第二章 提示される謎・マオウハンター岩田君
岩田が祖父の元を訪ねるのは約二年ぶりだった。
二年前の正月は恐る恐る家門をくぐったものだが、今やユルトルバルザッティ8が出て来ないことはわかっている。恐れることは何もなかった。
正門から玄関までは一五〇メートル(約五・〇一一ポズレー)。辺り一面、古式庭園風に玉砂利が敷き詰められており、その上に不自然なほど細長い木板が、真っ直ぐ玄関に続いていた。
無論、トラップである。均衡を崩して板から足を踏み外し、玉砂利を少しでも踏んでしまうと、警報装置が作動して家の裏手から飼いハミドルフェ(こんな生命体をペットにする者など、岩田の祖父くらいしかいない)のポチが現れ、鬼咆えを食らわしてくる仕掛けになっているのだ。尤も、ポチは岩田に懐いていたので、彼に対する鬼咆えはいつも手加減されていて、大砲ほどの威力もなかった(そのため彼は、ポチが鬼咆えでサング盗賊団の頭を南の国境壁まで吹き飛ばしたという逸話を未だに信じていない)。
岩田が、その細い板に一歩目を踏み出す直前、
「待って下さい」
と、後ろから、一緒に来ていたルースが緩く制止した。
「何? 手短に頼むよ」
岩田は素直に足を下ろした。板でもなく玉砂利でもない、その手前の路面の上に。ルースは静々と岩田の隣に並び、語り始める。
「半年ほど前に、この家に暗殺者が訪ねて来たことがあったらしいのですが」
「またか」
別段、驚くほどのことでもなかった。岩田の祖父母は、不自然なくらいよく狙われる(ヒビッ党の連中が勧誘に来ることさえあるのだ)。暗殺者の訪問など、日常茶飯事もいいところで、現に、二年前の段階でこの家にいた二五人のお手伝いのうち、二四人までは元々暗殺目的で侵入し、岩田の祖父に諭されて軍門に下った者であるという有様だった(ちなみに残りの一人は、錬金術を学ぶためにこの家に留学していた、鳩々山の祖父の弟子である)。最年少のクラリスは一四歳にしてハティオークの達人であったため、二年前にここに来た際、岩田は彼女から手ほどきを受けて、二日で基礎を完全にマスターしていた(その後、一緒に買い物に出掛けた所をルースに目撃されて、何故か突然怒り出したルースを宥めるため、一個二〇円もするカトゥーカトゥーを自腹で買う羽目になったのだが、それはあまり思い出したくない)。
「その折に警報装置に反応して飛び出したポチがフリーズさせられてしまったらしくて」
その暗殺者はフリーズ系の能力者だったのだろうか。しかし、何にしても妙だ。そいつは、ハミドルフェに勝てるほど強い能力者のくせに、この程度のトラップ(板と玉砂利のトラップは、『国家の罠百選』の二番目に載っている罠であり、暗殺者にとってはバナナの皮が置いてあるのと同じほどの効果しか期待できない。そんな代物に引っかかる奴など、どう考えても三流以下だ)を作動させてしまっているのだ。一体どんな奴なのだろう?
「良い機会だからポチを休ませようということになりまして、罠の種類が変わりましたの」
「どんな風に?」
「この板を踏むと、呪殺消影獄炎陣という方陣が起動して、踏んだ者が燃え上がる仕組みになっているそうですわ」
「助かる余地くらい残せよ」
思わず呻くように指摘した。
呪殺消影獄炎陣は、陣士である鳩々山の祖父が得意とする禁術『陣術』の一つで、文字通り対象の影すら燃え尽きるほど容赦のない炎をとにかく浴びせ掛けるだけの魔方陣だ。滅多なことがない限り被術者は助からない。一度、この陣をコンロの代わりにしてバーベキューを企てたことがあったが、肉、野菜、ポッツァーどころか金網すらも燃え尽きてしまい、二進も三進も行かなかった。
ちなみに、よくデ・Qが炎の檻の中に飛び込んで大騒ぎする企画があるが、あの炎は上記の陣とは異なる魔方陣の由来であり、焚き火くらいの温度しかないのでご安心を。別に、デ・Qの肉体の力が陣術最強の絶技を上回っているわけではない。
岩田は少し沈黙した後、「……色々と聞きたいことはあるけど、家に入ってからにしようか」と、疲れた口調で言った。現に、肉体的にではなく精神的には大いに疲れていたのだが。
「はい、そうしましょう」
ルースの無邪気な返事を聞き、岩田は記念すべき一歩目を踏み出した。玉砂利の上へと。
その瞬間――。
人間の可聴音域を遥かに越えた高音が、これでもかというほどの大音量で発せられるのを、岩田は確かにフィーリング系のオーヴァーヒアリング(岩田が常に稼動させている数少ない禁術の一つ。普段なら聞き逃してしまう音の中で、自分との関連度が七を越えるものだけを選択的に聞き取ることが出来るようになる能力)で聞いた。
岩田は、嫌な予感を全開にして、隣の従姉妹に振り向いた。
「ルース。警報装置が作動したようだが……これは一体どういうことだろうね?」
それに対し、ルースは満面の笑みで答えてくれた。
「もちろん、玉砂利を踏んだらポチが来るのはいつもの通りですわ」
「ポチは休ませることにしたんじゃなかったっけ?」
「ですから、耳障りだった警報装置のベルの音を、超高音域のものに変えたのでしょう。あの音は、ポチにとってストレスになるようでしたし」
「休ませるって言うかなあ、それ?」
「ポチはだいぶ楽になったみたいですわ」
「ていうか……、知ってたんならそれも教えて欲しかったよ……」
直後、家の裏手から五〇〇メートル(約六・二一五ポズレー)の距離を五秒で走って来ていた飼いハミドルフェが、大きな顎を開き、岩田の死角から鬼咆えを見舞った。威力は相変わらず手加減されていたが、不意打ちということもあり、岩田はもんどりうって頭から地面に激突し、そのままごろごろと転がって向かいの塀に激突した所でようやく止まった。ディフェンシヴシールド(シールド系の能力。物理的な衝撃を和らげる)が無意識的に展開されていたため外見上は無傷だったが、彼は脳震盪を起こして気絶しかけていた。
勿論、ルースはヨイギストゥスの資格があるため、自動的に展開されるサリーバのおかげでドルフェ系の動物によるハウリングは一切無効であった。
薄れ行く意識の中で、岩田は、そうか、ヨイギストゥスの資格があったから、ルースは今まで一度もこいつの攻撃を受けずに済んでいたんだな、と今更ながらに理解したが、覚醒には至らず、そのまま深い闇の中へ引きずりこまれた。
「……さん、起きて下さい」
鈴の鳴るような美しい声が聞こえる。心の、どこか深い奥の方でそれを感じながら、岩田君は、逆に初めて自分が寝ていたことを思い出した。そういえば、久しぶりに仮眠をとったのだった。二時間経ったら起こすように、ルースに頼んでおいたのだが、もうそんな時間なのだろうか。思いの外、深く寝入ってしまったようだ。
覚醒のために意識を外に開いていく。背中が痛いのは、岩にもたれかかって眠ったからだろう。それ以外に、体の節々がぎしぎしと軋んだが、今までの冒険の疲労の蓄積を考えれば無理もないことだった。どこから調達したものか、体には肌触りの良い毛布(バモールフの一種)がかけられている。砂漠の夜は冷え込む。その心配りはうれしかった。
ゆっくりと目を開く。星明りの中、こちらを覗きこむようにしている着物姿の女性がいた。目が合った。女性はにこにこと、
「おはようございます。クラッシュ浜松さん」
と、笑いかけてきた。
岩田君は一気に覚醒して、誰だそいつはと大声をあげそうになったが、そういえばルース達にはまだ本名を教えていないのだと思い出した。そのため、彼女らは自分に勝手な名前を付けて呼ぶのが常だった。尤も、ルースや鳩々山などという仲間の名前も偽名に過ぎないのだから、その点ではおあいこだ。
岩田君はぎこちなく笑みを返した。
「おはよう、ルース。この毛布、ありがとう」
立ち上がってズボンに付いた砂を払い落とし、毛布を手渡す。ルースはそれを受け取ってにこりと微笑むと、スーッと滑るように移動して行った。ルースは座布団に正座して空中を浮遊しているのだ。推進力はいささか謎だが、謎の解明は半ば諦めている。一時期、彼女は本当は足が不自由なのではないかと思ったりもしたが、思った翌日に、徒歩でやって来たので――「今日は座布団を陰干しにしなければなりませんの」――、車椅子(何か特殊な乗り物?)の代わりであるわけではないらしい。
七メートル(約一・九四六ポズレー)ほど先には焚き火が爆ぜており、それを囲むように二つの人影が座っていた。ルースはするすると滑って行き、「クラッシュ浜松さん、起きましたわ」と報告する。岩田君も歩いてそちらに向かった。
「起きたか。クラッシュ浜松さん、そろそろ出るぞ」
二人の内、背の高い方――鳩々山だ――が声をかけて来る。
鳩々山狂四郎。もちろん偽名だ。ルースの兄だと名乗っているが、それすら本当なのかどうか、岩田君にはわからない。魔方陣を使って何だか物凄い物理作用を引き起こすのだが、どんなトリックで何をやっているのか見当もつかない。不思議な、というより異常な、という形容が似合っている男である。
仮名を揶揄するよな彼らの呼び方を聞いていると、本名を教えてやりたい気分にもなったが、油断は禁物だ。少なくとも、彼らの素性や目的がわからない状況では、一方的に本名を知られるのはまずいからだ。岩田君は、いまいち彼らを信用し切れていなかった。
出るぞ、と言われても一体何のことだかわからなくなっている自分に驚きながら無言で立っていると、もう一人が軽快な身のこなしで立ち上がった。
「まだ寝ぼけているのか? 名称不明さん」
立ち上がって目の前に来ても、そいつは岩田君より頭一つ分背が低かった。この男の名前は――といっても偽名だが――何といったろう。……そんなことすら思い出せないのか? 半ば愕然としながら岩田君は、
「いや、寝ぼけてはいない。絶好調とも言えないがな。
と勝手に口が言葉を紡ぐに任せた。
森林。鳩々山の幼馴染であり、あらゆる武器を使いこなすことが出来る武術の達人だ。あくまで自称であり、まともに戦っている姿など見たことはなかったが。
ふと岩田君は、意識と違う所で勝手に動く何者かが体内に紛れ込んでいるような錯覚に陥った。
(いや、違う!)
