第三章 増大する情報の錯綜・推論に耽溺するルース・沈む岩田

「ど……、どういうことですか? 師匠、厳密な意味での時間軸移動は、禁術では不可能なのではなかったんですか?」

 クラリスが、信じられないという表情のまま、どうにか口を開く。ルースも、未だに衝撃覚めやらぬ茫然自失の態だ。岩田にしても、自らが古代から来たと真顔で吹聴する人間が実の祖父でなかったら、ポティルトの館に送り込んでいたところだ。

「確かに、不可能だ。ワシにもそんな芸当は出来ん」

「だったら、なぜ……?」

「うーむ。これはワシの書き替えられた記憶だから全く信用は出来ないが、マオウハントが終わり、四二匹のマオウが集まると、中空に燦然と輝く幻想的な回廊が現れたのだ。ワシらは、それこそがワインディングスターロードだと確信した。警戒しながらその中を通り抜けると、いつの間にかワシらは、見たことのないような世界に辿り着いた……。その世界こそが、今から五三年前のこの国だった、というわけだ」

「つまり、ワインディングスターロードとはタイムトンネルのことなのか!」

「違うと思いますわ」岩田の興奮を、祖母がさらりと否定した。「何しろ、私達は記憶を完全に書き替えられていますもの。そんな重要な部分だけが真実のままというのでは、いかにも不自然ですわ」

 言われてみれば、岩田の夢に出て来たマオウの今にも世界が崩壊しそうな剣呑な様子と、『ワインディングスターロードとはタイムトンネルのことでした』という穏和な真相は、全く噛み合っていない。マオウという謎の存在が時間軸移動の極意を守護していたなんて、電映ノヴェルの設定にでも流用すればヒットしそうだが。

「古代にいたという記憶そのものが、後から書き替えられたものなんじゃないか?」

「それは無かろう。マオウハント以前の、一万八千年前の世界で暮らしていた記憶は、ぼんやり――つまり失忘せずに――残っておる。ワシらが古代にいたことは間違いないし、時間の超越にマオウハントが関わっていることも間違いない」

「……では、何者かが師匠の記憶を改竄した目的は、時間超越方法の隠蔽だったとも考えられますね」

「いや、だとすると、ウッディーとヨーマという二人の人間存在を記憶の中から掻き消した意味がわからないぜ? それに、時間の超越法を隠すくらいなら、古代で生まれ育った記憶を消して、超越の事実自体を隠すんじゃないか?」

「それは、そうですが……」

「ちょっと、お二人とも、話がマオウ談義に戻っていますわ。『日本語』についてのお話はどうなったんですの?」

 紛糾しつつあった議論をばっさりと切り捨てるように、ルースが言った。岩田とクラリスは渋々引き下がり、発言を祖父に委ねる。

「なに、簡単な話さ。一万八千年前、この国は日本と呼ばれる平和な国だったのだよ」

 祖父は懐かしそうに目を細めた。それを見た岩田は、複雑な思いに駆られる。

 一万八千年。

 あまりに途方もない年月で正直ピンと来なかった。そんな大規模な時間軸移動に巻き込まれれば、世界との接点を完全なまでに失ってしまったはずだ。岩田にはその中で確固たる自我を維持出来る自信は無かった。

「当時は、自国のことなど大して好きではなかったな。頭の悪い奴が政界のトップに立つ決まりでもあるのかと思うほど妙な奴が国を治めていたし、その首はすぐにすげ替えられる。豊かな国だと言われていた一方、家の無い貧しい暮らしを余儀なくされる者もいたし、安全な国だと言われていた一方で、事故や悪質な犯罪が跋扈する。そんな二面性を持った国だった」

 祖父の説明がひどく漠然としているためか、現在のこの国とかけ離れ過ぎているためか、岩田にはその『日本』という国の様子が全く想像出来なかった。

「今とは違って、当時の国家は奇妙なくらいよその国と関わりを持ちたがった。国際化、と言うんだがね。日本もその例外ではなく、ワシらが子供の頃から、殆どの物資を輸入――他の国から買い取ることだ――で賄っていたし、日本語という立派な言語がありながら、英語という国際共通語――つまるところ、どんな国でも通じる言葉という意味だ――を覚えることにやけに熱心だった。尤も、ワシはそれに反抗して、ギリシャ語というマイナーな言語を学んだがね。現代ツラック語の中にも、英語等、諸外国の言葉の影響を受けた単語は数多く残っているよ」

 祖父は、幾つか例を挙げた(ガファザ教の経典『プロヴィデンス』が『神の摂理』という意味の英単語だと聞いて岩田は失笑した)。

「まあ、こっちの時代に来た時、国民に日本語が通じたのは大いに助かった。こっちの決まりごとがわからなくて、ソトルザンや警察モドキに何度も捕まったが、言い訳が出来たおかげで十罰も受けず、磔刑にもならずに済んだからな」

「言い訳?」

「『私達はバショゼ人の集団です』と言えば、大抵のことは許されたのですわ」

 祖父と祖母は当時のことを思い出したのか、顔を見合わせて笑った。捜査官に人種識別能力の保持が義務付けられたのはここ二〇年のことだ。それ以前なら、相手がバショゼ人だと自称するだけで仕返しを恐れて何も出来ない腰抜けの捜査官も多かったことだろう。

「一万八千年前の日本と比べて異なっていたのは、勿論法律だけではない。風俗の変化や組織の細分化と複雑化、画期的な発明品の流通や見覚えの無い動物種の誕生……枚挙に暇がないわい。ただ、その中でもワシらを心底驚かせたのは、禁術の発展だな。何せワシらの時代には、そんなもの概念から存在していなかったのだから」

 岩田は耳を疑った。

「当時は禁術が無かっただって? 俺の見た夢の中で、ばあさんは座フロウしてたし、鳩々山のじいさんだって魔方陣が書いてある札を持ってたぞ。あれは陣術の媒体じゃないのか?」

 これは、禁術の概念が無かったとする祖父の話と矛盾する。

「もしかして、岩田様の夢の中にも偽りの内容が混ざり込んでいたということではありませんか?」

 ルースが、これまでの議論を根底からぶち壊すような身も蓋もない仮説をさらりと引っ張り出したので、祖父は困ったような顔をした。どう説明して良いものかわからない、といった様子だ。

「いや、違うのだ。確かに当時から、ばあさんや鳩々山は今で言う特化技能的禁術を使っていた。しかし、ワシはそれを……、何らかのトリックによるものだと思っていたのだ。ワシらの時代、そんなことが出来る者は、テレヴィジョンのドラマの中にしかいなかったし、稀に『超能力』と言う名前で禁術紛いのこと――と言っても、透視や軽度のサイコキネシス程度のものだ――を行う者がいたが、殆どは偽者だった。国民の五人に四人が禁術を使い、日用品の製造工程にも無くてはならない存在となった現在からは考えられんよ」

「しかし、特化技能的禁術はかなり複雑な体系だぜ。ばあさんはどうしてそんな時代から座フロウを使えたんだい?」

 岩田は後ろを向き、今も常に座布団で浮遊している祖母に尋ねた。祖母は仮面のような微笑を全く崩さず、

「……随分古いことですから、もう忘れてしまいましたわ。どなたかから伝授されたような気もしますが、技能取得の際に何があったか、全く定かではありません」と、飄々とのたまった。

「まあ、禁術の概念自体、ワシらの時代から秘密裏に存在していたのかもしれんな。一般に出回っていなかったため、ワシが知らんかっただけで……」

 その可能性は高いのではないかと、岩田は思った。

 人間一人が把握出来る事柄など、全世界から見れば、ほんのわずかなことに過ぎない。例えば岩田だって現在のこの国全体を把握しているわけではないし、仮にインフォメーション系の能力を極めてそれを完全に把握したとしても、この国の過去についてまでは網羅出来ない。万が一、本当に万が一、そこまで手を広げられたとしても、国境壁の向こうには規模すら定かでない未知の世界が広がっているのだ。国境壁外の知識を得る術など皆無であろう。

「そうそう。禁術などとは逆に、ワシらの時代にはあったのにこちらの時代では見ないという代物もあるぞ」

 祖父は、重苦しい雰囲気を察したのか、少し話題の方向を変えた。

「一番印象的だったのは、空を飛ぶ機械が無いという点だな」

 それは当然だ。何を今更、と岩田は思った。

 ヨドー国の某姫君ではないが、「空が飛びたければ飛行生物に乗れば良いじゃない」という格言の通りだ。もしも飛行のための機械が実用化されれば、国境壁(ご存知の通り、これは最も飛行に長けた生物である飛行ゼルガの限界飛行高度と同じ高さに設定されている)を越えてしまう者が相当数現れることになる。これには、コガネザンやダリ軍が黙っていまい。フライト系の能力者ですら危険視されているのだ。一般人が国境壁を超えるチャンスを得ることなど、あってはならない。逆に言えば、空中を少し浮遊する程度の乗り物ならあっても良いと思うし、コースタイニー派の政党が出資する本格企業から実際にもうすぐ発売されるはずだった。

 岩田が大体そんな意味のことを言うと、祖父は満足そうに笑った。

「まあ、そういうことだな。今の時代情勢を考えれば、飛行機械の不在は意図的なもので、致し方ないとも言える。だが、それを上回る、もっとおかしなこともあるのだ」

「何ですの? おかしなこととは?」

「宇宙開発が全く行われていないことだ」

「……ウチュウ開発?」

 岩田は首を傾げた。ウチュウは、そんなに開発の遅れた所だったろうか? 確かに自然林の多い所であるように思うが、あそこはそれを売りに観光サービス業に力を入れているのだ(その一環としてザロウロン狩り放題の区域があるが、あれは動物愛護の観点から賛否の別れるところではある)。開発が行われていないことを、それ程問題視する必要は無いのではないか。

 岩田がそんな思索を巡らせていると、祖母が心を読んだように間違いを指摘した。

「うちゅうと言っても地名ではありませんわ。私達の時代には、空の向こうにある、大気の存在しない暗黒の空間を宇宙と呼んだのですわ」

 岩田とルース、それにクラリスは、一斉にきょとんとした表情になった。まるで、生きたまま偽骨体を抜かれたカトバーレルのようである。どうにか最初に言葉を取り戻したのは岩田だった。

「ばあさん、とうとうシャグザル症候群でも発症したのかい? 空の向こう? 馬鹿なことを言うものじゃない。空の上にはゴフで出来た絶対に崩れない天井があって、そこから星が釣り下げられているんだぜ? 暗黒の空間なんてどこに入る余地があるのさ」

「ははは、岩田よ、それはお前の頭が完全に現在のこの国の思想に汚染されているだけだ。この国の天文学は全く真実を突いておらん。デジルトンと同じで、辻褄さえ合えばそれで良いという発想だからの。ワシらの時代に『天井から星が……』などと言っていたら、馬鹿にされるくらいではすまなかったぞ」

 さすがの岩田もむっとした。祖父はまだ、「大の大人が天井って……」などと、一人でくつくつ笑っている。会話の相手が鳩々山だったら、ハティオークで禍々玉でも出しているところだ。

