時間』を再定義すると、『流れ』というただ一種の概念係数が急激に減滅し、換言による表現の自由度も大きく奪われます。それを逆手にとって、ジュバケンの多重振動方程式を解いて与えられるレイホルト定数Lと、形而上化学的によく吟味された標準状態の架空気相が任意の形而上物理物体を取り囲む際の融和度фを用いて、形而上物理学的な時刻の連続性を現す関係式を立てられます。この式を独自に考案したのが、あのジェシー・ハルオキルでしたが――」

 などと、さらに詳細な部分に話が及ぶに至り、岩田は理解することをやめた。ルースの薀蓄に付き合っていては身がもたない。

「――形而上物理学的な時間へのアプローチはあらゆる研究学派から無意味なものと見なされてネグレクトされ、特にヒビッ党が――」

「――ハルオキルがソトルザンに連れ去られて行方不明になるに至ると、信奉者達までその煽りを食って沈黙してしまい、完全に――」

「――さらに、ここからが肝心ですが、離魂状態と俗に呼ばれる、『精神乖離及び魂魄喪失に由来する突発性心停止』の状態に陥った場合、形而上物理的に安定な精神存在である『魂』はфの値が――」

 …………。

 ゆっくりした口調ながら淀みなくさらさらと難解な解説を続ける従姉妹、さらには当然のようにその解説に付いて行く不敵な親友や双子の元・暗殺者に、岩田は尊敬の念を禁じ得ない。自分の周囲にいる人間達は国家レベルで見てもかなり博識度が高いのではないか、と今更ながらに思い知った。

 しばらくの間、完全に物語の本流から脱落して茫然自失の態にあった岩田だが、

「つまり、肉体から乖離した魂は、時間流という概念そのものとの関連性が極めて弱い、ということだな?」

 という鳩々山の一言で我に返った。

「ええ。そういうことです。おそらく間違いないと思いますわ」

 ルースが頷くと、鳩々山は目を閉じて何かを思案した後、「で、それが岩田の夢の話とどう関係してくるんだ?」と、そういえばそれが本題だったことすら忘れていた岩田の代わりに訊いてくれた。

 岩田の周囲では何故か、本人を差し置いて勝手に状況が進んでしまうことが多い。楽と言えば楽だが、果たしてこのままでいいのかどうか、岩田は常に自問して来た。いや、既に答えは出ていた。……甘えを捨て、独立独歩独逸を目指すべきなのだ。岩田はゼン・ハルティスの名にかけて、その実現を誓う。

「わかりませんか? 岩田様を離魂状態にして、その魂を過去のおじい様の体内へ送り込むのですわ」

 呑気に誓いなど立てている場合ではなかった。

「な、な、な、なんだって!?」

 驚きのあまり、岩田はまるでテレヴィジョンドラマか舞台歌劇のように大袈裟な声を上げた。直前のルースの発言にはそれだけの価値があるだろうから、サミ協会のスカウトの目が光るということはなさそうだったが。

「あ、ご安心を。別に、一生そのままと言うわけではありませんの。ほんの数時間だけですわ」

 ルースが穏やかにフォローしたが、岩田の驚いた理由は全く別だったので、開いた口は結局塞がらなかった。

「……そんなとんでもないことが、可能なのか?」

 ようやく搾り出された一言に、

「岩田様の見た夢は、お話に聞く限り、おじい様の視点を通じて過去を追体験しただけで、基本的に体の制御権を持たず、静観していただけのようでしたわ。そもそもそのせいで誰かの体験記憶を見ていたと誤認したわけですが、魂だけが他人の中に入ってもそれと同様の効果を示すことは、既に証明済みですの。……何より、それが岩田様の未来図なのですから、出来るに決まっておりますわ」