岩田は気付いた。自分の意識と違う所で勝手に動く岩田君の意識があるのだ。体は岩田の思い通りに動かない。まるで自分が、岩田君の肉体に同調しているような感覚だった。
(これは、夢か。それにしては、やけに現実的な夢だ)
岩田君は首を傾げつつ、心の中の動きに多少の注意を向けようとした。しかし、森林がその集中を削ぐように、「睡眠なんて必要のないことだ。武術を極めた者にはね!」などと大声で笑い飛ばしたため、残念ながら諦めた。そう言う割に、普段は森林もしっかり寝ているじゃないか、と岩田君は思ったが、理不尽な発言にはもう慣れてしまっていたので、何を言う気も起こらなかった。
「ヨーマは? 偵察か?」
今更ながら、仲間の一人が足りないことに気付き、岩田君は誰にともなく尋ねる。
「そうですわ。今しがた連絡が入りましたの。マオウの巣を見つけたそうですので、早く合流しましょう」
(マオウ?)
ルースの口から出た聞き慣れない単語に岩田は違和感を覚えたが、
「そうか、じゃあ急がないとな。方角と距離を教えてくれ。あと、ヨーマに今から行く旨を伝えるんだ。焚き火は消しておこう」
と、岩田君の口では的確な指示を飛ばしていた。
「北西に五キロ(約八・五一七ポズレー)。連絡はもう行ってる」
鳩々山が、そんなことは当然だろ、と言わんばかりの態度で応じた。森林は火を踏み消していた。
(マオウ? 何だ、それは?)
一人だけ状況に付いて行けないのに、リーダーシップを発揮している自分(いや、自分じゃないのか?)。よくわからなかったが、なるようになるという楽天的な考えで、岩田はこの状況に身を任せようと思っていた。何より、彼にはそうするしか手が無かった。
四人は、北西に向かって移動を開始した。荷物らしい荷物もなく、自分達はどうやって旅をしてきたのだろう、と岩田にはそれが不思議でならなかった。
五キロを踏破するのに、三〇分とかからなかった。
その間、岩田君は仲間と談笑していたが、緊張のために少し態度が不自然になってしまうのは否めなかった。何に緊張しているのかわからないが、どうやら他の三人も心穏やかでない様子だということに岩田は気が付いていた。
わからないことは、仕方がない。普段の岩田ならば確実にそう割り切って考えるのだろうが、わけのわからないことだらけだとそうも言っていられないのだと思い知らされた。
未知ばかりに囲まれると、不安が消えてくれない。
前方にとてつもなく大きな土壁がのっぺりと立ち塞がっており(さすがに国境壁の方が高い、と岩田は思った)、その一箇所にだけ、ぽっかりと黒い洞が口を開けている。あそこがマオウの巣だろうか? 岩田君は周囲を見渡して、
「ヨーマ」
と、小さく呼びかけた。
すると、傍の岩の陰から、ひょっこりと子供の顔が現れる。
ヨーマラリリック。彼とは、マオウハント二日目に出会った。一万光年(時間の単位?)の彼方から宇宙船(乗り物の一種?)でやって来た宇宙人(ウチュウ人?)であり、岩田君は、彼に初めて遭遇した時、平穏な日常には戻れないことを覚悟した。一般人が踏み込んでは行けない領域に来てしまったことを知って、少しだけ後悔した。
それでも、マオウハントは最後までやり遂げよう、と岩田君は決めていた。たとえその先に何があるのかわからなくとも。
泣きそうだったヨーマの表情が、ぱっと明るくなる。
「遅かったじゃないか。もっと早く来てくれよ。一人になるの苦手なんだから」
大声をあげるわけにはいかないので声のトーンは落とされていたが、岩田君達に会えて心底ホッとした様子が見て取れた。
「で、あの洞穴がマオウの巣か?」
「うん。たぶんかなり大きなマオウだと思う」
「マオウに大きいも小さいもないだろ」
岩田君がそう言うのには勿論わけがあった。奴らは伸縮自在であり、体長二ミリ(約零下六・二一四ポズレー)から二キロ(約七・六〇一ポズレー)まで自在に変えることが出来る。ここまで、四一匹のマオウを捕まえることが出来たのも、それらを小さな籠に入れて持ち歩くことが出来るのも、マオウが体を縮めてくれるおかげなのだ。しかしヨーマは、
「違うんだ、あのマオウは。たぶん、一番小さい時でも二メートル(約〇・六九三一ポズレー)はあるんじゃないかな。生命反応の桁が違うもの」
と呟くように言った。少し、その顔に恐怖が垣間見えた。
「マオウの王のような存在なのではないでしょうか? 全マオウ四二匹の長たる存在がいるとしても、生物学的には何らおかしくありませんし」
ルースの意見に、その場が凍り付いた。
「……王は、抵抗せずに捕まってくれるものなのか?」
それは質問の形をとっていたが、質問のつもりで呟かれた言葉ではなかった。
「おそらく、敵対してくるだろうな」
緊迫した空気が流れた。
これまで遭遇したマオウ達は、敵対や逃亡の姿勢を全く見せていなかったにも拘らず、捕獲するのに多大な労力が必要だったのだ。もしも巨大なマオウに抵抗を受けるようなことになれば、どれほどの苦戦を強いられるか見当も付かない。
岩田君の視線の先で、森林が今にも星の降って来そうな空を見上げた。その横顔は決意に満ちていた。頬には冷や汗が流れ落ちている。彼は一度だけ嘆息すると、
「大丈夫だ。俺に勝てない敵などいないからな」
と、強気に笑ってみせた。
そうか、と岩田君は目を閉じる。最後の戦い。そんな言葉が頭の中に踊った。これが終われば、何かしらの答えが出るのだろうか。自分とこの仲間達の関係に。曖昧な自分の将来に。全く見えて来ない自分の運命に――。
「クラッシュ浜松さん」
鳩々山の声が、岩田君の思考を中断させる。正直、邪魔するなら邪魔するで、もっとまともなセリフを吐いてもらいたかった。
「なんだ?」
「大したことではないのだが、少し聞いてくれるか?」
「……手短に頼む」
「ワインディングスターロードが何処につながるものなのか分からない、ということはもう言ったよな? それでもお前は、マオウハントを完遂させる勇気が――」
「ちょっと待て」
岩田君は、鳩々山の言葉を遮った。頭痛を抑えるように額に手を当て、顔を顰めながら、
「何ロードだって言った?」
「ワインディングスターロードだ。忘れたのか?」
「忘れたも何も聞いたことねえよ!」
「何だと!」
鳩々山の大声に、森林とヨーマが指を一本立てて、「しーっ」というジェスチャーを見せた。ルースは知らん顔で昆布茶(お茶の一種)を飲んでいる。
「知らなかっただと! なら、お前は何の理由があってマオウハンターなどというふざけた職業に就いたのだ!」
声のトーンは注意にもかかわらず、全く落ちていなかった。
「お前が俺を無理矢理砂漠に連れて来たからだろうが」
一週間前、喫茶店(コリャヌモンの一種)で朝食を摂っていた岩田君の元に、鳩々山が現れたのだ。そして突然、どんな手段を講じてか、砂漠へと瞬間移動させられていた。何のために砂漠になど連れて来たのかと激怒しながら尋ねると、謎の生物マオウを捕まえるためだと言うので、じゃあそれには付き合ってやるから終わったらすぐ戻せ、と渋々引き受けた。
始めは、ただ、それだけの話だった。
岩田君は、どうして鳩々山達がマオウを捕まえようとしているのか、その理由を考えようとしなかった。マオウは不思議な動物だったし、マオウハントは楽しかった。これまでの退屈な生活から一転、こんな魅力的な生活は無いと思った。それでいいのだと思っていた。
しかし。ワインディングスターロード? 何か、岩田君の知らない大きな事態が、マオウハントの裏側に隠れていたようだ。
「で、何なんだよ、ワインディングスターロードって」
鳩々山は何故か目を閉じ、沈黙した。
「いきなり黙らないで教えてくれよ」
「僕も是非聞きたいな」
岩田君と同じく、その場の流れで同行していたヨーマも同意する。もう誰も、静かにしろとは言わなかった。
「言っても良いんだが、ワインディングスターロードに関して、大したことがわかっているわけではない。そんなに期待するなよ」
鳩々山はそう前置きして、
「マオウを四二匹捕まえた時、『曲がりくねった星の
「いや、最後の方はどうでも良いとして――」
岩田君は鳩々山の目をじっと見据えた。
「結局、ワインディングスターロードって何なんだよ?」
「道、だろうな。おそらくは」
「…………」
ヨーマが口を挟む。
「わかってることってそれだけなの?」
「ああ」
即答だった。
「何もわかっていないのと同じじゃないか!」
「だから期待するなといったろう」
「知らないにもほどがあると思うが……」
岩田君は頭を抱えた。
こいつらは、そんな得体の知れないもののためにマオウハントを行っていたというのだろうか? 向こう見ずというか、勇敢というか……、どちらにしろ、彼の好きな言葉であるところの、慎重さとは縁遠かった。
「ともかく、捕まえてみないことには始まらないですわ。無駄な会話もほどほどにして先に進みましょう」
ルースが勝手に場をまとめた。会話の流れを完全に断ち切って終わらせただけのようにも思えた。彼女は怯む様子もなく、洞穴の方へと滑って進んで行く。割り切れない気持ちを引きずりながら、岩田君もそれに続いた。
砂を踏みしめる音が、やけに耳についた。
光源は、小さなライター(小型の発火装置)しかなかった。
しかし、洞穴は入り口からここまで、狭くなることも広くなることもなく、壁面は滑らかで、道のりは直線状であったため、どこかにぶつかる心配などまるでなかった。さらに、洞窟に特有な淀んだ空気の匂いもせず、かといって外気が吹き込んでいる様子もない。