「まあ、生まれた時からそう教えられて来たのだから仕方ないわな。だが、空には天井などありはせんよ。何しろワシらの時代には、スペースシャトルで空を越え、遥か宇宙にまで進出していたのだから」

「あら! 禁術概念が未熟な段階で、飛翔に特化した能力を独自に開発したのですね! 素敵ですわ」

「いやいや、違うぞ、ルース。スペースシャトルは乗り物の名だ。当時の科学技術の粋を凝らした逸品だよ」

 スペースは宇宙、シャトルは往復便という意味さ、英語でな、と祖父はにやりと笑う。

「……あの、師匠。宇宙への移動手段が確立したとして、大気が存在していないのに、どうして人間が生きていられるのですか? 禁術も無かったという話でしたが……」

 おずおずと切り出されたクラリスの質問は、かなり鋭く核心を突いていた。

空気の無い所(簡単な所で、水中を想定する)で人間が生き伸びるには、ハティオークで絶えず空気を創り出すか、ボディーコントロールで体内の需要酸素濃度を極限まで低下させるか、モルキュールチェンジングで何らかの原子を分子レベルで酸素に変えるか、他にもあるだろうが、おそらく普通に考えて何らかの禁術に頼る必要がある(あの凶悪な寄生植物ジャドキリュウに寄生されれば勿論光合成のおかげで酸素の心配はいらないが、意識を保っていられないので却下。葉緑素を持つ完全独立栄養のダキ人は文句なしに大丈夫だが、彼らは絶対数が少ないので一般論とは言えない)。古代人がそれをどう切り抜けたかは、実に興味深いところだった。

 祖父は、ふむ、と鼻から息を吐いて、解説を始めた。

「大気のない宇宙空間に生身で出れば、勿論死んでしまう。しかし、あの時代は、今より遥かに科学技術が進んでおったからな。スペースシャトルの内部は完全に密閉されておって、中は常時一定の気圧に保たれていた。空気の漏れ出る隙間など無かったのだ。シャトルの外で活動する時のためには、宇宙服という機密性の高い、頭から爪先まで完全に覆うようなタイプの装備もあったからの」

 ……岩田には、俄かに信じられない話だった。

 禁術が無かったということは、コーティング系の補助も無かったということだ。コーティング無しで、完全に密閉された物など作れるものだろうか? 現在の技術では少なくとも不可能だろう。二年程前、誤ってコーティングされていない大型船がジェガ海に出帆し、浸水して五分で沈没した事故は記憶に新しい(偶然乗船していたカリ松ユキヒコが非常口の扉を開けて英雄視されたあれだ)。

「ともかく、だ。ワシらの時代、地上に飽いた人々は宇宙を志向していたのだ。遥か彼方に見える星々の上に、果たして生命体が存在するのか。暗黒空間の向こうには一体何があるというのか。そもそもどうして宇宙は誕生したのか。研究対象は尽きなかった」

「他の星に生命体が存在するかどうかって謎なのか? 夢の中のヨーマは宇宙人だったんだぜ。大気の無い宇宙出身の人間がいるくらいなら、他の星出身のもいるに決まってるんじゃないか?」

「……いや、それもまた説明しにくいが、宇宙人というのは、大気の無い宇宙で生まれた人間というわけでなく、要するに他の星で生まれた人間『異星人』の総称なのだ」

「つまり結局、他の星にも人間がいたってことだろ?」

「いや、違う違う。ワシらの時代でも、宇宙人というのは伝説の一種で、今で言うフォルフォティーヌみたいな感じだったのだ」

「え? じゃあヨーマは?」

「だから、ワシはそいつのことなど全く憶えておらんのだ。何とも言えんよ。宇宙人というのが本当かどうかも含めて」

 何やら、ますます謎が増えてしまったようだ。岩田は溜息も自由に吐けないチェアルキッツェ期を心底嘆いた。

「でも、どうして国民は宇宙を目指さなくなったのでしょうか?」

 ルースが、小首を傾げて不思議そうに尋ねる。

「そう、それが見当もつかないのだ。ヨーマとやらの来訪が真実だとしたら、地球外知的生命体の実在が立証されたことになる。未知の宇宙文明との交流という新たな目的もあるし、宇宙への進出は尚更進みそうなものだ。『宇宙時代の到来』は世界的な悲願だったからの。ワシだって、漠然とした未来図として、誰でも自由に宇宙に行ける時代が来ると無邪気に信じていたものだ」

 宇宙時代。何という皮肉な言葉だろうか。祖父の生きた一万八千年前に悲願だったはずが、今では現実になるどころか、一般人には意味すら理解出来ぬものに成り果てている。

 変わってしまったのだ。この国は。いや、この世界は。

「……おじい様、今、チキュウ外知的生命体とおっしゃいましたが、もしかしてチキュウというのがこの星の名前なんですの?」

 ルースの言葉に、祖父は一瞬絶句したようだった。

「あ、ああ。そう言えば久しく聞いた覚えが無かったな。この世界を星としてのレベルで捉えること自体が無くなったせいか……。地球という単語までが死語になるのか……」祖父は虚無的な笑みを浮かべた。「ワシが思うに、この世界はどこかで、歪んでしまったのだ。宇宙を失い、発展した科学技術を失い、禁術という概念を得たその背景に、一体どんなことがあったのかは定かでないがな」

「…………」

 岩田もルースもクラリスも、何も言えなかった。

 祖父達が飛び越えてしまった一万八千年間に、この国に、この世界に、この地球に、一体何が起こったというのだろう? 一万八千年前の人間が思い描いた未来は、果たしてどこに行ってしまったのだろう?

 答えは無い。

 ただ、今があって、そこに過去から迷い込んだ三人がいて、国境壁に囲まれた国があって、禁術があって、それらを当然と思って暮らしている国民がいて、岩田もその一人で……。それだけのことだ。岩田はそう思ったが、どこか釈然としないもやもや感が胸に凝った。どうしても割り切れなかった。その理由はわかっている。

 知らないことが多過ぎるからではない。

 知りたいことが多過ぎるから、だ。

 岩田は覚悟を決めて口を開いた。無知を排し、不可知を除すために、自分から動かなければならない。

「結局の所、そもそもマオウってのは何なのさ。一万八千年前にはそう言う名前の何かがいたんじゃないのか?」

「……いや、マオウなんてものはあの時代にもいなかった。何しろマオウハント自体が完全に未知との遭遇だったからな。鳩々山が無理矢理ワシを砂漠に連れ込んで、何もわからぬまま旅が始まったという印象しかない。さらに言えば、この後ワシが覚えているマオウハントの情報は書き替えられた代物だ。ワシの憶えている情報よりも、お前の夢の話の方がまだ参考になるわ」

 岩田は溜息を吐きそうになったが、気を取り直して言い寄った。

「だったら、じいさんの時代のことをもっと詳しく教えてくれよ。そうしたら、一見関係なさそうな事柄から、何か解決の糸口が見つかるかもしれないだろ?」

「ふむ、そうだな……」

「残念ながら、これ以上は駄目ですわ」

 妥協して首を縦に振っていた岩田の祖父を、その妻が制止した。

「私達がこれまで古代人であることを隠していた理由を忘れたのですか? 必要以上の知識を与えることは、相手の身の危険を招きますわ。あなた、お兄様の奥様のことをお忘れですの?」

 他人を諌める時は、ルースでももう少し強い口調になるだろうという、神懸り的なおっとりペースで祖母はそんなことを言った。

 岩田の祖母のお兄様というのは(それが事実かどうかは別として)鳩々山の祖父のことであるから、その妻というのは鳩々山の祖母に当たるわけだ。岩田は、親友の口から祖母の話など一度も聞いたことがないのに気がついた。また、鳩々山の祖父の家に行った時も、弟子とケチュラカーンは山ほどいたが、妻の姿など見たことがない。

 そういった意味でこの祖母の発言は大いに気になるところではあったが、追及するのもひどく不粋な気がした。ルースの方でも似たような葛藤があったのか、彼女が一度口を開きかけて結局閉じたのを、岩田は見逃さなかった。

 一方で祖父は、妻の苦言に早くも旗色を悪くしている。

「う……む。いや、確かに、リザさんのことを忘れたわけではない……。忘れたわけではないが、しかし――」

「よろしいですか? よろしい、よろしいですか?」おそらくマルガリータ縁の物真似と思われる導入で、祖母が祖父の発言を遮った。「私達の記憶の改竄や、世界の歪みは、別に今になって始まったことではありませんわ。私達は、ただ気付くのが遅過ぎたのです。その結果として数多くの謎が残されましたが、それは、可愛い――かどうかは別として――実の孫達に今更危険を背負わせてまで解明すべきことではありません。筋違いも甚だしいですわ」

 どこかで聞いたような論調だった。岩田は不意に、マシュゾットに襲われて山小屋に逃げ込んだ時にルースの展開した意見を思い出した。……はっきりと、似ていた。ルースが祖母にそっくりだと言われる所以は、このようなところにあるのかもしれない。

 おそらくこれで祖父は我を通すことを諦めるだろう、と岩田が思った瞬間に、大方予想通りのことが起こった。

「……そうかもしれんな……。ばあさんの言う通りだ。これは、純粋にワシらの問題なのかもしれん。一万八千年の時を越えて、とんだ宿題を持って来てしまったものだ」

 祖父は、呻くようにそう言って立ち上がってしまった。話を切り上げるつもりなのはウォウォン人を見るより明らかだった。

「岩田、ルース、今日はせっかくだから泊まっていきなさい。クラリス、二人の部屋の用意を頼む」

 かしこまりました、とクラリスが小さく頭を下げるのを殆ど確認もせずに、祖父は扉を開けて外に出て行った(この部屋は祖父の部屋と呼ばれているが、実質的な応接間に過ぎず、祖父は普段禁術研究用の地下室に篭っている)。

 岩田の中でやりきれない気分が増していく。

「では、私もそろそろ部屋に戻ります。皆様に申し添えておきますが、私達の時代のことは他言しない方が身のためですわよ」祖母は少し間を置く。「クラリス、後のことはよろしくお願いしますわ」

 わずかに目を伏せるクラリス。それではごきげんよう、と言い残し、祖母は座布団で空中を滑り、扉と逆方向に進んだ。何故か不気味に開いていた天井の暗黒穴に吸いこまれるように、彼女は姿を消した。暗黒穴もゆっくり萎んで小さくなり、やがて見えなくなった。

 部屋には、岩田、ルース、クラリスという若い三人が残された。

「どうしたら良いんだ……?」

 岩田がポツリと呟く。ルースはノルクワイェで僅かに唇を湿らせ、慎重に話し始めた。

「あまりにも大きな謎ですし、一度で私達の手に負えるものではありません。小さなことから一つずつこつこつと向き合いませんと……。千里の道もガンデデガンデ人なら一歩、ですわ」