 ルースは、いかにもルースらしい根拠で断言した。

「いや、そういうことじゃなくて――」

「大丈夫ですよ、岩田さん」

 碓氷が気楽そうに言う。

「お客様なのですから、岩田様、ときちんとお呼びしなさい」

 クラリスの尤もな指摘をよそに、碓氷は人好きのしそうな笑みを浮かべた。その笑い方はどこか、松永ヒロ江を髣髴とさせた。

「ルースさんは、ちゃんとその方法論も考えてありますよ」

「当然ですわ。それを実践する上での協力者が碓氷様なのですから」

 ルースがしれっと口にする。だったら最初からそう説明してくれ、と岩田はげんなりした。溜息を吐きたくてたまらない。

 ともかく、ルースは最も肝心な作戦の説明を始めた。

「まず、セパレーション系のソウルセパレーション(魂と肉体を切り離す能力)で岩田様を離魂状態にします。術者がそれなりの技能を持っていて、対象が抵抗を一切しなければ、無骨獅子の肢を捻るより簡単な作業ですわ」

「離魂状態に陥ったまま放っておくと、三分ほどで肉体が死んでしまうけど、それは大丈夫なのか?」

 魂魄の剥離によって心臓が停止するのだから当然である。

 離魂状態の特徴は、肉体が完全に死を迎えるまでの数分の間に魂が帰還すれば、何の後遺症も残さずに蘇生出来るという点である。これは、現段階で細胞死を逆行させる数少ない方法の一つであるが、肉体が完全に死んでしまえば対処のしようは無い。その時に帰って来られなかった魂はいわゆる国家公認霊になり、残された肉体は普通の遺体と同じ扱いを受けることになる。

「確かに、放っておけば大惨事になりますが、肉体をフリーズさせてしまえば、問題はありませんわ。禁術効果が続く限り、細胞死を防げますもの。この延命措置は救命救急隊で実際に行われているものですし、有効性はマルガリータ縁先生のお墨付きですわ」

 岩田は、マルガリータ縁のお墨付きよりもルースの発言であることに重きを置いて、それを信じた。ルースは、ユルトルバルザッティ8に刺されて以来、救命救急隊による救急救命法に精通している。

 救命救急隊による離魂状態への対策はバロス砲の一斉射撃だと思っている者が多いようだが、それは全く違う。

 肉体に何らかの異常が現れる際には、必ず引き金となる事象がある。バロス砲は、その引き金が引かれてから実際に異常が発現するまでのタイムラグを利用し、引き金となった事象の意味そのものを崩壊させ、結果として肉体での異常の発現を防いでいるに過ぎない。つまり、正確には『未然の対策』なのである。

 人間を離魂状態に陥らせる引き金現象として、ソウルセパレーションやユルトルバルザッティ系の持つ魔毒『カリオネルクロイツ』などが挙げられるが、そのいずれにしても、現象が起こってから実際に離魂するまでに、実はかなりのタイムラグがある。必然的に、要救助者が離魂状態に陥る前にバロス砲の準備が間に合うことが多いため、「離魂状態にはバロス砲」という勝手な思い込みが広まってしまったのだ。

 極端な話、心臓を超長剣が貫通してから絶命するまでの僅かな間にバロス砲の一斉射撃が間に合えば、一命を取り留めることすら可能だ。離魂とバロス砲の間に、直接の繋がりはない。

 ちなみに、意味を崩壊させた現象の重要度が高ければ高いほど、バロス砲の残響による副作用は酷くなるので、死の原因となる事象をバロス砲で取り去るのはお勧め出来ない。下手をすると副作用の効果の方で命を落とす危険性があり、そうなると救命に失敗しているにも拘らず、遺族にはバロス砲の射撃代金(五千ニャト也)がしっかり請求されるからだ。……これはいただけない。

 つまるところ、バロス砲は離魂状態の阻止に使われている手法であり、既に離魂してしまった者に対してはさすがの救命救急隊も打つ手は無い。せめて肉体をフリーズさせて時間を稼ぎ、魂が体に戻るのを気長に待ったり、強制的に戻したり、いっそ殺してしまったり、そんな手段を取らざるを得ないわけだ。

「離魂状態に陥った人の体験談を聞く限り、魂は、自分が一体何者であるのか全くわからなくなっているらしいですわ。完全な忘我状態というわけです。そこから徐々に自分を取り戻して行くらしいのですが、外部から何の干渉も無ければ、自身が何処の某であると正確に把握するまで、最低でも一時間近くかかるそうですの」