不気味だった。まるで時間そのものが止まっているような、不自然に静謐な場所だった。奥に進むにつれ、マオウの存在感、威圧感がひしひしと肌に伝わって来る気がして、岩田君は思わず生唾を飲み込んだ。
「……あと五〇メートル(約三・九一二ポズレー)で広間に出る。そこにマオウがいるみたい」
空間認知能力と生命感応能力を併せ持つヨーマが告げた。声は反響もせずに壁に吸い込まれて消えた。一同は、自然と立ち止まった。
鳩々山が、おもむろに口を開く。
「よし。ここで例の作戦を確認しておく」
「ちょっと待て」
岩田君は、頭のどこか、最も基本的な部分が痛むのを感じた。
「作戦なんていつ決めた?」
「心の中では三年ほど前から」
「そんな個人的なことではなく、共通認識としては?」
「口に出した覚えはないが、皆、察してくれているだろう。仲間なのだし」
「それは無理な話だと思うぞ。いくら仲間だろうと」
鳩々山はそれを聞いて、薄闇の中でそれとわかるほど愕然とした表情になった。
「世知辛い世の中になったものだな」
「そういう問題じゃない。とにかくその、例の作戦とやらを教えてくれ」
「作戦? 何だそれは?」
「もういいや。お前とまともに会話出来ると信じた俺が馬鹿だった」
くすくすと声を出さずに笑っているルースを後目に、岩田君は再び歩き出す。
「名称不明さん」
森林の声は勿論聞こえた。それでも岩田君は足を止めなかった。声は響かないくせに、足音だけがやけに反響する。
「マオウハントが終わったら、本当の名前、教えてくれよ」
足音が、止んだ。
「無事に、終われたら、考えてやる」
そうして、足音が四重になって再開される。
無事に終われたら、か。岩田君は自分で言いながら、何故かそれはないだろうと心のどこかで思っていた。嫌な予感がする。何かひどく、悪いことが起こりそうな気がする。
……当たらなければ良いのだが。
彼の悪い予感は、よく当たる。思えば初めて鳩々山に会った忌まわしいあの夜も、こんな嫌な感じがしたのだった。
五〇メートルは、一瞬だった。岩田君には、そう感じられた。
そして、場が開けた。
一同が広間に出たのと、それが起こったのはほぼ同時だった。
突如、場が明るくなる。雰囲気のことではない。明かりが灯ったのだ。目を眩まされ、思わず両目を手で覆った岩田君の横を、二つの気配と足音が追い抜いて行く。
「ダメだ! 下がれ!」
目を閉じたまま指示を出すが、後ろから飛び出した二人は決して止まらなかった。
反撃が来る。マオウが高らかに鳴き声をあげた。
マオーウ!!!!!!!!!!!!!!!!
否。もはやそれは鳴き声ではなく、衝撃波だった。鼓膜どころか皮膚までもがびりびりと振動し、体は後方へと押し流される。
ようやく明るさに目が慣れてきて、岩田君は場を把握した。
光源はいまいち分からなかった。柔らかい白光の中で、直径一〇メートル(約二・三〇三ポズレー)にもなる砂色の球体が浮かんでいる。マオウだ。それと対峙するように立つ、鳩々山と森林の背中が見えた。鳩々山の右手には複雑な紋様の描かれた札が握られており、森林はどこから取り出したものか、剣を携えている。ルースが、後ろで声をあげた。
「マオウをいれた籠が共鳴してますわ!」
見ると、ルースの持っている小さな籠が、ぶるぶると小刻みに振動しながら、青く発光していた。
「ヨーマ! 精神感応を開始しろ! でかい方でも、今まで捕まえた方でもいい」
「分かった!」
ヨーマが目を閉じて、髪の毛を逆立てるほどに集中し始めるのを横目で見届けてから、岩田君は鳩々山達のもとに駆けつける。
「……相手から攻撃が来るまで、こちらからは手を出しちゃダメだ。予想に反して、こいつも攻撃意志は強くないようだからな」
「百も承知だ」
鳩々山は、大マオウから目を逸らさない。食い入るようにそれを見据えつつ、左手で懐からさらに二枚の札を取り出した。いつでも発動出来るように、隙なく身構える。
大マオウに動きはない。ただ、地上一メートル(〇ポズレー)ほどの位置に浮遊しながら、そこに在るのみだ。口もなければ目もない、それはただの球体である。しかし、鳴き声をあげるし、視覚的把握能力にも長けている。
「精神感応出来たよ! 今から皆に送る!」
ヨーマが叫び、同時に頭の中に出鱈目な文字列が並んだ。
『\;aprof@.c::@o―^④p@九dkjri:②―ir,cmv04k』
「日本語かギリシャ語(言語の一種?)に変えてから送れ!」
「ごめん、今やる」
しばらくして、意味を読み取れなかった記号の羅列が、意味を持つ日本語(……日本語?)に次々と変換されて行く。
『貴様ら人間が……、今更何の用だ? 我らのことは忘れ、安寧の中で生きるのではなかったのか?』
岩田君は絶句した。こんなに高度な知能を持つマオウは初めてだったからだ。従来のマオウは、精神感応でも、ただ原始的な欲求をぶつけてくるに過ぎなかった。
『お前らは一体何者だ?』
鳩々山のものと思われる書き込みがそこに加わった。それに対し、マオウのリアクションは少し遅れて返って来た。おそらく、ヨーマが言語的変換を加えて間を取り持つのに時間を食うためだろう。
『知らないか。本当に、我らのことは完全に忘却したらしいな。まあ無理もない。あれから二千年近い日々が経過した』
何を言っている……?
岩田君のその思いは、どうやらヨーマによって伝えられたらしい。マオウからの返事があった。
『裏切りだ。我らへの裏切り。世界への裏切り。あの日、人間存在は我らを切り捨てたのだ』
…………?
(…………?)
マオウは、質問に答えているようでその実何も答えていなかった。
『ワインディングスターロードとは何なんだ?』
森林が書き込む。あまりにも率直な訊き方だったが、マオウは応えて来た。心なしか、皮肉げな響きがあった。
『星の道、か。我らを集合させれば、もう一度過去に回帰出来るとでも思っているのか? 否、そもそもそれは無知ゆえの愚考。歪んだ道など、最初で最後、もはやあの時に途切れたのだ。我らが再び機能することなどあり得ない。貴様らは、気付かぬうちに最後の砦に篭っていたというわけだ』
わからなかった。マオウの言うことが全く理解出来なかった。その本質が、一切捉えられないのだった。
ルースが続けて書き込む。
『私達は、マオウ四二匹を捕まえればワインディングスターロードが開かれる、という伝説のみしか知りませんが、それは完全に間違っていたということですか?』
『マオウ? 我らはそのような名で呼ばれているというのか? そちらの都合だけで魔王として遠ざけようとしたのか……。何れにせよ、我らの集結が過去への回帰に繋がらないことは先に言明した通りであるが、それが何も意味をなさないと言えば虚偽となる』
『具体的には?』
『滅びだ。我らは過去になることは出来ないが未来を潰すことは出来る。完全な壊滅だ。一人間存在が好奇心で踏み込んだ領域としてはあまりに絶望的だが、致し方あるまい』
岩田君は、マオウが笑みを浮かべたような印象を受けた。それも、とっておきに壮絶で、底意地の悪い笑みを。
『貴様らの行為がもはや悪以外の何物でもないとわかった今、それでも貴様らは逃げぬか?』
何かこれ以上にない程の悪心を感じた。本能的な恐怖と持ち前の判断力のおかげで、岩田君の行動は迅速だった。
『少し時間をくれ』
すぐさまマオウに向かってそう書き込み、そして、
「ヨーマ、精神感応を切ってくれ。やばい」
と命令した。すぐに、頭の中の文字列が消滅する。違和感だけが残り、眩暈にも似た感覚が襲った後、彼は正常の世界に戻ってきた。
座布団に座って浮遊するルースの方を見た。細い腕で抱えられた籠はまだ震えているし、光っている。マオウ同士の共鳴は続いているのだ。岩田君は、皆の顔を一人ずつ見回した。
「俺達は、やばい選択を迫られている。いや、違うな。それどころじゃない。もうやばい所まで踏み込んでしまったというべきか。マオウが何物なのか、二千年前に何があったのか俺には想像だに出来ないが、話を聞く限り、大マオウと今まで捕まえたマオウが集合するだけで、世界が滅びるらしい」
「それがどうしてやばいのさ? 籠の中のマオウ持ってここから逃げちまえば、世界の崩壊なんて起こらないんだろ?」
岩田君は、首を横に振った。
「違うんだよ。俺も、そうなのかと思った。だけど、こいつらは、もう集まる気でいやがるんだ」
「どういう意味ですの?」
「こいつらは、俺達に選択させる気なんてないんだ。俺達が否と言っても、はいそうですかと運命を受け入れる気なんてさらさらない。大マオウが、無理やり残りの四一匹を回収して、世界を壊滅させる気なんだ」
皆が息を呑むのがわかった。
「ど、どうしてそんなことが言える?」
「裏切りと言っていた。あいつらは人間を怨んでる節がある。それに、最後のあいつのセリフを考えると、俺達は今、逃げるか逃げないかを選ぶ段階だということになる。断るとかじゃなく、逃げる。このニュアンスは、微妙だと思わないか?」
「……考え過ぎじゃないのか?」
「……そうかもしれないが、危うい所にいるのは間違いない」
嫌な沈黙がその場を支配した。
「あのさあ」
ヨーマがわざわざ手を挙げて意見した。
「もう一度、精神感応して詳しい話聞いてみるってのはどう?」
「俺もそれに賛成だ」
森林も、挙手と共に言う。
「やっぱり、あいつと意志疎通出来るんだから、きちんと状況を把握するべきだと思う」
「それは一理あるが」
鳩々山は渋い顔をした。
「精神感応は、意識全部が伝わってしまう。先刻までは、何もわからない中で話していたが、今は違う。下手なことを考えただけで世界が崩壊してしまうとなると……。かなり危険だぞ」