「それは全く逆の意味の諺だけど」

「あら、そうですの。ともかく、謎を切り崩すべき最初の一手は既に考えてありますわ」

「え、本当かい? じいさん達が古代人だったってことは、仮説が振り出しに戻ったも同然だぜ? ヨーマやウッディーはもう生きていないだろうし、古代の記憶を持った他の何者かが屋敷にいるなんてこともあり得るとは思えない。一体どうしようって言うんだい?」

「クラリス様」

 岩田の長口上を無視する形で、ルースは、使用人仲間に宿泊部屋の用意が必要なことを影話で連絡していた少女の名を呼んだ。二、三のてきぱきとしたやり取りの後、クラリスは振り返る。

「あ……、お待たせしました。何でしょうか?」

「現在この屋敷で働いている使用人の中に、ドリーミング系の能力の持ち主はどのくらいいらっしゃいますの?」

「そうですね。少し齧った程度、というレベルでならほぼ全員。達人級になりますと……、五、六人といったところでしょうか」

「故意に岩田様に強制夢を見せた者はいないか、または、岩田様が気を失っていた時間帯に、強制夢を見てもおかしくない強烈な余波が出る大技を使っていた者がいないか、調べて下さいませんか?」

 岩田は、はっとする思いだった。興奮のあまり、口調がやけに解説めいてしまう。

「なるほど。あのマオウハントの夢が誰のどんな記憶なのかという観点を一旦捨てて、とりあえず俺が夢を見た原因の方を探るわけか!」

 その実行犯人類から詳しく話を聞けば、あの夢の正体が何なのかわかるだろうし、当然、あの夢の続きを知ることも出来る。そういう算段なのだろう。

「しかし、俺に強制夢を見せた奴を捜すというのはまだしも、余波がどうのこうのっていうのは一体何なんだい?」

「確か、ドリーミング系の技には、術の対象の周囲に同心円状の余波が広がる独特の性質があったはずですわ。ドリーミング系の能力者でなくても、睡眠中の人間はその余波を無意識に感知してしまうと言いますし、もしかすると岩田様は、偶然別の誰かを狙った大技の余波に当てられただけかもしれません」

「……うーん、だとすると、傍迷惑な話だな」

「クラリス様、お願い出来ますか?」

「……あ、はい。わかりました。出来るだけ全員の証言をとって参りますので、少しの間、ここで待っていて下さい」

 ぺこりとお辞儀をすると、クラリスは静かに扉から出て行った。十人並みの速度だったので、岩田はその背を目で追った。

「何だか、今日一日だけで、何ヶ月分もの出来事をこなしたような気がするな。まさかじいさん達が、古代人だったとはね……」

 慨嘆するように言って、岩田はルースと話しやすいよう、椅子の方向を無造作に変えた。

「驚かれたんですの?」

 さも意外というようにルースが反応し、それこそ意外だったので岩田は目を瞠った。

「え……、ルースは驚かなかったのか?」

「勿論驚きましたわ。ですけど、おじい様やおばあ様が普通でないことは、何となくわかっていましたから」

 そういうことか。岩田は少し安心した。自分の感覚がおかしいわけではないようだ。

「まあ、それはそうだね。でも俺は、ただの変わり者なのかと思ってた。まさかこんな驚天動地の背景があったとは予想外だったよ」

「…………」

 ふと、ルースが小さく笑ったような気がした。尤も、彼女はいつも微笑を湛えているので、その微妙な表情の変化が笑みだったのかどうか確証は持てなかったし、仮に笑みだったとしてもどんな意味を含んだものなのか岩田にはわからなかった。

「お母様達は知っているのでしょうか? 両親が古代人だということを」

 続けて彼女の口からさらりと紡がれた言葉は、内容以上に重い意味を持っていた。特に、ルースが『知っている』という現在進行形の言い回しを使ったことが……。

 ルースの母親スザンナは、岩田の知る限り祖父にも祖母にも似ていなかった。自由奔放で、だらしないと言えばそれまでで、いつ見ても酒やクルロワを飲んでいた。ルースの父親は誰なのかわからず、結婚もしていないし周囲に男の影も無い。昨今話題になっている『シングル母上』の走りのようなもので、女手一つでルースを育て上げた。そして二年程前、ルースが学校を出て一人で暮らせるような目処が立つや否や、忽然とその姿を消してしまった。親族総出で随分と捜したが、結局未だに見つかっていない。ルースは、各種捜査機関に捜索願を出した。懸賞金は平均五〇〇ニャトである。人前では、まあその内ふらりと戻って来ますわ、などと笑っていたルースだが、岩田は一度だけ、彼女の目が泣き腫らしたように真っ赤になっていたのを見たことがある。……励まそうとした刹那に鳩々山に乱入されて全てが台無しになった、今となっては苦い記憶である。

 スザンナは、果たして自分の両親が古代人であることを知っていたのだろうか? もしも知っていたとしたら、そのことは彼女の生き方に、何らかの影響を与えたのだろうか?

 岩田はルースの内心を思い遣って、慎重に論を展開した。

「……どうだろう。伯母さんは、なんて言うか、知っててもおかしくないような気はするけどね……。良い意味でも悪い意味でも型破りな人だし……。ま、逆にうちの親父は絶対に知らないと思うよ」

 岩田の父は、驚くなかれ、ヤフドラキーニェの公式審判員をしている。一年前には正義指数国家一で表彰されたほどで、真面目を絵に描いたような好人物だ。ヤフドラキーニェの挑戦者だった頃に知り合った一二歳年下の少女と結婚したが、熱狂的ファンを名乗る暴徒に会場を制圧され、結婚式はやむなく中止となったらしい(幼い頃、母が酔うたびに愚痴っていたのを岩田はよく憶えている)。年子の姉であるスザンナとは性格が正反対であったが、何故か仲が良く、お互い独立して家庭を持っても、親密な家族ぐるみでのやり取りが続いていた。二年前のスザンナの失踪の際には目に見えて狼狽し、八方手を尽くして大捜索の陣頭指揮を執った(あまりに実直過ぎる優等生的応対に、正義指数を意地でも上げたいという汚い打算でもあるのかと岩田はいらぬ心配をしたものだ)。現在は、自宅の管理を岩田に任せ、妻と二人でカロンド島に赴任している。

 岩田は、父親のことは決して嫌いではなかったが、何かこう、「いかにも型に嵌った国民だな」という所が時折鼻についた。そんな人間が、実の両親が古代人であったなどと知っているはずはない。もしも知っていれば今とは全く違う人になっている、そんな気がした。

「……そうですわね。でも、だとすると、私達は、何かとんでもない領域に足を踏み入れてしまったのかもしれないですわ。おじい様達が、実子にも秘密にしてきたことを知ってしまったのですもの」

「…………」

 改めて言われると、少し怖くなった。夢の中で、祖父が世界の命運を一手に背負った、あの瞬間を思い出した。

 岩田も、平穏な日常を送っていられればそれで良かったのだ。

 冴えない表情でも見て取ったのか、ルースが雰囲気を変えるように明るく言った。

「そういえば、古代人と現代人でも出来たんですのね。一万八千年もの時が経てば、同じツラック人と雖も進化や変化などがありますし、出来なくなっていてもおかしくないように思いましたけど」

 何が、出来たのか出来ないのか。内容だけを考えれば『子供』であるわけだが、そのルースの言い回しには言外にそれ以上のことが含まれているような気がした。生殖教育だけにはやたら熱心だったという母親の影響なのか、あるいは天然の素地なのか、時折彼女はこういう露骨ともとれるような微妙な発言をする。その度に岩田は少し頬を染めて返答に窮するのだが、ルースはその様子を見て楽しんでいる節があった(所謂、モセヴィラ犯的行動という奴だろう)。

 今回も例に漏れず、岩田は一瞬答えに詰まった。だが、今回に限り、場の雰囲気を変えるためにルースが敢えてそういう言い回しを選んだのだという作為が見てとれたので、岩田は笑った。軽く答える。

「まあ、確かにね。でもそうなると、俺達がここにいられるのも人間の進化が遅かったおかげだってことになる。皮肉なもんだよ」

 ルースは、ともすれば見逃してしまいそうなほど小さく顔をしかめ、全然面白くありませんわ、と言う時と全く同じ表情をした。中学生の頃、彼女の苦手なサジ概念論の授業中に、「この思想家はきっと、フォグピアノの音を聴いても、ドブ川で酸素不足に喘いでいる雑魚を想起するに違いありませんわ」とウケを狙って発言し、逆に本格教師や本格生徒の大絶賛を浴びることになった時にこんな顔をしていた。岩田にとっては、その直後に鳩々山が、「静まれ、皆の者、だって煩いじゃん!」と誰よりも大きな声で叫び、偶然近所の見回りをしていたキュロウザンに騒音公害を理由に拿捕され、二時間後に自力で帰還したという出来事の方が強く印象に残っているが(勿論その時のルースは実に楽しそうな会心の笑みを浮かべていた)。

 岩田はルースの攻勢を軽くいなしたことに調子付き「あ、それに、異種間雑種は出来なくなることが多いんだけど、古代人と現代人の交雑種である鳩々山の父親は出来たみたいだし、俺達も安心だな」と畳み掛けた。

 これに対し、ルースは岩田の予想を遥かに上回る反応を見せた。顔を真っ赤にして早口になり、「あの、俺達も安心だな、というセリフは、その、岩田様が、私と――」と呟き、その先は声が小さ過ぎて聞こえない程だった。岩田は、ここぞとばかりに追撃を入れる。

「え? いや、俺もルースも現代人と古代人の交雑種なわけだろ。将来誰かと結婚した時でも、子供が出来ない心配はないな、って言ったんだよ」

 岩田はにやにやした。なるほど、モセヴィラ犯的行動の面白さがわかった気がした。ルースはようやく岩田の狙いに気付いたのか、不服そうに、ぷいとそっぽを向いた。まだ頬がほんのり紅潮している。岩田は、彼女の結い上げられた頭にぽんと軽く右手を置いた。

「珍しく一本取ったな」

 ルースは何も言わずにそのまま明後日の方を向いていたが――突如立ち上がり、完全に岩田の不意をつくタイミングで、頭上に置かれた右手首を左腕で絡め取り、手前にぐいと引いた。バキリと肘の辺りで何かが割れるような音がして岩田は一瞬ぎょっとしたが、おそらくオーヴァーヒアリングの過剰作動だろう。骨が折れた様子は無い。関節を極められて体勢を崩した所へ、ルースは腰のセトリーミアを右手で抜き放ち、岩田の首筋に突き付けた。セトリーミアは装飾品ではあるが、その先端は鋭利であるし、何よりも緑色素の成分が毒を持つ。

「そんなので一本なら……、これで五分ですわ」

 どうやらルースの意趣返しだったらしい。確かに組み手であればこの時点で、審判が「ファーンザーン、一本」と宣言していたはずだ。実に悲しいことに、岩田はこういった格闘術においてルースの足元の根元にも及ばないのだ。

 だが、だからといって、ここから反撃出来るわけもないので(いや、やろうと思えば出来る。ルースはおそらくセトリーミアを本気で岩田に刺す気など毛頭無いわけだから、それを気にせず自由な左手で相手の右手首を極め、隙が出来たところで足をかけてバランスを崩して押し倒せば良い。極められている右腕の関節はやられるだろうが、相手を完全に抑え込むことが可能だ。ただしそれはルースが手を抜いているから出来るだけであって、そんなことをする意味も無いし、勇気も無かったので)、大人しく降参することにした。