 魂の意識がはっきりしているのであれば、離魂状態は人間にとってさほどの脅威ではなかっただろう(肉体の束縛から逃れて数分間楽しく宙を漂った後、死なない内に体に戻れば良いのだ)。恐ろしいのは、致命的な意識の混乱があり、前後不覚に陥るからなのである。

「ちなみにその一時間は、魂にとって一週間ほどに感じられたりもするそうですし、魂と時間との繋がりが薄いというのはここからも推測出来ますわね」

「……俺は、そんなに長い間、意識の混乱なんて味わいたくないぞ」

 岩田は不平を言った。ただでさえ肉体を死の危機に晒すというのに、精神的にまで責め苦を味わうのでは、たまったものではない。

「それも大丈夫ですわ。碓氷様は、フィーリング系もほぼ達人級だそうですわ。難易度九超のエクストラセンサリー・パーセプションを使って、魂の位置を把握するくらい容易いそうですの。岩田様が離魂したらすぐに魂を見つけ出して、マインドコントロールで強制的に自我を覚醒させる予定ですわ」

 随分手荒なやり方だな、と岩田は思った。

 エクストラセンサリー・パーセプション。これは、超感覚的知覚、つまり五感に属さない形而上的な把握力を、極めて高水準に発現させる能力だ。テレヴィジョンによく出てくる霊能系芸能人の牧野譲は、この禁術を八六時中発動させたまま消すことが出来ない先天的体質で、あらゆる場所に彷徨っている魂を常に認識しながら生きているという。悪玉魂(悪霊とも言う)に付き纏われるのは大変だろうが、いわゆるマロフの知らせという奴のおかげで事件や事故に全く遭遇しないという利点もある。

「そして、ここからが肝要ですわ。肉体の方をフリーズさせて、岩田様の魂が自我を取り戻しましたら、準備は万端。いよいよ時間軸を飛んでいただきますが、それには、空間ジャンプを使おうと思っております」

「空間ジャンプだと?」

 鳩々山が、意外そうな顔をした。

「ええ。それ程難しい話ではありませんの。ジャンプ系の空間ジャンプを用いると、対象はどこにジャンプさせられるにしろ、必ず擬似空間を通ります。碓氷様は、敢えてジャンプを不完全展開させて、擬似空間に相手を閉じ込めるという技もお持ちのようですが――」

「余計なことはいいです」少し頬を赤くしながら、碓氷。

「ともかく、ジャンプの際に、擬似空間という緩衝剤を挟むことで、『物体が一瞬の内に別の場所に移動する』という、本来あり得ない物理現象の虚構度を緩和しているのですわ。……無から有を創り出す万能性を持つハティオークにおいて、その創出物を使用出来る者に制限がかけられているのと同様に、空間ジャンプは『擬似空間を介さざるを得ない』という制限が設けられているわけですわね」

 禁術の本質は、結局他愛の無いものだ。要は、

『瞬間移動なんて物理的にありえないけど、二点間を擬似空間という名の謎の空間で繋いで移動したというのなら、十分あり得る』

 という理解で良い。禁術は現実化に最も効率的な概念を採択する性質を持つから、通常の物理法則と折り合いをつけながらなおかつ空間ジャンプの能力を有効に使うには、『擬似空間を活用しての移動』という概念を利用するのが最も適確だったのだろう。例えば、

『空間を歪めて、二点間の距離を限りなく零に近くして移動する』

 というような概念では、虚構度を緩和する力が弱く、術者への負担がかなり大きくなるため、現実化には至らないのだ。

 ただ、このような安直な禁術理解に対する強烈な反立が、二代前のニュゼゼルドが提唱した『妥協論』である。禁術を「人間の理想を現実に変える上での最も醜い妥協の姿に過ぎない」と喝破し、禁術理念を解釈する数多くの研究についても「単なる堕落の正当化である」と、痛烈に批判した。当人が大事な学会でイミテーション系を使ったデ・Qの物真似さえしなければ今でも充分通用していた警句であるだけに、非常に残念である。

「逆に考えれば、その擬似空間さえ介せば空間ジャンプは出来てしまうわけですから、擬似空間には『現実の空間との繋がりが非常に希薄である』という特徴が存在することになりますわ。実際の物理空間で不可能な移動を可能にするためには、どうしても形而上的な性質を仮託せねばなりませんもの」