「私も、お兄様と同意見ですわ」
ルースがそう言って、共鳴している籠を、岩田君に手渡した。
「ここまで二対二ですし、クラッシュ浜松さんが決めて下さいな」
ルースは、今まで岩田君に見せたことのない種類の、何だか泣き出しそうな笑みを見せた。
それに対し岩田君は、いつものぎこちない笑みを返す。
今、自分は間違いなく、瀬戸際に立たされている。元を正せば明らかに鳩々山達に原因があるのだが、不思議と彼らを責める気にはなれなかった。
ただ、迷った。
どうすれば良いのか。
どうしてこんなことになったのか。
世界の命運は、自分の肩にかかっているというのか。
(まさか。そんなことがあって良いものか)
――俺は平穏な日常を送っていられればそれで良かったのだ!――
マオウハント。
ちょっとした冒険に興奮を覚えていただけで、尋常でない世界に本当に飛び込む恐怖を、岩田君は知らなかったのだ。
全てが遅かった。何もわからないのが悔しかった。
知るべきことが、山ほど転がっているような気がした。だから、
「……精神感応を、もう一度だ」
岩田君はそう結論した。心臓の音が他人にも聞こえそうだった。
声の震えがなかったのは奇跡だと思う。今にも泣きそうだった。
それなのに、顔には笑みが浮かんでいた。
「一つ、マオウの正体を知る。二つ、二千年前にあったことを知る。三つ、今の状況の詳細を知る。四つ、打開策を知る。それが全てだ」
手の中で、籠が小刻みに振動している。それはあたかも、マオウたちが自己主張しているかのようだった。
「最悪の場合、マオウと戦ってでも世界の崩壊は止める。絶対にな」
皆が、力強く頷いた。
自分達は真の仲間だったのだ、と今更ながらに気がついた。
死にたくなかった。
今、本名を教えてやるべきかもしれない。岩田君は少し思った。
ヨーマの精神感応が始まる。頭の中に、書き込みが連なっていく。
『君たちの本質は、何だ?』
これは、戦いだ。
本当の戦いとは、静かなものなのだと、岩田は初めて知った。
本当の戦いとは、虚ろなものなのだと、岩田君は初めて知った。
答えはしばらく来なかった。そして――
目を開ける前から、それが夢であることなどわかっていた。
なのに目を覚ましたことに岩田が驚いたのは、その夢は結末まできちんと見られるものなのだと勝手に思い込んでいたからだった。
釈然としない、嫌な目覚めだった。
まどろみの中から意識を引き上げ、ゆっくり目を開いていく。その目尻から、涙が一筋零れ落ちる(夢くらいで泣くなんて、ドラマの主役だけじゃなかったんだな、と岩田は驚いた)。そして、ぼやけた視界に最初に飛び込んで来たのは、必要以上に接近した女性の顔だった。
「!」
仰天した岩田の顔を見て、女性の顔が強張る。そして、頬を真っ赤に染めるや否や、ばっと遠くまで一気に飛び退いた。岩田は、何が何だかわからないといった表情で上半身を起こす。畳張りの部屋に一組のバモールフが敷かれており、岩田はそこに寝かされていた。どうやら、祖父の邸宅の客間の一つらしい。岩田の右手に、項垂れた女性が座している。髪が金色で、洋服を着ていたためルースでないことはすぐにわかったが、一瞬だけ顔と名前が一致しなかった。
「えーと……、クラリス?」
二年前にハティオークの基礎を教えて貰った少女の名を、半信半疑で呼んでみた。女性はびくりと肩を振るわせると、突然土下座でもするかのように、低頭した。
「も、申し訳ありません。あの、その、気分を害してしまったのなら、謝ります。あの、寝顔が、とっても、綺麗だったから、ていうかその、とにかく申し訳ありません」
岩田は大いに混乱した。
「いや、何をそんなに大袈裟に謝ってるのか知らないけど、久しぶりだね。いつまでも頭下げてないで、顔見せてくれないかい?」
女性はその声につられるように、恐る恐る顔を上げる。二年の間に少し大人びた雰囲気になっていたが、記憶の中のクラリスと結び付けるのは容易だった。
岩田は笑いかけた。一応、頭の片隅では、異性への破顔が禁止事項に含まれるのはジ・フライデーで、今日はザ・フライデーだから大丈夫だよな、と自動的に計算している。こういうところでの油断が、シュブラン草を飲まされたりとかシトライガーの下に埋められたりといった、いわゆる十罰を受けるに値する大違反に繋がることを、彼は何となく知っていた。
「二年ぶりか……。見ないうちに、ますます綺麗になったね」
クラリスの容姿は岩田の知る中でも飛び抜けて整っており、その可憐度は軽く九を上回っている(ちなみにこの数値は、驚くなかれ、あの戸津杏の全盛期に匹敵する!)。
「いえ、そんな。勿体無い、お言葉です」
フルフルと首を振り、顔を真っ赤にしたクラリスはかろうじてそう答えた。視認出来れば可愛らしい仕草なのだろうが、抜群の身体能力のためにその首を振る速さは驚異的なもので、岩田には彼女の頭が霞んでいるようにしか見えない。元・職業暗殺者としての本領を無駄に発揮している。
岩田は微笑を消さぬまま、「誰が俺をここまで運んでくれたの?」と尋ねた。各種の禁術で楽に移送出来るといっても、礼をするくらいは吝かでない。そう考えての質問だった。
クラリスは首を傾げつつ、平然と答えた。
「ポチと、それからルース様です」
……考えてみれば当然だった。元を正せば気絶の原因はその二者にある。むしろ、岩田を運ぶために他の人間を呼びに行っていたら、その不義理を詰るべきだろう。岩田は結論する。礼はなしだ。
「ええと、そういえばルースは?」
「今、師匠とお話しています」
クラリスの言う師匠とは、勿論、岩田の祖父のことだ。岩田の祖父がクラリスに何かを教えているところなど想像も出来ないが、本人達が言うのだから、師弟関係にあるのは間違いないだろう。
「なら、俺も行かないと。聞きたいことが山ほどあるんだ」
岩田はのそりと立ち上がった。立ちくらみに襲われ、よろよろと二、三歩ふらついたところを、クラリスがすかさず支えてくれた。彼女は岩田に先んじて、廊下に面する襖を開ける。
「ご案内します」
クラリスがすっと先行し、岩田は自然とそれに続いた。クラリスの肩で、二箇所で複雑に括られた金髪が歩に合わせて軽く揺れている。……どうも機嫌が良いらしい、と岩田は当たりをつけた。様々な事情に通じている鳩々山が言うには、暗殺技能を持つ者の重心が歩くだけでぶれるのは、心が浮ついている証拠なのだそうだ。
祖父の部屋までは、かなりの距離があった。とにかく広いこの屋敷は、岩田が入ったことのない部屋の方が多いくらいだ。迷図のように入り組んだ廊下をクラリスに付いて歩きながら、岩田は既に現在位置を見失っていた。案内があるので特に不安を覚えることもなく、少女の小さな背中に話し掛けた。
「正門のことだけど」
「はい」
「あそこからどうやって入るの?」
「はい?」
「板の上にも罠、玉砂利にも罠なんだろ?」
「わたし達使用人は、基本的に玉砂利の上を通ります」
「ポチが来るんじゃないの?」
「来る前に門から玄関まで走り抜ければ良いだけですから」
そうなのだった。岩田は肝心の部分を失念していた。職業暗殺者は足腰の鍛え方が生半可ではない。高速ゼルガと競走をさせて勝てるようになるまで暗殺術は教えない、という流派もあるくらいなのだ。そんな彼女の意見を聞いても参考にならないのは当然だった。
「ええと、一般の国民が訪ねて来た場合はどうしてる?」
「ポチに咆えられて、飛んで行きます」
岩田は、一瞬何も言えなくなった。
「……もしかして、ここってまともな来客殆ど無いの?」
「いえ。東門には見張りがいるだけで罠はありませんから。皆さんそちらから」
「……東門なんてあったっけ?」
「隣町に、門だけ繋ぎ止めてあるんです、空間ジャンプ系の技で」
クラリスの説明だけでは正確なところを判断出来ないが、おそらく、隣町のどこかに不自然にも門だけが建っていて、それを通り抜けるとこの家の東側にジャンプする、という仕組みだろう。
こうした定点間の遠距離空間ジャンプは、相当な能力者でなければ出来ない芸当だ。その難易度はおそらく八と七分の五を下るまい。魔のコルコトゥウァ国民総会でジュケル人の長、松暗坂太夫が披露した唯一無二の独創禁術『バブエの深淵』に匹敵する。
「誰か、凄いジャンプ系の能力者がいるんだね」
「ええ。半年ほど前に、屋内に空間ジャンプで侵入しようとして、誤って玉砂利の上に落下してしまい、出て来たポチをフリーズさせた後、使用人一六名を擬似空間に放り込み、そこにうっかり自分まで閉じ込められた暗殺者がおりまして。彼が投降して、使用人の末席に加わった後に、作ってくれたんです」
「……? ふーん、随分と間の抜けた暗殺者だね」
「向いていなかったのかもしれません」
何故か、クラリスが自虐的に笑ったような気がした。
「岩田様は、この二年間、何をされてたんですか?」
「仕事。学校で戦闘員やったりとか、国民総会モドキで崩壊議長やったりとか。他にも適当に色々と」
「楽しいですか、今の生活は?」
「え?」
クラリスが急に立ち止まったので、岩田はそれに倣った。彼女は振り返らず、俯いたままで「楽しいですか、今の生活は?」と繰り返した。
「……正直言うと、あんまり楽しくはない。何か、やりたいことでも見つかればもっと楽しいんだろうけど、何をやっていいんだか全然わからないんだ」
岩田は、正直に自分の心情を吐露した。学校を出てから幾つかの職を転々としている岩田は、安定度の観点からすると、決して誉められた生活をしているとは言えない。新世紀になれば何か新しいことでも見つかるのではないか、と漠然と考えていたが、絵空事の域を出ないだろうと思われた。停滞の気配が自分の周囲に凝っているようにすら感じる。