「……参った」

 それを聞いてルースは左腕を外し、セトリーミアを腰に戻した。

「当然ですわ」

 くすくすと笑いながらふと扉の方を向いた彼女の目が、ぎょっとしたように見開かれた。ルースがそんなに驚くのも珍しい。岩田が釣られて視線を動かすと、いつからいたものか、そこには駿河が茫然と立ち尽くしていた。

「……どなたですの?」

 どうやらルースと駿河は面識が無いらしい。当の駿河がルースの誰何の声にも全く反応を示さなかったので、「その人はクラリスの後輩で、駿河っていうんだ。一三五歳らしいよ」と、岩田が代わりに簡単な紹介をしてやった。

「そうですの。私は、おじい様の孫のルースと申します。どうぞよろしくお願い致します」

 おじい様の孫という言い回しも気になったが、サルヴァドーリア像のようにぴくりとも動かない駿河の様子もかなり気掛かりだった。もしかしたらジェンジャジンジュ病の発作なのかもしれないと思い、岩田は駿河の脈を確認した(何度も言うようだが、彼は幼い頃からカシトトリング教会に出入りしていたので、応急措置は得意だったのだ)。……脈動は二秒に一回ほどの割合で規則的に感じられる。

「ルース、大丈夫だと思うけど、念の為に強心剤と液状カルルキヲを洗面器に入れて持って来てくれるように頼んでくれないか? 一応、ロトジェナイ病の若返りがあるとはいえ、高齢ってことになるし、もしかしたら――」

「喧しいわ!! 我のことなどどうでもよい!! 貴様! か弱き婦女子に負けるとは何事だ! それでも男か!! 我が国の荒ぶる男児か! あまりの驚きに数秒ほど意識を失ったわ!!」

 …………。体の方は元気そうだった。安心する一方で、ずっと黙っていて欲しかったような気もする。これほどまで口を開くたびに正義指数を落としていく者も珍しい。岩田は珍獣ザロウロンにコリャヌモンで遭遇したような心地になった。

 良からずと書いて不良と読むような連中でも、ここまでは酷い偏向思想を抱いてはいまい。男尊女卑の極致とも言える駿河の考え方では、ポティルトの館に連れて行かれてマインドコントロールを受けることになったとしてもおかしくない。日常生活で少しでも隙を見せれば、ソトルザンかキュロウザンあたりに連行されることだろう。国家の介入するマインドコントロールについては、倫理的な側面から少々反対の立場に立つ岩田だったが、駿河ほどの極端な例ならばそれも否めないかと本気で思ってしまった。

 ギュルナ休題。この時岩田が懸念したのはルースの反応だった。彼女は、唯我独尊を地で行くような人間と滅法相性が悪い(その殆ど唯一の例外が鳩々山だと岩田は考えている)。

「……ええと、駿河、とか言いましたわね? 貴様、それは一体どういう意味ですの?」

 案の定、隣から聞こえて来た彼女の声には怒りを抑えつけているような剣呑な響きが感じられた。貴様、という意味深な二人称も気になるし、何より駿河という人名に敬称を付けていない。ルースが『様』を付けないで呼んだ相手を岩田は過去に何人か知っているが、何が恐ろしいかと言えば、その彼らが一人の例外もなく、一両日中にルースを『様』付けで呼ぶようになったという点だ。

 だが、駿河も決して一筋縄でいくような人物では無さそうだ。

 真っ向から対立するのはウォウォン人を見るより明らかだった。

「そのままの意味だ。男たる者、迫り来る巨悪の魔手から力無き婦女子を守るために、誰よりも強くあらねばならぬ! で、あるからして、守るべき婦女子の方に敗北するなど言語道断。到底許されることではないわ!」

 岩田は唸った。こいつは、思い遣りがあるのかないのか、一体どっちなのだ。正義査定委員会の会員モドキはストレスでサジェイキーニ症候群になりやすいという話があったが、それは駿河のように一概に善とも悪とも判断のつけがたい奴がいるせいなのだろう。岩田は少し納得したが、事態はそれどころではなかった。

「…………。女性が弱く、男性が強かった時代など、既に終わりましたわ。もとい、そのような時代など、端から存在などしていなかったのです。ヒビッ党の思想緊縛から逃れられない者が、男根主義的で的外れな儚い幻を追っているに過ぎませんわ」

 ルースの鉄壁の微笑みは不自然にこめかみ辺りで引き攣って、崩れかけていた。思想緊縛、男根主義などという今では敬遠したくなるような用語をまるで苦にせず口に出していることから見ても、彼女は本当に怒っているのだろう。相手と初対面であることだけが、ルースを爆発させないための楔となっているに違いない。

「貴様、何を言っている!? 我が話には時代や思想は一切関係ない! 我々男は女より強い! それは自明の真実ではないか!」

 間違いなく、今の瞬間、駿河は正義側ではなくなった。

 間違いなく、今の瞬間、ルースは堪忍袋の尾が切れた。

「違いますわ!! 男性より強い女性だって山ほどおります! それに、私が岩田様より強いというだけで、岩田様が弱いということにはなりませんわ!」

 結局、珍しく声を荒らげてルースが展開したのは、岩田を擁護する意見だったわけだが、正直岩田は嬉しくも何とも無かった。ルースの口上は止まらない。

「それより、何ですの? まるで自分は絶対に女性に負けないというような言い様ですけど、ハシュレーグレイにも劣りそうな貴様の、どこからそんな自負が湧いて出て来るやら……、甚だ疑問ですわ」

「貴様ァ……! 所詮はか弱き婦女子と思って黙って聞いておれば、そこまで我を愚弄するか! 我が自尊心を甚だしく傷つけた場合は、女子供と雖も容赦せぬ決まりぞ!!!!」

 唖、と言う間もなかった。穏やかならぬやり取りにちりちりと焦げ付くような緊迫感を感じ、岩田が制止の声をかけようとした刹那だった。駿河が疾風怒涛を絵に描いたような勢いで飛び出し、岩田の正面を斜めに駆け抜け、ルースの元へと瞬時に到達した。迎え撃つルースは、既にセトリーミアを攻撃的に抜き放ち、飛び込んで来る駿河を待ち構えていた。緑色の両の瞳が睨むように相手を見捉えている。それは、フィルガが故意に人を襲う際の、やけに透徹した瞳に酷似していた。岩田は咄嗟に叫んだ。

「待て! 二人とも! 落ち着いて話し合おう!」

 待ってくれなかった。

 落ち着いてくれなかった。

 話し合ってくれなかった。

 ルースの右腕が神速で閃く。先手必勝の体勢だった駿河は、ルースの適確な迎撃を見て取り、一瞬の躊躇もせず敢えて後手に回る。逆手で握られたセトリーミアが、唸りを上げて駿河の左手に突き立てられる。だが、駿河の左手が折り良く変形する。一瞬でセトリーミアが通るに足る直径の穴が開き、凶器は肉を突き破ることなく文字通り腕を貫通してしまった。ルースはこの時ようやく相手の能力を把握しただろうが、遅きに失した。セトリーミアをすぐさま手放して半身を引いたが、完全に相手の間合いの内だった。

 駿河の右手の手首から先が、一直線に伸び上がる。まるで超金属のような光沢を伴い、彼の言う所の神剣と化したその先端は、正確にルースの心臓に向けられていた。駿河の殺意が凝縮する。ルースに向かって強く踏み出す。

「我が神剣の錆となれ!」

 戦闘をかろうじて目で追っていた岩田は、ハティオークで盾を出したとしても完全に間に合わないタイミングであることがわかって絶望した。ただ、何となくルースならどうにかしてくれそうだと思い、成り行きを見守る。

 案の定、神剣とルースの間に突如光る防壁が現れ、攻撃を遮ると共に駿河を弾き飛ばしてしまった。あまりに急激な展開に、駿河は体勢を崩し、一瞬隙が出来る。勿論ルースはそれを見逃さない。容赦など全くしない。体勢の整わないままの駿河に追い討ちをかけ、足払いと拳打を同時に打ち込み床に引き摺り倒す。あられもなく両足を外に投げ出し駿河の胴に馬乗りになるや、両腕の付け根を爆砕打と呼ばれる殴り方(骨や神経、筋肉、気脈に至る何から何までを完全に破壊する特殊技巧)で攻撃し、駿河の腕が上がらなくなったのを確認してから大きく距離をとる。……裾の乱れを払い、息を吐く。岩田の知る中で最も慈悲度の低い『七式』の構えを解かず、待つ。一方の駿河は床に横たわったまま全く動かない……。

 しばらくの間、時間が止まったようになる。

 一連の攻防で決着がついたのかと、岩田が安心しかけた頃――。

 駿河が跳ね起きた。痛みなど無いのか、あるいは我慢強いのか、怒りに満ちてはいるが全く苦しんではいない表情で、腕を使わずに体のバネだけで起き上がったのだ。だらりと肩からぶら下がった両腕はかなり痛々しい。ぎらぎらした瞳に憎悪を滾らせている。

「あまりの驚きに数秒ほど意識を失ったわ。なるほど、貴様、ヨイギストゥシストか。有機体で構成された鋭利な形状の物体に対し、己の危険度が九を越えた場合のみ、自動的にコタラが発動するのだったな。あのタイミングで間に合うとは……、女にしては上出来だ」

 壮絶な笑みを浮かべる彼のディクショナリ(岩田の祖父の話では英語の影響を受けたツラック語らしい)には、戦意喪失という言葉は記載されていないのだろう。コルヴァーグレイなら居合わせただけで消滅しそうな鮮烈な殺意を、全身から容赦無く振り撒いている。

 一方のルースは、気圧された様子も見せず、余裕で応えた。

「両腕の自由な構造変化が可能な特異体質のようですわね。見たところ、暗殺術はマトカレッテ流、ユクラプト領域は小脳の処理能力向上のために大半を割いている、というところでしょうか」

 岩田の知る限り、彼女のこの優れた観察眼は、ユクラプト領域の助けも禁術の助けも何一つ借りていないはずだ。……キマユ人以外の全ての国民がその事実を疑ってかかるに違いないが。

「全然面白くありませんわ」

 ルースの飄々とした態度に、駿河が激昂する。

「貴様ァ……、我が腕を使用不能にしたと思って意気がっているようだが……、仮宿(格闘術と禁術の境界に当たる技術の俗称。ヨドー国から独立した際、表向きその系譜が途絶えたことになっているが、暗殺業界では今なお現役)の黴の生えた奥義なぞ、天賦(生まれつきの有利な体質を現す暗殺業界の用語)の前には全くの無力と知れ! 小娘が!」

「あら、当然知っていますわ。だからこそ敢えて、腕の付け根を狙ったんですもの。おじい様のお屋敷で救命救急隊を呼ぶような騒ぎは起こしたくありませんからね。まあ、それでもまだやるとおっしゃるのなら、次は別の付け根を狙いますわよ。大切な部位をへし折られても大きな口が叩けるかどうか……、見物ですわ」