「その特徴は、まず間違いないでしょうね。何しろ、現実空間との関連度が低いからこそ、擬似空間に相手を閉じ込めるという僕の技がまともに機能するわけですから。空間の境界面で音波や光波が完全に遮断されるところも、何度か確認しています」

「なるほど、わかったぞ!」

 鳩々山が、『カルトでポン』の解答者のような口調で、突然叫ぶように言った。常連解答者のデ・Qと同じように、不正解でなくても、上から金盥や一斗缶や針ゼルガが落ちて来て欲しいところだ。

「時間との繋がりが希薄な魂を、空間との繋がりが希薄な擬似空間を介してジャンプさせることで、空間移動的に時間移動をさせるつもりだな。ハルオキルの『代替法』の発展応用か!」

「その通りですわ」

 針ゼルガは残念ながら降って来なかった。

「言ってみれば、全力ハティオークモドキ、というところですわ。空間と時間と、その両方の概念が希薄になった状況からのジャンプを行えば、『空間概念の喪失分を時間概念の喪失分で間に合わせる』ことで、現実世界の時系列を自在にジャンプすることが出来るはずなのですわ。さらに言えば、術者が対象の座標を認識し続けてさえいれば、通常の空間ジャンプまで組み合わせて使用出来ますわ。つまり、私達の認識の範囲内では、この世界に魂を送り込めない場所など皆無なのですわ!」

 岩田は、信じられない思いで感想を口にした。

「それが本当なら、大発見じゃないか! どこかに、瑕疵は無いのかい?」

「理論的には、全く問題は無いと思いますの」

「待て。肝心のマオウハントの日付や場所がわからないのであれば、魂を送り込むことなど出来んぞ」

「ご心配には及びませんわ。移動先の時空間座標に関しましては、既にクラリス様に調べておいていただきました」

 ルースが目線だけで、クラリスに説明を促す。

「あ、はい、その通りです。その、ドリームリーディングで読み込んだ岩田様の夢をリリード(リーディング系で読んだ内容は自動的に脳内に保存されており、それを呼び出してもう一度読むこと)しまして、その上でコーディネートリーディング(対象の座標を読み取る能力)によって、岩田様の夢の中にいるマオウハント当時の師匠の座標をほぼ完璧に確認しました」

 彼女はちらちらと申し訳なさそうに岩田に視線をやりつつ、少し小さな声で答えた。

「ん? でも、俺が見た強制夢は、基本的に俺の未来像なんだろう? コーディネートリーディングで読める座標は、俺の体感時刻、つまり未来の時間帯ということにならないかい?」

「話をよく聞いて下さいな。クラリス様は、岩田様の座標ではなく、の座標を確認したのですわ。岩田様の魂はおじい様の体の中に仮住まいしてはいましたが、当時のおじい様の人間存在に全く影響を与えておりません。独立する二者として対象が規定出来ますから、別個に座標を確認出来るのですわ。座標さえ判明すれば、魂をそこへ寸分の狂いも無く放り込むことは容易ですわ。何しろ、碓氷様は空間ジャンプを最も得意としておりますから。勿論、その後シンクロコントロールで、岩田様の魂をおじい様の肉体と、一時的に同調させることも出来ますわね?」

「はい。コントロール系には、マインドコントロールを筆頭に精神存在を扱う術式も多いので、魂を対象とした能力の行使も全く問題無いでしょう。一方、ジャンプ系は本来物理方面に特化した能力なので、精神存在を単体で扱うには向いていませんが、最初に擬似空間にさえ放り込めれば、後はこっちのものです。擬似空間は、僕の独擅場ですから」

 碓氷は、自身ありげに保証した。

「さらに言えば、行きが大丈夫なら、帰りも全くチェチェルキーです。岩田さんの魂は、僕が常にコーディネートチェッキング(前もって登録しておいた対象の座標情報を把握する能力)で見張っておきますし、マインドリーディングを軽度に発現させておきますから、『戻してくれ』と心で考えれば、すぐにシンクロコントロールを解いて空間ジャンプさせますよ。また、万が一の時――例えば、離魂した肉体のフリーズが解けて来た場合とか――も、強制ジャンプで無理矢理連れ戻します。全く危険性はありません」