「わたしもです」
クラリスが、弱々しい口振りで呟いた。
「いつまでも、師匠の元で修行を続けるわけにはいきませんし、かと言って、もう職業暗殺者には戻りたくないんです。わたし、自分が何やっていいんだか、全然わからなくて――」
そこで振り向いたクラリスの目には、うっすら涙が溜まっていた。岩田は咄嗟に目を逸らしてしまう。
「このままじゃ、わたし、駄目になりそうなんです」
懇願するように、上目遣いで岩田の顔を見つめた。国家上位クラスの美貌に不用意に迫られて、野暮天で名高い岩田もさすがにたじろいだ。
「岩田様、お願いです。わたしを――」
「なんという狼藉か!! 大の男が力無き婦女子を泣かせるなど不届き千万もいいところ!! そこの貴様! 調子に乗っていると、我が神剣の錆と化すぞ!」
クラリスの発言を思いきり妨害しながら、岩田の後ろから妙にキーの高い声が聞こえて来た。振り返るまでもなく、クラリスの呆然とした表情と、背中を抜ける穏やかならぬ空気感から考えて、おそらく背後には今にも岩田に襲いかかろうとしている何者かがいるはずだった。
だが、岩田はこの家にいる誰よりも実力的に劣っており、それを自覚していたので、反応しようとするだけ無駄だと割り切っていた。
そのため、「やめなさい! 駿河!」という凛としたクラリスの怒声(彼女のこんな声を岩田は聞いたことがなかった)が廊下に響いた時、岩田は石化状態のゴートフィルガのように微動だにしていなかった。……彼の首筋には剣呑な金属製の刃がめりこみかけていたことを考えれば、恐ろしい胆力であるとも言えた(ディフェンシヴシールドの構築前に皮膚に触れられていると考えれば、恐ろしい実力差であるとも言えた)。
一歩間違えれば命は無かった。恐怖から、刃の押し当てられた側にだけぷつぷつとキョーボルクが生じた。それでも体の震えだけは抑え切った。下手に少しでも動けば鮮血が吹き出しそうだった。
首筋の刃がゆっくりと取り去られて初めて、岩田は振り向き、襲撃者の顔を確認した。
そこにいたのは、まだ一〇歳にも満たないと思しき少年だった。和装で、短く切り揃えられた髪がまるで四人目のシュルドムみたいだった。その右手には、鳩々山が使う超長剣には及ばないものの、一般的には相当長い部類に入る剣が握られていた――否。握られていたのではない。よく見れば、その少年の右手首から先が、滑らかに変質して剣と化していたのだ。岩田の見ている前で、その剣はゆるゆると引っ込められていき、普通の右手に戻った。
「駿河。この方は、師匠のお孫さんよ。謝りなさい」
無礼を咎めるようにクラリスが言った。駿河という名前らしい少年は、胡散臭そうに岩田を睨み付ける。身長差からどうしても岩田が相手を見下ろす形になるが、駿河はそれが気に食わないらしい。食肉ゼルガのように激しく噛み付いてきた。
「この者の素性など露ほども関係ない! 力無き婦女子をいたぶる狼藉者には、正義の鉄槌が下る。これが古よりの決まりごとだ!!」
正義を身勝手に語っている点と、男女平等を無視する発言で、この少年自身の正義指数は軽く一二は低下したはずだ。正義査定委員会に少し前まで在籍していた知識を生かして岩田がそんなことを考えていると、クラリスの少し困惑したような声が聞こえて来た。この無法者をどう説得すれば良いのか、考えあぐねているのだろう。
「わたしは別にこの方に泣かされていたわけじゃないの。心配しないで」
「ならば、何故泣いておったのだ」
「……ユズラグラフィトーレの濃度がいつもより少し高くて、その、涙腺が刺激されたからよ」
吐くならもう少しまともな嘘を吐け。岩田は一瞬そういう指摘を入れそうになったが、どうにか踏み止まった。
ありがたいことに、駿河はその言い訳で納得したのか「形而上化学物質過敏症のきらいがあるのか? 気をつけたほうが良いぞ。不妊の原因となる恐れがあるらしいのでな。……師匠の孫とやら、この度はこちらの手違いで突然斬りつけてすまなかった」と一方的に不遜な謝罪をすると、すぐ近くの分岐を曲がってのしのしと歩き去った。岩田は、真夜中にジュケル人を目にしたような茫然の面持ちで、しばらく絶句した。
「…………。聞きたいことが山ほどあるんだけど」
「あ、あの子は駿河っていって、一年くらい前から使用人やってるわたしの後輩です。その、ロトジェナイ病を発症したらしくて、今年で一三五歳になるそうですよ」
屋敷の恥部を晒した焦りを誤魔化すように、クラリスは早口で説明した。なるほど、それであんな口調なのか、と納得しかけた岩田であったが、年齢と奇天烈な喋り方は関係しないような気がして来た。何しろ、最も長命だろうと予想される不死身のスド人でさえ、破綻の無い現代語を操っている。
岩田がクラリスにそれを尋ねると、「あの話し方はテレヴィジョンドラマが伝染したみたいです」というロクでもない答えが返って来た(どうせ岩瀬光斗が主演した『東西南北柘榴同盟』に違いない)。
「基本的には良い人なんですけど、あまりに真っ直ぐ過ぎるところがあって、いつもトラブルを引き起こすんですよ」
呆れたように、それでいて楽しそうに話す彼女からは、涙を流した時の暗い影は見えなかった。
「あの、手が剣に変わるのは、何なの?」
「ああ、あれは禁術ではなくて、一種の特異体質だそうです」
そんな特異体質があるのか。岩田は素直に驚いた。トリックも禁術もなしに後光を常に背負っている俳優や、夜になるとハシュレーグレイに変化してしまうプロのジェパヴォッティプレーヤーが存在することは知っていたが、素手を武器化させる体質の者がいるとは初耳だった。チェンジング系の技は自分に作用させると解除出来なくなるため、自らの体を本当の意味で武器として戦うことが出来る者など、いないと信じて来たのだ。駿河の存在は、徒手空拳で格闘するメリヤマックなどの競技の在り方に革命をもたらすかもしれない(あわよくばデ・Qを全ての王座から蹴落として欲しい、と岩田は少し思った)。
「色んな人がいるんだな、ここは」
「まあ、そうですね。現在、確か八九名の使用人がこの屋敷に勤めてますから」
「……随分増えたね」
「二年間。ここでも色々ありましたから」
クラリスは少し遠い目をしてから、「それでは、参りましょう」と、再び歩き出した。
祖父の部屋に至るまで、どこかで知っている廊下に出るだろうと高を括っていたが、岩田は何故かいつまで経っても知らない所を歩かされているような気分だった。二年間のギャップがそうさせるのか、場の雰囲気がそうさせるのかはわからなかった。
駿河の乱入によって有耶無耶になってしまったが、クラリスはあの時何を言おうとしていたのか。それをきちんと聞いておくべきだったかもしれない。岩田は、少し後悔した。
祖父の部屋は、廊下の突き当たりにあった(岩田の記憶ではどこかの通路の途中にあった気がしたのだが、気のせいだろうか)。重そうなドアには、まるで無秩序な木目がのたうっている。岩田は確かめていないが、二色の眼鏡を用いて見ると立体画像が浮かぶという最新の材料が使われているらしい。この部屋だけ襖も畳も無く、何故か建築様式を変えてあるが、岩田にはその理由がわからない。
クラリスが、軽くノックをしながら声をかけた。
「師匠、岩田様をお連れしました」
「ご苦労さん。鍵もレキアルトも開いている。入っていいぞ」
中から、よく通る声が返って来た。祖父は今年七二歳になるはずだが、とりあえず元気そうで岩田は安心した。
扉を開ける。膝まで埋まりそうな毛足の長い絨毯(やけに手触りがいいのは、合成繊維にコーティング系の術が施されているためだ。哲学ザルの毛を使っているのでは断じてない)の海が、床一面に広がっていた。無駄としか思えない面積の部屋の中央に、ずらっと二〇対ほど向かい合わせでソファーが並んでいる。だが、そこには誰の姿もない。岩田が視線を移すと、すぐ右手側の壁沿いに付け足したようにテーブルと椅子が置いてあり、白髪の老人と振袖姿の女性が斜向かいに座っていた。岩田の祖父とルースだ。
着物姿の祖父は、孫の顔を見て顔を綻ばせた。
「おお。明けましてオルレイカ、岩田。久し振りだな」
「オルレイカ。……どうでもいいけど、実の孫なんだから名前で呼んでくれよ」
相変わらず、どこか飄々とした雰囲気の祖父に、半ばしきたりと化した懇願をして、岩田はルースの隣の席に腰掛けた。
「こんなに広い部屋なのに、なんでこんな隅っこで話すんだよ?」
「あんな大仰なソファーでは、落ち着いた話は出来んからな」
「そうですわ。四方からの同時襲撃を警戒して、安心していられませんもの」
本気とも冗談ともつかない物騒なことを言ってから、ルースはくるりと後ろを振り返った。そこには、まさに扉から出て行こうとしているクラリスの姿がある。
「あら、クラリス様もそんな所に立っていらっしゃらないで、ご一緒にお座りになればよろしいのに」
クラリスは、胸の前で両手を振った。超高速で岩田には見えない。
「め、滅相もございません! そんなこと……」
「いや、クラリス、お前も座りなさい。どうせ今頃は暇な時間帯だろう? 丁度、もう一人くらい必要じゃないかと思っていた所だ」
岩田の祖父が、からからと笑いながら呼び止める。
「…………」
クラリスは少しの間躊躇していたが、やがて入り口の扉を閉めて、岩田の隣席に音も無く腰を下ろした。肩を窄め、恐縮している。
「さて、積もる話もあるだろうが、まず、幾つかワシの質問に答えてもらうぞ」