 ルースは、化粧っ気のないその顔に蠱惑的なまでの笑みを浮かべた。岩田はそれを見て、ぞくぞくするような寒気を覚える。自分が彼女の相手だったら、土下座してでも赦しを請うているところだ(何十円するカトゥーカトゥーだって喜んで貢ぐだろう)。

「貴様……、我を挑発して六体満足で帰った者は無いと知れよ……」

 今にも飛び掛からんばかりの駿河。いつもとは全く異なる笑みを浮かべたルース。この二人を見ていると、どちらかが死ぬまで続く恐ろしいデスゲームが始まりそうな気がして、さすがの岩田も黙っていられなくなった。

「あのさ――」

「……お二人とも、一体何をしているんです?」

 突如、岩田の背後から静かな声が聞こえた。驚いて振り向くと、開け放たれた扉の前に立つクラリスの姿がある。接近に全く気付かなかったが、それはルースと駿河の戦いに集中していたからだけではないだろう。

「いや、クラリス、その、これは別に喧嘩とかじゃなくて――」

 咄嗟に岩田は二人の間のいざこざを誤魔化そうとしたが、

「処刑だ」

 駿河の前では全くの無駄に終わった。

「…………」

 クラリスはしばらく黙っていたが、無言の内に場の空気を完全に掌握してしまったようだった。

「駿河、あなたはどうしてここにいるの?」

 何気ない仕草で素朴な質問を口にした途端、岩田の視界からクラリスの姿が完全に消えた。おそらく、視認可能速度の限界を超えて移動したのだろう。振り向くと、ルースと駿河の中間に割って入っていた。絶妙に両者の間合いに踏み込みながら、それでいて和睦の姿勢を崩さない。か弱げで、しかし凛々しい。岩田は自分より四つも年下の少女に尊敬の念すら抱いた(考えてみればハティオークの師匠なのだから尊敬して当たり前だが)。

 駿河は、そんなクラリスに対して苦手意識でもあるようで、サゲホイが水を吸い込むように殺意をするりと収めると、意外なほど律儀に返答した。

「部屋の用意が出来たことを客人に直接告げて来るように、風虎に依頼されたためである」

 勿論、ここで言う風虎とはミストマ湿原にいる有産動物『風虎(ふうこ)』のことではない。この屋敷で最も古株の使用人の名前(風虎(かぜとら))である。スド人だが誰よりも思慮深く、様々な禁術を使いこなし、落ち着いた風貌と物腰で祖父母からの人望も厚い。全使用人を統括するような立場におり、言わばクラリスや駿河の上司に当たる。暗殺どころかジャンローブグレイの一匹すら殺しそうにないので、岩田は以前、この人間だけは元からお手伝いとして雇われたのだと思い込んでいた。その実、屋敷にやって来た殆どの暗殺者を折伏させ、使用人として祖父の軍門に下らせたのは彼の手柄だという。人間は見かけに拠らないものである。

 ギュルナ休題。クラリスの駿河への尋問は続いた。

「そのあなたがここに来て一体何をやっていたのか、説明して」

「……依頼通り師匠の部屋までやって来た所、師匠の孫とやらが師匠の孫娘とやらに完全な敗北を喫している決定的瞬間を目撃し、男たる者強くあるべしという正義の一念を啓蒙しようとした折、孫娘が魔獣の如く立ちはだかり、口にするのも憚られるような下劣な主張を始めた故、処刑を断行することとあいなったのだ」

 その発言で、クラリスの目が鋭く尖った。突然の変貌は、攻撃色になる瞬間の特攻ゼルガを思わせた。

「わかりました」

「さすがは我が同胞クラリス」

「殴りますね」

「断る」

「いえ、殴ります」

 岩田が、ああだこうだとロクでもない口論を始める使用人の先輩後輩コンビを茫然と眺めていると、「毒気を抜かれてしまいましたわ」とルースが少し不機嫌そうに近寄って来た。仮宿の構えも解き、落としたセトリーミアを腰に戻している。いつものペースに戻ったことに岩田は安堵を覚えた。

「全く、クラリスが来てくれて良かった。あのまま君と駿河が一戦を交えていたら、間違いなく二人ともただじゃ済まなかった」

「……こんなに腹が立ったのは生まれて初めてですわ。何なんですの、あの不愉快な子供は?」

「まあ、ルースの言いたいこともわからなくはないけど……。あいつ、言動に問題はあるけど、実質的にそこまで悪い奴だとも思えないんだよな」

「まあ! 岩田様までそんなことをおっしゃるのですか。私の言うことよりも駿河の言うことに賛成だと?」

「いや、そうは言ってない。ただ、あの様子を見ていると、同情の余地くらいはあるかもしれないと思ってね」

 岩田は、顎でしゃくるように駿河とクラリスの方を示した。二人はいつの間にか、随分と向こうの方まで移動している。部屋の中央にずらり並んだソファーの、列の半ばにまで達しつつあるのだ。どうやら、クラリスが一歩近付く度に駿河が間合いを取るように後退し、駿河が後ろに下がる度にクラリスが距離を詰めようとする、そんなことを延々と繰り返しているらしい。

「……あんなに女性には負けないと言っていた割には、クラリス様には全く頭が上がらないんですわね」

「……それも、本人にはまるで自覚症状が無いみたいだ」

 ルースはようやく完全にいつもの表情を取り戻し、「相手にしなければ良かったですわ」と、呆れたような口調で呟いた。

 その時、ごん、と何か硬いもの同士を打ち合わせたような音が、低く響いた。ソファーに突っ伏した駿河が頭を押さえて悶えているのが見える。

 岩田とルースは顔を見合わせ、声をあげて笑った。


「現在屋敷にいる使用人全員から証言が得られました。その結果、岩田様に強制夢を故意に見せようとした者、あるいは、第三者に余波が行くようなドリーミング系の大技を使っていた者、いずれの該当者もいませんでした」

 一段落した後、クラリスはそう報告した。ちなみに駿河は、不貞腐れるように部屋の中央のソファーにどっかりと座り込んでいる。

「嘘を吐いているということは考えられませんの?」

「基本的にハティオークで嘘発見器を出してから聞きましたので、おそらく間違いないと思います。三人の例外を除けば、ですが」

 ルースの緑の瞳がきらりと輝いた。

「どういうことですの? 詳しく説明して下さいな」

「え、その、様々な理由から嘘発見器を使用出来なかったケースが三件ありまして、それについては当人の証言を鵜呑みにするしかありませんが……」

「何故使えなかったんですの?」

「え、あ、それは……」

 クラリスが気圧されたように口篭る。先程駿河とルースの仲違いを調停したのと同一人物とは思えない変貌振りだった。岩田は個人的に、彼女の本質はこちらだと思っている。

「別に俺達は咎めてるわけじゃない。気楽に話してみなよ」

「は、はい。まず一人目は、ジョシュアさんです。その、彼はご存知の通りオラウ軍所属の軍人類なので、嘘発見器を伴う尋問にかけられるくらいなら、軍紀に従って自刃すると強硬に主張され……」

「ああ、そりゃ仕方ないな……」

「証言自体を拒まれたわけではないのですね?」

「え、はい、まあ、そうなんですが……」

「では、お手数ですが、ご当人をここへ連れて来ていただけませんか? 私が自ら質問しますので」

「おいおい、わざわざそんなことしなくても、クラリスがとって来た証言を詳しく教えてもらえばそれで十分じゃないか?」

「そんなことはありませんわ。質問者が変われば自ずと返答も変わります。嘘発見器が使えないのなら尚更ですわ。二つの証言をつき合わせた時、初めて見えて来るものがあるやもしれませんもの」

「……なるほど」

 先入観を排するため、事前に何も情報が無い方が良いとの判断で、早速呼び出すことになった。クラリスが影話で連絡をとると、五分もしない内にドアの向こうから入室の許可を求める声が聞こえた。クラリスが扉を開けると、両足をゴムで強く拘束した三〇代男性の姿があった。先刻ノルクワイェを運んで来た時と同じ、小刻みな歩幅で歩いて来る。正直な話、顔よりもむしろその有り様で、岩田は彼をジョシュアと認識した。

「どうもどうも。何やらおいらをお呼びなんですって? いやはや、驚いちゃいましたよ」

 オラウ軍の口調統制は軍服着用時のみらしく、平時のジョシュアは語尾に『やんす』を付けていない。それでも軍人類特有の雰囲気は十二分に醸されていた。

 そのジョシュアは、四本の指をピンと伸ばした右手の先を額の横、こめかみの辺りに当てる仕草をした。岩田は挨拶だろうと思い、反射的に同じ仕草を返していた。

「お忙しいところ、申し訳ありません。二、三の質問にお答えいただければそれで結構ですので、少々のお付き合いをお願いしますわ。クラリス様のご質問と重なる部分も多いでしょうが、ご勘弁を」

「はいはい、そりゃあ、もう。お客人のためとあらば、おいらに出来る範囲で何でもする所存ですよ、ほんとに」

「じゃあ、嘘発見器を出しても良いかい?」

 ジョシュアの目が一瞬細められ、警戒を顕わにする。

「そいつは穏やかじゃないですねぇ。おいらにだって譲れないことの一つや二つあるんですぜ、お客人」

 一つ二つどころか数百の禁止事項を抱えていそうだが、岩田は敢えてそれ以上掘り下げようとは思わなかった。

「では、単刀直入に訊きますけれど、ジョシュア様はドリーミング系の技は得意でいらっしゃいますか?」

「はあん、なるほどそう来ましたか。でも残念ながら、おいらの能力に関することは軍紀で喋れないことの一つでやんして、お答えするわけにはいきませんや。へへ、申し訳ない」

「……軍紀の関係でどうしても喋れないというなら、喋るのでなく書き記すことで答えては如何ですか?」

「嫌だなあ、その手は食いませんって。媒体が代わればいいってもんでもないでしょうが。おいらは情報漏洩には厳しいんですから」

「……わかりました。では、過去三時間以内にドリーミング系の技を使った記憶があるかどうか答えて下さい」

「はあん、それなら大丈夫そうです。何しろおいらには該当する記憶が無いですからねぇ。無いという情報なら伝えられますよ」

 ルースがとった、記憶の有無を尋ねる手法は巧妙だった。「技を使ったか?」「記憶に無い」というやり取りではただはぐらかされたことになるが、「技を使った記憶があるか?」「記憶に無い」だと、相手の否定の意思を聞き出したことになる。また、事実の有無には全く言及していないため、軍紀に縛られているジョシュアでも抵抗無く答えられるという計算だ。

 結局肝心なのはジョシュアの返事に嘘が混ざっているかどうか見破ることであるが、岩田には皆目見当がつかなかった。自分がネジェン人だったなら一発でわかるのに、と詮無いことを考える。

「あなた以外の人間がドリーミング系の技を使っていた憶えはありますか?」

「ここ三時間以内にですかい?」

「ええ」

「うーん、無いですねぇ。ドリーミング系と言えば、ジムチの旦那か陽炎姐さん辺りの十八番でやしょう? 今日はお二人とも年賀の仕分けに忙しくて、技なんて使ってる暇全く無いはずでして」