「ちなみに、どのくらいの時間、岩田様のフリーズを維持していられますの?」

「自慢じゃないですが、やろうと思えば半永久的に。水性のサトティティラークを適量直接投与すれば、寝ている間もフリーズ系を展開し続けられますから」

「おいおい。下手すればニヴァンジ・ドルイ死するぞ」

「ご安心を。サトティティラーク抜きでも不眠不休で五日は維持出来ます。昔一度、試したことがありますから」

 暗殺業界にいた経歴は伊達ではない、ということだろう。

「さて、作戦の全容は以上です。どこか問題はありますか、岩田様? 一応、機先を制して申しておきますが、この期に及んでマオウハントの謎を解く覚悟が決まってない、なんて無しですわよ。……今度は、関節を極めるくらいでは許しませんわ」

 ルースが最後にぞっとするほど澄んだ声で告げた。

 岩田はその瞬間に、自ら離魂状態に陥る覚悟を決めた。作戦自体に特に不備があるように思えなかった(岩田がぱっと気付くような問題点のある計画をルースが堂々と披露したのだとしたら、そのこと自体が一番の問題である)ので、表立って反論する理由など見付からなかったのだ。恐ろしくないと言えば嘘になるが、マオウハントの続きがようやくわかるのかと思うと、楽しみでもあった。

 ふと岩田は、唯一気になったことを、何気なしに呟いた。

「俺達は、未来図を強制夢で見たからこそ、こうやって魂だけ過去に飛ばそうとしてるわけだよな? でも逆に言えば、魂を過去に飛ばせるからこそ、その過去が未来図となって強制夢に現れるんだろ? ……一体、現象としてはどっちが先なんだ?」

 するとルースは、何が嬉しいのか、これでもかと言うほどの満面の笑みを咲かせた。岩田はルースのその表情が一番好きだが、他の人間にはいつもと同じ顔に見えるらしい。

 ともかく、顔を綻ばせたルースは言った。

「私も、それがとても気になっておりましたの! ですから、先程申したんですのよ。『赤が先かゼルガが先か、それが気になるところではありますが』と」

 そういえば、祖父の部屋を出る直前に、そんなことを呟いていた気もする。だとするとルースは、その時点で犯人類を看破していただけでなく、既にこのような計画まで思い付いていたというのか。真に天晴れな感性である。

「私にも、この問題の答えはわかりません。おそらく、人間に託された永遠の課題なのですわ」

 相変わらずの微笑に戻りながら(そういえば、さっきの満面の笑みの理由は何だ?)、ルースは悟り切ったように言った。

「よし! ここで一つ、提案がある」

 鳩々山が、突如立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自前の超長剣を取りに行った。

「何ですの? お歌なら却下ですわ」

 機先を制すようにルースが言ったが、鳩々山の提案はそれより遥かに度を越えたものだった。

「俺も離魂させて、その場にいたというじじいの中に送ってくれ」

「……言いたいことはわかった。ただ、話しながら何気ない風を装いつつ俺の首筋に剣先を当てるのは、人質にしてるつもりなのか、物の弾みの偶然なのか、どっちだ、おい」

 喉元をひくつかせて呻く岩田をよそに、「何故突然そんなことを?」とルースが平然と問い返した。

「せっかくの機会だ。マオウの正体を直に知りたいじゃないか」

 なるほど。確かに一理あった。鳩々山にしてみれば、岩田の魂が過去に行き、マオウハントの続きを体験して真相を知り、帰って来てからその話を聞くというのは、我慢ならないのかもしれない。

 ルースはしばらく考える素振りを見せた(ルースの先の質問意図が本当は、「何故突然岩田様の首筋に超長剣を当てるんですの?」のつもりだったから、鳩々山の返答に戸惑っているに違いない、と岩田は実に残念な妄想を抱いた)。そして結局、