岩田の祖父は、ルース、岩田、クラリスという順に、若い面々を力強い瞳で見据えた。テーブルに両肘をつき、空中で手を組む。そこに顎を乗せるようにしながら、
「一年ほど前、卵形ゼルガによってソトルザンのマルトー町支部が壊滅させられた事件があったのを憶えているか?」
と、低く呟くように訊いた。岩田とルースは顔を見合わせる。
「憶えてるけど、それが何か? 俺もテロル予防庁の要請で少し関わったけど、犯人類はダリ軍に捕縛され、活火山に二時間放りこまれてから釈放されたはずだぜ。今頃追加捜査もないだろ?」
「その通り。次の質問だ。昨年度の紅白雪合戦――」
「ちょっと待て」
岩田は思わず祖父の言葉を遮った。祖父は、さも心外といったように岩田を睨み付ける。
「何だ? 手短にな」
「最初の質問はあれで終わりなのか?」
「無論だ。記憶力を試しただけだからな」
岩田は頭痛を覚えた。原因は、どうやらポチの鬼咆えのせいだけではなさそうだ。不思議と、その感覚には奇妙な既視感を覚えた。
「昨年度の紅白雪合戦は放映されなかったにもかかわらず、国民の大半はどちらが勝ったか知っている。それはどうしてか?」
「毎年必ず紅組が勝つようになっているからですわ」
有名な話だった。紅組の雪玉は鶏の血の色をしているため、人間にぶつかると、あたかもぶつけられた側が流血しているように見える。そのため、白組は中途にして必ずドクターストップがかけられる手筈になっているのだ。
「正解だ。この国の湖の八割は赤い。何故だ?」
「……水質保全ゼルガが生息していないからだと思います」
「どうして生息していない?」
「……水が赤いから、近寄ることが出来ないのだと思います」
有名なパラドクスだ。水分中の赤色素を分解することが可能な水質保全ゼルガは、赤色を極度に恐れる。恐れるがために赤色を分解出来る能力を持ったはずなのに、視覚野で一定以上の赤色を捉えるとストレスで死に至る始末で、彼らは赤色成分に近寄ることさえ出来ないのだ。現在、海洋や河川にはこのゼルガが生息するおかげで赤色素の発生が抑制され、水は透明だが、河川から独立した湖沼に関しては、その殆どの水が赤色だ。
水質保全ゼルガの登場以前から水が赤かったのだとすれば、全てのゼルガはストレスで死んでしまうので、赤色を分解することは出来ない。一方、ゼルガ登場以前は全ての水が透明だったのだと仮定すると、水中に存在しない色素の分解が可能なゼルガが登場した理由を説明出来ない。
赤が先かゼルガが先か、とはこのことを揶揄した言葉である。
「では次。ヨイギストゥスは禁術ではなく、特殊認定国家資格に属する。その所以は?」
「あのさあ」
岩田は質問に答えず、祖父の真意を推し量ろうとした。
「これらの質問に、一体何の意味があるんだ?」
「ワシの仕事の一助になる。詳しいことは後から説明するが、きちんと答えてくれれば、今年のギジンダンは弾むぞ」
岩田は俄然やる気を出した。ギジンダンがかかった今、岩田を止められる者などいない。
「ヨイギストゥスは、技能として伝授するにはあまりにも危険な要素を数多く内包しているため、むやみやたらと広まることは避けねばならない。その使用可能者を国内で限定し、把握するために、授受制限の無い禁術ではなく、資格制度を適用せざるを得なかった」
「……よく知っていたな」
「色々な仕事をしているものでね」
「次だ。カネロウキューの成体はどこに生息している?」
岩田は答えに詰まった。カネロウキューなど、超がつくほどの高級料理であるカネロウキュー丼として名前を聞いたことがあるに過ぎない。動物なのか植物なのか静物なのかすら見当がつかなかった。
そこに、ルースがフォローをいれる。
「カネロウキューは、カネロウキュー丼として食卓に出されるためだけに存在し、キラ高原の牧場で飼われている羊の中で体重が五トンに満たないものを便宜的にそう呼ぶだけですわ」
驚くべき真実を告げられて岩田は目を瞠った。それが本当なら、カネロウキュー丼など、キラ高原の羊肉をのせた緑米を食べているのと同じかそれ以下ではないか!
「暗殺者の接近がフィーリング系の技でも把握し切れないのは一体何故か?」
驚愕冷めやらぬ岩田は、再び答えに詰まった。
ギジンダンがかかっていても、わからないものはわからないらしい。根性論が通じないなんて随分世知辛い世の中になったものだ。岩田は今時流行らない古風な考え方で唸った。
この問いには、その筋の専門家が答えた。
「アサシネイション系のヒドゥンを発動させれば、八割以上のフィーリング系の技を突破出来ます。もしくは、ロートで相手の禁術を全て打ち消して接近すれば、気付かれることはありません」
だから鳩々山はあんなに上手く尾行や隠身が出来るのか、と岩田は二〇年生きて来て初めて思い至った。ローティストとしての力を、もう少しまともなことに発揮して欲しいところだ。せっかくの二千万人に一人の才能なのだから。
「ケドイドイ人に特有の能力を三つ挙げてくれ」
今度は岩田が即答した。
「秒間二〇万通りのパターン解析。過去二〇分からの三分未来予測。多重階層構造的並列思考」
ケドイドイの民にチェスを挑む。……無謀であることの喩え。
ケドイドイ人ですら予想出来ない。……あまりにも突飛であることの喩え。
ケドイドイ人の殺意は五階(古くは二階)で頓挫し、スド人の殺意はその場で解消す。……考え込むより、実際にやってみた方が楽だという喩え。不死身のスド人が、後先を考えずにとにかく行動することに対する皮肉的要素が強い。
「禁術の定義を説明しろ。また、禁術には大きく分けて二種類ある。それぞれを説明せよ」
これも岩田。
「禁術とは、肉体的能力を遥かに超えて引き起こされる技術の内、国民が自由に行使、伝授出来るものの総称。一つは、古来より存在した秘術を、シールド系、フィーリング系などのように用途や特徴に応じて名称を与え、便宜的に区分したに過ぎない基本技能的禁術。もう一つは、ハティオークやロート、座フロウなどのように、比較的最近になって開発、発見された特化技能的禁術」
「……気持ち悪いほど洗練された模範解答だな。この問題はあまりにオーソドックス過ぎるらしい」
「何をぶつぶつ言ってるんだ?」
オーソドックスという聞き覚えのない単語があまり良い意味では無さそうだったので、岩田はむっとした。
「いや、すまんすまん」
岩田の祖父は楽しそうに笑い、とっておきの秘密を公開するように言った。
「実は、壊滅させられたソトルザンのマルトー町支部跡地に亜大学の建設をしておってな」
「亜大学? 何ですの、それは」
「ふむ。実は、ワシらの調べによると、高校の上には大昔、何か別の教育機関があったようなのだ」
「それは、特等学校や上学校、メタ学校以外の、ということですか?」
「そうだ。詳しいことはわからないが、どうやらそれが『大学』と呼ばれておったらしいことだけはわかった」
「大学、ねえ」
学生の身分から早く逃れたいあまりに上学校の合格を無下に袖にし、キュロウザンの介入まで招きそうになった岩田には、全く縁の無い話のような気もした。
「……それで?」
「ワシはその機関の模倣を考えておるわけだが、想像で作り上げた物に大学という名を付けるわけにはいかんからな。とりあえず最初は便宜的に、亜大学と呼ぶことにした」
「で、それが、今の問題と何の関係があるんですの?」
「今のは、亜大学入学試験の問題候補の幾つかだ。一般学力を持っているだろうお前たちに、モニターとなってもらったわけだ。ちなみに実際の試験は早押し形式にしようと思う」
「大事な入学試験なのにそれで良いのか?」
「良いのだ。言語学、基礎数学、物理学、形而上物理学、化学、形而上化学、生物学、形而上生物学、デジルトン、歴史学、地理学、空間認知学、時間認識学、サジ概念論、禁忌哲学、夢占い、禁術知識汎論、絶体知識汎論、建前政治論、本音政治論という全ジャンルのうち、高校課程のもの全てを試験範囲とする」
「デッド情報入門を忘れていますわ」
「それも含む」
「…………」
岩田は一度沈黙してから、
「で、亜大学とやらは結局何をするつもりなんだ?」
最も根本的な部分を問うた。
「より良い社会人類を育成するための教育だな」
「だから、具体的には?」
「……今、ばあさんが部屋に篭って考えているところだ」
「じいさん……、思いの外博打好きだったんだな」
「誉め言葉と受け取っておこう」
岩田の記憶にある限り、祖母の発想はケドイドイ人が二〇〇人束になっても片鱗すら予想出来ないのではないかと思えるほど突飛なものが多かった。一方で、妥当な意見も胸の内には秘めているらしいので、重要度が八を越えるような事柄に関しては安全策を取り、失敗らしい失敗をしない。そのおかげでかろうじて無事に生きているのだが、重要度が低いと後先を考えずに間違いなく奇策に出る。
……亜大学という奇想に祖母の奇策を重ねた時、一体何が浮かび上がるのだろうか。
「あー、とりあえずそういうわけだが、試験の問題は今くらいの難易度で良いと思うかの? 難易度の平均は、えーと、五だ」
「良いと思いますわ。私としては、もう少し難しくても構わないと思いますが」
「……わたしも、問題はないと考えます」
「いいんじゃないか」
三人三様に同意を示したが、その実、岩田は亜大学の存在自体どうでも良いと考えていたし、他の二人もおそらく似たようなものだと思われた。神妙な表情で俯いているクラリスはともかく、ルースなど欠伸を必死で噛み殺している。
「よし。ならば、ワシからの積極的な話はここまでだ」