 ルースがクラリスにちらりと目線をやり、事実の確認をする。クラリスは小さく頷いた。岩田の知る限り、この屋敷に届く年賀は毎年数万枚を超える。危険な禁術が付加されていないか、ジャロンは無駄になっていないか、食べても安全か、年号の間違ったものはないか、など様々な観点から仕分けが必要で、使用人が丸二日がかりでことに当たるのだ(時折、大物芸能人の私信が紛れ込んでいるため、毎年この作業を楽しみにしている使用人もいるようだ)。

「そのお二人に限らず、心当たりはありませんか?」

「同じくドリーミング系達人級の稚児車の兄貴は絶対使ってないですが、いやぁ、おいらにわかる情報はそれくらいですねぇ」

「この三時間、あなたがどこで何をしていたのか尋ねても大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫ですよ。尋ねる分には自由ですから。ただし、おいらに答えられる質問でないのは確かでしょうねぇ。何も疚しいことは無いんで、おいらとしては是非お伝えしたいんですがね」

 岩田はげんなりした。嘘発見器云々以前に、まともな質疑応答が成立していないではないか。軍紀なら仕方の無い面もあるだろうが、変な隠蔽をすればするほど痛くも無い腹を探られるわけで、当人にとって不利益にしかならないような気がする。

「オラウ軍は軍紀の厳しいところですのね」

「一般の方々から見れば、まあ、そうでしょう。すぐ慣れやすけど」

「一度の食事にかけて良い時間の制限まであるとのことですが」

「ああ、そんな情報、よくぞご存知で。そりゃ軽い方ですよ。三〇分ありゃ大抵のもんは食えますからねぇ」

「先程のこの動作は、敬礼と言うそうですわね」

 ルースは、指を伸ばした手を額の横にかざして見せた。振袖の長い袖が邪魔して、何だかジョシュアと同じ仕草とは思えなかった。

「またまた、本当に色々よくご存知ですねぇ」

「これは全くの当てずっぽうですが、相手に対する敬意の深さは、敬礼の時間の長さに比例して表すのではありませんか?」

 ジョシュアが目を丸くする。

「その通りでやんす。どうしてわかったんですかい?」

 ルースは、くすくすと小さな声をたてて笑った。

「ジョシュア様、あなた、勘違いをなさっていますわ」

「へ?」

「逆さまですわ」

「……何がです?」

「全てがです」

 ルースは謎めいた言葉を残すと、「ご協力ありがとうございました。もう大体わかりましたわ」と告げて、敬礼しながらジョシュアを帰した。ジョシュアは怪訝そうな顔をしていたが、括られた足をよじよじと動かして大人しく部屋から出て行った。

 岩田には、何が何やらわからない。

「クラリス様、ジョシュア様の証言は、あなたの尋問の際と何か変わりましたか?」

「い、いえ。特には……。わたしの時も知らぬ存ぜぬの一点張りでしたし、オラウ軍の軍紀に進行が邪魔されたのも同じでした」

「まあ、予想通りですわね」

「……結局、ジョシュアさんは嘘を吐いていたのかい?」

 岩田の問いに、ルースは自信ありげに頷いた。

「それは間違いありませんわ。ジョシュア様は大嘘吐き大将です」

「そんな。普段接している分には、それ程嘘を吐く方とも思えませんよ。その、細かいことによく気の付く、優しい方です……」

「嘘は常に悪意のあるものとは限りませんわ。彼が犯人類だと断定出来たわけでもありませんし」

 岩田はクラリスと顔を見合わせた。困ったように眉根を寄せているクラリスは、そのまま額縁に入れて飾れば苦悩のフィボナ神の絵になりそうだった。

「それより、嘘発見器の利用を掻い潜った方がまだ二人いらっしゃったはずですわね? そちらの詳細をお願いします」

「あ、は、はい。二人目は、ルース様はご存知だと思うんですが、三津葛さんというソノノハルカ人の女性で……」

「……ああ、その段階で早くも了解しましたわ」

「どういう人なんだい?」

「ソノノハルカ人、ご存知ありませんの?」

「いや、一応、崩壊議長の免許持ってるから、全人種に関する一通りの知識はあるさ。服飾や装飾に羞恥を覚える独自の価値観を持つ人間集団だろう?」

「そうです。無駄な物品の一切を嫌がりますから、無から有を創り出すハティオーカーとの相性は最悪なんですよ。その、一応わたしは普段それなりに仲良くしてもらってるんですけど、ハティオークなんて出して話し掛けようものなら、全く口を利いてくれません」

「ああ、そういうことか……」

 人間存在の根源的な部分での対立とは厄介なものだな、と岩田はしみじみ感じ入った。自らもハティオーカーの端くれなので、根っから相性の悪い人種がいるかと思うと、少し寂しい気分になる。

「でも、ソノノハルカ人は虚飾が装飾に繋がるものとして、嘘偽りにも羞恥を覚えるはずだ。証言の信憑性は折り紙付きだろう?」

「そうなんですが、その、あの、三津葛さんは一日の大半をお風呂で過すんですが、今日に限っては自室にいらっしゃって……」

「それが何か問題でも?」

 クラリスが何故か赤面して俯いてしまったので、ルースが後を引き継いだ。

「相変わらず鈍い方ですわね。三津葛様がお風呂場でなく自室に居られたいうことは、必然的にクラリス様は着衣のまま姿を見せることになります。ソノノハルカ人は服飾に羞恥を覚えるのですから、私達で喩えれば、急に知り合いが全裸で訪ねて来たようなものなのですわ」

「え? 服飾羞恥ってそういう意味だったのかい?」

「どんな意味だと思っていたんですの?」

「普通に嫌がってるってことを尤もらしく言い換えただけかと」

「認識が甘過ぎますわ! 乙女心検定〇点必至です」

 実際に模試で一桁の得点を叩き出したことのある岩田は黙った。

「岩田様は、全裸で訪ねて来た相手の質問に冷静に答える自信はありますか?」

「……無いな。早く帰ってくれ、か、せめて服を着てくれ、と考えて気が気でないだろう」

「三津葛様もそうだった可能性がある、ということですわ」

「その、実際に、わたしは、あの、せめて服を脱いでくれ、と頼まれて、その、裸で質問したんですけど、三津葛さんはまだ顔を真っ赤にしてましたし、とにかく何も知らないと繰り返すばかりで、もしかしたらわたしを追い払いたかっただけかもしれないんです」

 確かにその状況なら、本当のことを言っていた保証は無い。

「逆に、敢えて自室に篭ることで本来苦手なはずの偽りを自然に口にするチャンスを得たと考えることも出来ますわ。嘘発見器を排除する大義名分も最初からありますし、彼女は犯人類に申し分の無い要件を満たしていると言えます」

 ルースの発言は、爆裂ゼルガの大爆裂のような衝撃をもたらした。

「三津葛様にももう一度、きちんと話を訊く必要があるかもしれませんわね……」

「あ、じゃあ、お風呂場に呼び出しましょうか?」

「正直、それも気が進まないのですわ。何しろ彼女の式神はザグロゾールですから……」

「三津葛さんと一緒にいれば大人しいものですよ?」

「ゾール系は全体的に苦手なのです」

 式神とは、ソノノハルカ人やキマユ人などが得意とする特化技能的禁術『式』によって術者を生涯支援するよう契約した動植物の総称である。その式神としてザグロゾールを選んだという三津葛の感性は特筆に値するが、会いたくないというルースの躊躇いもよくわかった(何しろザグロゾールは湿気が多い場所では通常の一〇〇分の一の大きさに縮んで有刺硬化するし、元々ヨイギストゥスに対して強靭な耐性を示すときている)。

「ちなみに、三津葛様の部屋というのはどの辺りですの?」

「ええと、焦土の間の斜向かいと言えばわかります?」

「……区画は把握しました。岩田様を運び込んだ客間からは随分と距離があるように思いますね」

「あ、そうです」

「ちなみに、今日、年賀の仕分けをしているというのは焦土の間ではありません?」

「よくおわかりですね」

「最も北東側にある五角形の広間ですから、当然ですわ」

 この家の間取りを理解していない岩田は全く話に付いていけない。

「ジムチさんの話では、三津葛さんにも自室で年賀の仕分けを手伝ってもらっていたそうです。三津葛さんは年賀にも羞恥を覚えるからと嫌がったみたいですが、ジムチさんはあの通り押しが強い人間ですから、……無理に二〇〇枚手渡したとのことで……」

「強制猥褻で拿捕出来ないのが口惜しいですわね」

 ルースが物騒なことを口にする。ジムチは豪快な壮年男性だが、良くも悪くも他人に干渉するのが大好きというタイプだ。行き過ぎがあれば何らかの摩擦を生むのも頷ける。

「三津葛様の部屋には年賀が並んでいましたか?」

「いえ、それが、いつもながら調度も何も無い殺風景な部屋でした」

 だとすると、年賀の仕分けを自室で本当に手伝っていたかは疑わしい。春画の整頓を頼まれた女性がそれを嫌がるくらいには、三津葛も嫌悪を示したはずだ。一人になったのを見計らってサボタージュを決め込むことも想像に難くない。するとその時間、三津葛は完全な手隙になる。岩田に強制夢を見せる余裕もあったわけだ。

「三津葛様はドリーミング系を得意としておられるのですか?」

「いえ、彼女の専門は式ですから、ドリーミング系は基礎レベルを習得している程度のはずです。強制夢を見せるくらいのことは勿論可能でしょうけど」

「そうですか、わかりました。どうやらご本人の証言を聞く前に片が付いたみたいですわね」

「え? 三津葛さんが犯人類ってことかい?」

「あら、別にそうは言っておりませんわ」

 ルースは思わせぶりに笑うと、嘘発見器が使えなかったもう一人の証言者の話をクラリスに要求した。

「あ、はい。三人目は、その、えと、風虎さんです。風虎さんの禁術能力は頭抜けていますから、わたしのハティオークくらいでは太刀打ち出来ません。……真に勝手ながら、嘘発見器にかけることを端から諦めてしまいました」

「確かに、風虎様の禁術の合成利用技術には目を瞠るものがございますわ。……比較的難易度の低いハティオーク一本槍では簡単にいなされてしまうでしょうね」

 難易度が低い分、技としての完成度は高いはずだと岩田は反駁しようとしたが、論議が脱線しそうだったので黙っていることにした。

「ちなみに、風虎様はどこで何をなさっていたのです?」

「料理の下拵えのためにずっと厨房にいたそうです。一緒に作業をしていた鎌竈さんも証言していますし、まず間違いないでしょう」

「あら? 鎌竈様が料理に関与していたということは、全力味見マラソンが開催されたのではありませんか?」

「あ、はい。岩田様が気絶されている間にも何度か」

「なら、鎌竈派の稚児車様とジョシュア様はそれに参加していたに違いありませんわ」

 どうやら、岩田の知らぬ内にこの屋敷の使用人の中にも派閥が出来ていたらしい。

「……ああ、言われてみればそうですね。確かに稚児車さんは家中走り回っていたと証言していました」

「ちょっと待ってくれ。全力味見マラソン中は、フィーリング系のオーヴァーテイスティング(発動レベルに応じて味覚を段階的に鋭敏化させる能力)以外の禁術は使用禁止だろ? ジョシュアさんがもしもそれに参加して、なおかつしっかり完走していたなら、犯人類でないことが確定するぞ。すぐに確認した方が良い!」