「碓氷様、過去に飛ばす魂が二つになっても大丈夫ですか?」

 と、実際に作業を担当する少年に尋ねる。

 碓氷の方は、おそらく鳩々山が無茶を言い出した時点でその実現可能性を考えていたのだろう。即答して来た。

「まあ、座標さえわかれば、行きは問題ないと思いますよ。一つでも二つでもジャンプさせる分には同じことです。シンクロコントロールも大丈夫です。ただ、コーディネートチェッキングとマインドリーディングとフリーズを随時二人分維持しながらことを進める、と考えるとかなり気が重くなりますね。魂が相手ということで、エクストラセンサリー・パーセプションの常時発動が基本になるかもしれませんし。帰るタイミングは岩田さんに完全に合わせるということで、マインドリーディングやコーディネートチェッキングを鳩々山さんには行わないというのも手ですが、万が一の時に危険が――」

「そ、それなら、わたしが手伝います」

 クラリスが小さな声で、しかしはっきりと主張した。

「肝心のジャンプさえ碓氷がやってくれれば、後はわたしと碓氷、それぞれで一人ずつ担当出来ます。問題は、無いです」

「あれ? ……クラリス、チェッキング系とリーディング系の並列発動なんて出来たっけ?」

 さすがに双子の姉となると名前を呼び捨てにするらしく、碓氷が小声でそんな風に尋ねた。

「出来るわよ。もう、あの頃のわたしとは違うんだから」

 敬語を捨てて弟に答えてから、クラリスはルースの方を向いた。

「とにかく、そういうことですから、鳩々山様の突然の我儘にも柔軟に対応出来ますよ」

 少なからぬ毒を感じさせる言い回しで彼女がそう言うと、ルースはいつもの表情で自然にこう告げた。

「では、お手数ですが、もう一度岩田様の夢をリリードして、鳩々山様のおじい様の座標と、を調べて下さいな」

 全員が、はっとするようにルースの顔を見た。ルースは、飄々と応える。

「私の突然の我儘にも柔軟に対応していただけることを、切に願っておりますわ。何しろ、しね」

 ルースが、何やら意味ありげな言い回しでくすりと笑った。鳩々山の超長剣の切っ先がぶれて、岩田の喉首を薄皮一枚切り裂く。珍しく、鳩々山が動揺しているらしい。キリニャーグ室から出る時のセリフがルースにも漏れ聞こえていたのだとしたら、確かにこれ以上恥ずかしいことは無い。表面上は顔色一つ変えない不敵な親友を横目にして、岩田はヨーミルが歩いた。

 碓氷は、やれやれという顔をして、早速三人を離魂させる段取りを考え始めている。

「ルースさんも参加するとしたら、やっぱりもう一人協力者が必要ですかね。対象が三人なら、付きっ切りの術者も同じ数いた方が安心でしょうし」

「そうですわね。……風虎様にでも頼みますか」

「とんでもない。風虎さんは、こんな危険事に客人を巻き込むのに絶対良い顔しません。中止を要請されるのがオチですよ」

「だとしたら、他に誰がいる? 使用人を誘えば、多かれ少なかれ、皆、反対して来るように思うんだけど。じいさん達を呼んでも似たようなことになるだろうし」

「あ、あの、一人、心当たりがあります、わたし」

「どなたですの?」

「……駿河です」

「ああ、なるほど……。確かに、客人である俺達がどれだけ危険な目に遭っても問題視しない唯一の使用人だろうな」

「それに、その、彼はああ見えて禁術技能は器用なんで、一通り何でもこなせると思います」

「駿河……ですか。出来れば遠慮願いたいところですが……、まあ、仕方ありませんわね」

 ルースは、自ら飛び込みで参加したいと言った手前遠慮しているのか、案外簡単に引き下がった。一方で、碓氷が眉根を寄せている。

「問題は、あの人が、離魂したお三方にここぞとばかりに危害を加えたりしないか、ってことですね……」

「大丈夫、わたしが説得します。あるいは、殺してでも止めます」

 クラリスの物騒な発言を苦笑と共に聞き流しながら、

「とりあえず、そろそろ剣を引っ込めてくれないか? 鳩々山」

岩田は再度、呻いた。

「……俺の首が飛んだら、今度は弁償くらいじゃ効かないぜ?」

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