投げやりな空気を読み取ったというわけでもあるまいが、岩田の祖父が微妙なセリフで場を締め括った。それを好機と見て、岩田が切り出す。
「なら、じいさん。自分から言うのもなんだが、ギジンダンくれよ」
「……礼儀として、せめて遠慮くらいするもんだ」
祖父は苦笑しながら、テーブルの下に隠してあった大きな紙袋を取り出した。その中に無造作に手を突っ込んで、
「限界数は幾つだったかの?」
「俺は、今年二〇歳だから二〇個だな」
ご存知の通り、一度に限界数以上のギジンダンを貰うことはキニガの戒律で禁じられている。キニガの戒律に違反すると、ソトルザンだけでなくコガネザンにも追われることになるので注意が必要だ。
「……まあ、弾むと約束したしな。二〇個やろう」
そう言うと、岩田の祖父は紙袋から一気に手を引き抜いた。その手には、兎によく似た縫い包みが握られており、その兎の右手から棒人間のようなシルエットの人形が一九体、数珠繋ぎになってぶら下がっている。
「ほら、受け取れ」
「なんで一個、擬兎化してんだよ。『擬人団』のくせに」
「サービスだ。別に困ることもあるまい。どうせ何にも使わないんだろうが。今時、ギジンダン集めて喜んでる奴はお前くらいだぞ」
「煩いな。好きな物は好きだから仕方ないだろうが」
岩田は兎を受け取って、ハティオークで布製の巾着袋を創り出すと、その中にそっと入れた。しっかり口紐を閉じる。
「お前たちはいらんか?」
岩田の祖父が、黙っている女性陣に声をかけるが、
「結構ですわ」
「い、いりません」
当然、にべもない返事が返ってきた。
「まあ、それが普通の反応だな。ギジンダンをあげる側になった時必要なだけの量があれば、それで十分だ。呪術士にでもなるのでなければな」
言っとくが俺は呪術士になろうってわけじゃないぞ、と声を出しそうになったが、岩田はギリギリで踏み止まった。無駄に強く否定すれば、図星を差されて慌てているようにも見えるからだ。ぎこちなく笑って、誤魔化すことにした。
喉の渇きを覚えたところで、ジョシュアという使用人が丁度ノルクワイェを満たしたグラスを四つ持って来た。祖父はその絶妙のタイミングにいたく感動し、彼にギジンダンを与えようとしたが、ジョシュアはオラウ軍の軍紀上の理由を持ち出して丁重に辞した。全くどいつもこいつも、と岩田は憤慨した。
しばらく、雑談に花を咲かせた。家族の話や職場の知人類の話、日常の風景や年末年始のカドドルーキン、様々な話題が俎上に上がり、そのどれもが取り止めのないことだったが、岩田はこんな充実した会話を久しくした覚えが無かった。大半は、饒舌なルースと話題豊富な祖父が話を引っ張り、岩田がそれに鋭い指摘を入れたり混ぜっ返したりし、クラリスがほぼ完璧なタイミングで喜怒哀楽のリアクションを返していた。最良の聞き役であるクラリスはどんな話題を振られても大抵は卒の無い答えで切り抜けていたが、友達の恋人類の両親の事故の後遺症について何か無いかと振られた時にだけ何故か奮起し、そこで披露された「単にジャムの入れ過ぎでした」で締め括られる逸話は、笑いに煩いルースを抱腹絶倒させ、今世紀初めて滑稽度が九を越える大傑作となったのだが、物語の本筋とは全く無関係であり紙幅の都合上割愛せざるを得ない。
大爆笑の余韻に浸っていた岩田は、客間で見た不思議な夢のことを不意に思い出した。丁度良いタイミングでクラリスが話の主導権を岩田に譲ってくれたので、自然、彼はそれについて発言した。
「ちょっと話は変わるけど、じいさん、マオウって知ってるよな?」
岩田の祖父は、器用に片方の眉を上げた。
「……マオウ、か。また随分と懐かしい名を……。確かにワシは知っておるが、どうしてお前がその名を?」
「夢で見たんだ」
「夢?」
「うん。さっき鬼咆えで意識を失ってた時に」
「まあ、それは災難でしたわね。一体どんな夢でしたの?」
気絶したことを他人事のようにしれっと流すルースを軽く睨んでから、岩田はしどろもどろに説明を始めた。
「五人で、マオウを捕まえてる夢なんだ。俺――ていうか、たぶんこれじいさんなんだけど――と、ルース――座布団で飛んでたし、若い頃のばあさんだと思う――と、鳩々山――魔方陣の札持ってたし、あいつのじいさんだろうな――と、あとウッディーとかいう背の低い男と、ヨーマっていうウチュウ人の子供で」
「…………!」
「その、マオウって何ですの?」
「さあ。メラシトルーレみたいな色の球体なんだけど、高い知能を持ってるらしくて、鳴いたりしてた。伸縮自在だとかそんな話もあったかも。実体が不透明でさ、その正体がわかるかもしれないってところで目が覚めたんだ」
ふと見ると、岩田の祖父は険しい顔で黙り込んでいた。
「どうしたんだよ、じいさん。たぶんこれ、じいさんの記憶が、ドリーミング系能力で俺の夢に出て来たんだと思うんだ。確か、そんな技があっただろ? だからさ、マオウハントってのが結局どうなったのか、詳しい話を教えてくれないか?」
岩田の祖父は、なおも黙っていた。しかし、突然瞼を下ろして喉の奥で唸ると、「騙されていた……、というわけか」と憎々しげに呟いた。
「……何言ってんだ?」
岩田は首を捻り、ルースと顔を見合わせる。ルースも、微笑を基礎としたまま、不可解そうな表情を作っていた。クラリスにいたっては、今度ばかりは話に付いていけないのか、恐縮しているような、ともすれば何かに怯えているような、不安げな表情になっている。
岩田は、落ち着かない気分になった。夢の内容はわからないことだらけであり、知らない、わからないという点でのみ人間は平等でいられるはずなのに、ちっとも嬉しくなかった。どうやら極度の『未知』は、強烈な不快を伴うものらしい。
「岩田」
祖父は、孫を苗字で呼び捨て、怒気すら孕んだ瞳で睨み付けた。
「その夢は、ワシの記憶ではない……。覚えている限りの話をワシに聞かせてくれ」
岩田は、祖父の顔に今までにない真剣な色を見て取った。気圧されるように、最初から最後まで、記憶にある夢の物語を語っていく。夢の世界では軽薄に聞こえたクラッシュ浜松という響きすら、現実で口にすると深い意味がありそうな気がした。
尋常ならざる出来事が始まる予感がして、岩田は心の臓の昂ぶりをはっきりと自覚した。
「結論から言おう」
岩田の話が終わった時、それまで全く口を挟まず、ネルショウのように真剣な顔付きで話を聞いていた岩田の祖父は、おもむろに告げた。岩田は思わず生唾を飲み込む。
「ワシは確かにマオウハントという奇天烈な冒険に巻き込まれたことがある。四二匹捕まえようとしていたことも相違ない。ただ――」
「ただ?」
「ワシの記憶には、ワシと、ばあさんと鳩々山の三人しかいない」
「……え?」
「森林という知り合いは確かにいたが、あの場には来ていなかった気がする。ヨーマなどという子供に至っては、見たこともない」
「それでは、岩田様が見た夢は一体何ですの? 偶然にしては出来過ぎていますわ」
岩田の祖父や祖母の若かりし頃の姿が夢に現れることなら、偶然でもどうにか説明がつくだろう。だが、マオウハントや、森林という名の男の存在に関して岩田が何の知識も持ち合わせていなかった段階で、それが自然な夢に出てくることなどあり得ない。
とすれば、岩田の夢は必然的にドリーミング系の能力で無理矢理見させられたものだということになるが、該当するドリーミング系の技『強制夢』には、独自の特性がある。『術者の体験記憶』か、『付近にいる第三者の体験記憶』、ないしは『被術者の不確定要素の多い未来像』のいずれかを見せることしか出来ないのだ。それ以外の内容を夢に送り込むことも全く不可能ではないが、全く別系統の禁術の併用が必要となるため、難易度は飛躍的に上昇する。
「あの……」おずおずと、クラリスが切り出した。「師匠の記憶ではないということなら、岩田様が見たのはもう一人の当事者である奥様の記憶なのではないですか?」
正論だった。驚異的な難易度をおして創作物語が岩田の夢に送り込まれたと考えるより、祖父でない人間の記憶を見せられたと考える方がよほど現実的だ。
早速、自室にいるだろう祖母に確認を取ろうと岩田が腰を上げかけた刹那、
「違いますわ」
というルースと同じ口調のゆったりした声が背後から聞こえて来た。岩田は弾かれたように振り返る。本物のルースはその隣で我関せずとばかりに正面を向いているので、声の主ではない。
岩田達の背後には、座布団に正座したまま空中一メートルの所を飛んでいる、着物姿の老女がいた。噂をすればジェリトーマに角が生えるとはよく言ったものだ。彼女こそ、誰あろう岩田の祖母である。今年六九歳になるはずだが、まだまだ声も姿も若々しい。チェンジング系の技で何らかの措置を施しているのかもしれない。
「皆さん、明けましてオルレイカ。話は聞かせてもらいました」
岩田の認識では扉を開けた音も、空間ジャンプの気配もなかった。一体いつからそこにいたのか、非常に気になるところではある。
「その夢が私の記憶だというのなら、岩田の主観は私でないとおかしいですわ。何しろ、強制夢で見せることが出来るのは体験記憶なのですから。……また、それ以前に、この私も、マオウハントには三人で行った記憶しかありませんし、ヨーマという名にも全く憶えがありませんの。全くもって不適格ですわ」
「おばあ様。それなら、一体これはどういうことなんですの?」
ルースの追及に、祖母は口元に手を当てて上品に笑った。
「非常に簡単な話ですわ。おじいさんの記憶でないというのならば、岩田が見たのは、私達と同じ偽名を名乗る全く別の一行の物語なのでしょう。つまり、岩田の夢は見ず知らずの旅人モドキの体験記憶であって、そもそも私達とは何の関係も無いということですわ」