「少し静かにして下さい。クラリス様、確か、岩田様の休んでおられた客間の前廊下もマラソンの順路に含まれたはずですわね」

 岩田の助言は女性陣に完全に無視された。

「その通りです」

「稚児車様と風虎様の純粋なドリーミング系の能力を比較したら、前者の方が優っている。……この認識は間違いありませんか?」

「え、あ、はい。おそらくは」

「念のために確認しますが、使用人の中にはドリーミング系の余波を感じた方すらいらっしゃらなかったのですよね?」

「あ、はい。わたしが質問した範囲では、一人も」

「――となると、三人とも白人類ということになってしまいますわ」

 ルースの呟きに岩田はぎょっとした。白人類というのは、捜査業界の用語で犯人類候補に挙げられながら無実と判明した者を指す。

「おいおい、俺にもわかるように説明してくれよ」

「落ち着いたらゆっくり話しますから、しばし待って下さい」

 ルースはにべも無い。

「……じゃあ、一体誰が犯人類なんだ?」

 岩田は唸った。根拠はよくわからないながら、ルースの考えが正しければ、岩田に強制夢を見せた者は使用人の中にはいないということになる。まさか、祖父母やルースが犯人類だとは考えられないし、屋敷の敷地外からドリーミング系の能力を使うのは難しい(何しろ鳩々山の祖父の手になる鉄壁の防御陣が敷いてあるのだ)。犯人類候補は完全に消えてしまう(岩田の頭の中には親友の顔が浮かんでいたが、彼はロート以外の禁術を使えないはずなので最初から問題外だった。万が一彼がドリーミング系の能力者であったなら、迷うより先に犯人類と断定していたところだが)。

 岩田は頭を抱えた。この大いなる謎はそう簡単に解けてはくれないらしい。未だに手がかりすら得られぬままだ。

 別の角度からのアプローチを岩田が考え始めたところ、

「まさか貴様ら、本気で悩んでいるというのか? こんなこともわからんとは、貴様らは頭の方も弱いようだな!」

 ソファーの上から蔑むような声が聞こえて来た。

 正直な話、岩田は完全に彼の存在を忘れていた。

「……駿河。口を慎みなさい」

「……ふん。事実を言ったまでだ」

 口ではそう言いながら、駿河は怖気たようにクラリスから遠ざかった。ソファーの背もたれに隠れて様子を窺っている。

「そっちこそどうなんだ? 誰が犯人類なのかわかったのかい?」

「無論だ。貴様らの会話を聞く限り、一人しか考えられん。どうしてもと言うのなら、教えてやらんでもないが――」

「結構ですわ」

 ルースが冷たく即答した。

「岩田様、駿河にもわかることが私達にわからないはずありませんわ。最後まで自分達で考えましょう」

「え、いや、別に、教えてくれるって言ってるんだから――」

「良いんですの!」

 ルースは意地になっているようだった。駿河にはどうしても負けたくないらしい。

「その意気や良し! だが、心意気だけで物事が上手く片付くなどと思うなよ! この世は結果が全て! 有言不実行など笑止千万だ! 実現して初めて一人前と認めてやるわ!」

 駿河は意外にも罵倒というより激励のような言葉をかけると、信じられない速度でクラリスの脇を走り抜け、扉をくぐって外へ出て行った(扉を開けるのと閉めるのがほぼ同時であったため、岩田には駿河が扉をすり抜けたように見えた)。

「……行っちゃったけど、本当に訊かなくて良かったのかい?」

「良いんですわ。たった今、私にも犯人類がわかりましたから」

 岩田は自分の耳を疑った。隣でクラリスも息を呑んでいる。

 そんなにすぐわかるような犯人類なのだろうか? 一体これまでの話のどこにヒントがあったのだろうか? 駿河の捨てゼリフは、ルースを発奮させるだけの役には立ったのだろうか?

 疑問はチドラ押しだったが、マオウハントへの最初の足掛かりが掴めたようなので、とりあえず良しとした。早速、「一体誰なんだい?」と尋ねてみる。

「岩田様は、どなただと思われます?」

 質問に質問が返って来た。岩田は特に何も考えず勘で答えた。

「何となく、三津葛さんが怪しい気がする」

 ルースの表情は全く変わらず、正解とも不正解ともわからなかった。妙な沈黙を挟んでから、彼女は言う。

「ここでは敢えて教えないほうが良いかもしれませんわね。本当にその方が犯人類なのかきちんと確かめておきたいですし……」

「え? いや、一応、話くらいは聞かせてくれても……」

「ご安心を。私の考えが正しければ、おそらく今夜中には全てのカタがつきますわ」

「…………」

 結局、岩田にはわからないことだらけだった。

「クラリス様、使用人の中に、セパレーション系とフリーズ系とコントロール系とジャンプ系、あと出来ればフィーリング系を全て達人レベルで使える方がいらっしゃいますよね?」

 ルースが突如としてわけのわからない質問を始めた。話を振られたクラリスも戸惑ったように視線を泳がせている。

「え、ええ。風虎さんもそれに近いですけど、半年ほど前から勤めている者がまさにうってつけだと思います……」

「あ、それってもしかして例の、ポチをフリーズさせたっていう?」

「あ、はい、そうです」

「…………」

 ルースはしばらく何かを考えているようだったが、

「わかりました。おそらくいけますわね。赤が先かゼルガが先か、それが気になるところではありますが……」

 と小さく呟いた。

「だから、俺にもわかるように言ってくれないか?」

「駄目ですわ。ギリギリまでわからなかった方が、その分長く平等でいられますもの」

 ルースはもうわかってるんだから全然平等じゃないだろう。そう思ったものの、岩田は口に出さなかった。後でわかるのなら、それでも良いような気がしたからだ。

「では、クラリス様。私達のために用意が整ったというお部屋、もしもご存知ならばそこまで案内して下さいな」

「あ、了解しました。こちらへどうぞ」

 かくして岩田達は、祖父の部屋を後にした。

 クラリスに案内されて(かなり複雑な経路を歩かされ、途中で一〇人以上の使用人とすれ違い、何故か一匹の巻き付きジェルファリカミ・マスニと戦う羽目になったが)、二人はそれぞれの客間へと通された。岩田とルースの部屋は二部屋挟んで廊下の同じ側だ。

「では、さしあたっては別行動ということで」

 ルースは飄々と言ってのけ、与えられた部屋の襖をぴしゃりと内側から閉じた。岩田とクラリスは顔を見合わせる。

「夕餉の準備が整いましたら呼びに来ますので、岩田様も休んでいて下さい」

 岩田は促されるまま、客間に入った。一人になると、疲れがどっと両肩に圧し掛かって来た。

 広々とした畳の上で仰向けに横たわる。伸びをしたその手に何も握られておらず、祖父の部屋にギジンダンの入った袋を忘れてきたことに気がついた。迂闊だった。

おそらく誰も盗んだりしないから大丈夫だろう。次に使用人の誰かが来たら取って来てもらえばいい。……いや、あの袋はハティオークだから、あんまり自分の知らない人だったら触れられない。面倒だけれど、自分で行かないといけないかもしれないな……。

 そんなことを考えつつ、彼は瞼を下ろし、ユクラプト領域内に保存してある好きな音楽を直接聴覚野に送り込んだ。緩やかなメロディーラインが岩田の心を癒し、リラックスさせる。

 ゆったりと落ち着いた気分になってから、岩田は様々なことを思い返してみた。

 自分のこと。ルースのこと。自分とルースのこと。鳩々山のこと。自分と鳩々山のこと。鳩々山とルースのこと。祖父のこと。祖母のこと。祖父と祖母のこと。鳩々山の祖父のこと。鳩々山の祖母のこと。クラリスのこと。駿河のこと。マオウのこと。ウッディーのこと。ヨーマのこと。ジョシュアのこと。三津葛のこと。風虎のこと。ジムチのこと。陽炎のこと。稚児車のこと。鎌竈のこと。ポチをフリーズさせた暗殺者のこと。ギジンダンのこと。岩瀬光斗のこと。デ・Qのこと。ヨテリーリリーのこと。カネロウキューのこと。マシュゾットのこと。ゼルガのこと。フィルガのこと。禁術のこと。宇宙のこと。そして――、自分の未来のこと。

 とにかく色々なことを思い巡らすうちに、心地良い音楽も手伝ってか岩田は徐々に眠くなってきた。

 実はこの音楽を聴きながら眠ると、過去に何度か、見たいと思った夢を見ることが出来た。岩田は今回もその験を担いだわけだが、……さすがにマオウハントの続きは見られそうになかった。



 一方ルースの部屋では、事の真相に到達するための準備が着々と進行しつつあった。

 和装のルースと、ルースがこの部屋に呼び出した洋装の人間とが、座卓を挟んで向かい合っている。沈黙がしばらく続いた。

「……あなたが、岩田様に強制夢を見せた犯人類ですのね?」

 タイミングを見計らって、ルースがその人間に問いかけた。問いかけというより、むしろ確認に近かった。

 それに対する返答はしばらく無く、再び沈黙が続いた。

 だが、静かに目を閉じていたその人間は徐に、そうであるという意味合いの返事をし、悪気は無かったと謝罪した。

「まあ、そのくらいのことはわかっていましたわ。あなたが岩田様に害意を持っている理由がありませんもの。どうしてそのようなことをなさったのかは、後々、本人の前でおっしゃって下さいな」

 ルースには、犯人類を責めたり咎めたりする気は毛頭無かった。むしろ、結果としてマオウハントという魅力的な謎を提供してくれたことに感謝したいくらいだった。

 犯人類は少し戸惑ったような素振りを見せたが、結局は首肯した。

 ルースはにこりと満面の笑みを返し、こう切り出した。

「本題に入りましょう。あなたが犯人類であるということは、やはり、私達……、いえ、おばあ様の考え方が根本的に間違っていたということですわね?」

 具体的にはここがこう間違っていたということですわ。ルースが慎重にその説明をすると、犯人類はその通りであると同意した。

「良かったですわ。私の考えた作戦でうまく行きそうですわ」

 ルースが、ほっと胸を撫で下ろしていると、

「失礼します。入室してもよろしいでしょうか?」

 もう一人呼んでおいた人物が到着し、部屋の外から声をかけた。彼ら使用人は、中から入室の許可があるまで私的な部屋の扉や襖を開けない決まりのはずだった(駿河とクラリスは一度ずつ祖父の部屋に無断で入室していたが、前者は不心得者だから、後者は緊急事態だったから、といずれも妥当な説明が付けられる)。

「よろしいですわ」

 ルースが声をかけると、静かに襖が開いた。正座した状態でそこに待機していたのは、一〇代半ばほどと見られる少年だった。なかなかの美形ですわ、岩田様には劣りますが、と独特な美的感覚を心の中だけで披露しつつ、ルースは笑顔で迎え入れた。彼は全く音を立てずに部屋に入り、襖を閉めてから犯人類の隣に綺麗な姿勢で座した。ルースは、その立居振舞だけで少年の格闘術の才を見抜いた。

 彼は名を名乗ると、何の用なのか極めて正確な敬語を使って尋ねた。そのあまりの好感度に、国民の大概の女性なら惚れてしまうのではないでしょうか、とルースはいらぬ心配をした。ジャゲン党なら党幹部、ジャゲン教なら枢機卿、サンチャガリー会ならモテ神の地位が狙えるだろう。

「あなたが、半年ほど前にポチをフリーズさせた暗殺者ですわね? 他に、セパレーション系とコントロール系、それにジャンプ系、フィーリング系も使えると聞いておりますが……」

「その通りです。一応、中ではジャンプ系が一番得意ですけど」

 好都合ですわ、とルースは頷いた。そして――

「今から、あなたにやっていただきたいことを説明致します。実行不可能なことがあれば、遠慮無くおっしゃって下さい。妥協出来る代替方法を考えますから」

 次々に自分の計画を伝えて行く。

 犯人類と少年は、ルースの計画を聞いて度肝を抜かれたようだった。突拍子もない代物のようだが、マオウハントの謎を解き、あまつさえ全ての辻褄が合うようにきちんと考え抜いたつもりだ。驚いて当然ですわ、とルースは誇らしげな気持ちになる。

 だが、元・職業暗殺者は知識も豊富である。少年は驚きから立ち直ると、一つ一つの行程に細かい指摘を入れ、鋭い質疑を次々放り込んで来た。犯人類から、根本的な危険性を問題視する意見も出た。ルースは幾つかの些末な改善案に理解を示したものの、基本的な骨子は頑として譲らなかった。しばらく問答が続いたが、説得力ある熱弁を揮ったルースが舌戦を制し、押し切った。ジェパヴォッティで汗を流した後のような、心地良い疲労を感じた。

 一時間後にはすっかり寛ぎ、雑談に興じていた。実は少年が犯人類の弟だという話を聞き、ルースは驚いた。

「血は争えないものですわ、と言うと辛辣な皮肉になりますわね」

 それはどういった意味ですか、と少年が怒ったように言うのを軽く聞き流し、微笑む。

 ふと、柄にも無く心に陰が兆した。ルースは何故か、幼い頃からやたらと咎められることが多かった。未成熟な自我に、理不尽な叱責は堪えた。だからルースは、叱られた際に大抵のことを誤魔化せるように、恒常的に仮面のような笑顔を纏うことを決意したのだ。そしてそれ以来、自分の意に添わない笑みを顔面に貼り付けて日常を送り、どうにかこうにか世間の中に溶け込んできた。……自分ではそういう寂しい過去を持つ悲劇的な女を気取っていたつもりだった。

 けれどもある時岩田から、「そう言えばルースって、いつも笑ってたせいで、昔っから色んな人に注意されてたよな」と何気ない指摘を受けたのだ。苦笑混じりに。

 衝撃的だった。一瞬だけ色を失って真顔に戻ってしまった。叱責されても大丈夫なようにと笑顔でいることを覚えたはずなのに、笑顔でいたこと自体が咎められる原因だったというのだ。だとしたら、叱責と笑顔、一体どちらが先なのだろうか……?

 この計画にしても、同じことだった。一体どちらが先なのか、きっとその問題が付き纏うに違いない。赤が先かゼルガが先か、いつまで経っても論争に決着がつかないように。

 ただ、それは明らかになろうがなるまいが、どちらでも構わない問題かもしれない。マオウハントの謎が解ければ全て帳消しになるのだ。「まあ、俺としては、どれだけ叱られても笑顔の絶えないルースは昔から貴重な存在だったけどね。見てて和むし」と岩田が言ってくれたおかげで、ルースが笑う意味を取り戻したように……。

「どうして笑っているんですか」

 少し憤然と追及して来る少年に、

「……別に深い意味はありませんわ」

 ルースは飄々と答えた。



 駿河は、与えられた仕事が無いのを良いことに(年賀の仕分けを手伝ってという幻聴が隣室から聞こえたが、知ったことか)、自室で横になって、天井の木目の数を二進法で数えていた。クラリスに殴らせてやった左側頭部がずきずきと痛む。痛みを無視する方法は暗殺稼業を営んでいた頃に当然体得していたが、消さねばならないほど酷いものでもなかったので、敢えて放っておいた。鬱々と考える。

 クラリスは自分を殴る際に鋼鉄製のガツクトック(ガメドレイアの先端をわざと潰して鈍器のように変えた上で、持ち手の部分に握りをつけて強く掴むことが可能になっている武器。一般には出回っていないが暗殺業界ではよく使われる)をハティオークで出していたが、もしや本気で自分を殺す気だったのだろうか? そうだとすれば、現在の仕事の同胞である点を差し引いても、十分反撃をする理由となり得る気がした。次に会った時、尋ねる必要がありそうだ。

 いや、待て。それ以前に、何故、自分が殴られなければならなかったのだ?

 しばらくその原因を模索し(彼は最近物忘れが酷かった)、ようやく一人の女性の顔に思い至った。

 ……そうだ、あの孫娘だ。あいつの不義なる主張に対する自分の正義の鉄槌が、クラリスの逆鱗に触れたのだ(考えてみると不思議な話だ、これではまるで同胞クラリスが不義なる主張を支持しているように聞こえるではないか!)。断じて許すわけにはいけない。あいつのせいで自分の身に危険が及んだのだから。何よりあいつは、自分を侮辱したではないか。

 大体このようなことを『東西南北柘榴同盟』の主人公(「我は断じて眠っていたのではない。気を失っていただけだ」は名言だ)の口調で考えた駿河は、沸々と滾る怒りを抑えられなくなった。相手が女子供であろうと、自らを侮辱した者に対して容赦する必要は無い。

 彼は起き上がると、部屋の隅にある机の四段目の引き出しから、随分と古ぼけた分厚いノートを取り出した。ネファシクロンドーの背鰭の色をしたその表紙には、『切捨て御免』という見事な毛筆の文字が踊っている。駿河は、五〇音別に区分けされているそれの、『る』のページを開いた。そこには既に、『ルイス一六世』『ルッテンリグド』の二つの名前が書き込まれており、すぐ右側に二人とも大きく赤で『済』と記されている。さらに、前者には『仕事』、後者には『私怨』と続き、日付や場所、天気を書く欄まで用意してあり、最後は一口メモで締め括られていた(ルイス一六世の項目には「ザルデ貴族としての誇りか、最期まで見苦しい命乞いなどはせず、娘と妻の身を案じていた。天晴れである」とあるが、ルッテンリグドのところには「勝手に我がクルロワを一升全部飲み干すなど、万死に値する。懺悔する気もないので処刑」と、かなり恐ろしいことが記載されている)。

 駿河は、『ルッテンリグド』の下に、最高級の筆ペンをとって『ルウス』と書いた後、

「ルウス? いや……、ルースか?」

 と呟き、『ルウス』の後ろに括弧書きをつけて『ルウス(ルース)』とした。そして、少し離れた所に、『私怨』と書き込む。後は切り捨てた後で埋めれば良いことなので、ノートを畳んだ。

 だが、それを元あった場所に仕舞う寸前で、

「待て……、この際だから、あの孫も入れておくか」

 と、再び開き、今度は『い』のページを探す。

 余談ではあるが、駿河は一度でも殺意を覚えた者は必ずこのノートに記名するので、別にこのノートに名が載った者がすぐに切り捨てられるわけではない。『名前が載っていない者に比べて不審な死を迎える確率が異常に高い者達』という程度の認識で良い。

 ともかく、駿河が『い』のページを見ると、そこには膨大な数の名前が載っていた。『る』で始まる名前は多くないが、『い』ならかなりの数に上るからだ。しかし駿河は、最近あまりこのページを開いた覚えが無かった。

 案の定、『い』のページ最後の行にある『岩瀬光斗』(済)の切り捨て日程は八年前の日付になっていた(気になる方のために一口メモを引用すると「敵が可憐な少女に化けている、という初歩的な変装さえ見破れぬ恥ずべき暗殺者を臆面も無く演じ切ったため、二年前に処刑決定。ファンであったため殺しあぐねていたが、天罰でも下ったか、突如高圧ガス爆発を起こした。その際、偶然近くにいた我が、か弱き女から力強き男へと転身出来たのも天の導きであろう。これで虐げられて来た日々とも永遠におさらばだ」)。駿河は、『岩瀬光斗』の下に『岩田』と書き、しばし黙ってそれを睨み付けた後、

「師匠と間違えるか?」

 と呟き、『岩田』の後ろに括弧書きをつけて、『岩田(孫)』とした。少し離れた箇所に『私怨』と書き込み、ばたんとノートを閉じた。

「これで良し」

 今度こそノートを元の場所に仕舞って、駿河は机の隣のトリプルベッドに倒れこんだ。畳の上にベッドを置くことは他の使用人(特に風虎)の反感を買ったので、ここだけ畳を外してある。そうまでしてベッドを入れたかった理由は、バモールフを敷く手間がないため、疲れた時すぐに眠りに就くことが出来るという一点に尽きた。尤も先のように、直接畳の上に寝転がることも多いのであるが。

 夕餉までは我に仕事もなかろう。一眠りするとするか。

 欠伸をして(チェアルキッツェ期だが、もう禁止事項ではないはずだ)、時計を見る。起きるべき時刻を知らせるようにユクラプト領域の時限警告装置を起動させ、キラ高原の丸々と太った羊の数を数えつつ、彼は眠りに落ちて行った。

 駿河はよく、夢を見た。それも、全く同じ夢を何度も見るのだ。

 その夢の中で駿河はいつも三〇歳くらいの男で(これは駿河が女性だった頃からそうだった)、奇妙に暗い空の下、砂嵐の巻き起こる砂漠を一人でひたすらに歩き続けるのだ。男には病気の妹がいるらしく、異常気象のためにまともな食べ物を与えられないことに心を痛めた彼は、占い師(と言っても、この人物は禁術の『占い』を使用できる能力者でないようだ)に相談し、真東に進めば活路を見出せると言われて、町を飛び出して来た。彼は、砂漠の中で何度も倒れそうになり、何度も諦めそうになり、何度も死にそうになりながら、それでも懸命に進み続ける。そしてある朝彼が目を覚ますと、砂嵐はぴたりと止んでおり、目と鼻の先に想像を絶する大きさの土壁(国境壁の方がもっと高いではないか、と駿河はいつも思う)が聳え立っていた。よく見るとそこには、一ヶ所だけぽっかりと黒い穴が口を開けており、彼の到来を待ち詫びているようだ。彼は臆することなくそこに入り、そして――

 世界を、裏切る。

 ……そんな夢だ。

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