「馬鹿な! ありえん。鳩々山にルース、それに森林という三つの珍妙な偽名が重なることなどあるものか!」
祖父は、実に尤もな反論を口にした。
「では、他にどんな可能性が考えられますの?」
「……例えば、ワシのマオウハントの現場にいた誰かが、自身の記憶をワシの体験記憶として勝手に変換保存した、とか……」
自分で言いながらその恐ろしい事実に気付いたのか、祖父の声が急に尻すぼみになった。
「そう、ようやく気付きましたのね? 実際、その可能性も非常に高いと思われますわ。つまり、私達の記憶は何者かに書き替えられていて、真実をまるで捉えていない……。その一方で、マオウハントというイベントの記憶をおじいさんの体験という形で保存している者が、この屋敷内に紛れ込んでいるのですわ。岩田はきっと、その者の体験記憶を強制夢で無理矢理見させられたのですわね」
「ちょ、ちょっと待てよ」
祖母にまで苗字を呼び捨てにされている岩田が制止の声をあげる。
「なんで、ばあさん達の記憶の方が書き替えられたものだってわかるんだよ? もしかしたら、俺が見た方が虚構なのかもしれないだろ? 捏造したマオウハントの物語を体験記憶として認識している使用人がいる、とかさ」
「いや、それはおそらくないだろう」
「どうしてですの?」
「岩田の見た夢の真偽はともかく、少なくともワシの記憶は改竄されたものに違いないのだ。何しろ、マオウハントの記憶がやけに鮮明なのだ。砂漠の砂粒の数まで思い出せるほどに……」
ゼン・ハルティスのファンだった岩田には、祖父の言わんとしていることがわかった。記憶を人為的に書き替える際、新しく埋め込まれた記憶は、どんなに違和感なく他の思い出の中に溶け込んでいたとしても、年を経て色褪せることがない。この『失忘』特性は催眠打破の足掛かりにすることでも知られ、医学的方法にせよ禁術にせよ、現段階では決して避けることが出来ないとされている(数年前ジャゲン党出資の企業モドキで失忘に関する一大プロジェクトが始まったので、近い内に何らかの改善はあるかもしれないが)。
「ええ、私も、全く同じ症状ですの」と、祖母も追従する。
「迂闊だった……。気付くべきだったな、この異様さに。あのマオウハントは、ワシにとって人生の転機だったから、強烈な印象が残っているんだとばかり思っていた……」
岩田の祖父は、苦渋に満ちた声で言った。
「だとしたら――」と、これは岩田。「一体、誰がじいさん達の記憶を書き替えたって言うんだ?」
「うーむ。もしも岩田の夢こそが真実であるというならば、本当はマオウハントに参加していた森林かヨーマが、何らかの理由でその事実を抹消しに掛かったのだ、と仮定出来る。……能力的に見て、森林にそんなことが出来たとは思えんから、消去法ではヨーマが犯人類ということになるが……、何しろ確認のしようもないからの」
「存在自体が全く記憶に無いヨーマという方はともかく、ウッディーという方は、もう亡くなっているのですか?」
「あ、ああ……。奴の消息は全く知らないが、今はもう確実に生きていないだろうな」
「ふーん……?」
岩田は何となくその表現に違和感を覚えたが、どこに引っ掛かったのか自分でもよくわからず、何も言わなかった。
突然ルースが、はっと何かに気付いたように顔を上げた。
「ちょっと待って下さい。おばあ様の仮説とおじい様の仮説が両方を併せれば、状況は一気に解決ですわ。つまり、『マオウハントの真実を知る方』がこの屋敷内にいらっしゃり、かつ、『おじい様達の記憶を改竄した方』の目的がマオウハントの何らかの事実を隠蔽することであった、とするのです。ここで、もしも『前者』と『後者』が別人であったと仮定すると、マオウハントの真実を知る『前者』の存在を許している『後者』は、事実の隠蔽という目的を全く果たせていないという残念な結果になり、実に歯痒いですわ。ですから、『前者』と『後者』は同一の人間であることが自明となります」ルースは、結論の前にようやく一呼吸を挟んだ。「つまり、マオウハントの真実の記憶を持っているのは、おじい様達の記憶を改竄した犯人類と同一であり、それがヨーマという方なら、その方はこの屋敷内にいらっしゃるということになるのですわ!」
ルースの指摘に、場の空気が一変した。彼女の構築した論理は蓋然性の高いものに聞こえたし(長ったらしいため、無駄に複雑そうにも聞こえるのが厄介だが)、結論も申し分の無いものだった。
……ヨーマが、屋敷の中にいる。
「まさか……、使用人には該当する者などおらんぞ……」
祖父がぶつぶつと呟いている。
八九人が働いているとはいえ、祖父の青年時代から生きていた者となると自ずと候補は絞られる。ふと岩田の頭に、ロトジェナイ病だという駿河の顔が浮かんだ。見た目は一〇歳に満たないが、本当はかなりの老齢だ。あいつがヨーマラリリックではないのか……?
いや、駄目だ。岩田は首を横に振る。減齢する駿河は、五〇年前には逆に老人だったということになるから、年齢が全く合わない。何より、駿河の顔は夢の中で見たヨーマの顔と似ても似つかなかった。その破天荒さが鳩々山の祖父に共通していたくらいのものだ。
ん、鳩々山の祖父……? 岩田の頭の中で閃光が走った。
「そうか、実に単純な話じゃないか。鳩々山のじいさんの仕業だとすれば全ての辻褄が合う。一緒にマオウハントにいたんだから真実の記憶を持っていて当然だし、それをじいさんの体験記憶のように変換保存したり、じいさん達の記憶を書き替えて改竄したりだって、冗談交じりにやりかねない。大方今日も全力散歩がてら遊びに来て、俺達に大人気ない悪戯を仕掛けたってところじゃないか?」
勢い込んで仮説を披露した岩田に、周囲は存外冷ややかな対応を返した。
「あり得んな」
「あり得ませんわ」
「……あり得ないです」
「問題外ですわね」
「どうして? 誰ともわからんヨーマとかいうウチュウ人が屋敷内に紛れてるってのより、余程あり得そうな話じゃないか。それ以前に、そうだ、ルースの論説は、共犯の可能性が考慮されていない。不十分だ。俺の仮説の方が有力だろう」
岩田はやつ当たり気味に喚いた。
「鳩々山はデ・Qではない。本当に何の役にも立たん悪戯など見向きもせんよ。……孫の方はそうでもないようだが」
「何より、お兄様も書き替えられた後の記憶しか持っていませんわ。私達にはそう考えるだけの根拠があるんですの」
「あの、それに、師匠のご友人類の方の鳩々山様は、本日こちらにお見えになっていません。確か初詣のため、ゲンス山岳の方へお出掛けだったかと思います」
「最も致命的なのは、これだけの謎がそんな安易な真相では全く面白くない、ということに尽きますわ。もっと推論を楽しみませんと」
一遍に言い募られると立場が無い。祖母が「お兄様」と呼ぶ相手が鳩々山の祖父であることに一足遅れて気付いてから(あの国家曲剣飲みこみ委員会の会長かと思ったのだ)、岩田はげんなりとなった。ルースの言い分はかなり癪に障ったが、言い返す気力も湧かない。
「……駄目だ! 全然わからない! 謎が多すぎて、何がわからないのかすらわからなくなってきたぞ」
岩田が全てを放り出した。マオウの正体が知りたかっただけのはずなのに、祖父母の記憶改竄の理由やら、マオウハントの真実の記憶を持つ者の正体やら、咀嚼中のポッツァーのようにどんどんと謎が増殖している。
「では、一旦マオウのことを棚上げして、論点を変えましょう」
ルースが、音を上げた岩田に代わり、彼女なりに持っていたらしい疑問を口に出した。
「おじい様、岩田様の夢に出て来た『日本語』って何ですの?」
祖父が言葉に詰まり、返答に窮すのがわかった。
確かに、日本語のことは岩田も気になっていた。
『日本語かギリシャ語に変えてから送れ!』
夢の中の岩田(岩田の祖父)はそう叫んでいたのだが、二〇〇年前にこの国がヨドー国から独立した際、使用言語は今岩田達の話している現代ツラック語に限定されたはずだ。事実、夢の中の岩田達も現代ツラック語を介して会話していた。
にもかかわらず、意味不明な文字列を前に、夢の中の岩田が翻訳するよう要求したのは『日本語』『ギリシャ語』であり、そのくせ直後に現代ツラック語に翻訳された文字列を見て満足していたのだ。
……では、日本語とは結局何なのだろうか?
沈黙は随分と長く続いた。しばらくして、
「……やはり、こうなると教えておかねばならないだろうな。ツラック語が、日本語と呼ばれていた時代のことを……」
岩田の祖父は重々しく言い、ゆっくりと溜息を吐いた。今はチェアルキッツェ期だが、彼ほどの年齢に達すれば禁止事項を合法的に行うコツを熟知しているはずだ。連行される危険はまずないだろう。
「どういうことだよ? じいさんが子供の頃でも、たかだか六、七〇年前だろ? ツラック語はツラック語だったはずだぜ」
「確かに、六、七〇年前はそうだろう。しかし、一万八千年前はどうかな?」
岩田の祖父母以外、その場の全員が息を飲んだ。
いちまんはっせん年? 祖父は何を言っているのか。すぐにはその数字の桁が把握出来なかった。
「簡単に言おう。ワシら――ワシと、ばあさんと、鳩々山の三人だ――は、この時代の人間ではない」
祖父は、皆の反応を確かめるように一拍の間を置いた。
そして――
「古代人だ」
厳然と、隠されていた真実を告げた。古代人の、降臨は成された。
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